第三九章 / 第四〇章 / 第四一章 / 第四二章 / 第四三章
[ 表紙 ]   [ 関連地図 ]   [ ブラジル日本移民略年表 ]   [ 主要登場人物 ]
「花の碑」 第八巻
第三九章
「あんた躰の具合、良くないようだね、ぼくが援護協会に言うてあげようか」
久しぶりに鷹彦が、薬局に姿を見せるとすぐ、横山がそう言ったほど、一見して様態の良くないのがわかる鷹彦の窶れようだった。
「いや、もうどうしようもないですよ、ブラジルの日照りが強すぎて、日に日に我が身の干乾びてゆくのを感覚しながら生きるのは、生きながらミイラになってゆく悲痛と快感を同時に味わえます。貴重な体験です」
鷹彦が気障な台詞で冗談めかして言うと、かえっていっそう寂寥感がずっしりと辺りに漂い、むかし祖父から聴いた日本の幽霊の話を思い出して、横山をぞっとさせる。
「これ、飲んでみんね」
横山が差し出した小さい白い紙包みを、
「なんですか」
と訝りながら鷹彦がひらくと、茶色い粉末薬だった。胃薬みたいだなあ、俺の病状には非常に見当はずれのもののようだけれど、と思いながら、
「なにに効くんですか」
と軽蔑したように言うのが、薬に対する不信感を剥き出しにしているようで不快だったが、温厚な横山は、その不快感に堪えて応える。
「なにに効くいうわけじゃなかと、万病に効く強壮薬たい。グァラナの実の粉末たい」
「なんだか高貴薬のようだけど」
「そうでもないよ、インディオが飲んでるばってん」
「高いんでしょ。もうぼくの躰には無駄なようだし、これ以上叔父に負担をかけるのは悪いから」
「起死回生の妙薬だから、叔父さんに倍にして返せるようなるばってん、これはぼくのプレゼンチたい、遠慮せんと飲んでやらんね」
鷹彦は、これ以上拗ねるようなことを言うのもおとなげないと思って、横山の好意を気持ち良く受けることにする。
「ありがとう」
鷹彦が、グァラナの粉末を口に入れると、
「ほれ」
と横山が気さくに言って、水の入ったカップを、カウンタに軽く音させて置く。
横山の、遠慮させまいと思ってすることがうれしくて、鷹彦が涙を熱く後頭部で抑えながら、冷たい水を口に含む。
「こげん仰山、新聞溜まってるばい」
ブラジル語の新聞と『聖州新聞』とが、持ち上げると鷹彦の躰がよろけるほどだった。
邦字新聞の一面記事は、相変わらず日中戦争に関するものばかりだった。
昨年の十二月、南京を攻略し、今年に入ってすぐの、和平交渉に失敗した近衛内閣が、「国民政府を相手にせず」という声明を出したあと、五月に徐州を占領し、どんどん中国奥地へ進撃していると報じていた。
鷹彦は、かつて新聞記事を鵜呑みにしたことはなかったし、とくに軍部が発表する戦況は、ほとんどが我田引水というより、虚偽といったほうがいいようなものばかりだと思っていたから、「快進撃」は「怪進撃」と読み、「猛進」を「盲進」と読む。
山口に潜伏していた左翼系の中国人の友人が言っていたように、そして彼のまじめな性格や生活態度から、それが真実だろうと肯けるのだが、中国の奥地は懐が深くて、「逃げるが勝ち」という戦法のあるのを忘れた日本軍が、中国軍を追っても追っても追いつくことはないだろう、そのうち息切れがしてくるだろう、と言うほうが真相のように思う。
まるで講談本を読まされるような武勇談などに興味のない鷹彦は、字の大きい見出し記事も素通りして、大雑把にばさばさページを繰ってゆく。
そして、六月十四日付の二面記事のところで視線が止まる。
日本人移民に関する記事だった。移民に関する記事だから関心を持ったのではない。移民の話でも、日本の赤新聞のように興味本位な情事とか痴話喧嘩に類する記事が多いから、鷹彦の眼を引き止めるようなものは少なかった。
しかしこれは違った。日本の戦争よりも、日本人移民にとっては重要な、由々しい問題だと思ったのだ。
「遂に實演『最後の授業』モヂ小學校殆ど閉鎖。僕達もっと勉強したいと悲壮な児童のすすり泣き」という大見出し小見出しで、「去る九日、モヂ區統轄のテオドミーロ竝にベンチャード兩視學は、松村教普會學務委員に對しスザノ驛福博小學校、日伯小學校、北部小學校の三校及びモヂ驛カツペーラ、ボツジュル、コッケーラの三小學校の日本語教授を今日限り中止するよう通達した。通達を受けた松村兼作氏は右各學校にその旨をつたえるや各學校関係者は覺悟の上とは言へ餘りにも突發的なのにびっくり、早速教普會に報告、尚對策をねる爲、去る日曜緊急學務委員會を開催した模樣である」という記事だった。
遂に来るものが来たと、鷹彦は予期していたものだったから、驚きはしなかったが、苦痛は覚えた。それとともに対策などあろうはずはないのにと思う。
ブラジル国内で、外国移民が、自国語を子弟に教えてはならないという法令だったのだから。
どこの国も似たり寄ったりで、ナショナリズム政策が、偏狭なファシズム化へ傾斜しているのは世界的現象で、ブラジルもまた例外たり得ないというだけのこと。
ムッソリーニに体型が似ているから、思想まで似せているわけではないだろうが、ジェツリオ大統領がブラジル国内で外国語を使用されることを極度に嫌う偏狭さでやることだから、これから益々この種の締め付けは厳しいものになってくるばかりだろう、と鷹彦の憂鬱はいっそう、その重さを増すばかりだった。
そんな憂鬱を感じながら、新聞を斜めに読み進んでゆくと、鷹彦の危惧したことは、明日や明後日ではなく、手にしている新聞にすでに記事となって十六日付に出ていた。
「續々閉鎖される農村學校」という大見出しで、「六月一日聖州官報に發表以來、各地督學官はビシビシ適法処分に出て居り既報のモヂ區小學校リンス小學校に相ついで、今度はノロ線ペンナポリス驛の共和、中央、共和同志、共和中村の四校に對し法令通り十四歳以下の児童に以後日本語教授罷りならぬと同地視學より通達があった」
こんな内容の記事が、ぎしぎし活字の肩を擦り合わせて並んでいたのだ。
日本民族の優越性を骨髄まで矯正されている移民一世たちにとって、これは単なるショックというより、大いなる屈辱だった。
現在なんの敵対関係もない日本に対して、ブラジルが宣戦布告してきたようなものだ、と思った。
この農場に居る日本人たちは、コーヒー採取に血眼になっていて、こんなに切迫したブラジル政府の政策にも反応を示さなかったが、鷹彦は記事に触れたとたんに歯ぎしりしていた。
この農場では鷹彦一人が切迫した問題として受けとっていたのだが、ブラジル全土に広がっている日本人移民たちの、情報を敏感に感受している日本人植民地では、戦々恐々となっていて、なんという横暴かと怒りを覚えても、歯がゆいばかりでどう対処しようもないことに口惜しがり、体内に黒い炎を燻らせはじめていた。
「ばかにするな、日本精神をブラジル語なんぞで教えられるものか」
日本精神をブラジルの子弟に教えられては
困るから、こういう法令を出されたのだ、ということを理解しようとはせず、そう言って反抗的な態度に出るものもあった。
「俺たちは金さえ手にすりゃ、さっさと日本に帰ってゆくんだ。二世だろうとノンセイだろうと、ブラジルに永住する気なぞ毛頭ないものにブラジル語なんぞ要るもんか。日本語と日本精神を教育できなきゃ日本に帰ってから困るんだ」
これがほとんどの日本人移民の考え方だったから、ジェツリオ大統領が布いた政策は、日本人たちにとって致命的なもので、誰もが悲痛な面持ちに為らざるを得なかった。
いよいよ、おらたちも奴隷扱いされるのではないだろうか、という恐怖心まで持つものがいたほどだった。そして、気性の激しい慌て者で、すでに何がしかの金を蓄えているもののなかには、帰国手続きをはじめるものもいた。
日本の民衆は、日本軍が破竹の勢いで中国戦線を制圧していると信じて疑わなかったし、当然日本の勝利によってこの戦争は終わるものと思っていたから、ブラジル政府なにするものぞ、という居丈高な気分もあった。
鷹彦が、ブラジル側の情報によって得た日本の情勢は、決して楽観を許さないもので、日本人の個人的な生活状況は逼迫しているし、日本こそ個人的な行動や思想の自由は許されず、軍部の横暴ぶりは日本国民を奴隷化しつつあるというものだった。
ブラジル側の報道が真実だろうと思わせる現象が、すでに日本国内で起こっていたこともあった。
それは鷹彦が、これこそ眉唾物ではないか、と一時は疑ったほどのことで、日本で、反戦的立場を主張して政府に刃向かっていたはずの社会大衆党が、軍部の圧力に屈して、「支那の植民地化、共産化を絶滅することによって日満支三国を樞軸とする極東新平和機構を建設し人類文化の發展に貢献せんとする支那事變は、日本民族の聖戦である」というような、なんとも歯の浮く転向声明ともいうべき戦争賛美の声明を発表し、批判勢力が雪崩現象を起こして敗北したことを知って、みずからの内部にもその雪崩現象の余波が起こるのを感じたのだ。
「もう日本もお終いだな、柳ちゃん、日本人は良心を捨ててしまったよ」
見舞いに来てくれた柳子に向かって、鷹彦は、ほんとうにこの世の崩壊を迎えたような落胆を表情に顕わにして、言うのだった。
「ブラジル政府の採った政策に嫌気して日本へ帰っても、日本にも人間の自由はなくなっているんだ。戦争を批判する文化人が、つぎつぎ弾圧され、検挙されているっていうんだから」
日本の左翼戦線の弱体化を嘆き、日本文化の崩壊に絶望する鷹彦は、彼自身の内的崩壊も手伝って、肉体の死期を早めていたのだ。
「鷹彦さんは遠い日本のことをあまりに心配しすぎるんじゃありませんか。いま日本のことを心配するより、ご自分の躰のことを心配なさったほうがいいって思うんですけど」
柳子の言うことが、鷹彦の悲痛さを感覚しない素っ気無さでも、真実をついていたから、鷹彦に反論する余地はなかったが、
「しかし柳ちゃん、戦争をしているのはぼくたちの祖国なんだから、関心をもたないわけにはいかないじゃないか」
と拘らないわけにもいかなかった。
「でも、ブラジルでやきもきしても仕方ないって思うんですけど」
「柳ちゃんは、あまり切実に感じないようだけど、ブラジルに来ている日本人は、日本政府から見捨てられ、ブラジル政府から疎外されて、その中間に浮き上がる状態になりつつあるんだよ」
「日本人がみな頑固だからそうなるって思うんです。いまは否でも応でもブラジルに住んでるんですから、ブラジルの法律に従って生
きるしかないんでしょ。日本語を教えてはならんと言われれば、口惜しくっても我慢するしかないって思うし、戦争が永久につづくわけじゃないんですから、ブラジルのやり方に不服を持つんなら、さっさと日本に帰ればいいって思うんです」
「柳ちゃん、成長したねえ」
ほんとうにこの少女は、ここに来たばかりのときの子どもっぽさからうんと成長している、と鷹彦は感心しながら聴き、みずからが彼女に影響を与えたことの証左をそこに見る思いがして、うれしかった。
それとともに、柳子には、国家という概念にそれほど拘る姿勢が感じられなかったから、鷹彦自身が「絶対的平和」だとか、「世界から国境を排除しよう」とか、声を高くして主張する態度を、気恥ずかしく思った。
柳子のなにものにも拘らない開放的な性格が、自然のうちにそういう大らかで柔軟な思想を持たせることになったのだろうが、日本の小さな島国に拘りすぎる自分自身が卑小に見えて、辛い結果になったのを恨みに思う。
柳子のようになれない己れを卑下しながら、悲哀を感じさせる相手に、理不尽にも、嫉妬を覚えた。
鷹彦には、病状の悪化につれて、堪え性もなくなっていたから、柳子を怨む筋合いはないとわかっていながら、苛々させられ、腹立たしくなり、自責の念を抑えられなくなり、
「柳ちゃんは、日本の文化の崩壊を、余所事のように、ブラジルからのんきに見ておれるのかい」
と憤りの言葉を吐いてしまう。感情を顕わにしたことを恥じても、もう取り返しはできないと、柳子に謝るのではなく、自暴自棄になってしまう。
柳ちゃんだけはいつまでも純粋で居て欲しい、などと願い、言い、してきていながら、柳子のあまりな純粋さが、妬ましくもなってきているのだった。
柳子は、鷹彦から不当に責められた感じがして、納得のいかない視線を向ける。その視線の届いたところに、鷹彦の異様にぎらつく眼の光を見て、怖れを覚え、口を噤む。
しかしそれは、以前感じた獣に似た嫌悪感とは異質な、こちらに向かって覆い被さってくるものではなく、深い淵に引き込まれてゆくような、恐怖を覚えさせる性質のものだった。
直感的に柳子が、鷹彦の眼のなかに感じたおぞましさは、理由のないものではなかった。
鷹彦はそのとき、自分自身の心のなかに生じた深い絶望の淵の底を、じっと覗き込んでいたのだ。
日本語学校の教師でもなく、また近い将来教師になろうという意志があったわけでもなかったが、「日本語学校を閉鎖せよ」というブラジル政府の圧力は、一過性のものではなく、アフリカから連れてきた黒人に科した奴隷制と同質の、苛酷な政策だと受け取った鷹彦は、自身の精神世界を閉鎖せよ、と言われたのに等しい圧迫を感じた。
これはまさに、日本語を抹殺しようとする暴力であり、日本文化を根こそぎにする悪魔的な行為であり、日本人そのものを否定する暴虐だと考えたのだ。そう考える素地が鷹彦の精神生活にあったからだった。
日本で無政府主義者の一斉検挙があったのが一九三五年の十一月だった。
そのときには、まだ鷹彦は警察のリストにマークされていなかったが、翌三六年の二・二六事件のあった頃には、朝鮮や支那からの亡命者を匿う組織に関与し、反戦組織に入って警察からマークされていたのだ。その年の十二月の人民戦線運動弾圧があったあと、亡命者を匿ってきた鷹彦自身が、亡命を考えはじめていた。
そしてブラジル移民という隠れ蓑を得て、ブラジル行きが決定していた三七年の七月には蘆溝橋の日中両軍の衝突から、ついに戦争
に突入していたのだった。
東京、大阪、北海道など、各地で反戦ビラが撒かれたのを知って、そういう組織から抜け出し、ブラジルに逃避することに疚しさを覚えた鷹彦だったから、いっそう、何もできない、何もしない、我が身の不甲斐なさを恥じる気持ちが、彼を苦しめてきた。
その精神的亡命を図ってやってきた国の政府が、外国人を否定する暴挙に出たのだから、自分自身が立っている地面を、強引に引き抜かれたのと同じだと思い、みずからの足の下に、とてつもなく大きな空洞ができて、そこに落下してゆく恐怖に加え、それが底無しの奈落だと思う絶望感が、鷹彦の心を狂わせたのだ。
日に日に体力を消耗させていることが、精神的な余裕を殺いでいたこともあって、ブラジル政府の政策が、自分一人を呪縛するためのもののように考えるほどの強迫観念を持つようになっていた。
夢に魘されるのは毎夜のことだった。悪魔たちが寄ってたかって荒縄で縛り上げ、煉獄地獄に吊るされる夢や、針の山に追い上げられる夢や、唯物論者を任じてきたものを侮蔑し、嘲笑するような夢ばかり見て、目覚めてからも苦しめられた。
日本語授業を閉鎖させ、日本人に圧迫を加えているのが、移民を導入している国の政府なのだから、これは日本の民族的遺産を学究している知識人や学者を検挙した日本政府と結託して、日本語文化を世界的な規模で破壊しようと企てている巨大な組織があるのに違いない、と鷹彦はどんどん解釈を、超現実的に拡大してゆく。
英語やスペイン語の書物を読める俺でさえ、日本語の使用を禁じられることに不自由を感じるのに、日本語しかわからないものが、こんどの日本語学校の閉鎖に対して、痛痒を感じないはずはないのに、ここに住んでいる日本人が不感症のように黙っているのを見て、鷹彦の神経は、いっそう苛立ちを覚える。
ジャーナリストになるのが夢だという柳子でさえも、それを切実な問題にして騒ぎ出さない。
「日本語は世界的に稀有な言語で、それで書かれた文学作品は、日本語で書かれているというだけで、すでに価値のあるものなのだから、その日本語を抹殺しようとする暴力に屈することは、もう日本人としてこの世に生きていることのできないほどのことなんだよ、柳ちゃん」
と訴えても、柳子は、鷹彦の精神が異常を来たしたのではないかというような眼つきで見ているだけで、悲痛なことだと思う反応を示さないから、鷹彦はいっそう絶望的になってしまう。
ふん、知らぬが仏か。鷹彦は、柳子に対してだけではなく、日本人全部を軽蔑するようになる。
コーヒーの実の一粒一粒が、金の粒子に視え、それを素手で?ぎ、掻き集め、袋詰めする作業をしていると、文字通り一攫千金の思いを実感するだろう。
鷹彦がそういうふうに感性だけで観るからというのではなく、のんきな顔をして、しょっちゅうぺちゃくちゃしゃべりながら、なおかつ能率を上げているガイジンたちとは対照的に、日本人たちは、ぎゅっと口を固く結び、眼をらんらんと怒らせて、凄まじいばかりの形相で、実を採取するというより、まるで仇に出会ったように、コーヒー樹に挑んでいる激しい動作を見ていると、彼らに視えるのは、金のなる樹だけで、世界の情勢がどう動こうと、日本の現状がどうあろうと、ブラジル政府がどんな政策を採ろうと、一向気にする様子など窺がえるはずはなかった。
見ろ、あの守銭奴と化した、彼らの形相を。彼らが肉体的に受ける苦痛は、金銭によって報われるのだから、それでもいいのだろう。
鷹彦がぶつかっている精神的苦痛は、何に
よっても決して報われるときはこないのだから、彼の虚しい足掻きは空転するばかりで、それが他人を悪し様に言わせることになる。
仕事量の多少によって報われる多寡が違う労働者が、その外面をどんな形相にしていても、内面は穏やかなはずだった。もうすぐ一農年の報酬を得られるのだから。
鷹彦自身は、みずからの方向が定まらず焦燥し、大きな圧力に対して無抵抗であらねばならないことに絶望し、精神的なものの崩壊を予感していても、それは彼一個の重大事にすぎなくて、世のなかは、彼を見捨ててどんどん前進し、変化し、成長してゆくことを知らないわけではなかった。
まだ大学在学中の休暇で帰省しているとき、家族全員が炎天下の労働に辛苦している時間に、鷹彦は川田家の誉れだからという賞賛をいいことにして、たった一人家に残って家事をしている嫂と密通し、背徳の美酒に酔いながらも、自己嫌悪し、挫折感に打ちひしがれ、学識というものがかえって邪魔をして、人生を過ってゆく予感に怯えていた。まさに識ることによって不幸を招いている日々だったのだ。
あのときにも思った。太陽と月と風と雨を相手の苛酷な環境に生きる農民には、学問などというものは人間性を失うだけで、自然のなかで生きてゆくには、むしろ偏狭で頑固に土に這いつくばってゆくのがもっとも適した生き方なのだ。祖父や父や兄たちの生きる様を見て、それがわかっていた。
日本の政府がどんな政策を採ろうと、世界がどうなってゆこうと、土と天候を相手の生活に変わりはなかった。ブラジルもまた然りで、ブラジル政府がどんな政策を採ろうとも、自然を相手に生きている限り、もしも言葉を毟り取られても、命に別状がない限り、何千年の歴史を継承できてきたのだから。
「しかしねえ、柳ちゃん、みんなブラジルに来て、ブラジルの茫漠さに惚けてしまうのだろうか、日本が戦争してることを忘れてしまってるようなのが心配だよ」
 そんな心配こそ、農民たちには要らぬお世話だった。
「あら、どうしてですか、鷹彦さん、どうして戦争のことを忘れてはいけないんですか」
柳子が、まるで農民たちを代表するように言った。彼女には、鷹彦が日本の戦争に拘りつづけるほうがおかしいと思えたのだ。
地球の反対側に来てまで、遥か彼方の戦火に思いを馳せ、苦悩しなければならないのか、と理解に苦しむ。
ほんとうに鷹彦さんは変わったと思う。知りはじめた頃は、秀麗なというほど、少し冷たい感じだけど、その冷たさが孤高の精神という超然とした態度にふさわしいと思ってみていたのだけれど、必要以上な精神生活への拘りが、かえって精神を疲弊させたのではないだろうか、秀麗さが醜悪になり、孤高が固執になってしまって、彼を卑俗にさせているようだった。
理路整然と澱みなく話して、それでいてこちらを納得させる説得力があった話し方が、近頃は、句読点が多すぎて、かえって聴きづらいし、ぜいぜいと雑音が入るし、息切れを補う呼吸が苦しそうで、聴いているこちらのほうが苦痛を覚える。
鷹彦も、柳子のそんな気持ちを察したのだろうか、少し声音を変えた。
「ここの日本人は、数が少ないのに皆が自分一人の殻に閉じこもって、纏まろうと思う気持ちがないけど、薬局の横山さんの話や、新聞記事によると、ほかの大きな植民地などは、ブラジルの片隅に日本が飛び地を造ったように、大勢の日本人が一致団結し、日本の軍国主義思想が充満していて、いまにも爆発しそうなほどだって。ここでは日本人はガイジンたちのなかに紛れ込んでるように見えるけど、そういうところにゆくと、ガイジンのほうが日本人のなかに溶け込んでいるってよ」
「そうですかあ、日本人も頑張ってるんですねえ」
「ぼくはそんなところは辟易するけど、勇ましい柳ちゃんなんか、そんなところのほうがいいんじゃないかなあ」
「ふうん、なんだか少し皮肉みたいに聴こえますけど」
軍国主義を否定し、嫌悪してきた鷹彦だから、ほんとうは皮肉というより、嫌みに聴こえたのだけれど、柳子は、鷹彦の衰弱ぶりを思って、言い返すのをこれくらいで控える。
鷹彦も、柳子のひっかかりには反応せず、顔を寄せ、声を落して、
「これはぜったい他言無用だよ、柳ちゃんを信用して言うんだから」
と辺りに目を配って言う。
「どんなことですかあ、なんだかすごく心に負担を覚えるようなことみたいですけど」
「いや、柳ちゃんが負担を感じるようなことじゃないけど、ほかの人の耳に入ると大騒動になるのはたしかな問題だから、ここだけのことにして聴いてほしいんだ」
「いいですよ、誰にも言いませんから」
誰にも言ってはいけない話というものに、最大の関心を示す柳子だったから、頸を突き出して、危うく鷹彦とまたキスしそうなほど顔を接近させてしまう。
「柳ちゃんの考え方を、ちょっと横に置いて聴いてほしんだ」
「はい」
「柳ちゃんはどう思ってるか知らないけど、日本の天皇のこと」
「神様でしょ」
「う、うん。いまの天皇そのものではなくて、歴史的な意味で、ぼくは奈良時代以後そのときどきの政権から祭り上げられてきた天皇制が、いまも存続していることに反対の立場なんだけど、須磨子さんがねえ」
須磨子の名が出たので、柳子の気持ちが天皇より須磨子のほうに傾く。
「彼女がこのあいだ逢ったとき、あまりにはっきり言ったんで、ぼくのほうがびっくりしたんだけど」
「この頃しょっちゅうお会いしておられるんですね」
「しょっちゅうってことじゃないけど、ぼくの躰を心配してくれて、神に祈りを捧げてくれているんだ。その神についてなんだ。彼女が言ったんだ『天皇はぜったい神などではありません。専制君主というのは人間臭いほうがいいのに、どうして神になりたがるんでしょう。神というのは一国の元首などであってはいけないんです、なぜなら、神は地球に棲息するありとあらゆるものに慈悲を垂れる絶対的な存在なんですから』って。彼女の神はイエス・キリストだろうから、一神教のキリスト教としては、キリスト以外に天皇が神として存在しては困るんだろう。ぼくはキリストもまた天皇と同じように神ではないと思っているんだけど、ただ一国を支配する天皇よりは大きな存在だろうなあ」
「日本以外ででしょう」
「うん、それはそうだけど、世界的な意味で」
「よその国の神と、日本の神様が違っても当然だと思うんですけど」
「非常に好奇心が強くて、いろいろな思想や宗教を柔軟に受け入れてきた日本人は、そう考えるんだけど、世界に神は唯一だと考える外国の宗教は、そう思わないんだ」
「須磨子さんは日本人だと思うんですけど」
「キリスト者は、国や民族を超越しているから、自分自身が日本人だとか何人だとかという意識がなくなるんじゃないかなあ」
「それじゃあ、鷹彦さんの、世界から国境を無くそうという考え方と、そこで共通するわけですね」
「まあ、するところとしないところとあるけど」
柳子は、鷹彦に対して、理論的にではなく感覚的な、あいまいさを感じて嫌な気分にな
る。
「鷹彦さんは、それでキリスト教の神を信じるようになられたんですか」
「いや、ぼくはまだそこまで落ちぶれてはいないつもりだけど」
そんな言い方が、彼自身の弱さを見せまいとする、虚栄があるように、柳子には聴こえた。
「わたしは、鷹彦さんに、もっとご自分を信じて欲しいと思うんですけど」
「ぼくは、ぼく自身も信じられなくなっているんだけど」
「それじゃあ、生きておれなくなると思います」
「うん、そうなってきているんだ」
 えっ、と柳子は胸を衝かれて、涙が溢れてくる。
「いやです、そんなの。もっと勁く生きて欲しいと思います」
「ぼくがあと何年生きたからといって、この世界がどう変わるってこともないしね」
「そんなことおっしゃるのなら、誰にだってそんな影響力なぞないと思います。キリストにだって」
「いや、キリストは、彼自身の力ではなく、彼の取り巻き連中の、彼のカリスマ性を利用した当時の新興宗教教会によって、脅迫的宣言工作が効を奏し、未曾有の信者獲得に成功したから、いちおう主旨は完遂されてるんだ」
「でも、キリストは偏執狂的な、人間的には達成不可能な理想で、人間を幻惑させたんでしょう」
「ほう、柳ちゃんも、そんなことを勁く言えるようになったんだなあ」
「鷹彦さんが教育してくださったから」
「ぼくが、柳ちゃんにそれほど勁い影響をしたとは思っていないけど」
「いえ、すごく影響されました」
「そうなら悪かったと思ってるよ」
「そんな。そんなことを言う鷹彦さんではなかったはずです。ご病気が言わせるんです。早くご病気を治してください。治すように努力してください」
そこまで言って、きゅっ、と後頭部に熱いものが込み上げたから、柳子は絶句した。
鷹彦も、自分自身が吐いた言葉に嫌気して、あとがつづかなかった。
「いやです、鷹彦さんがそんなふうにおっしゃるのは。わたし、はっきり言いますけど、父から、鷹彦さんとあまり親しくしないようにって言われたんです。でもその理由がアカに染まるからということでしたから、鷹彦さんはアカではないから、文学のことだけでお付き合いするんだからって、言ってきたんです。だから文学的影響を受けてきて困ることなど少しもないのに」
「悪かったよ。柳ちゃんに失望させて。ぼくはこのごろ自信がなくなってきたんだ」
「なににですか」
「すべてに」
「じゃあ眼を瞑って、須磨子さんのキリスト教を信じられたらいいです。キリスト教者なら世界中に住める場所があるようですから」
柳子は、決定的な皮肉を言ってしまって、あっと口を抑える。
「そうだなあ、ぼくにはどこにも行く場所も住める場所もないようだから」
鷹彦が犬に似た悲しそうな眼を、ちらっと逸らせたのを、柳子は捉えて、可哀相な人だと同情する。
同情しながら、「青白い文学青年なんか何の役にも立ちまへんさかい、ええ加減にしなはれや、秋子」と言ったというタツの言葉が、柳子の背後でむっくり立ち上がってくるのを感覚していた。
そういうタツの現実主義に、言い返す言葉がないほど、鷹彦の弱さが見えて、柳子は口惜しかった。口惜しさが涙を押し上げてきそうになるのが腹立たしかった。
どうして生活や病気と敢然として闘う気概
を持ってくれないのか。健全な思想は健全な肉体に宿ると聴いたけれど、逆もまた真なりで、思想を確固たるものにすれば、身体的な健康も取り戻せるのではないのか、とかつて病気で寝込んだことのない柳子は、病人の苦痛を実感できなかった。
ブラジルに来てからはじめて、虫刺されや土負けで、高熱を発した経験をしたけれど、あれは外傷であって、病気は気の病いだと惟っていたから。
鷹彦の容貌や、彼から受ける印象が、交際が深まるに連れて変化しているのは前から感じていたのだが、それが思想的な挫折感によるものとは、柳子には解釈できなかった。彼のすべての変化は、肉体的な衰弱が齎すものだと思っていた。
川田鷹彦は、知り合った当初に、思想的転向者を侮蔑するような言辞を吐いていたが、須磨子と交際するようになってから、彼自身が急速に思想的に崩れてきているのを、柳子は感じていた。だから、鷹彦さんを軟弱にしたのは須摩子さんだ、という思い込みが勁く働いたのだ。
柳子にはまだ、哲学とか思想については、理論的にどこがどうと指摘できるほどの知識はなかったけれど、彼の内部で起こっている変革が感覚できた。そしてその変わりようが、いい状態に立ち直ってきているのではなく、観ている柳子を悲しませる方向へ、肉体的衰弱と軌を一にする形で、悪く傾いているように思えるから、須磨子との交際が何の役にも立っていないと考え、いっそう須磨子に対する感情を捩じれさせる原因になっていた。
鷹彦はまだ元気な頃、みずからが神のように、高いところから人を見下す物の言い方をしていたから、柳子は反発を覚えながら聴いていたものだったが、いまになって思うと、そういう態度が彼の精神と肉体を支えていたんだなあ、とわかった。
なんといえばいいのか、彼の躰は、他の人たちとは違って、表皮が包んでいるのは肉体ではなく、学識なのではないだろうか、と思ったことがあるほど、多種多様な方面の知識が豊富で包みきれず、外部に溢れるばかりに充実していると感じたし、それはガラスの破片のように、常にきらきらと眩しく耀き、美しいけれど、触れると手の切れそうな鋭利な不安を感じさせるものだった。
そういう緊張感というのか高揚感というのか、そういうきらめきが、いまは消滅してしまっていた。そんな現象が起こった原因を柳子は、須磨子のせいにした。
須磨子さんが、鷹彦さんに、神に縋ることを教えたから、鷹彦さんは自分自身を見失ってしまったのだ、と。
じじつ鷹彦は、もう生きる自信を失っていた。神を考えるようになってから、かえって生きるための太い支柱を見失ったかたちで、いつもそれを探しているように、落ち着きがなくなっていた。両足に立っている力がなくなって、左足を支えてくれていた思想的なものが、まるで架空の松葉杖だったかのように、こんどは右脇を支えてくれるもう一つの松葉杖を、慌てて捜し求めている感じだった。
そういう弱さを顕わにして言うことは、確固とした思想的裏付けもなく、信念も固まらないうちに吐き出してしまう愚痴のように聴こえた。
「日本人がブラジルに来てまで、神懸かり的な軍国思想を声高らかに唱和するのは困るんだよ。日本民族の優越性を誇大に言い触らして、ブラジル政府を警戒させる、ほんとうに困るんだよ」
鷹彦がそう言う声音は、ただ迷惑だというばかりではなく、日本で、大量の検挙者を出した思想と言論の弾圧が、またぞろブラジルで起こることを考えて怯えているふうに視えた。
そんな鷹彦の臆病さが、柳子には腹立たしかった。
「でも、それは世界的傾向で、どこの国の民族も、自分たちがもっとも優秀な血を持つ純潔な民族だと思うナショナリズムが台頭してきているんだ、と言われたのは鷹彦さんですよ。日本人の鷹彦さんが、日本人のほうにだけ、それは困るんだって注文つけるのは変じゃないですか」
率直な柳子の批判に、鷹彦は返す言葉がなかった。
二人のあいだに気まずい沈黙が生まれて、重く沈澱する。
柳子は、その重さに堪える。
鷹彦は、すぐに堪えられなくなって、言う。
「だけど柳ちゃん、日本人にとって、ここは他国なんだ。各民族が自国で気勢を上げるのは勝手だけど、他所の国に来て、われわれ大和民族は世界に冠たる民族だと威張るのは、どうかなあ。ブラジル人がいくらお人好しでも、気分を悪くするんじゃないかな。気分を害するだけならいいよ。ジェツリオが採った政策を嵩に着て、日本人苛めがはじまると困るよね、もうはじまってるんだけど」
「まあ、それはそうですけど、すごく広大なブラジルの片隅で、日本人が空威張りしても、まるで小さい子どもが騒いでるみたいで、おもしろいんじゃないですか」
以前のようには鷹彦と議論する気にもなれないで、柳子自身が、あとで、あれっと惟ったほど、茶化して言ってしまう。
しかし、鷹彦には、そんな柳子の気持ちも通じなくなっていて、鷹彦自身が子どものような真剣な面持ちになって言う。
「柳ちゃん、冗談にする問題じゃないんだよ。ジェツリオが日本語学校を閉鎖させた理由がそこにあるんだから。日本人が口にする日本精神とか武士道精神というのは、ガイジンたちには非常に神懸かり的な呪文に聴こえるらしいんだ。ただ気持ち悪がるだけじゃなく、彼らにはそれが脅威なんだ。そんな馬鹿なことがと、こちらは笑ってしまうようなことだけど、日本人がブラジルを乗っ取るために来ているんじゃないかと、真剣に危惧するブラジル人がいるんだから」
「まさかあ」
 鷹彦までが、そのガイジンと同じような考え方をしているのではないだろうか、と思えるような口調だったから、柳子は呆れてしまう。
「誰だってそう言うだろう。信じられないような話だけど、実際にいるんだよ」
「いくらなんでも、そんなこと荒唐無稽ですよ。この広大なブラジルを、わずかな日本人が乗っ取るだなんて。どう考えてもばかげた冗談だとしか聴こえません」
「それがそうじゃないんだ。日本人というのは気味の悪い民族という印象を持ってるブラジル人が大勢いるんだよ、なにしろあの小さな島国の日本が、世界でも一、二を争う大国の支那と戦争して勝ったし、ロシアと戦争して勝ったし、いままた支那を、どんどん侵略していると彼らは思ってるんだから」
「ふうん、そういうことを聴くと、そういうこともあるかなあって思いますけど。まあ、でも、そういう問題は後回しにして、わたしがいまもっとも心配するのは、日本とかブラジルとか民族とか戦争とかではなくて、鷹彦さん御自身のことなんですけど」
「ぼくの、ぼくのことなどどうだっていいんだよ、柳ちゃん」
「どうしてそんなやけっぱちな言い方なさるんですかあ」
「やけになって言ってるんじゃないよ。ぼくにはぼく自身の体力の限界がわかるように、ブラジル生活での限界もわかっているんだ。そしてね、日本が突入してしまった現在の長いトンネルの時代を潜り抜けて、明るい未来へ到達できる日を待つだけの生命力がないだろうという予測もできるんだ」
「できません、予測なんて、誰にも」
柳子は、つい勁い声になって言う。
「まあ、そう言えばそうだけど」
「そういうふうに、物事を悲観的にお考えになるから、よけい気力がなくなるって思うんですけど。わたし、お願いします、鷹彦さん、ここに来られたころの元気に戻るように養生して欲しいんです。わたしと笑って議論した日を取り戻して欲しいんです」
柳子は、真剣な面持ちになって言う。
「ありがとう、柳ちゃん。できる限り努力をしてみるよ」
鷹彦も、柳子の気持ちがわかったから、もうひねくれた様子をせずに、素直に返す。鷹彦が素直に応えたのは、もうこれから養生しても回復する見込みなどない、と諦めていたからだった。
そんな鷹彦の様子が柳子にもわかった。なぜなら、もう以前の鷹彦と現在の鷹彦では、同一人物と思えないほど容貌が変わってしまっていて、それは悪魔に、いや悪魔にではなく、神に魂を売り渡してしまったからだろうと、柳子に思わせるほどだったから。
付き合いはじめたころの鷹彦は、知性に加えて、その端麗な容貌のせいもあってか、立ち姿がすっくと大地に足を踏ん張っている感じを受けたが、いまの彼は、まるで頭でっかちの蛸か烏賊のように、細い手足で頼りなく立ってもおれない感じに見えた。
だから、鷹彦が何かをしゃべっているのを、心を空にして聴いていると、「考えるのは葦ではなく、われわれ蛸や烏賊である」とでも言っているように聴こえてきた。
蛸や烏賊が鷹彦さんの真似をして哲学者然としているのではなく、鷹彦さんが蛸や烏賊を真似て超然としているようで、滑稽な感じを柳子は受けた。あれでは彼らのように海のなかで棲息するしかしようがないだろう、陸上を歩いて生き延びるのは難しかろうと思ってしまう。
柳子が幻想的に感覚したように、実際鷹彦の危機感は、海から陸に上がって生きようと、生活の場を転向した蛸や烏賊のようなものだった。
ブラジルに来たことがそもそもの間違いだったというほかはない。コーヒー農場の労働者になって生活できるはずはなかったのだから。
トチ狂うて来たのは、わたしの家族や小森さんのところよりも、鷹彦さんがその代表者だろう。わたしらは、ブラジルに、コーヒー農場に、そしてここの生活や作業にも、だんだん慣れてきているのに、鷹彦さんはそれら一切のものに対して、いっそう疎外感を深めているのだ。
柳子は、鷹彦と別れてひとりになると、鷹彦のことがよけい気になった。何とかしてあげたいと思っても、あの人自身の心の問題だから、あの人がわたしにしてくれたように、薬を塗って治してあげることもできないし、どうしていいかわからなくて困る。
日本政府の文化人への弾圧も、逃げてきたブラジルまで手を伸ばしてくるとは思えないのに、まだそれに怯えているみたいに見えるし、支那に燃え上がっている遠い戦火に戦慄するのもおかしなことだと思う。
ブラジル政府も左翼思想を嫌っているらしいけれど、この農場でそんな活動をしているわけではないから、頭のなかだけで、日本語で考えているだけの思想や言論を弾圧しに来ることもないだろう。
日本語を教えてはいけないという移民法ができたことに、鷹彦さんはすごい危機感を持ったらしい。それはわたしも、そうだと理解できる。身近な問題として、隣の小森さんのところでも、冬二や如月や季夫に日本語を教えてはならないというのは、一大事に違いない。肌を接するような問題だからよくわかる。
外国移民が、自分の子弟に彼らの母国語を教えてはいけないというような、そんな無茶苦茶な法律をつくるブラジル政府の狂気は、たしかに恐怖に値することだった。これに関
しては、わたしがのんきすぎた、と柳子も思う。
一攫千金の夢を抱いて出稼ぎに来ている人たちは、金を懐にして日本に帰ることしか念頭にないのだから、子どもにブラジル語なんぞ覚えなくてもいいんだ、と言う人もいるくらいなのだ。
その話を聴いたとき、柳子は、馬鹿なことを言う人だと思ったが、新移民法による外国語教授の禁止は、柳子に、ああわたしも外国人だったのだと再認識させ、これは大変なことなのだと甦生させられた思いがした。
言わば、ジェツリオは、自国民の民族意識を強固にするために出した法律によって、外国移民の民族意識をも覚醒させ、確固たらしめるという逆効果を招いたのだ。
柳子は、そういう大きな問題にまで拡大解釈して考えたわけではなく、彼女の性格として、姑息な政策だと思い、各自が家庭のなかでこそこそ隠れて日本語を教えるなどという陰気さを思って、反感を抱くのだった。
日本語教育の禁止に関係あるのかどうか、
「これ、柳ちゃんに進呈するよ、もういままでのようにポルトガル語を教えてやれなくなったから」
と鷹彦は手垢で汚れた「日葡辞典」と「葡日辞典」を柳子に差し出す。
「うわっ、うれしい。うれしいですけど、鷹彦さんこれがなくては困るでしょ。文子さんに教えるときに」
 いまは文子に対する感情がやわらいでいるから、皮肉にではなく言えた。
「ああ、もう文ちゃんのほうも休ませてもらってるんだ。文ちゃんに教えるくらいの日常会話なら、辞書なくても教えられるし」
そういうことで、鷹彦から辞書を貰ったのはいいが、文子だけではなく、柳子も鷹彦からブラジル語を習う機会を失ったのだ。
鷹彦がほとんど小屋に篭りっきりで、たまに躰の調子のいいときだけ畑に出てきていたが、叔父夫婦といっしょに作業をしているふうではなかった。気晴らしをしているのだろう、と柳子も思って、声を掛けるのを控えたりするほど、影が薄くて、茫漠とした風景に溶け込んでしまっていたから。
鷹彦との接触が少なくなった分、ペドロからブラジル語を吸収しようと考えたこともあって、柳子はペドロといっしょにいる時間が増えた。
鷹彦から貰った辞典を持ち歩いて、ペドロの前で辞書を引くと、ペドロが丸い目玉をいっそう丸くして覗き込んできたりしたが、首を横に振って、最初から拒絶反応を示した。
ペドロがしゃべるブラジル語を、何度も聴いて確かめて、辞書のページを、あっちに捲りこっちに捲り引っ繰り返しても見つけられないものが多かったから、柳子はポルトガル語とブラジル語は同じだと熊野が言い、鷹彦もそう言ったけれど、信じられなかった。
辞書になくても、ペドロが話すのが正真正銘のブラジル語だろうと思って、一応わからないものはわからないままにして、覚えるようにしたが、ペドロは文盲でも絵を上手に描いたから、大抵の言葉は理解できた。

そんなある日、太陽の傾き加減で、熊野の家の入り口あたりに、陽光がまともに当たっているのが視える場所で、こちらは日陰になっている側の豚小屋の板壁に凭れて、ペドロと手まねや絵解きの会話を交わしていると、ぎゃあっ、と頭上を怪鳥でも飛びすぎたのかと思うような、鋭く奇怪な絶叫が空気を裂いた。
柳子とペドロが顔を見合わせる。そして、絶叫の起こったところは熊野の家のなかだろうと認め合うように、なんとなく肯き合っていた。
柳子は頸を伸ばしながら、背を板壁に押し当ててずり上がるようにして立つ。
ペドロは、それほど関心を持たないのか、
長い足を伸ばしたまま、立ち上がる気配はなかった。
間違いなく、あれは園子さんの声だ、と柳子は思ったけれど、かつて一度も聴いたことのない泣き声というのか喚き声というのか、甲高い声で言い立てるのが聴こえた。
熊野の声は聴こえなかったが、二人が言い争っている雰囲気が、熊野の家のなかに篭っている気配は感じられた。
それにしても、さきほどの絶叫はなにだったのだろうか、と柳子は聴こえた声の大きさを、耳の中で再現させる。あの淑やかで上品に話す園子の声とは思えないのに、園子の声に間違いなかったという確信はあった。
そのうち、園子の罵る声に耐え兼ねたのか、熊野が戸口に姿を見せた。すると追いすがるようにして園子も出てきた。髪は乱れ、眦が釣り上がり、顔色まで変わってしまっているのを、柳子は観て、これが園子の内側に隠れていた一面かと驚いた。
ふたりは戸口に立ったまま、園子が金切り声で罵りつづけ、熊野が野太い声で言い返している。その表情がわかるほどの距離だから、喉がつぶれてしまっている喚き声でも、二人が言い争っている原因が何なのか、徐々にわかってくる。
「さあ言いなさい、早く言いなさいよ」
ずっと家のなかで言い募っていたことのつづきなのだろう、熊野が何かを、園子に告白することを要求されている。それに対して、
「言うことばなか」
と熊野は突っぱねつづけているようだった。
「言わなくてもわかってます」
「わかっちょったら訊くことなかばい」
「あなたの口から言ってください」
「言わせてどうするたい」
「どうするかはわたしの勝手です」
「そげんことなか、勝手は許さん」
「勝手なことをしてるのはあなたですよ。早く言いなさい、相手は誰だか」
園子の声がまた高くなる。痴話喧嘩で使用される言葉は他愛ない。ふたりは語彙の少ない言葉を繰り返すばかりで、一向に進展がない。
聴いているほうが恥ずかしいくらい、つまらない言葉を投げ合っている。
「うるさか」
熊野は、一喝して逃げるしかないと思ったのだろうけれど、園子は追ってきてどこまでも食い下がってくるから、ただ逃げるだけではこの農場のどこに逃げてもだめだと思ったのに違いない。
熊野は手を振り上げて、それを勢いつけて振り下ろした。
ばしっ、と大きな音が、柳子のところまで届いて、柳子は自分自身の頬を打たれたように身を竦めたほどだった。
打たれた園子は、また絶叫を放って、地面に崩れる。
熊野の力は、園子を打ち倒すほどつよいのだなあ、と柳子は竦みながら思う。
熊野は、地面に崩れた園子をそのままにして立ち去ろうとした。
すると園子は、そんな跳躍力がどこにあったのかと驚くほどの勢いで立ち上がり、熊野の躰にがむしゃらにむしゃぶりつく。
熊野が着ている白いシャツが、胸元から一枚皮をはがされるように、べろっと破れた。
「おお」
と感嘆の声を放ったのは、柳子の横で同じようにおもしろそうに眸をきらきらさせて見ていたペドロだった。
熊野が、眼を剥くのが視えた。シャツが破れたことにいっそう興奮を覚えたのではないだろうか。
園子が、ひいっ、と細い声を振り絞って、熊野を掻き毟る。猫が障子に爪を立てているような恰好だった。
熊野が、腕を突っ張って、園子を突き飛ばそうとしたが、こんどは園子も転ばず、しが
みついてゆく。
「言え言え言え」
園子が濁った声で、掛け声かけているように言った。
柳子はそう聴いたのだが、執拗に、熊野が白状するのを要求しているのだった。
園子が夫に白状させようとしている誰かが、園子を嫉妬で狂わせているのだ、と柳子にも判断できてきた。
夫婦とはおかしなもので、夫が誰かと何かをしたということは、夫の相手をした誰かがわからなくても、誰かが居ることだけはわかるのだということは、すでに柳子も女学校に上がる前ころから、両親の諍いを聴いていたので、わかるようになっていた。痴話喧嘩の耳学問で、夫婦のあいだに裏表があるのを、すでに経験的に学習していたのだ。
熊野夫婦がいま演じているのも、その類の夫婦喧嘩だろうと判断できた。
そして柳子は、誰の名を言えと言っているのか、熊野夫婦の愚かな繰り返しよりも、園子が夫に白状させようとしている誰かの名前のほうに、勁い関心が起こってくる。この夫婦の仲を裂いた誰かがいるのだ。その誰かが、誰なのか知りたかった。
知りたかったといっても、知らずに知りたいと思うのではなく、その誰かはおそらく秋子だろうという確信があってのことだった。
しかし、秋子と熊野が、園子にこれほど嫉妬させるような状態にまで進んでいることを知っているわけではなかった。
園子の感情は、いよいよ激してきて、気が狂ったように、鋭い爪を立てているのだろう、熊野のシャツがだんだん簾のようになってくる。
はじめ柳子が、園子の言っているのを聴いたときには、「言いなさい、早く言いなさい」と丁寧語だったのが、いまは、「言え言え言え」と命令形になっている。
平常には意識してなのかどうか、非常に清楚な感じで、秋子がいつか、「園子さんて、元はエエシの子やないやろか」と言ったことがあったくらいだったが、いまはもう、本性を顕わした化け猫のように、眼は釣り上がり、口は裂け、といった形相で、いまに発狂するのではないだろうか、と柳子が心配するほどになっている。
それでもまだ、柳子は、母がよく口にする「夫婦喧嘩は犬も食わない」という言葉を頭の片隅に置いている冷静さを失ってはいなかった。
熊野が秋子に執着していることを、とうに園子は知っているだろうから、そのためにこの夫婦の確執が嵩じたのだろうし、熊野の口からそれを明らかにすることはないだろうが、園子の口から秋子の名が出るのではないだろうか、と柳子の期待は、勝手に核心を具体化してゆく。
ペドロが何を考えながら見ているのかわからなかったが、にやにやしている様子に、どういう決着になるかという興味よりも、すでに何度も見てきて知っているような余裕があった。
こんな黒人に醜態を晒している日本人夫婦は、なんという恥さらしなんだろう、と思いはじめた柳子のほうが、いっそう恥ずかしくなってくる。
しかし、ガイジンの夫婦が、これ以上に激しい掴み合いをしているのを、何度か目撃していた柳子だから、夫婦喧嘩をするのは、どの人種でも同じなのだから、日本人のくせにというのはいけないなあ、とも思う。
園子は、そんな柳子やペドロの観客がいるのが見えないのか、見えていても、もうみずからを制御することができなくなっているからか、べろっと内面を曝け出した醜さで、熊野に縋りつき、叩かれても押し倒されても、執拗にしがみついてゆく。
「園子狂乱」という芝居を観てるみたいだ、と柳子の興味も、客観的になってくる。
「わたしと離婚して、誰と再婚したいって言うのよ」
園子が、そんな言葉を繋げたから、ああ、二人のあいだに離婚話が持ち上がっていたのか、と柳子の理解が一歩前進する。
「ばかもん、誰と再婚しょうと、おまえに関係なか」
「いままでは、浮気じゃからと、我慢してきたんだ。浮気じゃのうて、本気になってあんたを盗る女は恕されん。わたしが決着つけるから、名を言え。さあ言え」
園子の口調とも思えない言い方をして、園子は食い下がる。
「うるさか、このアマ」
熊野も、もう妻に対するいたわりなどすっかりなくして、まるで魔女でも視るようなおぞましい眼で、憎々しげに言う。
妻を小馬鹿にしたような熊野の顔を観ていると、柳子はむらむらと胸のなかにでんぐり返ってくるものを覚えはじめる。
こんな美人の奥さんを、醜い嫉妬に狂わせて、妻の座を園子さんよりいっそう美人の秋子さんに据えかえようなぞと考える男が、男のなかでもいっそう醜い顔をしているのだから、柳子には、これが厚顔無恥の典型かと見えてしまう。
「浮気は我慢してきたけど、本気は我慢できんたい」
あれ、園子さんも方言遣ってる、と柳子は醒めて聴きながら、浮気を許すから男はいい気になるのよ、と批判している。
熊野は弁解するなにものもないから、妻を黙らせるのは暴力しかないと思ったのだろう、破れたシャツを掴んで離さない園子の頭といわず顔といわず、拳をふるって打ちはじめる。
園子はひいひい泣き叫びながら、死んでも離すものかという執念深さで、いっそうしがみついてゆく。
必死にしがみつく園子の白い手と、それをもぎ取ろうとする熊野の黒い手とが縺れ合って、卍巴の葛藤が果てしなくつづくかと思ったが、幕切れは案外早くきた。
熊野が破られたシャツを脱ぎ、脱いだシャツを園子の頭から被せて、顔も覆い、シャツの袖を園子の喉に巻きつけて、締め上げたから、園子は喉に巻きつけられたシャツを剥ぎ取るほうに執着しなければならなくなる。その身悶える姿が、悶絶するのではないかと心配させる恰好に見える。
ああ、園子さんが絞め殺される、と思って柳子は傍観しておれなくなる。
「ペドロ、助けてあげてよ」
柳子が叫んだが、日本語がわからないからか、勘のいいペドロだからわかっていても、夫婦喧嘩は犬も食わん、という俗諺がブラジルにもあるのか、きょとんとした顔を、柳子に向けているだけだった。
柳子は、眼の前で殺人が行われそうな状況になってきたと判断したから、観客の立場でおられなくなって、園子を救助しようと駆け出す。
直線距離をとるためには、馬囲いの柵を潜り抜けて、馬や牛のあいだを走っていかなければならないから、柳子が柵を潜ろうとしているうちに、熊野は、
「糞っ垂れ」
と罵って、園子を足蹴にし、上半身裸のまま、どんどん坂道を走って行ってしまった。
柳子が、園子のところに行き着くまでに、園子は、夫から巻きつけられたシャツをなんとか解いて、泣きながら家のなかに走り込んで行ったから、柳子の出番はなくなった。
柳子は、やれやれと思うよりも、なぜかしら中途半端な気持ちになって、蟠りが残ってしまう。
ほんとうに、男という動物は、恕せない存在だ。ほしいままの性欲を撒き散らし、妻の愛を踏み躙り、暴力で女を支配するのだから、と父の過去もひっくるめて、柳子は惟う。
熊野夫婦の痴話喧嘩の一部始終を観て、あ
れは単なる夫婦喧嘩ではない、女性虐待だと思って傍観者ではおられなくなって飛び出したのに、園子に加担して、熊野をこっぴどくやっつけてやろう、と考えたことが果たせなかった憤懣の遣り場に困る。
凄まじい夫婦喧嘩を観て楽しんだというふうな、にやにやしているペドロに向かって、「モンタ・カバーロ」
と怒った顔になって、柳子が言うと、彼女の間違った言い方にも関わらず、ペドロは、すっ、とにやにやを消してまじめな表情に返り、急いでミモザの背に鞍を載せる。
柳子は、馬の背に乗って、眼の高さを変えなければ、遣り切れない気分だった。なんだか世界中がぎくしゃくして、誰も彼もの歯車が巧く噛み合わなくなってきたみたいだ、と思って気色悪かった。
あんなに常には物静かで清楚な感じで、熊野の奥さんには勿体無いような人だ、と思っていた園子が、恥も外聞もなく醜態を曝け出したのを目撃したことから派生した違和感が、鷹彦のところに後戻りしてゆき、彼もとうとう自信を無くし、自己を喪失してしまっているようだし、日本人の働きぶりは、野良仕事というようなのんびりしたものではなく、金の亡者の形相だし、ジェツリオ大統領は外国移民に外国語を教えるなというような、理不尽きわまる横暴な法律を押しつけてくるし、などといろいろなことが、渦巻く想念になって、ミモザの背に跨っていても、いつものようには楽しくなかった。
秋子さんは、熊野に向かって、園子さんと離婚したら、というような条件を出したのだろうか、口にしなくても、そういう素振りを見せたのだろうか、なにかそういう状況を急変させる原因がなければ、熊野夫婦が、夫婦のいざこざを人前に曝すようなことはしなかっただろう。
きっと秋子さんの気持ちに変化が起こったのに違いない、と柳子は確信を持って思う。
秋子の心のなかにも狂いが生じたのを、柳子も感じはじめていたからだった。
熊野のあの執念深さと、園子の嫉妬深さと、そして鷹彦が娼婦型だと評した秋子の濃艶さが加われば、熊野夫婦の相克は一過性のものではなく、いよいよ悪化の道を転げ落ちてゆくのではないだろうか、と心配するのは柳子ひとりではなかった。
タツは、目先のことだけ考えて、「みんながシンドイ思いしてんの助けられるのんは、あんただけやさかい、辛抱してんか」と秋子を熊野に売るようなことを言うのだが、「そんなことせんでもええ、ここに居る限り飢え死にせえへんさかい、ベンダに借金するだけして、あとはケツ捲くって、熊野の鼻あかしたれ」と茂は雪隠の火事おこして、秋子が身売りするような気持ちでいるのを、引き止めるのだが、もう吉田からさんざん痛めつけられて荒んでしまった娘の躰が、男を求めて悶々としているのも知っているばかりではなかった。娘の躰が甘い蜜をいっぱい溜めていて、ミツバチが寄ってくるより先に、花自体が、雄の性を求めて煩悶しているのも知っていたのだ。もしもこれが父娘でなかったら、儂が抱きたいくらいに、芳醇な香を放っている秋子に、茂自身が酔うときがあったのだから。
人間いうても、これだけは動物やさかいなあ、と茂は、自分自身がタツに対してはもう勃起しなくなったものが、横に寝るようになった秋子に対して、むらむらするのに苦悶しながら、思うようになっていた。
そんなことまでは、わからない柳子だったが、秋子さんて、可哀相な人だと思う。可哀相といえば、園子さんも可哀相な人なんだ。熊野の自分勝手な欲望と、その欲望のためには妻と離婚してでもと思う横暴さの犠牲になろうとしているのだから。
この農場で、新聞を読んでいるのは、支配人と薬局の主人と、鷹彦さんだけだということだから、文盲の多いガイジンたちには、外
国語教育を禁止するという抑圧を身に沁みて感じるものは、ほとんどいないだろうけれど、食と性のための苦しみは、日常的なことで、わめき合い、掴み合い、罵り合いしているのは、散歩の折に散々目にしている柳子だから、人間が生きるというのは、こういうことなんだなあ、とつくづく思うようになっていて、熊野夫婦の諍いもそのなかのひとつに過ぎない、と思えばなんでもなかったのだけれど。
だから、鷹彦の煩悶を、世間から浮き上がったものと思い、秋子や園子の苦悶を今現在の切実な問題だと感じるのだった。
ああ、ブラジルよ。と柳子は、詩的に、ブラジルの茫漠とした風景の彼方に吸い取られてゆく慄きのなかで、現実的な人間の生臭ささと、その生臭いがゆえの悲しみを痛切に思う。
鷹彦が、現実から浮き上がった思想的な、哲学的な思考の虚しさを知って、挫折感に打ちひしがれ、呻吟し、苦悶している様子を観て、柳子は、気の毒な人だと思っても、それ以上の同情は湧かないけれど、秋子のことを思うと、なんとかしてあげられないものかなあ、と居ても立っても居られない気持ちになる。
秋子さんは、それを「運命」だと諦めているようだけれど、ほんとうに運命というものは、どうにもできないものなのだろうか。
太陽の黒点とか、月が、潮の満ち干という自然現象を支配しているというのは、ほんとうなのだろうか。もしそうだとすれば、人間の躰や心まで、そういう自然現象から支配されているだろうから、それを人間は運命と言っているのではないだろうか。
自然現象が人間を含めた全地球を支配しているのならば、戦争も政治も男女の相克も、すべてがそうなのだろうから、わたしがいくら気に病んでも、どうにもできないことではないのか、と考えると、考えることが虚しくなる。
人間は考える葦だ、といっても、考えてもどうにもならないのなら、パスカルさんの言ったことも独善にすぎないことになるんだけど、と柳子は思う。
十七歳と十八歳の境目を跨いでから、いろいろなものを観る眼が変わったのを自覚できるし、少しばかり考えが深くなったようだとも感じる柳子は、もう他人からお転婆だと言われて、それを誇りに思うような軽はずみなことはしてはいけないなあ、と反省していた。
現実は、わたしが考えている以上に厳しいもののようがから、と。
とにかくいまは、肉体だけを酷使する単純でつまらない環境に入ってしまったのは運命のせいにして、約束した日時だけこなして、つぎの段階には、もっと文化的なところに脱出しなければならない。鷹彦さんの話によると、ブラジルのあちらこちらに日本人が造っている植民地がいくらでもあるというのだから、父がどうしてこんなガイジンの経営するコーヒー農場に、契約労働者という最低条件も満たさない環境に入ることを考えたのか。まあそれは、ブラジル事情も知らなかったし、応急の処置だったのだろうが、事情がわかると、ばかみたいなことだと思う。
お父ちゃに、このことを言って、すぐに日本に帰らないのなら、ブラジルのつぎの段階を、もっと真剣に考えてもらわなければならない、と柳子も考える物事の焦点を絞れるようになっていた。
わたしも軽はずみにブラジルを体験するのではなく、もっと真剣に、そして慎重に、ブラジルを知ろう。
そう決心して、風景を捉え直すと、悲しいものだと観た風景が、ただ悲しく広がっているだけではなく、やはり希望を持って生きる価値の在るものだと視えてくるからふしぎだった。
「花の碑」 第八巻 第三九章 了
(上へ)
第三九章 / 第四〇章 / 第四一章 / 第四二章 / 第四三章
[ 表紙 ]   [ 関連地図 ]   [ ブラジル日本移民略年表 ]   [ 主要登場人物 ]
© Copyright 2003 Ricardo Osamu Ueki. All rights reserved.