ブラジル日本移民略年表 (半田知雄編著を参考にする)
1908年(明治41)4月28日 午後5時55分笠戸丸は、皇國殖民会社社長水野龍の引率のもと、781名(165家族733名、独身者48名)、自由渡航者12名を乗せて、神戸を出港した。
1908年(明治41)6月18日 ブラジル国サントス港に、公的契約による第1回移民が到着する。
6月26日から7月6日にかけて6農場に配耕されたが、日本での移民勧誘条件とは大いに相違するという不満によって退出したものが多く、配耕先に残ったものはわずかに91名だけだった。
1909年(明治42)5月26日 野田良治、二等通訳官としてリオ・デ・ジャネイロ、ペトロポリスに着任。
1910年(明治43)6月28日 第2回移民906名、自由渡航者3名、旅順丸でサントス港に到着。
今回の移民も、笠戸丸移民と同様、コーヒー農場において紛争を起こして退耕するものが多く出て、移民政策の杜撰さを指摘するものがいた。
これら退耕者は、サンパウロ市やサントス市に出て、大工や大邸宅の雑役夫、鉄道工夫など都市労働者になった。
1911年(明治44)2月4日 ブラジル連邦政府のモンソン第一植民地に日本人5家族が入植、日本人移民で最初の土地所有者になる。またブラジルで最初の棉栽培者となった。
1912年(大正1) 第2回移民の退耕者福岡県人馬見塚竹造は、サンパウロ市の市場を視察して、蔬菜類の価格を知って、コーヒー農場で働くよりも有利だと判断し、なかでも相場のよかったジャガイモ栽培をサンパウロ市郊外で始め、日本人による近郊農業のパイオニアになる。
1913年(大正2)8月28日 ミナス金山と契約した107名が、マルセイユまで日本船三島丸で、マルセイユからフランス船フランス号に乗り、リオ港に到着。唯一の金鉱移民になる。
1913年(大正2) イグアッペ植民地の入植開始。日本から直來ではなくコーヒー園を退耕してサンパウロ市にいたものが多く、農業技師の指導のもとにサトウキビ栽培を始める。当時の移民は出稼ぎ移民だったが、ここは永住を考えて計画された植民地だった。
1913年(大正2)12月31日 「花の碑」でアリアンサ植民地開設の功労者として取り上げている輪湖俊午郎が北米を発ってブラジルへ向かう。
1914年(大正3)1月 サンパウロ州政府は、財政上の都合と、すでに同州に導入された日本移民1万余で充分試験的な移民計画は達成されたという理由で、同年春期の導入を最後として、移民契約を廃棄することになった。
3月 日本移民に対する渡航費補助金中止を通達。
1914年(大正3)9月2日 サンパウロ日本総領事館事務開始。松村貞雄初代総領事として永続出張。
1915年(大正4)7月14日 正式にサンパウロ日本総領事館開設。
1915年(大正4)10月 第1モンソン植民地に、南方からバッタの大群が来襲し、1週間足らずで作物一切を食い尽くす。
1915年(大正4)10月 大阪商船会社、南米航路開始。
1916年(大正5)1月 星名謙一郎、週刊「南米」発刊。謄写版刷り16cmx24cm
1916年(大正5)8月31日 金子保三郎と輪湖俊午郎によって「日伯新聞」創刊。石版刷り週刊紙。のち1919年に活字となり、三浦鑿に買収される。
1916年(大正5)10月 リンス、バルボーザの土地100アルケーレスを購入した6家族の熊本県人が分割して入植。リンス入植の先駆者となる。(130アルケーレス13家族という説もある)
1917年(大正6)8月31日 移民会社機関紙「伯剌西爾時報」主幹黒石清作で週刊紙として創刊。南米東海岸では最初の邦人活字新聞。
1918年(大正7) 初の日系教師。隈部三郎の次女照子、三女暁子、リオの師範学校を出て、小学校教師の資格を取得。翌年5月二人ともブラジルに帰化し、帰化でも先駆を取る。
1919年(大正8)10月10日 在伯邦人最初の農業協同組合が、ミナス州ウベラーバ市にできる。
1920年(大正9)6月1日 永田稠、第1回南米視察旅行。
1922年(大正11) アリアンサ移住地建設のために、日本で信濃海外教会発足。
1923年(大正12)5月1日 日本公使館、大使館に昇格。
1923年(大正12)6月 グァインベー開拓。ノロエステ線リンス奥グァインベー(日本人間ではゴヤンベー)に第二上塚植民地開拓開始。
1923年(大正12)9月 バウルー市に平田旅館、日本旅館開業。
1923年(大正12)10月22日 レイス移民法案が連邦下院に提出される。「第4条、政府は国民の人種的精神的及び体力的組成に有害と認めるあらゆる分子の入国を阻止するため、其の何れの地より出発し来るを問わず、ブラジルに向かって渡来する移民に関し、厳重なる取締りをなすべし」「第5条、黒人種のブラジル入国を禁止す、黄色人種に就いては、該人種に属する国民現在者の3分に相当する数に於いて毎年入国を許可」とある。(訳文に明瞭性を欠く)
1924年(大正13)2月29日 野口英世博士サンパウロ州衛生院の招聘でバイア州に伝播する黄熱病原レプトスピラ検出実験の講演のために來聖。
1924年(大正13)4月24日 ブラジル医学士院は突然レイス移民法案に対する称賛を行い、その決議を下院に提出した。学士院長ミゲル・コウトの意見で、「アジア人は絶対に同化せず、優生学上及び経済上の法則は該起源の分子のブラジル領土に入来するのに反対する決議。
1924年(大正13)10月1日 アリアンサ(ノロエステ線ミランドポリス郡移住地創設。2200アルケーレスを購入、登記終わる。
1925年(大正14)1月 リンス青年クラブ設立。
1925年(大正14)7月8日 オリベイラ・ボテーリョ議員が、下院財政委員会で反レイス移民法案の意見書を朗読した。レイス法案中の黄色人種移民制限条項はこれによって粉砕尽くされた感があった。
1925年(大正14) 日本の国策移民開始。この年からブラジル渡航の移民全員に日本政府は船賃を支給、移民会社の手数料移民1人あたり35円も政府負担になる。
1927年(昭和2)7月 ミゲール・コート博士は、ブラジル教育協会で行った演説で、日本の教育普及に説き進んだが、そのなかで「もしも日本移民の無制限入国を許せば、将来ブラジルは日本に征服されるか、日本と共同統治の下に置かれる属国と化すであろう」との趣意を表現した。
1927年(昭和2)7月 日本では勅令第229号によって、移民収容所の官制が公布され、建築費用23万余円を投じて、翌年2月、寝台数を備えた鉄筋コンクリート5階の神戸移民収容所が落成。3月に開所された。
1927年(昭和2)12月11日 有限責任コチア・バタタ生産者組合、組合員83名で、創立。
1928年(昭和3)8月9日 チエテー移住地創設記念日。土地の登記は1929年4月30日。入植は1929年6月1日。ノロエステ線ルッサンビーラ駅。
1929年(昭和4) アマゾーニア開拓。パラー州アカラ(現トメアスー)植民地先発隊が、最初の斧を入れた。
1929年(昭和4)5月8日 日本政府拓務省設置。移植民に関する事務及び海外拓殖事業の指導奨励に関する事務は拓務大臣がこれを司る。初代は首相田中義一が兼任。
1929年(昭和4) コーヒー価格大暴落。世界経済恐慌発生。
1930年(昭和5)3月16日 日本移民北パラナ、ロンドリーナに進出。北パラナ土地会社日本人部総代理人、氏原彦馬募集の第1回視察団ロンドリーナ到着。
1930年(昭和5)10月18日 アマゾニア産業研究所設立の第1歩。
1931年(昭和6) 日本郵船との協定成って、大阪商船南米航路を独占。1万トン級大型船7隻。7千トン級優秀船5隻を就航させた。
1932年(昭和7)1月14日 「日本新聞」創刊。社長翁長助成を中心として沖縄県人が「南米新報」を買収して設立。
1932年(昭和7)1月15日 画家藤田嗣治夫人同伴で來聖。3月初旬個展を開く。
1932年(昭和7)3月1日 医師高岡専太郎に、京都大学から博士号が贈られる。
1932年(昭和7)6月 ブラジル移民に日本政府が渡航費補助金を下付。ほかに満12歳以上1人につき50円の渡航支度金も下付。
1932年(昭和7)6月 ミゲル・コート博士「人種、宗教の著しく異なった日本人の無制限入国はブラジルの人種型構成に害がある。従って北米に倣って入国制限を行う必要がある。政府は既に外国移民制限令を発したにもかかわらず、望ましからざる日本人のために例外を設け、1万3千名の入国を許可したことは実に言語道断である」と獅子吼。
また、伝統的に親日態度を示していた「ジョルナル・ド・コメルシオ紙」も、満州事変及び上海事変発生以来、急に態度を変え、ミゲル・コートの排日論に共鳴し、頻々と紙上に掲載した。
1932年(昭和7)10月現在 サンパウロ帝國総領事館の調査によれば、在伯邦人戸数23507戸。総人口132689人。地方別集団のトップはノロエステ地方。職業別では90%が農業者。
1933年(昭和8)5月現在 ブラジル在留同胞社会における
主要定期刊行物一覧表
伯剌西爾時報・ブラジル時報社・週2回・年30ミル
日伯新聞 ・日伯新聞社 ・週刊 ・年30ミル
聖州新報 ・聖州新報社 ・週2回・年30ミル
日本新聞 ・日本新聞社 ・週刊 ・年30ミル
アリアンサ時報・アリアンサ時報社・週刊 ・年12ミル
農業のブラジル・農業のブラジル社・月刊 ・年30ミル
波紋 ・波紋社 ・月刊(娯楽誌)
ポプラール ・リンス通信社 ・月刊(少年少女向け娯楽雑誌)
葡語講義録 ・サンパウロ父兄会・年10回
ブラジルの国語・妹尾正男 ・2ヶ月1回(不定期学習書)
カナ・ブラジル・カナ・ブラジル社・週刊(子供の読み物)
青空 ・サンパウロ父兄会・月刊(父兄会機関誌)
若人 ・農業のブラジル社・月刊
力行の叫び ・力行会聖市支部・月刊(機関誌)
更新 ・更新社 ・隔月刊 ・12ミル
角笛・おかぼ・アリアンサ時報社・月刊
家庭と健康 ・互生會 ・月刊(衛生関係)
郷友 ・耕地通訳協会 ・月刊(機関誌)
1933年(昭和8)6月18日 日本移民渡伯25周年記念祭。式のあと日本病院定礎式。(起工式は1936年4月5日)
1934年(昭和9)7月16日 外国移民二分制限法公布。ミゲール・コート派の提出した各国移民制限条項は、字句の整理を経て、この日公布された憲法中に下記の如く挿入された。
補項第6――国家の領土内への移民の入国は移民の人種的並びに体質的及び市民的資格を保障する爲に必要なる制限を受くべし。但し各国移民入国は最近50年間にブラジルに定着したる当該国人の総数に対し毎年その100分の2の限度を超ゆる事を得ず。
日本移民の入国数は124457人であり、この割り当てでは2489人となる。
1935年(昭和10)4月 弓場農場の‘新しき村’建設はじまる。サンパウロ州ノロエステ線ミランドポリス駅第1アリアンサ移住地隣接のフォルモーザ区。
1935年(昭和10)6月26日 ノロエステ線ルッサンビーラ駅チエテ河のノーボ・オリエンテ橋が日本人の出資で完成。落成式。1931年起工。長さ130m幅5.70m鉄筋コンクリートの吊橋。
1936年(昭和11)2月1日 棉花時代はじまる。大阪に資本金200万円の「日伯棉花株式会社」が設立され、ブラジルに支社「ブラスコット」を設立。サンパウロ州内邦人集団地5ヶ所に操棉工場を建設。
1936年(昭和11)12月 学生連盟の機関誌「学友」に、下元健郎が「私らの心情」と題して書いた文章が、「菊花事件」という不敬事件として問題になった。2世がブラジルを母国と認めた最初の記録。
1936年(昭和11) 1933年アマゾニア産業研究所アンジラ入植地で、尾山良太が発見したジュートが新種と確認され、「尾山種」と名づけられ、この年から増産されることになった。
1937年(昭和12) 中日戦争勃発。
ここから「花の碑」第1部第1巻第1章が書き出される。
1937年(昭和12)11月10日 ジェツリオ・ヴァルガス独裁政権確立。クーデター後の新憲法第151條に移民入国2分制限法が盛り込まれる。
外国人入国法第8章第85條及び第87條。学校の授業はブラジル語をもって行い、14歳未満者に外国語の教授を禁じ、外国語印刷物の発行は、その筋の許可を要す。
1938年(昭和13)5月 「聖州新報」がこの月に日刊となり、7月には「日伯新聞」。8月には「ブラジル時報」も日刊になる。
1938年(昭和13)8月 新移民法実施。1930年の移民法に基づく改正新移民法は、移民の文化上、教育上の活動にさらに大きな制限を加えた。
(「花の碑」第2部の始まり)
1938年(昭和13) 宮越千葉太著「日本精神講話」を出す。
1938年(昭和13) 日本からブラジル向けラジオ放送開始。
1938年(昭和13)12月25日 全日語学校閉鎖。この日からブラジル全国の外国語学校、主として日・独・伊などの学校が全面的に閉鎖される。
サンパウロ州の日本語学校294校、ドイツ系20校、イタリア系8校。
ブラジル全国の日本語学校476校、教員数554名(男468、女86)有資格者279名。
1939年(昭和14)5月20日 リオの「ジョルナル・ド・ブラジル」紙、アマゾンにおける日本人ジュート栽培の成功を大々的に報道。
1939年(昭和14)7月中旬ころから、ジェツリオ政府のナショナリズム旋風を嫌って、日本へ帰国するものが多く出た。
1939年(昭和14)7月26日 北米が「日米通商航海条約」の廃棄を通告。
1939年(昭和14)9月1日 ドイツ陸・空軍がポーランドに進撃して、第2次世界大戦が始まる。
1940年(昭和15)11月10日 総領事館で紀元2600年祭が挙行された日、ジェツリオ・ヴァルガス政権樹立10周年記念日でもあった。両方の記念祭が各地で持たれた。
1941年(昭和16)7月末 各邦字紙停刊。「聖州新報」が廃刊によせて「アジア人はアジアに帰ろう」という告別の辞を書いた。
1942年(昭和17)1月19日 サンパウロ州保安局、敵性国民に対する取締令を告示。内容は、自国語で書かれたものの頒布、公衆のなかで自国語の使用を禁止。保安局発給の通行許可証なく旅行し、保安局に無断で転居することの禁止。
1942年(昭和17)1月29日 国交断絶。在外公館閉鎖。15日〜27日に亘り、リオ・デ・ジャネイロにおいて汎米外相会議開催、アルゼンチンを除く参加10ヶ国が対枢軸国経済断行を決議。ブラジル政府は29日枢軸国と国交断絶。在リオ日本大使館、在サンパウロ総領事館等、在外公館が閉鎖されるとともに、日独伊3国人に対する取締り強化される。
1942年(昭和17)2月2日 サンパウロ市内の日本人集中地域コンデ・デ・サルゼーダス街界隈から治安上の理由で第1次立ち退き命令発令される。
1942年(昭和17)2月11日 敵性国資産に対する資産凍結令発令される。
1942年(昭和17)7月3日 日本政府代表引揚げ。国外退去を命じられた石射猪太郎大使、原馨総領事ら日本政府代表と北米から帰国する野村大使、栗栖特派大使など1600名を乗せた中立国スエーデン籍交換船「グリップスホルム号」リオ港を出港。以後日本人の權益はスペイン大使館
(のちにスエーデン公使舘)が代行。日本政府代表の引揚げにより取り残された移民のあいだには、棄民意識が顕在化した。
1943年(昭和18)7月8日 ブラジル及びアメリカの貨物船5隻がサントス出港後まもなくドイツ潜水艦に撃沈されたということで、海岸地方在住の枢軸国国人のスパイ行為によるものと見られ、海岸地方在住の枢軸国から来ている移民に対して24時間以内に立ち退き命令が出された。サンパウロ移民収容所に立ち退いた住民たちは、親戚、知人を頼って、各地に落ち延びた。
1943年(昭和18)10月 日系資本の工場、商社、農場、銀行など敵性資産として清算処分になるものが続出。
1944年(昭和19)6月22日 日米海戦のニュースは、ブラジルの新聞ではアメリカ軍の大勝利を伝え、日本からの短波放送では日本軍の大勝利を大々的に報じた。
7月18日 東条内閣総辞職。小磯内閣成立を伝える。
7月21日 ヒトラー暗殺未遂が報じられる。
1945年(昭和20)4月18日 すでに連合国側の勝利で戦争が終わる見通しによって、政治犯の特赦があり、民主化の動きが盛んになる。
5月2日 ヒトラーの自殺の報伝わる。その夜ベルリン陥落を祝う花火が響き渡る。
5月7日 ドイツの降伏により、枢軸国からの移民の旅行許可証の必要がなくなる。
1945年(昭和20)6月6日 ブラジルが日本に対して宣戰を布告する。ヨーロッパに平和が戻り、ブラジル国内でも戦争気分が下火になってから、汎アメリカ諸国会議で連帯義務の再確認決定に基づき、ブラジル政府は日本に対して宣戰を布告。日本移民はすでに敵国視されていたことから、これを知らずにいた。
1945年(昭和20)8月6日 ブラジルの新聞夕刊で、アメリカ軍によるヒロシマへの原爆投下が報じられる。
翌7日朝刊は、一斉に原爆特集を組む。
日本からの短波放送は、「被害目下調査中、新型爆弾ならん」と報じたのみ。
8月9日 ソ連が協約を破り、日本に対し宣戦布告。
8月10日 長崎への原爆投下の報。
1945年(昭和20)8月14日 日本降伏の報伝わる。翌15日には各新聞に掲載されたが、その日すでに日本移民のあいだに「日本降伏はデマ・ニュース。事実は日本の大勝利で終った」というデマ・ニュースが流布された。以後連日、日本勝利のニュースが各地に伝わり、多くの移民同胞は日本の勝利を信じるに至る。
8月19日 「ヂアリオ・デ・サンパウロ」紙が日本人の探訪記事を掲載。「日本の天皇陛下がお初めになったことに誤りはありません」と応えるものもいた。
1945年(昭和20)9月23日 日本の勝利を信じるもの益々多くなり、各地に戦勝団体続々と結成される。なかでも戦時中に秘密裏に組織をもち、敵性産業撲滅に暗躍した興道社が、終戦直前の7月に「臣道連盟」と改名し、この日本部をサンパウロ市ジャバクワラ区パラカツ街98番に堂々と構え、地方にも積極的な組織づくりに乗り出し、数ヶ月を経ずして、家族数2万、總人員10万を擁する一大組織を構成した。
1945年(昭和20)10月3日 リオ在住万国赤十字社ブラジル支部を通じ、日本から正式に敗戦の詔勅及び外務大臣メッセージが到着。サンパウロ市在住邦人有力者により、10日、地方から集まった300名に対し、日本敗戦の実情を説明し、これを機会に時局認識運動を実施することにして、主要邦人集団地に直接詔勅伝達と事情説明を行うことになったが、時すでに遅く、地方はほとんど「勝ち組」によって支配されており、敗戦を口にするものを非愛国者として、危害を加えようとするものに取り囲まれ、ほうほうの体で逃げ帰った。
1946年(昭和21)3月7日 バストス産業組合専務理事溝部幾太が午後11時ごろ、自宅にて暗殺される。
3月16日サンパウロ在アメリカ総領事館の斡旋で、認識運動有志のところに、日本の新聞70部が届けられ、直ちに各方面へ配布。
1946年(昭和21)4月1日 早暁、サンパウロ市ジャバクアラの自宅で、元日伯新聞編集長、元文教普及会事務長野村忠三郎が臣道連盟の一団によって射殺される。同じくサンパウロ市アクリマソン在住の終戦事情伝達趣意書署名者の一人、元アルゼンチン公使古谷重綱も襲撃されたが難を逃れる。
つづいて4〜5月地方において敗戦認識運動に挺身していたものたちが襲撃され、死者、重軽傷者が続出。
4月16日 「ジアリオ・ダ・ノイテ」紙上に「臣道連盟」綱領が発表される。
宮越千葉太を中心とした有志によって「情報」を発行(9月まで継続)。コチア産業組合から「週報」刊行(12月まで20号発行)。両紙とも邦文タイプの印刷で約3千部。ほかにも認識運動のためのパンフレット、印刷物は20程度あった。これらは廃刊させられていた邦字新聞に代わる役目を果したが、読者は少なかった。
1946年(昭和21)5月30日 吉田茂外相の名で、在伯同胞宛の敗戦に関する電報と詔勅が、スエーデン公使舘に届く。
1946年(昭和21)6月2日夜、元日伯産業組合中央会理事長兼バストス産業組合理事長、退役陸軍大佐脇山甚作サンパウロ市ボスケの自宅で臣道連盟特攻隊4名によって殺害される。
1946年(昭和21)7月 終戦1周年が近くなっても、ノロエステ、パウリスタなどサンパウロ奥地で「勝ち組」による傷害、暗殺、爆破事件が疾風のように広がって、この月だけで重軽傷者64、殺害件数11件にのぼった。
1946年(昭和21)7月19日 テロ事件発生と同時に、ブラジルの各新聞が連日「シンドー」による攻撃・殺害事件を大々的に取り上げてきたが、これを憂慮したマッセード・ソアーレス・サンパウロ州執政官は、事態の平静化を図ろうとして、州政庁に狂信的勝ち組分子を各地から600名ほど招請して、各関係者立会いのもとに、日本全面降伏の経過を説明、ブラジルの法を守り、秩序と平静を保ち、ブラジル発展のために生産に励んでもらいたい旨を告げたが、参集者はこれを聞き入れようとせず、一般市民の排日気運はいっそう高まった。
1946年(昭和21)7月30日 サンパウロ州パウリスタ線オズワルド・クルースで、日系人とブラジル人の口喧嘩からブラジル人が刺殺される事件が発生し、「カチ組」が「マケ組」の家屋爆破、放火事件、傷害、暗殺事件に怒りを感じていた一般市民の感情が爆発し、「シンドーを殺せ!日本人をやっつけろ!」の叫びになり、7月30日から8月2日の4日間にわたる騒擾事件に発展した。
8月 終戦1年目。地方で波乱続き、臣道連盟特攻隊、決死隊の敗け組に対するテロ攻撃事件続発。この月の事件数10件、殺害されたもの4名。
1946年(昭和21)8月27日 ドゥトラ政府の新憲法制定議会で「年齢及び出身地の如何を問わず、日本移民の入国を一切禁止する」という条項が議案に提出されて長時間に亘る論議の末、票決の結果賛成99、反対99で、議長の反対票1票によって、同案は危うく否決された。
1946年(昭和21)10月12日 新憲法公布により外国語新聞の刊行が可能になり、邦字新聞の第1号として、「サンパウロ新聞」が創刊される。
12月23日「南米時事」、「伯剌西爾時報」も復刊。
1947年(昭和22)1月1日 時局認識を標榜して「パウリスタ新聞」刊行される。
「勝ち組」の雑誌「光輝」が、草野、乾、豊富らによって創刊。
(「花の碑」第3部の始まり)
1947年(昭和22)1月6日 前年7〜8月の事件多発をピークとして、各地方とも治安当局の追及が厳しくなるとともに、敗戦認識運動者側が警察と協力して自警団組織をつくり、警戒態勢を整えてきたため、テロ行為は減少に向かっていたのだが、この日、サンパウロ市アクリマソン区で、鈴木正司が2人組のテロに襲撃され、殺害された。鈴木は、森田芳一(スエーデン領事館日本人權益部員)の義弟で、森田と誤認されて射殺されたものであった。
この鈴木殺害を最後にして、テロ事件は終結したが、「勝ち組」「敗け組」騒動のなかで発生した事件は100件を超え、殺害されたものは23人にのぼった。
1947年(昭和22)3月29日 元海外興業株式会社支店長宮越千葉太宅に有志18名が集まって会合し、母国戦災者救援活動をはじめるための組織をつくることになった。ブラジル赤十字社の許可を得て、リオに本部を置き、サンパウロに支部を持つ団体「日本戦災同胞救援會」(Comite de Socorro da Vitima da Guerra do Japao)を設立、寄付金を募って日本へ救援物資を送ることになった。
4月16日 救援會活動開始。
1948年(昭和23)3月 パウリスタ系の「よみもの」社が創立され、月刊雑誌「よみもの」創刊号が出る。
11月 勝ち組雑誌「至誠」創刊。
1949年(昭和24)1月1日 「日伯毎日新聞」創刊。
3月15日 以前に「光輝」を出していた光輝社が認可登録済みとなり「輝号」と改題して第1巻第1号を発行。以後4ヵ年つづく。
5月1日 出資者ブラ拓、編集は古野菊生で、農村を対象とした雑誌「大地」創刊。1年ほどで廃刊。
1949年(昭和24)5月20日 日本貿易使節団着伯。
5月29日 日本貿易使節団講演会。聴衆2000名が参集した。
6月3日 日伯貿易支払協定成立。
6月8日 戦後第1回訪日団出発。
1949年(昭和24)11月30日 昭和新聞社が設立され、臣道連盟機関紙とも謂われた「昭和新聞」を発行。社長は川端三郎。
1950年(昭和25)3月4日 戦後日伯交流の先駆けとなった、日本の水泳選手団着聖。監督遊佐正憲、主将村山修一、古橋広之進、橋爪四郎、浜口喜博。
1951年(昭和26)1月 日伯毎日新聞社招聘の第1回芸能使節団歌手の東海林太郎、小唄勝太郎、三味線豊吉、浪曲篠田実父子一行來伯。
1951年(昭和26)2月28日 待ちに待った戦後初の大阪商船神戸丸サントスに入港。
1951年(昭和26)3月 オランダ船チサダネ号で「勝ち組」170名サントス港を発って永久帰国の途に着く。
1951年(昭和26)12月7日 戦後初の総領事石黒四郎着任。
1952年(昭和27)2月 作家三島由紀夫來伯。
1952年(昭和27)4月12日13日 歌手松平晃が審査委員長になって、第1回全伯邦人喉自慢大会をオデオン座で開催。
1952年(昭和27)4月28日 対日講和条約が発行して以来、国交は実質的に回復したので、この日、リオ在外事務所が大使館に、サンパウロは総領事館にそれぞれ昇格した。
1952年(昭和27)12月28日 辻小太郎が政府と交渉して得た特許の第1回アマゾン移民17家族54名が、ジュート栽培のためサントス丸で神戸を出港。
1953年(昭和28)1月14日 臣道連盟専務理事根木良太郎、日本にて死亡。
1953年(昭和28)1月18日 戦後最初の呼寄せ移民51名の独身青年が、オランダ船チサダネ号でサントスに到着。
2月11日 第1回アマゾン移民がリオに着く。ベレン港には3月7日。この移民は2週間後に4家族が逃亡した。
1953年(昭和28)5月16日 「ウルチマ・オーラ」紙に報道されて、日系社会を心配させた勝ち組集団「桜組挺身隊」は、サンパウロ市衛星都市、サント・アンドレー市カサケーラに本拠を構え、集団生活を始め、長期の構えでブラジル引揚げ運動を開始した。
1953年(昭和28)7月23日 サンパウロ市ガルボン・ブエノ街に日本映画館シネ・ニテロイ落成。大映作品「源氏物語」を上映。
1953年(昭和28)10月5日 最初のバイア州ウーナ移住地に入植する移民38家族イリェウス港に上陸。
1953年(昭和28)11月 土井、アストリア、両陶器工業を皮切りにして、日本企業の進出が始まる。
1954年(昭和29)1月9日 「朝香の宮」を詐称して、勝ち組邦人から巨額の金品を詐取していた加藤拓治が遂に収監された。
1954年(昭和29)1月25日 サンパウロ市創立400年祭。
1954年(昭和29)5月31日 北パラナ・マリンガー駅開通、最初の機関車到着。
1954年(昭和29)7月1日 ブラジル政府と辻及び松原特許人とのあいだで、日本人入植地の払い下げと融資に関する「7・1取極め」が行われ、日本大使参事官これに副書。
1954年(昭和29)7月 ブラジル向け養蚕移住者第1陣284名、日本出発。
1954年(昭和29)8月24日 ジェツリオ・ヴァルガス大統領が自殺。
1954年(昭和29)8月27日 評論家大宅壮一と中野好夫が着聖。9月末まで滞在。トメアスーで「旧移民の下士官根性」について発言。
1954年(昭和29)10月11日 戦後初の日航機「京都号」サンパウロ市コンゴニアス空港に着く。
(「花の碑」第4部始まり)
1955年(昭和29)1月11日 27日、28日、2月1日とつづいて「パウリスタ新聞」に報道されたが、日本への引揚げ運動の街頭行進をして、ブラジルの新聞を賑わす。
彼らの運動は、3月、4月、5月とつづいて拘留された幹部8名に対して、5月14日サンパウロ地方裁判所において全員に禁固9ヶ月の判決があり、9月15日付で報道されたあと、平穏に帰した。
戦後10年、これで「勝ち組」騒動も鳴りを潜めたが、「勝利の信念」に固まった人が居なくなったわけではなかった。
(「花の碑」全巻完結)