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「花の碑」 第八巻
第四二章
チヨが心配したことは、強ち取り越し苦労とばかりはいえなかった。
龍一が、休みの日を利用して土地探しに出かけるのではなく、週日にコーヒー採取作業をチヨと柳子に任せ、まだ皆が起き出さないうちに、こっそり農場を抜け出して、街に出かけることを覚えると、それが病みつきになったように、もっといい土地がないか探してくるよ、と言って出てゆく様子が、長野でほっつき歩いていた龍一の姿を彷彿とさせていたのだ。
その上、とうとう外泊まですると言い出したのだから、チヨは眉根を曇らせた。
「だいじょうぶですかなん、まだ方角もわからなんずらに」
チヨは、思っていたこととは違った言葉で詰ってみる。
「世界中どこへ行っても、日の出るほうが東ときまっとる」
龍一は、チヨがねちねち嫌みを言うのには慣れているから、とぼけた返事をするだけだった。
「山田さんがな、こんどは泊りがけで来てもらわんと、契約やら登記やらで、一日では終わらんというんだ、そりゃそうだろう、しっかりした不動産登記をするんだ、簡単には済まんくらいおまえにもわかるだろう」
龍一の言うことがその通りだから、チヨの心配するほうが余計なことになってしまう。なにしろリンスに行けば、すべて日本語で用が足せるというのだから、西も東も知らなくても寝食に不自由しないし、万一のことがあっても、日本人が抛っておくはずはないのだから。
それでも、二日つづけて汗の染みたものを着たことのない龍一に、襦袢と越中ふんどしの着替えは持たせてやらなければならないから、昨夜それを丁寧に折りたたんで風呂敷に包もうとしていると、柳子が、
「お母ちゃ、そんなものに包まなくても、少しのものならこれに入るわよ」
と龍一がいつも茶器などといっしょに磨いている、英国製の小振りの革鞄を出してくる。
「うん、儂もこれを持ってゆこうと思っとったんだ」
チヨが眉間の皺を深くしたのは、龍一も柳子も気づかなかったようだった。
英国製の革鞄には、チヨの記憶のなかではいまもなお、柳子の知らないイギリス女の化粧の匂いが染みついていたのだ。
その匂いを敏感に嗅ぎ取ったのが、チヨの嫉妬に捻れた感情であり、いつまでも記憶しているのもチヨひとりの執拗な怨恨からだったのだ。
ちょっと横浜まで行ってくると出かけた龍一が、一週間経っても帰って来ず、あんな放蕩息子は勘当だ、と家族会議にまで発展しそうな形勢のなかに、青白い顔をして帰ってきた龍一が、両親から咎められて白状したのが、横浜の寄宿舎にいた学生の頃から、ずっとつづいていたイギリスの商社員の人妻との情事だった。
そのとき龍一が、父に向かってぬけぬけと言った言葉が揮っていた。
「あの女の亭主は、女中に雇っている日本人の娘を手込めにしたり、雇い人の女房を寝取ったりして、俺たち日本人を馬鹿にしているんだ。同じ寄宿舎の学生たちが口惜しがっていたから、それじゃひとつ、あの男の女房を寝取ってやろうじゃないかということになって、俺が間男になる栄誉を得たんだ。日本男子の誉れじゃないか」と。
親は呆れながらも、「若いときの意気軒昂なのはいい、しかし、それを年嵩ねてもずっとつづけているのは、根性がだらしない証拠だ。その女と手を切らんと勘当する」と脅か
して、やっと横浜行きを止めたのだけれど、女から貰った革鞄を未練がましく、女の肌をそうするように、撫でさすってきた龍一だったのだ。
そんな龍一が、恥ずかしげもなく、ブラジルに来てからも磨いていて、ちょっと泊りがけの商談に持ってゆこうというのだから、チヨの気分が捩じれるのも当然だった。
鞄には、あの女の執念なのか、龍一の女への執着なのか、とチヨが因縁めいたものを思うのも無理がなく、今度もまた二、三日が一週間になるのに、龍一からは、なんの音沙汰もなかったのだ。

女との出会いは、ふしぎなもので、いくら眼を皿にして物欲しげに歩いても、情を深めるようになる女が、そう易々と見つかるものではないが、はじめちょっと気を惹かれても、そのときにはそんな気もなかったのに、ひょんな事がきっかけになって、自分自身があれよあれよと思う間に、ずんずんふたりの仲が深みに嵌っていって、どうにも解きほぐせないほどこんがらがったものになってしまう女がいる。
横浜に住んでいたときの、ガイジン女との仲がそうだったし、松本に囲っていた節子も、きっかけはそうだった。
周旋屋の山田と、うどん屋の女房が、炊事場に亭主がいるのに臆面もなく、龍一の前で濃密な情緒を絡め合ったのを見て、龍一は長野をほっつき歩いた頃を懐い出し、狭い山国のなかで、何人もの女を相手にうつつを抜かしたから、しまいには身動き取れなくなったのだけれど、ブラジルだったら、そんなことにもならないだろう。まして植民地社会なのだ、何年住んでも旅空の下なのだ。旅は恥の掻き捨て、と男も女も思うのではあるまいか、と龍一は開放的な気分になっていた。
そう思う気持ちが、ひょっとするとひょんなきっかけができて、また人生を楽しめることにならないとも限らないではないか。あんな農場のなかで呻吟しているのは実に馬鹿げている、どうせいまからいくら頑張っても、こちらが貰う労賃はなく、まだその上に柳子が苗木を抜いてしまった罰金と、救援に雇った労務者の日雇い労賃を足して、賃金をもらうよりも、払って出なければならないのだからと考えて、すっかりやる気をなくしていたのだ。
まあ、チヨと柳子には、やる気をなくしてしまったとは言えないから、ぼつぼつやれるだけやればいいんだ、儂らは出稼ぎに来たのじゃなく、ブラジルを体験しに来ただけなんだから、と言い繕うてはいたが。
その体験するブラジル生活のなかに、色を添えるものがあればなおさらいい、と思ってもいいのでないのか。赤道を越えたとき、何か感じるものがあって、儂はいままでの儂ではないぞ、と妻や娘には言ったけれど、まじめ人間になろうと考えたわけではなく、いつまでも親の脛噛りではない、親爺の眼を盗んでこそこそ女を漁って歩く日々から脱却して、一個の男として妻と娘を従えている家長を演じてみたいのだ、と甘い思いに浮いている龍一だったから、もしも機会があって、行きずりに楽しめることがあれば、それを避けて通る気持ちはなかった。

「いやあ、悪い悪い」
リンスの不動産屋に龍一が顔を出したとたんに、山田が大きな声でそう言ったのを、ここに来るまで繰り返し思っていた不貞なことを視られでもしたように勘違いして、龍一は顔を赤らめる。
「ゴヤンベーのあれ、だめになったよ」
 山田は悪びれることもなく言い放った。
「え、どうしてですか」
 龍一の落胆は、顔色を、すっと白くしたほどだった。
「いよいよ登記の話まで漕ぎ着けたら、相続
問題が絡んでいて、それが未解決のままなんだよね」
「そうですか、それは残念だったなあ、いい家だと思ってたんだけど」
山田の説明を聴いて、龍一は納得したが、農地を持って、そこで作物をつくって、どうにでも食いつないで行かなければならないという切羽詰った気持ちはなく、ひとつブラジルに別荘を持つのも悪くない、そこで日常に食する野菜くらいは作ってと、のんきな気持ちでいる龍一だったから、敷地は荒れていても、煉瓦建ての家が手に入れば願ったり適ったりだと思っていたのに、それがだめになったのには未練が残った。
「あれと同じような家はないでしょうねえ」
 農地ではなく、あくまでも家にこだわる龍一に、周旋屋の三人の男たちが呆れながら、その悠長さに呑まれた感じだった。
「いますぐの間に合うもので、家がしっかりしたものといえば、ちょっとここからは遠いけど、アラモ植民地というところに、ちょうどええ物件があるんだけど、見に行くかな」
 山田もいいカモを逃がしては、と思いながら、問う。
「見せてもらいますよ」
「家は木造だけど、掘っ建て小屋でなく、しっかりしてるし、カフェの樹が二アルケール植わってるし、農地としてはゴヤンベーのよりええよ」
 スイス人耕地にもう一年居る気はなかったから、あまり家にこだわっても居られないと惟って、条件を緩和させるしかなかった。
龍一としては、掘っ建て小屋ではなく、家の体裁をしていて、少しのものが植えられて、生活さえできれば、どこだってよかったのだ。
広いブラジルの、どこがどうなっているのかまったく知らないのだから、ここでなければいけないとか、ここに住んでみたいというような気持ちが起こる要因など、予想できるはずはなかった。
「いまのところノロエステ線ではリンスがいちばん大きい町だけど、こんど見てもらうアラモ植民地に近いアラサツーバちゅう町は、すごい発展ぶりでね、いまにリンスより大きくなるだろうといわれてるくらいだよ」
山田は、グァインベーがだめになったことを忘れさせようと思うのか、アラモの環境を誇大に宣伝しはじめる。
そんなに気を遣わなくてもいいのに、と龍一は思いながら、なんでも知識になるのだから、しゃべりたいだけしゃべらせるつもりでいた。
リンスからおよそ八十キロ先だけれど、汽車の都合があるから、いますぐ行こうというわけにはいかない。
「向こうを見て帰りの汽車には間に合うけど、
あんたのいるスイス人耕地に帰るオニブスには間に合わないなあ」
「ああ、いいですよ、リンスの町はもう歩いたから、そちらのなんと言いましたか」
「アラサツーバ」
「そのアラサツーバという町に泊まってみても」
「あんたひとりで泊まれるのお」
「日本人の宿はありませんか」
「あるある、そうするかね」
 山田の顔が膨らみ、眼が耀くのを、龍一は見た。
「そうしましょう」
話が纏まって、龍一は山田の案内するままに、リンスから汽車に乗り、アラサツーバという町からアラモ植民地に来た。
家は煉瓦建てではないから見劣りはするが、農地としてはこちらのほうがいいのは一目瞭然だった。古いけれどもコーヒー樹が整然としていて、つい今し方まで誰かが手入れをしていたように見える。
しかし、トウモロコシ畑は立ち枯れていたから、前住者がここを出ていって久しいのだろう、とは思える。
「最近まで誰か住んでいたんですかな」
「ああ、借地農がいたんだけど、北パラナへ移って行ってね、地主のほうも、こちらまで手が回らないから売りに出したんだよ」
「こちらのほうはいくらですか」
「四コントの四年払い」
「じゃあ、これに決めますよ」
「いいの、そんなに簡単に決めて」
「いいですよ、どこでもいいんですよ、自分が地球のどの辺りに立っているのか見当もつきませんからね、自分の立っているところを中心だと思うしかありません」
「いいこと言うね、気に入ったよ」
「こんどはだいじょうぶですか、登記のほうは」
「ああ、いますぐにでもできるよ、こっちはもう書類全部任されてるから」
「譲渡者は日本人ですか」
「そう日本人」
龍一は、一日でも早く土地を決めてしまって、気分的に落ち着きたかったから、北隣が大きな牧場で、南側はまだ荒れ地のままだったが、東と西を雑木林に囲まれていて、農地としては飛び地のような形だという周囲の立地条件や、近隣に住むものが日本人ばかりだということに安心して、ざっと見ただけで、さっさとアラサツーバに戻って宿を決め、やれやれと心を全開にする。
別に投げ遣りな気分ではなく、山田に向かって言ったのがほんとうの心境で、選り好みする根拠がないのだから、自分名義の不動産を取得できるのなら、どこでもよかったのだ。早く居場所を決めてしまうことによって、自分自身に踏ん切りをつけたかっただけだった。
山田は、いますぐにでも登記ができると言ったが、契約書をつくるのに一日、そのあと土曜日曜が挟まったから、登記所から三日後に来るように言われて、アラサツーバの町を図らずも隈なく歩くことになった。
日本では、どこをほっつき歩いてるんだと親から叱られ、他人から嗤われていたけれど、無目的に歩いたことなど一度もなかったから、当てもなく歩くことの虚しさを知ったのは、はじめてのことだった。ひしひしと寂寥感が身に沁みた。儂はいったい、何をしようとしているのか。何をしても、所詮は無に帰することなのがわかっていながら、何かをしなければ生きておれない強迫観念に襲われて、無限に回転をつづけている独楽鼠みたいなものなのだ。だからこそ刹那的な刺激を求めてきたのだけれど、ブラジルでそれを求めても、得られるとは思えない茫漠さが、いっそう孤独感を強いる。捉えどころのない広さを感じるのは、はじめてのことだった。
このアラサツーバの町も、日本の町並みと違って、だだっ広く見える街路だからだろうか、投げ遣りな風景にみえて、いっそう空虚な感じがする。
まだしっかりした市街地の設計もできていないうちに人口だけが増加してきて、野放図に広がってゆく植民地というものは、こういうものなのだろう。
なんとなく慌ただしさだけが、人の気持ちを駆り立てて、のんきに構えているのが悪いような気分にもなる。

柳子のほうは、龍一のそんな気分などわからないから、
「相変わらず、お父ちゃはのんきねえ」
と三日が一週間になるのに、帰って来ない父を呆れたように言ったが、チヨはそうではなかった。
作業日は気が紛れているが、休日には心が乱れて落着かなくなる。
「躰の具合でも悪いんずらかねえ」
口ではそう言っているが、胃腸さえ用心しておれば、ほかに病気を知らない龍一だった。大きな浮気の虫を体内に養っている持病のほかは、という注釈付きでだけれど。
まだ一年にも満たない異国で、まさかその
虫が頭を擡げてくるとは思えなかったが、あの人のなんとなく頼りなげに見えるところが、女の人を惹き寄せる甘い蜜なんだから、旅の空であろうがどこであろうが、油断はならないのだ、とチヨは思う。

チヨが危惧した通りだった。
契約も済み、登記もできた安心が、龍一の心にゆるみを持たせ、山田が打ち上げに一杯どうかねと誘うと、かつて誰からでもそういう誘いを受けて断ったことのなかった龍一が、いや、と言うはずはない。
アラサツーバの街なかの、小料理屋に席を取ると、仲居が、
「こちらさん日本から来られたばかりね、商社の方ぁ」
と語尾を練り込んで言うほど、龍一の容姿が、この辺りでは垢抜けて見えるから、粗雑には扱われない。
それほど酒を飲める龍一ではなかったが、酒席の雰囲気は誰よりも好きで、歌も唄えるし、踊りも踊れる芸達者だから、いったん小宴の幕が引かれると、その場の主役はすぐ龍一のものになってしまう。
「まあ、なんていうお人なの、この方。どこから来た役者さんかしら」
係りではない仲居まで顔を覗かせ、女将が愛想をしにくるほどだった。
旅の空の虚しい小宴が終わったあと、山田が、あんたもよろしくやってくれんか、と下卑た笑顔を残して、顔馴染らしい仲居と別室にしけこんでしまうと、係りの仲居が、まさかお独りで寝るつもりじゃありませんよねぇ、と龍一を誘惑しにかかる。
「あたし娼婦じゃありませんよ、亭主持ち。ちょうど亭主がサンパウロへ出張中だから慰めて欲しいの」
龍一は、女のほうからそう言われれば、相手に亭主が居ようが居まいが、気にするようなことはない。サンパウロに出張しているなどというのが嘘だとわかっていても、断るような野暮ではなかったから、久しぶりにチヨ以外の女を抱ける楽しみに、酒のせいではなく、女の色香に酔い痴れる機会が、棚ぼた式に降ってきたのを避ける気などなかった。
労務者小屋の隙間だらけの板壁では、年頃の娘もいることだし、隣にも聴こえるし、チヨに声を放たせるほどのこともできなかったが、ここならいくら女を貪っても遠慮は要らないと思って、その夜は、自分ひとりが満足するだけではなく、女のほうも充分満足させてやったから、明くる朝、龍一を駅まで送ってゆくわ、と表に出たらすぐ、
「憎い人」
と女は瞳の艶を濃くして、あでやかに龍一の肩を打った。
その仕草の色っぽさが、龍一にはうれしかった。
この仲居には、ほんとうに亭主がいて、亭主の外泊中の浮気なのか、しょっちゅう飲みに来る客とこういうことをする女なのか、そんな詮索はしなかったが、素人ではないことは褥を共にすればわかるから、かえってこういう女のほうが、後腐れがなくていい、と龍一は遊んだあとの気だるさを汽車に乗せ、久しぶりの遊蕩に脳裏まで呆けさせて、帰路につく。
山田も好きものらしく、「今日は日曜日じゃけ」と、襖を細めに開けて、「スミちゃん、内藤さんば、ちゃんと汽車に乗せてくれんね。内藤さんば、気いつけて帰ってやらんね」と大きな声で言っただけで、ぬくぬくしているだろう蒲団のなかから抜け出しても来なかったのは、山田の相方を務めた女はまだ閨にいたし、どちらもまだ全裸のままだったからだろう、と想いながら龍一は、長野で遊んだ日々のことに耽るだけで、チヨに対する罪悪感は湧いてこなかった。
リンスまで帰れば、あとはもう覚えた道だから、龍一も不安はない。
一夜を妻にした女は、一夜の夫に惚れたのか、小遣いに、と龍一から貰った金がうれしかったのか、汽車が見えなくなるまで手を振っていた。

「ブラジルはどこでも、日曜日は働かないんずらに」
チヨが繕いものを広げていた手を休めて、わかっていることを言うのを、土曜、日曜日は働かない役所仕事であるはずの、不動産登記のためだからと言って、日曜日になっても帰ってこない夫を詰って言っているのだろう、と柳子は惟っただけで、
「うん、そうだと思うけど」
とだけ関心のなさそうに言って、良三叔父から貰った『ハイネ詩集』を、拾い読みしていた視線は上げなかった。母の暗い顔を見るのが嫌だったから。
父も、土曜、日曜を挟んでの商用なら、いったん帰ってくるくらいのことをすればいいのに、と思っていたけれど、母が邪推していることの隠微さを、こちらまで伝染させられるのはいやだった。
その隠微な男の遊びを、日本語を使用してできる場所があるなどとは、柳子は気づかなかった。
日本人は誰でも、出稼ぎ移民で来ていて、稼いだ金が溜まったら日本に帰ってゆくのだから、日本人だけを相手にする、日本人が造った遊興の町があるなどとは、予想もしなかった。
チヨも、まさか龍一が見知らぬ国に来て、言葉も分からないのに、女遊びなどできるとは思わなかったが、ほっつき歩くことに馴れて、これからまた、日本でのだらしない生活をぶり返されては困ると思って、いまから心配しているのだろう。
「柳ちゃん、いてるう」
秋子が、板壁の隙間に口押しつけて言っている、すこしひしゃげた声がした。
柳子は、ほっとして、本を伏せ、反射的に腰を浮かせた。
「なにぃ、どうしたのぉ、秋子さん」
近頃こんなに親しげな声を交わしたことがなかったから、双方が、ちょっと気づつない感じだった。
柳子も、秋子が熊野とセックスした現場を目撃してしまって、こちらのほうが顔を合わせるのが気恥ずかしいくらいで、それとなく顔合わせるのを避けていたから、秋子のほうから呼びかけてくれたのがうれしくて、ぽっと心に灯火が灯ったような感じがした。
秋子の声を聴いたとたんに、熊野と二人が全裸になって抱き合っていた場面が、ぱっと眼底に浮かんで、柳子は胸がどきどきした。
「ちょっと、こっちに来ィへんかぁ」
秋子の、大阪弁のまったりした口調が耳にねばって、鷹彦さんが、秋子さんは娼婦型だと蔑むように言った声が蘇える。
「ちょっと来いに油断すなって、おじさんが言ってたからねぇ、なんだか恐そう」
そう言うのは、うれしさの裏返しだった。
柳子は、それでもいそいそと、こちらの勝手口を出て、隣の勝手口に走り込む。
「あれ、秋子さん、ひとりなのぉ」
柳子を迎えた秋子の顔が、なんだか意味ありげに、にやにやしている。それを見て柳子は、ふたりの友情に支障のなかったことを知って、ほっとする。秋子さんは、わたしに顔を合わせるのがちょっと気恥ずかしかっただけだったのだ、とわかって。
それでも、秋子が顔を赤らめているのを見て、柳子は、秋子が熊野とのことを告白するのではないだろうかと思って、いっそう胸が高鳴った。
「みんな畑に行ったんよ」
秋子の応えに、柳子がおかしな顔をする。まだ夫婦喧嘩は継続中だとばかり思っていたから、あの夫婦がいっしょに行ったんなら、家庭円満の兆候ではないだろうか。そういう
ことから、秋子さんも気持ちが和らいで、わたしを呼んだのではないだろうか、と柳子は思った。
「おじさんとおばさん、いっしょに畑に行ったの」
「そう、いっしょに行ったんよ、おかしいいやろ」
「夫婦喧嘩のほう、休戦中なの、それとも和平交渉締結したのぉ」
「さあ、どっちなんやろ、あの夫婦のことやさかい、傍のもんにはわからへん、喧嘩しながら一時休戦いうのん、しょっちゅうのことやったさかい」
秋子が、彼女自身の両親のことを他人事のように言うから、
「夫婦喧嘩は犬も食わんて言う典型のようだものねえ、おじさんとおばさんは」
 と柳子も、遠慮なく言う。
以前から昼間に気持ちを尖らせて言い合っていても、夜になるとねちねちと肌寄せ合っているのを見ているから、柳子は笑って、
「秋子さんひとりが家に残ってるっていうのも滅多にないことじゃないぃ」
と言うと、
「第三の反抗期」
と秋子は澄ました顔で応えた。
それがただ冗談のようには聴こえなくて、本気な様子も混じっていたから、柳子は全部を冗談にしてしまったほうがいいだろうと思って、
「すごいすごい、気に入ったわよ、秋子さんでも反抗するときあったのねぇ」
と感心してみせると、
「そないに見縊るもんやあれへんしぃ、ウチかてなにわのオナゴやさかいねぇ」
と本気な顔になって言うから、柳子の気持ちが逆効果になったようだった。
「なにわのオナゴって、ほかのオナゴの人とどこがどう違うのかしら」
また東京と大阪の対決になったら、友情に罅が入って困ることになるんじゃないかなあ、と思いながらも柳子は、ちょうどいい機会だから確かめておきたい気持ちもあった。
「ほかのオナゴのこと知らんけど、浪花のオナゴにはど根性あるさかいにねぇ、ちょっとやそっとのことで挫けたりせえへんいうことやんか」
「根性に度がつくところが違うわけね」
「そう、そやさかい、その度の強い分だけどないかせんと、どこかで爆発してしもうて、どないもならんようなるさかい、どないしょう思うて、柳ちゃん呼んだんやんか」
やはり父娘だなあ、これだけ「ど」尽くしで言えるところは、と柳子は感心しながら聴く。
秋子の言い方を聴いていると、おじさんと同じように、どこまでが本気でどこからが冗談なのかわからない。
「それで、その度の強いものをどうするつもりなの」
「そこよ」
 待ってました、とばかりに秋子は、切れ味のいい声で言う。
「そこってどこよ」
「その度ォの強い分を、これで発散さしたらどないやろ思うて、柳ちゃんに手伝うてもらいたいねんけど、手伝うてくれるかぁ」
 秋子の言葉尻が、変に粘ってくる。
「これってどれなの」
「これなんやけど」
秋子はそう言いながら食卓の下へ屈んで、足元から、よいしょ、と掛け声といっしょに持ち上げたものを、食卓の上に乗せる。
水を運ぶのに使うような、大きさの土瓶だった。
その土瓶に、新聞紙や布を重ねて蓋をしてあった。
「なによ、それ」
「なに思うぅ」
語尾を延ばして言うのが、いかにも怪しげ
で、柳子は土瓶の蓋をしてある辺りに首を伸ばしていって、眼で吟味し、鼻で嗅いでみる。
眼のほうは土瓶の中身は見えなかったが、鼻は中味が何であるかを嗅ぎ取れた。
「ううん、なんだか甘酒みたいな匂いするけど」
「正解ィ」
秋子が、柳子の手を取って、きつく握って振る。
「さっきから、どこかで甘ったるい匂いするなあって思ってたのよ」
「これを、柳ちゃんといっしょに飲みとうなって、呼んだんよ」
「飲むの、それを」
「飲むねんやんか、甘酒やもん。東京では食べる言うのんか」
「甘酒はやっぱり飲むって言うんだと思うけど、飲んでもいいの」
「飲むためにつくったんやもん」
「おじさんが造ったもんじゃないのぉ」
「ウチが造ったんよ、まあ誰のもんいうわけやあれへんけど、かめへんねん、飲んでしもうたらしまいや。吐き出せとは言わへん」
秋子の言い方には、すこし投げ遣りなところがあったが、第三の反抗期やと、はじめから断っていたのは、このことだったのだとわかって、飲んでしまえばそれまでという気持ちも、わかる気がする。
「ひとりで飲んだら自棄酒になるやろ」
「ふたりで飲んだら何酒になるの」
「友情の酒」
「あっ、そうなの、いいわねえ、友情の酒を酌み交わすって、ほんと、いいわ、飲むの手伝う」
「そう来な、あかん」
秋子が、新聞紙を何重にも重ねて被せ、布で覆った蓋を取ると、まったりと芳醇な甘酒の香りが、煙のように、もくもく、という感じに立ち上がった。
「ふああ、すごい匂い。匂いだけで酔ってしまいそうだわ」
「酔うのよ、酔うために在るのよ、このうま酒は」
そうだろう、秋子が酔いたくなった心境は、柳子にわかりすぎるほどわかるから、いっしょに秋子の心を癒してあげようと思う。酔わなければ言えないことが山ほどあるのだろうから。
「ちょっと時期はずれやけど、ふたりで桃の節句しょうよ」
「そうだわね、誰もそんな優雅な気分になれるものいないっていうのは、悲しすぎるものねぇ」
「ええこと言うやんか、さすがに柳ちゃんや」
「季節なんてどうでもいいのよ、ブラジルだもの、暑い正月するくらいだもの」
「そうやったねえ、ほれ柳ちゃん、飲んでみぃ」
秋子が、湯呑みに、とくとくと甘酒を注ぐ。
柳子は、湯呑みに、そろそろ口を近づけていって、芳香に噎せる。おほんおほんと咳したあと、しばらく様子をみてから、こわごわ湯呑みの縁に口をつけ、舐めてみる。
「甘くないわね、なんだか酸っぱいようだけど」
「ああ、かんにんかんにん、砂糖入れるのん忘れてた」
甘酒って、飲むときに砂糖入れたかしら、ちょっと違うようだけど、と柳子は想い出そうとして、想い出せない。
秋子が砂糖壷を抱えてきて、甘くない甘酒の入った湯呑みに、たっぷり砂糖を入れ、箸でかき混ぜる。
「ほれ、もう甘酒になった思うわ」
なんだか変に酸っぱい飲み物が、砂糖を入れると甘くはなるだろうけれど、甘酒に変身するとは思えなかった。口に入れると、舌はまだ酸っぱいと感じ、喉はかっとくるアルコールの熱さを感じて、それは日本で飲んだ桃
の節句の甘酒とは似ても似つかないものだった。匂いと甘さはなんとか近くなったが、舌が、違う違う、こんなもの甘酒とは言わないわよ、と否定している。
「アルコール度が強いからかなあ、甘酒っていう感じじゃないみたいだけど」
「まあ、ちょっと違うけど、我慢してよ」
「鼻つまんだら飲めるかもしれないわよ」
柳子はほんとうに左手の指で鼻をつまみ、右手で湯呑みを口に押しつけ、ぐっと一気に飲む。ごくん、と喉が鳴るのが聴こえたほどだった。
酸っぱい甘酒が胃に到着したとたんに、酸味が強すぎて、胃がさっそく、げっぷを吹き上げてくる。
げっぷをすると、それがいっぱしの飲み助のように見えた。
「柳ちゃん、ものすごいやんか、やれるやんか、やりやり」
秋子が、柳子の飲みっぷりに感心し、やんやの喝采をして、そそのかす。
今日は酔って管巻きたいという魂胆があった秋子だから、柳子を煽り立てて酔わせたかったのだ。
「これ、ふたりでみな飲んでしまってもいいのぉ」
「かめへんかめへん、飲み飲み」
「甘酒はこどもが飲むもんでしょ、飲んでいいわけよねぇ」
柳子は、言い訳のように言って、また一杯飲む。柳子も、今日は飲んで酔っ払ったほうが、秋子の話を聴き易くなるし、同情もできるだろうと思った。
酔っ払ったことなど一度もないのだから、酔っ払ったほうがいいだろうといっても、酔っ払った状態がどういうものなのか見当もつかずに、そう考えているのだけれど。
「ちょっとこれ、濁酒いう感じやなあ」
秋子は、そう言って、ごくごくと喉を鳴らして飲む。感じというものではなく、濁酒そのものなのだ。彼女はそれを飲み慣れているような、飲み方だった。
秋子と柳子のような飲み方をすれば、徐々にではなく、急激に酔いが回ってくるのは必定だった。
「ういい」
柳子の喉から、おくびが自然に出て、
「甘酒でも、どぶ酒でも、焼酎でも、ピンガでも、なんでも飲めそう」
などと柳子が気勢を上げはじめる。
「さすが柳ちゃんやわ、勇ましいてええわ。酒は静かに飲むべかりけり、て誰が言うたかしらんけど、あれは日本の秋にこそふさわしい飲み方や思うわ、ウチら、いまブラジルのコーヒーの実ぃ実る真ん中で飲んでるんやさかい、えげつのう飲むのんが、ええねんよ」
えげつなく酒を飲むというのが、どういう飲み方なのか、柳子にはわからなかったが、なんとなく現在の秋子にふさわしい飲み方のように思える。悲しみとか、侘しさとか、辛さとか、苦しいことなどが、躰のなかに充満してきて、もうどうにもならなくなっているのだろう。そんな秋子の言うことだから、何を言っても真実に聴こえるのだ、と柳子にはわかる。
そして、秋子の憂さがこれで霽れるのなら、とことん付き合ってあげるべきだ、と義侠心が湧く。
「秋子さんも酒に強いのねえ、わたし酒など飲んだことなかったんだけど、酔っ払うってどういうことなんだろうねえ」
「ええっ、ほんまあ、いっぺんも飲んだことあれへんのん」
「ないわ」
「ないのに、ようそんな飲み方でけるねえ」
酒を飲んで酔った経験がないから、結果を考えずに無茶な飲み方をしているのだが。
「秋子さんは、いままでにも酔った経験あるのぉ」
「あるわ」
「どういう気持ちになるの」
「どんな気持ちいうて、そやなあ、ぼうっとして、ふわあっとして、足が宙に浮いて、この世のこと全部忘れて、あの世歩いてるみたいな気持ちいうんやろなあ」
「ふうん、なんだかわからないけど、もういい気持ちになってきたようだわ」
「そうお、そらええ調子やわ、もっと飲んだらええ」
秋子が言って、柳子の湯呑みにまた濁酒を継ぎ足す。
柳子も、酔ってみたい誘惑に酔っていて、こういうことはただ観察してわかることじゃなく、体験してわかることだからと、決して美酒などといえるものではなかったが、胃に流し込む。
「柳ちゃんの飲みっぷり見てたら、はじめていう感じ思われへんわ」
秋子が感心するほど、柳子の飲み方はがぶ飲みという感じだった。
「ねえ、秋子さん、やくざ知ってるう」
「知ってるいうて、関係あったかいうことか」
「ううん、あいつらの生活よ」
「生活ぅ、そんなもん知らんわ」
「やくざの姐御だったらさあ、こうして片膝立てて、こういうふうに飲むんじゃないぃ」
柳子は言って、座っている腰掛けに片足挙げて、湯呑みをあおる。
「おもしろい子ォやなあ、柳ちゃんて」
「わたし、もともとお調子者なの」
「自分で言うとったら世話ないわ。まあその調子ついでに歌唄おかあ」
「歌あ、そうねえ、唄おう。兎追いしあの山唄うぅ」
「学校唱歌なんか、あかん、酒は涙かため息か、いうのん唄おうよ」
秋子はそう言う声に、もう節をつけている。その声が、普通にしゃべるときよりも、いっそう甘い感じがする。
「酒は涙かため息か」
柳子が唄うと、
「なんやしらん、教科書読んでるみたいやなあ」
と秋子がけらけら笑う。笑ったあと、すっと表情を変えて、ちょっとまじめな顔になり、
「さぁぁけぇぇはなぁみぃだぁかぁ、たぁめぇいぃきぃぃかぁぁ」
と唄う。
「うわあ、ものすごい上手なんだあ、秋子さんは。知らなかったわ」
「能ある鷹は爪隠す、いうやんか」
哀調たっぷりな秋子の唄は、柳子の心を爪で捉えてしまったように、づきっと感じた。
この歌詞は、現在の秋子の心境を表現するのにもっとも適していると思う。
「ほかに取り柄あれへんさかいなぁ、歌なりとましに唄わんと」
秋子が、謙遜と不遜をいっしょにして言う。
「そんなことないわよ、秋子さんは美人だし、優しいし、その上美声なんだもの、なんでブラジルになんぞ来たのよ。大阪で歌手になれたわよ、これなら」
「まさか、歌手は無理やけど、歌は好きやねん。歌だけやのうて、芸事はなんでも好きなんよぉ」
「もっと聴かせてよ」
「いっしょに唄おうよ」
「あとで唄うから」
「こぉよぉいなぁごぉりぃぃの、みぃかぁづぅきぃもぁ」
秋子の歌声は、ただかすかすした悲しさを強調するだけではない丸みがあって、みっちりと歌い上げるという感じがする。歌声に潤いがあるだけではなく、眸にも潤いがあるから、それが哀愁を誘うのではないだろうか。
「工場は桃谷やったけど、家は住吉におましたんだす」タツがそう言って自慢していたが、この掘っ建て小屋に住むようになったとき、
「こないな釜ケ崎みたいなとこで、日雇い人夫せなあかんやなんて」とぼやいた境遇に落
ちた悲しみだけではないものが、ひしひしと伝わってくる。
タツの悲しみは上辺だけのものに思えるけれど、秋子の悲しさは心の芯まで捩じれさせるほどに感じる。
秋子が決して熊野を好いて躰を許したとは思えないから、生きるためにという健気さが、柳子の気持ちを締め付けてくるのだった。
それを酒で紛らわせることができるのだろうか。悲しみの上澄みを掬っているだけではないのだろうか。秋子の辛さはそんな生易しいものではないだろう、世界中の悲しみを抛り込めるほど大きな空洞ができているように思えるし、いくら詰め込んでも一杯にならないほど深い穴のように思う。
秋子の唄う声を聴いていると、こちらの心まで空っぽになってしまうような、ずうっと遠いところに引きずり込まれそうな怖さを覚える。それは彼女の悲哀が、こちらが考えている以上に大きいからだろう、と柳子は思えてくる。
「酒は涙か」にしても「天国に結ぶ恋」にしても、秋子が唄うと、秋子のために作られたもののように思えるからふしぎだった。
柳子は、流行歌に親しむ生活環境にはいなかったから、流行歌の歌詞などほとんど知らなかったが、それでも東京の街のなかを歩いていて自然に覚えてしまうくらいの歌は、秋子について唄えた。唄えたといっても、
「まあ、ちょっと調子はずれてるけど」
と秋子が笑うほどの音痴だったが。
涙をほとほと流しながら唄う秋子は、いつもよりも、今日はいっそう美しい、と柳子に見惚れさせるほどだった。
高音にきても切れそうで切れない細い声になって、震えながらつづくのが、彼女が女の性を駆使してでも生きなければならないと思う性格の粘り強さを表現しているようだ、と柳子はしみじみと聴いた。
「ほかに好きな人おったんやけど、お母ちゃんがウットコの工場潰れるかどうかはあんたの肩にかかってるんやさかい、がんばってや、言うたんは、肩やのうて躰やし、こっちががんばるんやのうて、向こうさんががんばることやったんやけど」
結局は、秋子が犠牲になっても救われなかった縫製工場だったのだ。
そんな話を以前に聴いていたから、こんども熊野に身を任せて、結果がよくなるという保障はないだろう。
どうして家庭の窮状を救うために娘が犠牲にならなければならないのだ、と柳子がいくら眼を剥いて憤慨しても、所詮は他人事だし、そんなことは小森一家だけのことではなく、貧乏人が執る普通の方法だったのだ。
柳子の故郷でも、娘が被る悲劇は社会問題になってはいても、是正される気配などなく、娼婦として売られることから免れても、女工として働かねばならない娘は、苦界に身を落すのとほとんど変わらない境遇に曝された。
飛騨から諏訪の製糸工場で働くために、飛騨街道の難所、野麦峠を泣く泣く越えた娘が、結核に罹って死ぬか、死にそうにならなければ、親元に帰してもらえないという、牛馬よりも酷い扱いを受けているという話は、雅子叔母から聴いていたし、細井和喜蔵が書いた『女工哀史』も叔母から借りて読んでいたからだろう、秋子が唄う流行歌に、
「工場流れて、寄宿舎焼けて、門番コレラで死ぬがよい」
と唄った怨念の歌が重なる。
わたしは嫌だ、どんな境遇に落ちても身を売ってまで生きたくない。いくらいろいろのことを体験することで、人生経験を積むのだといっても、女の悲劇なぞ体験しなくてもいい。
「男みたいや」と春雄から言われても嗤われても、他人からお転婆と嘲られても、女の性を持っているがための哀しさを体験させられるのだけは御免だ、と思う。
我が身を抓って他人の痛さを知る、という言葉があるけれど、どんなに強く我が身を抓っても、他人の痛さなどわかるはずはないのだ。
秋子のような生き方は、弱い女のすることで、酒でその悲しみを癒せるはずはないと思うけれど、いまは秋子に相伴して、酔うことに吝かではない。いや、もうちょっと突っ込んで考えて、酒で生活の憂さを霽らすのは、男だけの特権ではないことを主張するためにも、女も大いに酒を飲むべし、と言うだけではなく実行していいのだ、と柳子は粋がって反抗心を駆り立て、秋子の第三の反抗期の助太刀をするつもりになっていた。
「まぁぼろぉぉしのぉぉ、かぁげをしたいぃてぇ、あぁめにぃひにぃぃ」
秋子は切れ目なく、つぎつぎ違う歌を唄って気を紛らわせている。
柳子の思いが、秋子の切ない声に紛れて流れてゆく。
新しい環境を、積極的に生きるのもいいだろう。消極的に生きるのも一つの方法かもしれない。人それぞれの生き方が在るのだ。誰の考えが絶対正しいなぞと誰が言えるものか。楽しいことや哀しいことや腹立たしいことや、ときには笑うこともあって綴られてゆくのが人生なんだ、と父はいっぱしの賢人らしく言ったことがあったけれど、それが秋子の哀しさをこの眼で見て、柳子もわかったような気がする。
「わてかて、なにも好き好んでこんなとこに来たんちゃいますがな」
タツの抗議に、茂がそう応えたように、誰もが好きで辛い労働などするものか、とあのとき柳子は思ったことを思い出していたが、みずからの父がそうだったように、誰でも、どんなことでも、こうしようと決心した時点では、それがその人にとってもっともいい思案だったのに違いないのだ。
「女たちに追いつめられて、とうとう兄貴もブラジルに逃げ出すのか」と嘲笑った良三の顔が、冷酷な人間味のないものだったと、柳子が気づいたのは、ブラジルに来てから、ほかの日本人やガイジンたちの生々しい生きざまを観てからだった。
そして、父の女遊びの、ほんとうの意味を知ったのも、ここに来てからだったのだ。
なんだか不潔なことは不潔だなあ、何人もの女の人とセックスして歩くというのは。しかし、傍のものがあれほど大騒ぎするようなこととも思えなかった。女性を強姦するのは犯罪になるけれど、納得ずくですることなら、社会的な問題ではなく、あくまで個人的な事柄なんだ、と鷹彦が言ったのがほんとうだろう。せいぜい母が嫉妬して父に抗議するだけが、一夫一婦制の社会で妥当なだけのように、柳子は思う。
いまになって思うと、ブラジルに行こうと思い立った父の決断は、褒めてやるべきことだったのかも知れない。あのまま長野と東京に別居していた不自然な家族関係が、こうして是正されたのだから。
小森のおじさんにしても然りだろう。あの人が、人前でおどけて見せたり、ものごとを茶化してしまったりするのは、苦境からまた這い上がろうとするエネルギーを蓄え、助走を繰り返すひとつの表現方法なのだろう、と言った鷹彦さんの観察が正しいのだとわかってきていたから、柳子は、秋子の採った熊野に躰を許すことも、その辛さを紛らわせるために酒を飲むのも、放歌高吟するのも、すべてが涙をエネルギーに転換するひとつの方法なのだろう、と理解する。
「ねえ柳ちゃん、外に出ようよ」
「うんそうだわねえ」
柳子は打てば響くように返事はしたけれど、こんな酔っ払った姿を人前に曝していいのかなあと、すこしばかり抵抗があった。しかしいつも、えい、やあ、と思い切りのいい性格が、小さい抵抗感覚を抑え込んでしまうよう
に、いまもまた、秋子の奔放さに参加し、それを体験することによって、秋子の内面まで理解し得るのではないか、いや、内面だけではなく、人間性の裏側まで見えてくるのではないかと思うほど、柳子は成長してきていたのだ。
「わたしもねえ、秋子さんほどの柔肌じゃありませんけど、熱き血潮は滾ってるんですからねぇ」
負け惜しみと言うよりは、突っ張りと言うべきだろうけれど、おとなになりたいと思う勁い願望が、そう言わせる。
「ウチかて与謝野晶子好きなんよ」
「へえ、秋子さんも文学の趣味持ってたの、知らなかったわ」
「文学いうほどのもん違うけど、短歌や俳句はひねったことあるねんさかい」
「へえ、そうだったの、どうしていままで言わなかったのよ」
「そんなこと言う暇もなかったやんか。いまはそんなもん創る気持ちの余裕もないし」
秋子が短詩型の趣味を持っていることを、いままで口にしたことがなかったのには、暇がなかったというような理由からだけとは思えなかった。そしていまも、つい酔って軽くなった口が漏らしてしまったのだろうが、柳子は、秋子がそれを隠していたことに、深い感動を覚えた。美人は頭が弱いという先入観から、ちょっと見縊っていたこともあったから。
見縊っていたのはわたしだけではなく、鷹彦さんもそうだろう、秋子さんが短歌や俳句を作ったことがあるということを知っていたら、彼の態度も違ったかもしれない、と思うと、柳子はそれが口惜しくてならなかった。
もういまとなってはどうしようもなく、取り返しのつかないことだから余計にそう思う。
これはやはり、秋子さんが言う、運命というものなんだろうか、鷹彦さんと秋子さんが出会えなかったために、ふたりが不幸な方向へ駆け去ってしまったことを考えると、可哀相に思えてならなかった。
短歌か俳句のどちらかが、ふたりの仲を固い絆で結べたかもしれないのに、と。
「どうしたん、柳ちゃんでも、そんな悲しそうな眼ェするときあるのん」
可哀相だと思われている本人が、思っているほうに同情する。
「お酒飲んだら楽しくなるんじゃなかったの、わたしなんだか悲しくなってきたわよ」
「ははは、柳ちゃん泣き上戸違うのん」
「泣き上戸ってなによ」
「酔ったら理由もなく悲しいなる人のこと」
「理由ないことはないわよ」
「まあとにかく、外に出ようよ」
「うん、行こう行こう」
そうかあ、秋子さんも文学的趣味持ってたのかあ、ということが柳子には大発見のように思えたし、うれしかった。ひょっとすると与謝野晶子みたいな情熱を、彼女も心に秘めているのかもしれない。これからは秋子さんとそういう形の友情を深めて行かなければならない、と柳子はしきりに思う。
どんな理由があるにしろ、熊野さんと思い切ってセックスしてしまうような秋子さんだから、わたしには想像もつかない炎のような情熱を持っているのは確かだろう、彼女ほどの奔放さはなくても、やはり年上の友人として教えられることが多いのに違いないのだから、これからもっと積極的に交際しなければいけないと思う。
座っていた腰掛けから立ち上がると、足の膝の関節に故障が発生しているのに気づく。いや膝だけではなかった。腰の関節もおかしい。みんなばらばらに外れてしまったような感じで立ち上がれないのだ。
ううん、ひょっとすると、これが酒に酔うということなのかもしれない。足を踏み出すと足の裏がしっかり地面を捉えず空気を踏んでいる頼りなさだった。思い切って一歩が踏
み出せない。困ったなあと思っていると、秋子が寄ってきて腰に巻きつけるように腕を回してきたから、都合よく柳子は秋子の肩に掴まる恰好で、外に出る。
ふたりとも互いを支え合って歩くと、運動会の二人三脚競争で走りはじめたときに似て、足を踏み出す調子を合わせる恰好で歩き出す。
いままでずいぶん親しい付き合いをしてきたけれど、こんなふうに抱き合って、互いを助け合うというのを実感したことはなかった。
これだけふたりの関係が密になると、抽象的な友情の域を越えて、姉妹になったような気がする。ああ、ひょっとすると、あれではないか、と思い当たったことがある。女学校のとき、女の先生や上級生に恋をするというあれだろう。柳子はそういう感情の経験はなかったから、同性愛がどうして芽生え、発展し、離れ難いものになるのか、理解できなかったが、いま秋子に感じている情愛がそれなのではないかと思う。
柳子がかつて感じた愛情は、良三叔父とか鷹彦とかに対するもので、こんなにぴったり躰を抱き合うようなものではなく、どこかしら一線を画するよそよそしさがあった。
それがこうして抱き合う仲になると、他人なのに他人の垣根が取れるという生易しいものではなく、着ている衣服が在ってないもののように思えてくるのだからふしぎだった。
秋子はどう思っているのだろう、と柳子は気になる。もう何人もの男の人と抱き合った経験の在る秋子さんは、相手が誰であれ、抱き合うことに慣れていて、なんとも感じないのだろうか。平気でぐいぐい締め付けるようにして、歩くのだから。
勝手口から出て、コーヒー畑のなかに踏み込み、その辺りに人影が見えないのをいいことにして、ふたりは、わざと大袈裟にジグザグに歩いたり、ふざけ合ったりしてゆく。
「ねえ柳ちゃん、あんた歌舞伎を観たことあるか」
「ない」
「歌舞伎で男が女形するのん知ってるかあ」
「知ってるわよ」
「ウチらいま女同士やさかい、女歌舞伎でウチが女役して柳ちゃんが男役しょうかあ」
秋子が唐突にそう言うのを聴いて、柳子はなんだか気味悪くなる。いつもは意識的に男の子のような恰好をしているのに、男役になれと言われると変な気持ちになる。
ああ、やっぱりあれやろか、とまた女学校での噂話を思い出す。同性愛というのは、どちらかひとりが男役をするのだと聴いたが、秋子さんはわたしを男役にして、いやらしいことをするつもりではないだろうか。
同性愛の実態は知らなかったが、男女がするようなことを女性同士でするのだとしたら、嘔吐を催すような感じがする。
いくら秋子さんと深い仲になりたいと思っても、そこまではどうもねえ、と柳子はみずから想像した隠微な光景を脳裏に描いて、顔を歪める。
「わたしを男にしてどうするのぉ」
 柳子の声が、自分自身がおかしくなるほど粘ってしまう。
「芝居するねんやんか」
「芝居」
ああ、セックスでなくてよかった、と柳子はほっとする。その芝居がどういうものかわからないうちに。
「こんなところで、ふたりで芝居なぞできるのぉ」
「芝居いうても、歌舞伎の真似事やけど」
「歌舞伎のぉ」
 柳子には、さっぱりわからないことだった。
「そう、柳ちゃんは東男にはまり役やし、ウチは浪花女そのものやし」
「東男と浪花女がなにするの」
「恋の道行きやんか」
「恋の道行きぃ」
近松門左衛門のなんとかいう本は、良三叔
父の本棚のなかにもあったけれど、覗いてみたことはあったが、言葉がわからなかったから、読むところまでは行かなかった。
「まあ、わたしが東京の女で、秋子さんが大阪の人だから、理屈は合ってるわよねえ」
「柳ちゃん、理屈やなんて、そんな興醒めなこと言わんときよし、芝居するねんさかい、役者に変身せなあかんやんか」
「鬘もないのに」
「鬘なんか要らへん、ちょうどあんた髪刈り上げてるし」
「まあそれはそうだけど」
「ベンベンベン」
 柳子の理屈っぽさに、いつまでも付き合っておれないと思ったのだろう、秋子が急に口三味線を入れたから、
「それなにいぃ」
 と柳子は、笑ってしまう。
「太棹の三味線の音やんか。役者が笑うとったら芝居になれへんやないのぉ」
「でもおかしいもの」
「おかしかっても笑うたらあかん」
「たいへんねえ、役者は。おかしくても笑えないのは」
「そら役者になろ思うたらたいへんやけど」
「なる気ないけど」
「なる気のうても、いまはなりぃ」
「なにになるのぉ」
「そやなあ、そやそや、柳ちゃんが紙屋治兵衛して、ウチが遊女小春するさかい」
「それ何なのよ」
「心中天の網島やんか、知らんのん」
知らんのん、と言われると、柳子はきゅっと胸のなかで尖るものが在る。しかし、今日は辛抱する。辛抱したついでに勘を働かせて、
「心中っていうんだから、近松門左衛門っていう人が作った物でしょう」
といかにも知っている顔をする。
「なんや、柳ちゃん、よう知ってるやんか」
と秋子が言ったから、柳子は胸のなかで尖ったものが丸くなる。
「ウチはよっつゃばしの」
「よっつゃばしってなになの」
 今日は秋子が、柳子の理解できない大阪弁をよく使う。
「長堀川と西横堀川の交じってるとこに架かってる四つの橋のことやけど、場所の名前になってるねん」
「ふうん、そうなの」
中途半端にもわからなかったが、知らない土地の町名に拘るのもばかげたことだから、拘らないことにする。
「そこの文楽座に、人形浄瑠璃よう観に行ったさかい、本読まんかてよう知ってるんよ。天の網島はねえ、恋敵太兵衛が小春を身請けしょうとしてるん知って、治兵衛が小春をそっと連れ出して、網島の大長寺に逃げて、明け方の鐘の音聴きながら、ふたりで心中するいう話やねん」
「なんだか馬鹿げた話なのねえ」
「アホなことやさかい、話になるんよ」
あっそうかあ、と柳子は文学少女と自負していたのを、現実主義なと思っていた秋子から、一本取られた思いをする。
「ほら、柳ちゃんの治兵衛さん、早う手ェ取ってぇ」
急に秋子が声音まで変えて、甘ったるく言ったから、柳子は、ぞくっ、と背筋を寒気が走る。
「ほら早う、柳ちゃん、ああ柳ちゃんやのうて、治兵衛さまぁ、さあ手に手を取ってえ網島へぇ、恋の道行きしょうぞいなぁ」
いよいよ秋子が台詞を唄うように、節つけて言うと、柳子は変な気分になってくる。その上秋子の容貌が、それまでの秋子のものとは違った凄みを帯びてきて、背筋をぞくっと這い上がった寒気が、脚のほうに下りてきて、膝をがくがくさせた。
全身に痙攣が起こるような気分のなかで、この人、舞台女優にでもなれば成功したかも
しれない、と想う。
秋子は躰をなよなよと撓わせて、柳子の手を取り、それを小脇に抱え込むようにさせて、
「歩きよし」
と言い、秋子自身は少し大きな所作になって内股で歩き出す。そんなことをする秋子の艶めいた姿態に、得も言えぬ妖気が漂い、柳子に慄きと愁いを感じさせる。
こんな「女」を如実に顕わにするところが、わたしには決定的に欠如しているのだ、と柳子は認めざるを得なかった。
父が、この子はチンチンつけ忘れてきたんだ、と言う由縁がここにあるのだ、といまわかった。
自分自身が女性であるのに、秋子にぞくっとするような女性を感じるというのは、わたしの神経がどうかなっているのではないだろうか、いやそうではなく、こういうところから同性愛が芽生えるのかもしれない、と思い当たる。
「デン、デデン、デン」
秋子が口を美しく動かせて、囃子を入れる。ベンベンベンが太棹の音だと秋子が言ったから、ひょっとすると太鼓かなにかの音らしいと、柳子は聴く。
秋子が艶やかに秋波を送ってきて思いを差し入れると、柳子の心が細波を立てる。
柳子が、秋子の瞳を覗き込むと、秋子が投げた視線の糸に絡め取られて、惹き込まれそうに思う。向こうが引っ張る力に抵抗して身を反らせながら、じっと秋子の瞳孔を見ると、その眸から彼女の心の底までが見えてしまいそうで恐くなる。ものすごく深い井戸の見えない底を覗き込んでいる感じがして。
これが女の色気というものなのだろうなあ、と柳子ははじめて視るものへの畏敬を覚える。
「頃は十月十五夜のぉ、月にも見えぬ身の上はぁ、心の闇のしるしかやぁ。いま置く霜は明日消ゆる、儚くたとえのそれよりも、先に消えゆく閨のうち。いとしかわいと締めて寝し、移り香もなんと流れの蜆川」
 柳子はただ聴き惚れるばかりだった。そしてひそかに尊敬の念を持つ。
「柳ちゃんなにしてんの、早う手ェ引いて、歩いてくれなあかんやないの、ねえ、治兵衛さまぁ」
秋子は小春に早変わりできても、柳子はそう容易く治兵衛に変身できないから、くすくす笑って、
「こうするのぉ」
と秋子をいざなうように手を引くと、
「ああ、ええ感じやわあ、ねえ治兵衛さまぁ」
と秋子は、うっとりした眸になって、こちらの心まで蕩けそうにさせるから、柳子もだんだんその気になってゆく。
たたたたた、と蹈鞴を踏んだり、行きつ戻りつ行き悩んだり、よろけたり、はっと立ち竦んだり、秋子は一人芝居を演じて、すでに演技に没入しているらしく、ついに眼差しは夢遊病者のように焦点を失って、柳子を見詰ていても、視ているのは柳子ではなく、人形浄瑠璃の治兵衛を見詰める眼になっているようだった。
そして、秋子は、小春になりきっていて、柳子にひしとばかりに抱きつき、やわらかい仕草で頬ずりをし、火照るほのかな情緒を心地よく受け取っている柳子の唇に、あっと思う間もなくくちづけをする。
秋子の熱い息を、とくとくと注ぎ込まれる感じがしたが、不潔感はなかった。
しっかりと抱き合った柳子の薄い胸に、やわらかくて張りのある秋子の胸から、熱い女の情念が流れ込んできて、柳子も溺れそうになる。
そして柳子は、秋子が醸し出す妖しげな情話の世界に紛れ込んでゆく。
「西に見て朝夕渡るこの橋の、天神橋はその昔、かんしょうじょうと申せしとき、筑紫に流され給いしに、君を慕いて大宰府へ、たっ
たひと飛び梅田橋、後追い松の緑橋、別れを嘆き悲しみて、のちにこがるる桜橋、いまに話を聞き渡る、一首の歌の御威徳、かかる尊きあら神の、氏子と生まれし身をもちて、そなたを殺し、われも死ぬぅぅ」
 いかにも憂いを含んで、打ち震える秋子の声の響きが、胸から胸に伝わってきて、柳子まで哀しくなってくる。
そうしてしばらく抱き合っているうちに、徐々に熱した感情が鎮まってきたのだろう、秋子も情話の世界から現実世界に戻ってきて、
「ウチ、柳ちゃん好きよぉ」
ともう小春ではない普通の秋子の声になって、治兵衛ではない柳子に、心のうちを打ち明ける。
耳に快い甘い言葉に、柳子の心の片隅にまだいくらか残っていた拘りと冷静さが氷解して流れ、秋子の心情の、妖艶さのなかに吸い取られ、綯い交ぜになり、もう自分自身と相手との見境がなくなり、気持ちと躰がひとつに溶けてゆく感覚を恕してしまう。
秋子さんが意識的につくった情緒の虜になってゆくのだと、ずうっと深い部分で思いながら、溺れてゆくのに抵抗する気がなくなってくる。
「わたしも、秋子さん好き、好きだわ、すごく好きよ」
かつて人をこんなに強く抱きしめたことはなかったと思うほど、秋子を強く抱きしめていた。
「愛してるぅ」
秋子が囁くように言う。
「わたしもぉ」
秋子がさらに強く抱きしめてくると、柳子ももっと強く抱きかえしていた。
それでもまだ、情緒に酔うという感覚の麻痺を味わったことがなかったから、いま酔っているのは、がぶがぶ飲んだ酒のせいであって、秋子の妖艶さに酔っているのだとは思わなかった。
その酒の酔いが、急激に渦巻いてきて、眩暈するほどになり、朦朧とした世界へ溺れこんでゆく。
秋子には娼婦的なところがあると言った鷹彦の観察は、理解できないでいる柳子だったから、正常な日常性から異常な高揚感の必要な演技の世界に、構えなくてもすっと入ってしまう秋子の妖気を、怖いものだと想う。
柳子が怖いと想った秋子の変貌は、狐が女に化けたり、蛇が女に変身するのに似ていて、眸のなかに執念の炎が燃え出すのを男が感じ取って、吉田は怖れて逃げたのだろうし、熊野は囚われて己れを狂わせることになったのだろう。
男が溺れてしまう底知れない女の魅力というものを、柳子は感覚できなかったのだが、
「好きやあ、柳ちゃん好きやぁ」
と秋子がまったりした声で言い、
「わたしも好きよ、秋子さん」
と柳子がもつれた舌で言い合う、雰囲気のなかに嵌りこんでしまうと、現実の風景は桜色一色に塗りつぶされて、物の形を喪失してしまう。
ふたりは、好き好き好きを合唱しながら、抱き合って踊る。踊りながら合唱する。そして足を取られて、絡み合ったまま倒れる。倒れたまま秋子は、柳子の頬に頬ずりし、
「愛してるぅ」
と言う声に、
「わたしも愛してるわぁ」
と柳子に言わせる甘さがあった。
酔いはますます募って、眸に映っているぼやけた桜色が回転しはじめる。眼に映っている色が回転すると、まるで万華鏡を覗いているような、華やかで目くるめく異次元の世界に踏み込んでしまったような感じがする。
頭がぼうっと膨張しているなかで考えることは、すべてが夢のなかのようだった。
支離滅裂なことを言っても、少しもおかしく感じなかった。
「愛してる愛してる」
子どもがはしゃいでいるように合唱しても、気恥ずかしくなかった。どんどん気持ちが昂ぶってきて、いままで恋愛感情を熱烈に感受したことのない柳子が、胸のなかで熱く燃えはじめているものを感じていた。
なんだかそれが非常に猥褻なことのようにも思いながら、他人事のような神経の麻痺した状態で感覚していて、いま、何が、どうなっているのか、判断はできなかった。
それまで周囲の色が回転しているように見えていたのに、いまは自分自身の眼がくるくる周っている。そして目の玉が周るからか、熱い血が頭に上っているからか、眼の焦点がぼやけてきて、渦巻いているもの全体が、どんどん向こうへ後じさって行くように見え、幻想的な感覚も薄れてゆく。
柳子は、うっとりして、秋子のやわらかい肉の感触に抱かれている心地よさに、みずからの肉体も溶けてしまうのを楽しんでいる。気持ちのどこかに、どうして同じ女の躰だのに、こうまで違うのだろう、と思う醒めた感覚が残っていたが、それも麻痺した感覚のずうっと小さい芯のところで考えることだから、夢見ごこちを揺り起こすことはできない。
秋子が、柳子の骨っぽい男性的な感触に、錯覚が起こりはじめていることに気づくはずもなかった。
秋子の躰が悶える。柳子の躰に足を絡めてきて、息遣いが妖しくなってくる。
「ねえ、柳ちゃん、もっときつう抱いてぇ」
秋子が喘ぐ。
「こうかぁ」
秋子が性的な興奮に身悶えていることを感得できない柳子は、素直に抱きしめる。
「ウチのこと忘れたら嫌やしい」
「忘れたりしないわよ、ぜったいに」
秋子が何を言い、自分がどう応えているのかもおぼろな感覚のなかだった。
「花の碑」 第八巻 第四二章 了
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