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「花の碑」 第八巻
第四三章
熊野は、妻の園子があれ以来、心が抜け殻のようになってしまい、無理に抱いても、枯れ木を抱いているようで、味気ないことこの上ないから、秋子が排卵期にはしないと知っていても、まるで交尾期の犬になって、秋子の周辺をうろついていた。
今日も眼をきらきらさせて、秋子の匂いを嗅ぎたくなり、小屋の辺りをうろうろしていると、秋子と柳子が仲良く肩を組み合って、コーヒー畑のなかをだらだらと登ってゆくのが視えたから、柳子がいては傍にも寄れないと苦い顔になって、ふたりのあとを着かず離れずついて行く。
ふたりが大きな声で合唱したり、笑ったり、芝居の真似事したり、なんだか隠微にふざけ合っていたが、そのうちコーヒー畑のまんなかに隠れたまま、立ち上がってこないから、何をしているのだろう、と覗きに行く。
するとふたりが、「好きだ」の「愛してる」のと言って、頬ずりし、しっかり抱き合ってもだえている。
熊野は、びっくり仰天してしまう。へええ、秋子は両刀遣いだったのか。同性愛にはもってこいの秋子と柳子の対象的な躰つきだったから、疑うべくもなくそう思い込んでしまう。
いまだかつて、同性愛なるものを眼にしたことがなかった熊野は、そのなんとも言えぬ隠微な、それでいてなんとも艶めかしくも悩ましい様子に、性的な退廃ぶりと、それゆえの誘惑を覚えて、身震いが出るほどだった。
女同士の愛し合う姿が、これほど妖気に満ちていて、鬼気迫るものだったとは、と。
熊野は、ふたりが縺れ合っているのを、しばらく見ているうちに、みずからの股間にあるものが硬く勃起してきて、ズボンに押さえつけられ苦痛を感じ、眼を白黒させながら、ズボンのなかに手を突っ込み、怒張しているものを上向けてやらねばならなかった。
その煽られた欲情が嫉妬になって、燃えはじめる。
秋子のやつめ、俺に抱かれるときには、躰が感じているのに、心を開こうとしないくせに、柳子には、自分のほうから積極的に愛情を注ぎ込んで行くではないか。あれを娘の恥じらいからだと思っていたのは見間違いだったのだ、と惟うと腹立たしくなる。
秋子の透明感のある肌の白さ、俺の指がめり込むような肌のやわらかさ、それでいてこちらを捉えて離さない強い収縮力。俺がかつて経験したことのなかった、豊穣な性の愉楽を与えてくれた彼女の肉体の魅力を思うと、それがたとえ同性愛だとしても、俺以外のものに渡したくはない、という独占欲がつよく働く。
秋子の愛が、柳子のほうに移ってしまって、こちらを蔑ろにされては困る。これをこのまま放置しておくわけにはいかない。この歪つな関係を止めさせなければならない。これは狂態だ。不潔な関係だ。赦されるべき状態ではない。
熊野は、自分自身の行為の不道徳さは棚に上げて、いや、彼自身は、みずからの行為を不道徳などとは思っていないから、秋子と柳子の関係を驚天動地の退廃的大事件にして、騒ぎ立てなければならないと考える。
いつまでも、ふたりが縺れ合っているのを、呆然と見ている場合ではないと気づいて、熊野は、小森の小屋に向かって飛んで行く。
「小森しゃあん」
小森の小屋に飛び込んで、大声でおらんだけれど、小屋のなかは森閑としていた。
ああ、そうだ自給用の畑だ。すぐに気づいて、勝手口から飛び込んだのを表に突き抜けて、梯子段を飛んで降り、小川の傍の低地に向かって駆け下りる。
内藤と小森に貸与してある自給用畑だけは、ほかのよく手入れのできている畑と比べると、
一目瞭然に様子が違って、それはまだ耕されていない雑草地に見えるからすぐわかる。
その雑草のなかで、小森の家族がしゃがんで蠢いている。なにをしているのか、耕すとか、草を刈るとか、水を撒くとか、そういう農作業をしているようには見えなくて、這いつくばい、ミミズのように蠢いているというほうがいいような様子だった。
内藤の自給地は、ほんの一部だけ手入れされて、大根の葉と葱がきれいに並んでいるほかは、大部分は手をつけられていなかった。
小森のほうは、全体が雑草地に見える。遊んでいるわけではないだろうが、この体たらくに熊野は呆れながら、
「小森しゃあん」
と呼ぶ。
すると雑草のなかから、ひょい、ひょい、ひょい、といくつもの顔が上がる。そして、土を掘っていた小さな動物が顔を上げて周囲の様子を窺がうような、きょとんとした眼を向ける。
「ああ、熊野はんだしたか」
焦点がまだ定まらないうちに、小森茂が手を上げる。上げた手に細い牛蒡だろうか、と瞬間に惟ったほど痩せた人参を握っていた。
「ちょっと、こっちば来てくれんね」
熊野が手招きすると、雑草のなかを、ひょいひょい飛ぶような恰好で出てきた茂の手に握られていたのはやはり人参だったが、視るも無惨に痩せ細った、ミイラを連想させるような貧弱なものだった。
「なんだすう熊野はん、えろう切羽詰まった顔して、何事だすねん、脅かさんといとくれやすや」
脅かさんといとくれやすや、と言う口ほどに茂は驚いた様子ではなかった。彼はこういう挨拶のし方をいつもする。
しかし、今日の熊野は聴き流さなかった。
恐い顔をして言う。
「いんや、小森しゃんば、驚かんならんたい」
「ええ、びっくりせなあきまへんかあ」
「ああ、たいへんたい」
「どのくらい、びっくりしまひょ」
茂は、熊野が驚けという理由を知らないから、ふざけたことを言う。
熊野は、こういう悪ふざけは、こっちをばかにしているように惟って、好きではなかったが、すでに秋子の躰を自由にしたあとだから大目に見るようになっていた。それでも、事が事だけに、そうのんきに構えているわけにはいかない。
「そげなてんごう言うちょるときじゃなかとですたい」
いちおう肉体的に義父になった男だから、丁寧語を使う。
「そうだすか、そやけどわては、そないな恐ろしい話は嫌でっせ」
茂は、熊野が秋子をいいようにしたことの確認はしていなかったが、タツの様子が変わって、また縒りを戻したそうにしているし、秋子が顔を合わせるのを避けているようなところから、とうとう熊野のやつに身を売りよったか、と気落ちしていたから、熊野をねちねち苛めてやりたいと思っていたのだ。
「ちょっと」
熊野が、茂の耳を引っ張る。
「あれれ、なにしはりますねん、痛うおますがな、そないに引っ張ったら」
茂は大げさに顔を歪める。
近くで二人の会話を聴いているものもいないのに、熊野は茂の耳に口を寄せて、声を殺して、ささやき声の風を送り込む。
茂は耳のこそばゆさを、全身に広げて震わせる。そして、気色悪い男やなあ、内緒話するような仲やないのに、と思う。
少し離れた畑のなかから、二人の様子を見ていたタツも、同じ思いで居る。嫌らしい、男同士が内緒話なんかして、と。
熊野は、いま見てきたばかりのホットニュ
ースに尾鰭をつけて、大仰に茂の耳に、秋子が柳子に抱きついて、好き好き好き、と甘い声で言っていた様子を吹き込む。
「ええっ、ほんまだすか、それ」
 茂が丸い眼を、いっそう丸くする。
「どげんしてぼくが、作り話ばするね」
「秋子が柳ちゃんと。へえ、ほんまだすかいな。ほんまのことでも信じられしまへんわ、そんなこと」
「ぼくはその、すごか濡れ場この眼で見たとたい」
「ふうん、信じられまへん、考えられしまへん、そんなことする柳ちゃんやなんて」
茂は秋子がそんなことをしないとは思わなかったが、あの男の子みたいな、いとけない柳ちゃんが、と思うと、きっと秋子が誘惑したのに違いないと考えて、嫌な気分になる。
秋子はとうに男を知っているのだから、それもまだ女の躰にちゃんとなっていないうちに知ったのだから、変態性にならないとは限らなかっただろうけれど。
「油断ばならんたい、子どもち思うても」
熊野は、あんなことは柳子のほうから仕掛けたことで、秋子のほうは被害者にちがいない、と思いたいのだ。
茂は、熊野のそんな身勝手な考えが、言葉遣いでわかったから、捻じ伏せるように、
「秋子は悪い男に騙されて、あっちのほうは経験済みだすけど、まさか柳ちゃんにそないなこと教えるとは思い及びまへんでした」
と大げさに落胆の様子を見せて、しんみりした口調ながら、熊野の心に痛いようなことを、ねっちりと言う。
熊野は黒い顔を赤くする。茂が言った、悪い男、というのが自分自身のことを指して言っているのだ、と思って。
その汚れたような赤黒さは、彼の心の汚さだろう、と茂は視る。そして、こいつめが、この男めが、と思う気持ちが捩じれて、
「そうだしたか、そんな濡れ場わてかて見とおましたなあ、娘がふたりして乳繰り合うてるとこやなんて、滅多に見られるもんやおまへんさかいなあ」
と泣き顔になりながらも、冗談にしてしまいたかった。
「ようそげなこつ言うて、あんたの娘のこつたい、早ういてやらんな」
「えっ、ああ、そうだすか、まだやっとりますのんかいな、そら早う行て、見せてもらわなあきまへんなあ」
茂は、熊野が真剣な顔をするほど茶化してしまいたかった。熊野が考えているほど重大事でもないと思って。
茂は、妻のタツがこの男と乳繰り合うた現場を見たわけではなかったし、どちらが仕掛けたのかもわからなかったが、ふたりが自分を虚仮にしていると思い込んでいるから、タツに対するのと同等に、熊野に対しても少なからず憎しみを持っていたが、それをあからさまにするのは、己自身の損にこそなれ、なんの足しにもならないのだからと、憎しみを悪ふざけに変換して、みずからの辛さと哀しさを誤魔化しているのだ。
秋子の様子がこの頃おかしいなあ、とは気づいていた。しかし、すでに秋子が熊野に身を売っているとは考えたくなかったから、柳子とおかしなことをはじめたというのは、茂にとっては物怪の幸いだった。秋子に執着している熊野が、秋子がこちらに靡かず、柳子との同性愛に溺れてしまっては困ると思って、大騒ぎするのだろうから、彼が押っ取り刀で注進におよんだ忠義面が、阿呆面に見えるくらいのものだった。
熊野のほうは、自分が息せき切らせて知らせてやった秋子の変態行為を知っても、茂が少しも動じるふうもなく、ふざけたことを言っているから、
「あんな淫らなこつばガイジンに見られたら、日本人の恥たい」
と日本人がもっとも気にする恥の概念を持
ち出してくる。
恥の概念を持っていそうもない男が、日本人面するのがおかしくて、茂は、えへええと口歪めて見せる。
「早う行て、取り押さえんね」
熊野が、苛立ってきて急かせる。
「どっちゃのほうだすう」
茂は、いっそうのんきに構える。それでも熊野が走り出すと、就いてゆかなければしようがないから、萎びた人参をリレー競争のバトンのように握ったまま、熊野のあとを追う。
そんな男たちの様子を、声の届かない距離から見ていて、苛々しながらも、心に疚しさがあって、ふたりの男のあいだに割り込んでいけないタツは、また夫がへまをして、熊野から文句をつけられ、監督のところに呼び付けられたのかもしれない、と自分の勝手がいいように想像して、舌打ちしながら見送る。
茂にすれば、非常に複雑な心境に在る。年頃の娘の性にまつわる問題は、母親よりは父親のほうが何倍もの苦痛を迫られるのだ。男がそれを口出しすると、いっそう隠微になるし、無関心でおられないのに無関心でいようとすると、かえって猥雑な関係をつくってしまう頭の痛い問題なのだ。
とくに秋子には言いにくいことばかりで、父親として発言する資格など自分にはない、と茂は思ってきたから、いっそう胸のなかがきりきりした。
タツのやったことでも、自分自身の不甲斐なさから起こったことだから、秋子には頭が上がらない。
済まん済まん、秋子、かんにんしてやあ、と心のなかで泣きながら、謝りつづけてきたのに、またぞろ秋子を犠牲にして、家族が食いつなごうとしているのだから、いっそ一家心中したほうがましや、と思っているくらいだった。
秋子が柳ちゃんと変なことしだすのん当たり前や、単なる情緒不安定いうようなもんと違う。秋子自身にも、どないしたらええのんかわからんようになって、いっときの気ぃ狂いやろ、と娘の辛さを思い遣る。
そやけど、秋子の変態の犠牲になる柳ちゃんこそ可哀相やさかい、ほっとくわけにもいかへんし、と思って重い気持ちを引きずるように走っている。
歩幅の大きい熊野のあとを追って行く小柄な茂は、物理的に遅れるのではなく、ちょっとでも遅う現場に着きたいと思う気持ちで小走りになりながら、秋子の現在よりも、今後のことが心配で、涙が出そうになる。
これから先、まだまだ秋子に辛い目ェささんならんかと思うと、死にとうなる。
いくら傷物になっていても、なんとか幸せな結婚させてやりたい、思うていたから、この境遇から一日でも早う抜け出さんとあかん、そのためには借金増やさんようにせなあかん、と考えると、その借金をなんとかするために、タツが工作していることも強ち責めるわけにはいかへんなあ、と弱気になる。
また夜逃げしたほうがよかったんちゃうやろか。夜逃げに失敗して、夜番の鉄砲に撃たれて死んでしもうたほうがよかったんちゃうやろか、とも思う。
わいには勇気が欠けてるんや、弱虫なんや、そやけど、弱いもんには弱いもんの生き方ちゅうもんがあるねん。寄生虫やとか、宿り木やとか。その寄生虫やとか宿り木が養い親を食い殺すちゅうこともあるいう話や。ふん、と茂のなかの虚無感が鼻で嗤う。
それやったら、秋子にぞっこんの熊野を、秋子の男の心を惑わす魅力大いに利用して、わいらの重荷全部を熊野に背負わせてしまうように仕向けるのも、弱いもんが生き延びるひとつの方法には違いないやろ。えげつないことはえげつない遣り方やけど。
まあ、こんなことは、なんぼなんでも親から言い出せるもんやあれへんし、秋子の判断に任しとかなしょうない。
そう思っていた矢先だったから、タツが、「前に植えた人参、ちょっとは大きいなってるやろ、なんでもええさかい拾いにゆこか、毎日お粥さんばっかしでも、この子らに可哀相やしなあ」
と言い出したとき、
「今日はウチしんどいさかい、畑に行かへんよ」
と秋子が勝手なこと言っても、茂もタツも、
「うんそうかあ、ほんならあんじょう休んだらええ」
と秋子ひとりを家に残して、秋子の傍に小さい子も残さず自給用の畑に出たのだった。
秋子には、ちゃんと朝から隣の柳ちゃんとなにかする考えがでけてたんやなあ、と茂はいまになって気づいたが、それが同性愛することだったとは、いくらなんでも気づくはずはなかった。
まあ熊野に身ィ任すより、同性愛のほうがよっぽどましや、と茂は秋子がすでに熊野に身を任してしまっているのを知らないから、のんきにそう思っていた。
柳ちゃんいう子は、ときどき突飛なことをする子やけど、心は純な子やさかい、あの子の心まで曲げてしもうたら気の毒やけど、と案じながら走っていたが、だんだん足が重くなってくる。
「この辺で寝転んで抱き合うてたたい」
熊野が言いながら、辺りを透かし見るようにしたが、そんな気配もなく、痕跡もなかった。
「たしかにあの辺にいたばってん」
茂が疑わしそうな眼を向けるから、熊野は必死な顔になって探し回りながら、緩い傾斜を登って行くと、支配人の邸の前に造ってあるコーヒー乾燥用の広場まで出てしまう。
「あんた夢見はったんちゃいますのんか」
茂が笑いながら言う。
「そげなこつなか」
熊野は真剣な表情になっている。
熊野がコーヒー樹の下陰ばかり覗き込んで歩いていたから見つからなかったのであって、茂がもうどうでもええという気分になり、背伸びするように遠い風景に手を翳すと、秋子と柳子の姿をすぐ視野に捉えることができた。
農場の大門の辺りを、外に出ようとしているのか、うろついていた。肩を組んで左右に大きく揺れながら。
「あんなとこにいてますがな」
茂は、のんきに高見の見物をしている風情で居る。
「早う捕まえんけりゃ」
熊野は、茂を煽り立てる。
「なんでだす」
茂は、ふたりを解放するつもりになっている。
「あの歩き方見てみんね、酔っ払っとるこつあるたい」
「酔っ払ってるように見えますかあ」
「まだふざけとるたい」
「よろしますがな、ふざけてるくらい」
「そんなのんきなこつ言うちょったら、須磨子しゃんみたいに襲われるけ」
あの性的魅力などどこから見てもないような須磨子でも、女性性器さえ持っておれば事足りるという男性が、大きな一つ檻に入れられた獣のように蠢いている環境なのだから、熊野の脅しは覿面に茂を慌てさせた。
父親の眼で見ても、むしゃぶりつきたくなるような、と思うほど女に仕上がっている秋子だった。柳子のほうは男の子のようにつるんとした顔だったが、少年のそんな姿に欲情をそそられる男性もいるのだから、危険いっぱいの原野に雌鹿と仔鹿を放しているようなものなのだ。
普段は誰かが傍に居るから、そんなことを考えたこともなかったが、いま眼にしている状況は、物陰から飛び出した野獣に襲われて、コーヒー樹の下に引きずり込まれたら、ずたずたに引き裂かれてしまうだろうと思うほど、
無防備な二人の様子だったから、あながち熊野が、彼の癖で脅しておいて、それを助けられるのはこの儂しかいないんだぞ、と言いたいのだろうと考えておれそうでもなかった。
秋子らは、後ろから人の近づく足音に気づいているはずなのに、まったく気にしないかのように、大きな声で話し合いながら、確かにふざけあっている様子だった。その様子を見て、儂らがここに居なければ、いつ襲われてもおかしくない状態だ、と茂も納得する。
さらに近づくと、二人は話し合っているのではなく、調子よく唄っているように聴こえた。
茂が耳を澄ますと、曽根崎心中のさわりを、秋子が柳子に聴かせているのだった。
「この世の名残、夜も名残、死に行く身をたとうれば、あだしが原の道の露、一足づつに消えてゆく」
呂律はあやしいのだが、聴き惚れるほどの美声だった。それが不吉な心中行の科白だったから、聴いているほうが身につまされる。
熊野がさきほど遠目に見て、酔っ払っとるこつある、と言ったのは正しかったのだ、と茂も認めざるを得なかった。こいつら、酒飲んどるねんがな。酔っ払っとるねんがな。いったいどこで飲みよってんやろ。茂は呆れただけだったが、熊野の手前も考えて、
「こらっ、秋子」
と呼びかけざま走り寄り、はっとして振り返った秋子の顔に、
「このアホンダラめ」
と喚き声といっしょに平手を叩きつける。
茂はいまがいままで、秋子を殴打することなど考えてもいなかったから、一挙に爆発してしまった激情に、自分自身が呆然となってしまう。
秋子も、とつぜんの父の暴力に、信じられない思いで、棒立ちになっていた。いまだかつて、父が暴力を振るったことなど一度もなかったのだ。
茂は、思わず振るったみずからの暴力に興奮して、我を忘れる。
秋子に対する可愛さや、熊野に対する憎さや、タツに対する憤りやら、そしてもっとも激しい自身への情けなさが、いっしょくたになって、気が狂ったように秋子に襲いかかり、髪を鷲づかみにして引き倒す。
「ひいいぃ」
秋子が、悲鳴を上げて、もがく。
柳子は、なにがどうなったのか判断できないまま、秋子に加えられる暴力を、朦朧とした夢のなかのように感覚しながら、こうしなければならない、という考えからではなく、秋子に襲いかかっている茂の後ろから抱きついて、
「止めて止めて、おじさん止めてぇ」
と叫んでいた。
普段でも、柳子の力ではどうにもならないのに、腰がふらつくほどに酔っているのだから、もう周囲も見えなくなって暴れている茂の力に撥ね飛ばされてしまう。
草叢のなかに転がされた柳子は、亀の子をひっくり返したように、手足を上げて空転していた。
そんな乱暴狼藉を止めようとせず、しばらく様子を見ていた熊野が、柳子の転ばされたのを見て、やっと近寄り、茂を後ろから羽交い締めにして、秋子から?ぎ取る。
熊野からがっちり抱え込まれて、秋子から?ぎ放された茂は、はっと夢から醒めた男のように、きょとんとした表情に戻り、心臓が破れるかと思うほど苦しい息を鎮めにかかる。「なんでやのん、なんでお父ちゃん、そない叩いたりするのん」
秋子が、追いつくなり暴力を振るった父に向かって、抗議する。
小さいときからどの兄弟よりも、猫可愛がりに可愛がられてきた秋子だから、彼女自身もびっくりしたのだ。
「なにすんのんも、へったくれもあるか、オナゴのくせして、昼間から酒飲みくさって」
茂は喘ぎ喘ぎ言う。声が喘いでいるだけではなく、言葉を吐くのが辛いという顔つきだった。
「そないにどつかんかてええやないのん。女かて、たまには酒飲みとうなることあるやないのん」
その酒を飲みとうなった原因をつくった男が、眼の前に居るせいでもあったのだから、言いながら秋子は、熊野のほうに恨めしい視線を向ける。
しかし、相手の思惑など斟酌しない熊野に、秋子の苦しみがわかろうはずはなかった。
柳子ほどではなくても、少し呂律の妖しくなっている秋子の、父に甘えるような口振りがかえって女の艶めかしさを顕わにしていて、熊野の欲情を誘ったくらいの効果しかなかった。
まだ地面に転がったまま起き上がろうとせず、恨めしそうに睨んでいる娘二人の視線に刺されて、茂はうろたえる。元来が気の小さい男なのだ。一気に爆発してしまった感情の、線香花火のように消えてしまった後滓の始末に困っていた。
秋子の悲しみがわかっていながら、激情を暴発させてしまったことが恥ずかしく、このあとどうしていいのか迷っていた。
「まだ、そないな歳でもないやないか」
窘める声まで、弱々しくなってしまう。
「歳ちやういうても、ウチかてもう未成年ちやうねんさかい」
「おまえはちごうても、柳ちゃんはまだ未成年や、未成年の子ォに酒飲まして、酔うて外歩くのんが間違うてるんや」
 茂の声が、だんだんへたり込んでゆく。
「あのねおじさん、わたし秋子さんから無理に飲まされたんじゃないのよ、わたしの意思で飲んだんだから、秋子さんを責めたりしないでよ」
柳子が、とろりとした眼つきで、しどろもどろに抗議するのが、気のつかなかった色気を含んでいて、あれ、この子もやっぱしオナゴやったんやなあ、と茂に思わせる。
そんな淫らな眼で見てしまって、茂は慌てて頸を横に振り、
「柳ちゃん、未成年はなあ、他人から飲まされんでも、自分で飲んでもあきまへんねん。酒ちゅうもんは、気違い水だっさかい、まだ脳味噌の固まってへん、柔らかいあんたらが飲んだらあきまへんねんでえ。おとなになっても、酒ちゅうもんは、そないにぐでんぐでんになるまで飲むもんちゃいます。酒の本性がわからんうちは酒飲まんほうがよろしい。酒を舐めてかかったら、酒に飲まれてしまいまっさかいにな」
茂は、秋子とは別なところで、柳子に好感を持っていたから、吾が子のようにこんこんと言って聴かせる。そう言いながら、こんな清らかな柳ちゃんかて、いつかは誰かに汚されてしまうんやなあ、と心を痛めもする。
なんの拍子に酒など飲む気になったのかわからないけれど、飲みたくなった気持ちは分かるから、酔うてふざけているのを見て、同性愛してるなどと早合点した熊野に、おまえらみたいに人間の心持ってへんもんに何がわかるか、と茂は愛想つかして、「アホんだらめ」と心のなかで蔑み、罵る。
己れの卑しい眼で見るから、他人の無邪気な戯れまで卑らしい見えるんや、と嘲笑う。
茂は手を伸ばして、柳子の腕を取り、引き起こしにかかる。柳子の躰は軽いから起こすのに苦労はしなかったが、軟体動物になってしまっている柳子は、手を放すとまた崩れてしまいそうに、ゆらゆら揺れているから扱い兼ねて、ぼやっと見ている熊野に腹を立て、
「熊野はん、ちょっと手ェ貸しとくれやす」
と尖った声で言う。
熊野はまったく茂に手を貸す気持ちなどなかったのだろう、茂が腹立たしそうに言っても、不承不承という恰好で来て、柳子の後ろから柳子の脇の下に両手を差し出して、衣紋
掛けに衣服を吊るしたように支える。そして柳子が酔っているのを幸いにして、指を曲げて、柳子の乳房をまさぐったが、娘の乳房らしいものに触れず、まさぐっても少年のような薄い胸に、小さな乳首があるだけだったから、がっかりする。
柳子を熊野に預けた茂が、こんどは秋子を抱え起こそうとしたが、柳子のようにはいかなかった。秋子の肥ってやわらかい躰は簡単には持ち上がらない。娘の重さに引きずり込まれて、いっしょに地面に転がってしまう。ただ転がっただけではなく、秋子の上に被さってしまって、慌てて起き上がろうともがくとよけい手間取って、そんな無様な姿が、熊野には卑猥な恰好に見えただろう、と茂自身が思ってしまうほどだった。
そう思った原因が、熊野を非難できない要因からで、いくら吾が娘でも、柔らかいけれど若い弾力に満ちた躰の上に重なって抱き合う形になってしまうと、妖しい気分がむらむらと立ち上がってきて、官能が掻き乱され、頭に血が駆け上がり、どぎまぎしたからだった。
茂は仕方なく、まっすぐ起き上がるのを諦めて、横に転ぶ。
「いやあ、だらしないことですけど、わてには秋子は手におえまへんわ、すんまへんけど熊野はん、こっちゃのほうと代わってくれはりますか」
癪だと思っても、頼まないわけには、この場が片付かない。
ふふん、と熊野は鼻を鳴らす。茂を馬鹿にしたのか、ほくそ笑んだのか、それはともかくも、熊野が、支えていた柳子から手を引いたから、柳子はまた敢え無く地面に崩れ落ちてしまった。
酔っていても柳子は、自分が放り出された感覚はあったから、怒って、
「なによ、熊野さん、わたしを投げ出してえっ」
と抗議する。
呂律の回らない柳子の抗議は、それほど耳に痛くなかったから、熊野は柳子をそのまま地面に転ばせておいて、いそいそと秋子を抱き起こしにゆく。
もう何度か秋子の肉体を貪っていた熊野は、正面から秋子を抱える形になると、その場で交合を再現したい衝動に身悶えてしまう。
茂は、熊野に秋子を抱かせるのは口惜しかったが、いまは眼を瞑っているしかしようがないと思って、柳子がへなへなと倒れたほうに行って、
「さあ、柳ちゃん、帰りまひょか」
と抱き起こす。
「おじさん、わたしのほうはだいじょうぶよ、抱いてもらわなくても、独りで歩けるもの」
茂が差し出した手を取らず、柳子は地面に手をついて、尻を立て、その尻をゆるゆるさせながら懸命に立ち上がろうとする。
小さい尻でも、娘の丸くて形のいい尻がゆらゆら揺れるのを、見ているのは悪い気持ちではなかった。茂はそういう気分もあって、柳子の負けず嫌いな気性にしばらく任せていた。
柳子はゆらゆらしながらも立ち上がって、衣服の土埃を払い、腰にいったん力を整えて、平衡台の上を歩くときのように、両手を水平に保ち、足を前に出すと、一歩も踏み出さないうちによろけて、倒れそうになる。
見ていた茂が、さっと手を出して支えてやる。
その手を振り払うようにして、柳子は体勢を立て直し、よろけながらも気を立てて進んで行く。柳子自身は真っ直ぐ進んでいるつもりなのだろうが、傍から見ているものには危なっかしいかぎりだった。
「柳ちゃん、どっちゃ向いて行きなはんねんな」
「家に帰るんじゃないの、おじさん」
「家そっちゃやおまへんがな、こっちゃこっちゃ」
「うそぉ」
「嘘なんか言いますかいな。お陽さんの沈みはるほうがわてらの家だっせ」
「あれは家じゃないわよ、おじさん、小屋じゃないぃ」
柳子は負け惜しみを言っているけれど、まったく方向感覚を失っているのだ。じっと眼を据えたあと、
「遠回りして帰ってもいいでしょう」
と嘯いている。
「まあその歩きようやったら、今日じゅうに小屋に辿り着けるやらどうか妖しいもんだす。遠慮せんと、わてにつかまって行ったらよろしいがな」
茂がそう言って支えにゆくと、こんどは素直に、柳子は茂に寄りかかる。
茂はそれがうれしかった。
「ほんまに呆れて物言えまへんわ。こないにぐでんぐでんになるまで飲むやなんて、どこでピンガ酒飲みはりましてん」
茂はうれしさを小言にして、ごまかす。
「おじさん、ピンガと違うわよ」
「そやかて、ピンガみたいな甘い匂いしてますがな」
「おじさんちの甘酒飲んだのよ」
「ええ、わてとこの甘酒」
「そう」
「ああ、あれだすか、あれ甘酒違いますがな、どぶろくだす、どぶろく。あれ飲んだんかいな。もうおいしいになってましたか」
茂もそろそろ飲める時期かと、心待ちにしていたのだ。ときどきアルコールで気を紛らわせなくては、心の憂さが霽れなかったし、ベンダでピンガ酒買うて飲むよりは安上がりになるかいな、と思って熊野に言うと、園子が麹を持ってきてくれたから、秋子に手伝わせて寝かせておいたものだった。
「すこし酸っぱかったようよ」
「そうだすか、まだ早いやろ思うてましたが、もう飲める時期だしたか」
「時期かどうか、わたしにわからないけど、砂糖入れなきゃ飲めなかったわよ」
「そうだすか、柳ちゃんに利き酒してもろたんやさかい、もういけそうだすな」
茂は、熊野のようには考えない。秋子が酔ってふざけたくなる気持ちがわかるから、相手が柳子なら安心や、熊野が騒ぐほどのことやあれへんがな、と思ったからだった。
秋子も自分の憂さを霽らすために、濁酒を甘酒だと偽って柳子を誘ったのだろうが、柳ちゃんこそええ迷惑したわけだ。
熊野が秋子を強く抱きしめて、秋子が無惨に気を許して、ふたりが縺れるように歩いて行く後ろ姿を、気持ちで恨めしそうに視ながら、茂は柳子の躰から伝わってくる甘い体温に心を揺らせていた。痩せて骨っぽくても、さすが番茶も出花の娘の躰は、それなりの芳香に包まれているのが、やんわりと赤く染まってきている西の空を反映して、肌の色にも感じられ、悪い気分のはずはない。ひょんなことから、しっかり抱く羽目になった柳子の躰から伝わってくる親しさは、柳子の日ごろの言葉や仕草に感じられる信頼感のせいだろうけれど、心のうちで密かに和姦している思いがして、陶然となる。
たとえ秋子から甘酒だと偽って濁酒を飲まされた被害者だといっても、柳ちゃん自身が自分の意思で飲んだのだから、そう大層に考えることも要らへんやろう、と茂は考えて、こういうことでもないと、こうして柳子を抱いて歩くなどということもできないのだからと、にたにたしながら、蛸のようにぐにゃぐにゃしている柳子の躰の、肩やら腕やら腰やらを抱え直し、抱え直し、抱え直ししながらゆく。
茂は、柳子を抱いている性的体感の甘さに快さを覚えながら、熊野が、秋子と柳子が戯れるのを目撃して、卑らしいことをしている
と注進してきたのは、あいつ自身の心の卑らしさをみせたようなものではないか、と軽蔑する。それを下衆の勘繰りちゅうんや、おまえらに人間のほんまの辛さや哀しさがわかってたまるもんか。おまえみたいにオメコして歩くだけしか楽しみ知らんやつに、タツが秋子を売ろうとしているのが口惜しいてしょうない。そやさかい秋子も、酒飲みとうなるねん、秋子のやつが可哀相で、可哀相で、と忌々しさが込み上げてくる。
いっそ熊野のやつを殺してしもたろか、ほいたらタツの眼ェも醒めるやろ、と心では思うても、そんなことのできる茂ではなかった。だから心のなかだけで、ぶつぶつ言うて、気を紛らわす。
茂には、生き馬の目を抜く大阪で、えげつないほど剥き出しの人間模様のなかを泳いできたんやさかい、と思う自負心があったから、熊野が移民の子として、どんな苦労してきたかしらんけど、こんな阿呆みたいに広すぎる大平原の空間を歩いてきたもんが、人間の密集してるせせこましい街のなかを潜って、食うか食われるかの生存競争してきたもんの気持ちなんかわかってたまるかい、と惟うのだった。
それにも増して、感じ易い年頃の娘が、とつぜんこんなとこに連れてこられて、暑いさなかに働かされ、汗かいて、血ィ出して、その上おまえみたいな男に言い寄られて、あんたさえ言うこと聴いてくれたら、ちょっとは生活楽になるねんさかい、とタツから泣きつかれる娘の身になってみい、酒飲まんでおれるもんやないやろ。酔うて憂さ霽らすちゅうような甘いもんちゃう、気ィ狂うほどきつい心情でいるはずや。
みずからの苦しさや哀しさを、人前ではオチョケテみせる茂だからわかる、娘の憐れさだった。それがわかっていながら、どないもでけへんさかい辛いねんやないか、と考えつづけていると、だんだん腹が煮え繰り返ってきて、熊野に向かって怒鳴りたくなってくる。それを、ひょいと、
「柳ちゃんは軽うてよろしおますわ、秋子のやつは重うて重うてどもなりまへん」
とおどけて言うことで紛らわせる。
秋子に対する気持ちの重さは、エンシャーダの重さなどとは比べるべくもなかった。エンシャーダを振り下ろす辛さや、ペネイラを篩い上げる苦しさや、炎天下で躰の水分吸い上げられる哀しさなどの物理的な苦労は、ぎりぎり歯ァ食い縛って我慢できても、娘を犠牲にして食いつなごうなどと考える親の気持ちの辛さと比べたら、なにほどのこともない。
こんなとこに来て、愚痴言うてもしょうない、と思いながらも、つい出てしまう。
「気分軽う持つのんがなによりだっせ」
茂は、柳子に向かって言う必要もないことを言うてしまう。
「おじさんは、ほんとうはわたしがおっちょこちょいだって言いたいんでしょ」
柳子が、まだ呂律の回らない口を尖らせる。
「そないに、捻くれて取らいでよろしいがな。人間深刻に考えすぎんほうがええ言うとりますねん。柳ちゃんの身の軽いのんは、気ぃが軽いさかいだっしゃろ、秋子みたいに躰重いのんは、いつも自分自身で支えきれんほど重いもん心に持ってるさかいや思いますわ」
「へええ、おじさん、なかなか詩人みたいなこと言うのねえ」
「あれ、さよか、こんなこと言うのん、詩人はんだすか」
「詩人だわよ、おじさんは。詩ごころがあるのよ」
「そうだすかあ、そんなこと言うてくれはるのん、柳ちゃんだけだす、おおけにおおけに」
「おじさん、どうして泣くの」
「泣かしたんあんただすがな、これは悲しいて泣いてるのんちゃいまっせ、うれしいて泣いてますねんよって」
今日は、茂がおどけた調子で言うても、哀しさを紛らわせるほどの力はなかった。冗談めかして言う言葉の端から哀感が零れてしまう。
熊野のほうは、茂のように情緒として、感覚的に抽象的に女の躰から情感する詩的な素質は皆無だったから、女性特有の馥郁とした色香を、秋子の肉体から即物的に貪っていて、ズボンのうちらで抑えつけられている、股間の昂ぶりを、全身に充満させた苦痛のなかで快感を味わいながら、歩きにくそうに歩いていた。
酔っていて感覚が麻痺しているはずの秋子が、呻吟するほど強く抱きしめ、秋子の腕を、自分の太い頸に巻きつけさせ、そうすることによって接近する女の柔らかい頬に、男のこわい髭面を押しつけ、躰が揺れる反動を利用して、何度もキスを繰り返す。
それを後ろから来る茂が見ていて、腹の底を煮え滾らせているだろう、などと気を遣うことなどなく、あるとすれば、父親がやきもきしている前で、彼の娘を凌辱することの快感を倍増させるだけだった。
リンスから帰ってきた龍一が、乗合バスから降りてきて、だらだら坂を下りながら、どこかの二組の夫婦が仲良く家に帰って行く後ろ姿を見たから、抱き合っていようが、頬ずりしていようが、深く気にすることもなく、急ぎ足で傍を通り過ぎようと、足を速めてきたのだが、その二組四人の男女が酔っ払っているようだから、仲のいいと感じた印象を改めて、なんだかだらしのない夫婦たちだ、と眉根を寄せながら、近づいてきて、あっ、と息を呑む。
どこかの二組の夫婦だろうと、根拠もなくそう思っていたのが、そうではなく、茂が柳子を抱き、熊野が秋子を抱いて、ふらふらしながら歩いていたのだとわかって、仰天する。
しばらくは、咎める言葉を失い、呆然と立ち竦んでしまう。
どうしてこういう状況が、夕間暮れのコーヒー畑のなかに出現するのか、長野の山道で、人を誑かす狐が出るという話は聴いたことがあったけれど、ブラジルにも、そんな悪戯をする狐がいたのか、それともみずからの疚しさが描いた幻影か、と龍一はみずからの頬を抓ったほどだった。
熊野が秋子を抱いて歩いている姿だけなら、まあそういうこともあるだろう、と納得はできただろうが、どうして柳子が、小森に抱かれて天下の公道を恥ずかしげもなく歩いているのか。それも彼らは、酒を鱈腹飲んで酔っ払っているふうではないか。なんという狂態を曝しているのか。龍一はそう思ったとたんに駆け出していた。
後ろから人が駆け寄る足音を耳に捉えた茂が振り向くと、龍一が血相変えて坂道を駆け降りてくるのを見て、はっとする。
柳子を抱いて、疚しい気持ちを弄んでいたのだから、娘の父が駆け寄る心境を、逸早く察したのだ。だから、言い訳をしようと立ち止まったのに、ぶつかってくるような勢いで走り寄った龍一が、乱れた息を整える暇も惜しいように息弾ませながら、
「これは、いったい、どういう、ことですか」
と詰め寄る。
「ああ、びっくりしましたがな、内藤はん、おどかさんといとくれやすや」
 茂は、龍一が息せき切りながら、詰寄る心境を察して、よけい冗談らしく言う。
「脅かすもなにも、この有り様の説明をしていただきましょう」
龍一の尖った言葉に、茂は、よたよたと後ずさりながら、
「ほんま、ええとこに来てくれはりました。じつは」
と釈明をしようとする茂の言葉を遮るように、
「いいところか悪いところか知りませんが、
こんなところを恥ずかしげもなく、大っぴらに娘を抱いて歩けるものですな、穏やかではありません」
と言う龍一が、心穏やかではないだろうことはわかっているから、茂は弁解がましく言っては、なおさら誤解を招くだろうと思って、抱いていた柳子から手を放す。
茂の手から離れた柳子は、人形遣いの手を解かれた操り人形のように、へなへなと地面に崩れる。
「なんやかや説明するより、これ見とくれやす。この通りだす。誤解せんといとくれやすや、秋子が柳ちゃんと濁酒飲んで酔っ払って歩いてるのんを、熊野はんが見つけて知らしてくれたさかい、こうしていま連れ戻してるとこだす。わてらに卑らしい気持ちなんか、こればっかりもおまへんさかい。わかってもらえましたか。ほれ、わてら、ぜんぜん酒飲んでしまへん」
と言って茂は、龍一の顔に顔を突き出し、息を、はあ、はあ、吐きかける。
茂の吐く息からは、まったくアルコールの臭いはしなかったが、地面に崩れた柳子を抱き起こしにかかると、顔を背けたくなるほどの臭いが、ふんぷんとした。
龍一は眉間に深く皺を寄せる。茂が飲んでいなくて、柳子が歩けなくなるほど飲んでいる理由が分からない。しかし娘を抱いていた状況の理由は、口で弁解するよりも、具体的に知らしめた茂の行為によって、すぐ理解できたから、誤解していたことは認めざるを得ない。
それだけではなく、娘が泥酔しているのを助けてもらったのだとわかって、こちらが恥じ入らねばならないことになり、尖っていた声が、柔らかくなり、小さくなる。
「ベンダで飲んだんでしょうかね」
「いや、そうやおまへん、わてが造った濁酒を秋子といっしょに飲んだんだすわ」
「どこで」
「家で」
「家で」
「へえ、そうだす」
また龍一の疑惑が、むらむらと胸のなかで渦を巻く。
家で濁酒を飲んでいる娘らを、茂はどうして制止しなかったのか、と。
「家で飲んだものが、どうしてこんなところを四人が抱き合って歩いているんですか」
「ああ、やっぱり内藤はんは、わてらをものすごいこと疑うてはりますなあ」
「いえいえ、疑ってなどおりませんが」
「さっき話した通り出す」
「そうでしょうとも、しかし、酒など飲んだことのない柳子が、どうしてこうなるまで飲んだのかと思いまして」
「どれだけ飲んだらこうなるかちゅうこと知りはらんさかい、こうなったんや思いますねんけど」
茂の言い方のほうが、人間心理をついていると思って、龍一は黙ってしまう。
男親同士の会話のなかに、何にでも首を突っ込んでくる柳子が、割り込んでこないのがおかしかった。よほど泥酔しているか、泥酔したことを恥じらっているかの、どちらかだろう、と龍一は惟う。
「すみませんが、柳子を儂の背中に乗せてやってもらえませんか」
「よろしま、そうしましょ」
龍一が屈んだ背に、茂が柳子を抱えて乗せる。
「さあ、お父ちゃんに負ぶって貰うて、おとなしいに帰りなはれや」
 茂が柳子の背を、ぽんぽん叩く。
「お父ちゃは、わたしを捨てて日本に帰ってしまったのよ」
柳子が、龍一の背に負ぶさって行きながら言ったことが、なにを意味するのか、龍一にも茂にも判断しかねて、顔を見合わせる。
正気で冗談を言っているのではなさそうだ
し、嫌みでもなさそうだし、父の背に負ぶさりながら、父の存在がわからないほど泥酔しているなどと考えられなかったし。
秋子を抱いた熊野は、龍一と茂が話しているうちにも、立ち止まらずに歩いていた。後ろから来た男が内藤の家長だとわかって振り返らず、足を止めなかったのは、せっかく秋子を抱いていい気分でいるのに、と思って悦に入っていたのに邪魔が入ったからだったが、熊野が、なんとなく住む世界が違う感じを第一印象で受けて以来、煙たい存在だった内藤が、こんな場面を見て黙っているはずはないから、嫌みをいっぱい投げつけられるだろうと思って、おもしろくなかったからだった。
そんな感じを持ったのは熊野一人ではなく、茂も秋子も柳子も同じだったが、茂は逸早く弁明して、気まずさを拭い去ったのはさすが世慣れた態度だったといえる。
秋子と柳子は、いくら朦朧としているとはいえ、龍一の来たのが解らないほどではなかったが、照れくささがあったから、秋子は酔った振りのなかに自分自身を紛らわせ、柳子は父の出方によって、こちらの反撃の仕方を決めるつもりでいたのだ。
それで父と小森のおじさんの遣り取りを聴いていて、父がこちらを非難するのではなく、現状に対する疑惑を、男性の責任のような気分でいる様子だったから、少しこそばゆくなっていたところに、父が背を向け、小森のおじさんが抱えて背に乗せるという、過保護ではないかと、それを受けている側が思うようなことをしたから、いっそう甘える気持ちになってしまったのだ。
「なんだあ、おやじじゃないの、どこをうろついてたのよ。わたしのこと忘れて日本に帰っちゃったのかって思ったわ」
耳の後ろで囁くのではなく、辺りに響くような大きな声で言う。
「こら柳子、騒ぐんじゃない、静かにしなさい」
龍一は、娘の放埓さが自分のことのように恥ずかしくて、小声で言う。
「いやあ、これはほんまに酔っ払っとりますなあ。あっはっはあ」
茂は柳子を、柳子の責任者である家長にバトンタッチしてしまった気安さで、笑う。
茂が大きな声で笑ったのは、柳子を抱いて初々しい女らしさを感じた疚しさや、照れくささや、熊野に対する拘りや、秋子への不憫さや、いろいろ入り交じった感情の渦を、龍一から見られたくなかったからだった。
しかし、笑ったあとに、柳子を龍一に渡したあとの手持ちぶさたが、我が身の空疎さをいっそう感じさせたから、その隙間に付け入って、いままで自分自身を誤魔化してきた生き方の、しっぺ返しを食らっている感じがした。
大阪の繊維工業界を、得意になって走っていたのが、虚業であったことを、いましみじみ感じるようになっていたのだが、慌ただしく渡ってきたブラジルも決して楽土ではなく、また借金を背負って、娘の躰でそれを清算しようとしている不甲斐なさを思うと、他人から嗤われる身が、アホみたいな面して笑うてる場合やない、と思うのだが、笑うて誤魔化さなければ生きてゆけない自分自身の心情から推し量って、秋子が酒でも飲んで誤魔化さなければおれない気持ちがわかるだけに、辛かったのだ。
秋子を熊野みたいな男に抱かせるよりも、儂がしっかり抱いてやらなあかんのに、秋子の重い躰が抱ききれず、倒れて重なってしもうた娘の躰のやわらかさに、変な気ィ起こしてしまうやなんて。いや、そやさかいよけい熊野に抱かせるのが口惜しいんや、と思っても、熊野から秋子を受け取って、家まで連れて帰る自信がないのが情けなかった。
「なにがあったんどす、いったいどないしたいいますねん、その恰好は」
熊野が茂を自給用の畑まで呼びに来たあと
どこへ行ったのか、かいもく行方がわからなくて、小屋に帰ってきたものの、腰が落着かなかったタツが、秋子が熊野に抱かれて、隣の柳ちゃんがその父親に負ぶさって、帰ってくる姿を視て仰天する。
一部始終を茂が話すと、秋子と柳子が酔っ払った原因がわかって、
「濁酒仕込んだあんたが悪おますねん」
と全面的に罪を押し付けられるのはわかっていたが、この状態を説明するにはそこに行き着くのが目にみえていても言わないわけにはいかない。
そこで茂は、一案練って、
「熊野はんが秋子と柳ちゃんが同性愛してる言うて知らしてくれたさかい、そら止めささなあかんなあいうて、行てきましたんや」
と言うと、それがまんまと図に当たって、
「ええ、秋子と柳ちゃんが同性愛」
とタツは眼を白黒させたあと、ひゃっひゃっひゃあ、ひゃっひゃっひゃあ、と笑い出して止まらなくなる。
まだ酔いの醒めない秋子と柳子が、自分たちのことでタツが笑っているのだと知らずに、タツがこんなに笑うことが近来にない奇蹟のような顔をして、見ている。
小屋のなかから小さい子らも出てきて、わけもわからずタツの笑声に引きずられて笑い出したほどだった。
きょとんとしているのは柳子と秋子だけで、熊野は自分自身の早とちりを嗤われているような気分になって、おもしろくなさそうな顔をしていた。
そんな浮かない熊野の顔を見たタツが、笑いながら、
「おおけに熊野はん、いっつも心配ばっかしおかけして」
と礼を言ったのが、熊野には、よけい皮肉に聴こえた。
「そいで水ぶっかけましたんか」
タツが茂に、嫌味たらしく訊ねる。
「なんで水掛けんとあかんねん」
茂は、タツの言わんとしていることがわかっていたが、とぼける。
「なんでいうてあんた、つるんでたんだしゃろ」
「アホ、えげつない言い方するな、子らのまえで」
「そやかてあんた、水ぶっ掛けるくらい子らでも知ってますがな」
「あほんだら、かりにも己れの娘を、犬みたいに言うな」
小森夫婦の遣り取りを聴いていて、龍一は気分を悪くし、熊野は気分を良くする。
熊野は、秋子が柳子と同性愛などはじめてると、こちらへの関心が薄れると思っていたから、タツが彼女らに水を掛けろと言ったのは、もっとも時宜に適ったことだ、と拍手を贈りたいくらいだった。だからいっそう煽り立てるように、
「ほんとのこつ、ぼくは秋ちゃんと柳ちゃんがキスしてるとこ見たばってん」
と言う。
「ほれ見なはれ、そやさかい水だすがな。女同士がキスしてたやなんて、頭おかしなったんに違いおまへんがな」
とタツが嵩にかかって言う。
「秋子が頭おかしなったんは、おまえのせいじゃ」
茂が、とつぜんタツを怒鳴りつける。
「なんやて、秋子がおかしなったんはわてのせいやて。ようそないなこと言いはりますな。あんたが銭よう稼がんさかいやおまへんか」
「おまえの遣り繰り悪いさかいじゃ」
いったん割れてしまった鏡は元には戻らない。茂とタツは、一時休戦していたのではなかったのだ。入った罅が完全に割れるのを待っていたようなものだった。
「うるさいなあ、お父ちゃんもお母ちゃんも、もうええ加減にしてェよ」
秋子が気だるそうに言うのを背に聴きなが
ら、小森夫婦の諍いよりも、柳子の泥酔を何とか始末しなければならないと思って、龍一は小屋のなかに入る。
熊野もここにおれば、いつこちらに飛び火してくるやら、と思ったのだろう、いつの間にやらこそこそっと居らなくなった。
「秋子はおまえの子やさかい、淫らなおまえの血ィ引いてるんじゃ」
「わてがいつ淫らなことしましてん」
 娘を売る交渉相手と、ついでのことにして乳繰り合った浮気の現場を、夫が見ていたように言うから、タツの声の力が薄れた。
「知らん思うてんのんか、おまえのすることくらい透け透けじゃ。また秋子を熊野に売るつもりやろ」
 もう売ってしまっているのを知らない茂は、タツの予定行動として詰る。
 茂の言い回しから察して、わてのしたことほんまに知ってるんやなかったんやと、ちょっと安心して、タツはまた勢いを盛り返す。
「わてが売るんとちゃいますがな、秋子の意思でしてくれることだすがな」
 秋子の犠牲的精神を利用して、断り切れない状況に追い込んでいった、みずからの狡さを伏せて言う。
「阿呆抜かすな、わが娘を食いもんにしやがって、ぬけぬけぬかすな」
小森夫婦の言い争いは、辺りが暗くなってもつづいていた。
龍一が、そこまで帰ってきているのを知らなかったチヨは、表で小森夫婦の高声の言い争いがまたはじまったと、聞き耳を立てていたが、龍一が勝手口からのっそり入ってきたのを見てびっくりし、夫の背に柳子が負ぶさっているのを見て、二度びっくりする。
「どうなさったんかなんし、なにがあったんかなんし」
柳子が夫の背に負ぶさって帰ったほうが、隣の夫婦喧嘩よりも重大事なのだ、と惟ったチヨは、小森夫婦の高声も耳に届かなくなってしまう。
「ばかっ」
いきなり龍一が、チヨを怒鳴りつけたから、チヨは、さらにびっくりした。隣の夫婦喧嘩に気を取られていたから、夫が帰ってくるなり怒鳴りつけるなどとは思いもできず、緩んでいた気持ちに衝撃を受けて、チヨの小さい躰が土間から跳ね上がったほどだった。
夫から「ばかっ」と叱られるのは、結婚以来の生活習慣になっていたから、それ自体はどうということもなかったが、今日の「ばかっ」は、いままでの「ばかっ」と違った。腹の底に応えるほどの「ばかっ」だった。
長野の家のなかで吐き出されてきた「ばかっ」は、龍一自身の弱みを庇うものだったから、何かを言い出すための掛け声のようなものだと聴き流して来れたのだけれど、そしてブラジルに来てからもそれはつづいていたのだけれど、今日の「ばかっ」は特別だった。屈辱感をまともにぶつける響きがあった。それは柳子のぐったりした様子によるものだろうが、その遠因に親としての油断を、双方ともに感じていたからではなかっただろうか。
そんねん飛び跳ねとったら怪我あするに、とは常に注意を与えていても、目の届かない遠くまで行くのを許していたのがいけなかったのだろう。まして中村須磨子が黒人から襲われたというのに。
チヨは、おろおろしながら、夫の背から柳子を下ろすべく手を添えに行き、まるで柳子の全身から発散しているような、むっと吐き気を誘う強烈な酒精の臭いを嗅いで、鼻を中心にして顔を顰める。
「馬から落ちたんだ思とっていましたに」
それ以外に考えられないのに、そうではないようだったから、チヨの思惟が混乱する。
「落ちたのは酒壷のなかだ」
「どこでそんなに」
チヨは、龍一の言ったことをほんとうにする。衣服が濡れていなくても、夫の言葉が比喩や冗談に言っているとは思えないほどの臭
気だったのだ。
それでも酒壷に落ちて溺れ死んだわけではなかったから、馬から落ちて怪我するよりはよかったと、チヨは安堵する。
「頭から水をぶっ掛けてやれ」
龍一は、タツとは違う理由から、同じことを言う。
「そんなことしなくたってもいいずらに」
チヨは、龍一の背から柳子を受け取って、寝室に運ぼうとしたが、柳子はずるずるとだらしなく炊事場の土間に崩れ落ちてしまう。
龍一はそんな様子を見ても、もうチヨに渡してしまえば自分の責任範囲は終わったかのように、手を貸そうとしなかった。
「ひとりじゃどうにもならんに、こんねんなってしまっちゃ」
「足でも手でも引き摺ってゆきゃあいいじゃねえか」
「まあ、無責任なことを」
「なにっ、何が無責任なんだ。無責任はおめえのほうだ。柳子がこんねんなるまでどうして抛っておくんだ」
「そんな無理を言ったって」
「なにが無理だ、道理じゃねえか。母親が娘の監督もできんでどうする」
「柳子ももう十八ですに」
「歳になんぞ関係あるもんか、娘は死ぬまで娘だ。母親が躾るもんだ」
龍一はいまそう言うけれど、チヨが柳子を躾るつもりで物を言うと、「そんなことまで言わなくても、もっと自由に好きなようにさせてやれ」と言って、甘やかしてきたのは龍一のほうだったのだ。
チヨは、そのことを言いたかったが言わずに、
「どこでこんねんなるまで飲んだんずらねえ」
と言いながら、柳子の脇の下に腕を入れて、柳子をベッドまで運ぶ。龍一に手伝ってもらわなくても、小柄でも腰の力は龍一より強かった。娘のときから、石臼をひとりで運べたのだから。
柳子は、まるで濡れ雑巾のような状態だったが、
「お母ちゃも、もっとしっかりしなきゃあだめよ」
などとうわ言を言いながら、意識は朦朧としていて、チヨにすっかり身を任せてしまって寝てしまう。
チヨが炊事場に戻ってくると、
「こういう茶が飲めなくて困ったよ」
と龍一は、もう茶器を出してきていて、茶を立てていた。
一週間以上も留守にした理由を、おくびにも出さない。
帰ってきたところに、柳子の泥酔騒ぎがあったから、そちらに話題がゆくのをいい幸いだ、と龍一は思っていた。
出先で抱いた女の色香が、まだ肌に残っているだろうから、それをチヨの鋭い臭覚に嗅ぎ付けられるのを疎ましく思っていたからだった。
抱いた女の残り香を、茶を啜りながら反芻することほど気分のいいことはない。
子を産んでも、そして何年経っても、不感症ではないのに、不感症を装っているように生堅いままの、チヨの躰なのだ。だからとろけるように熟れた女の肌に接すると、チヨのなかに虚しく射精するだけの性交で慰められなかったものが、性欲を満たすにはこんな女でなくてはだめだと、しみじみとした思いのなかに沈んで行く感じが、何とも言えない里心を誘う。
龍一が茶を飲みながら、ぼうっと焦点の合わない視線を宙に浮かせている様子は、長野で何度も見てきたチヨだったから、夫の心がここに在らず、過ぎた時間を反芻しているのはよくわかっていた。
しかし、龍一がそとで女を抱いて帰っても、ほかの女を抱いたということには、まったく嫉妬の情が湧かないチヨは、そのために気を
狂わせるのではなかった。
チヨ自身も、若いときに、ほのかに抱いた良三への思いを懐かしんできたのだから、夫婦というものは、世間体を慮るための形式的な男女関係に過ぎないのだ、と承知してきたのだった。
困るのは、龍一が女にうつつを抜かして、家のことを忘れてしまうほど、虚けた男だったから、それをまたブラジルでぶり返されては、長野に居たときのように、尻拭いをしてくれる舅もいないし、遊んだ女の亭主と示談で済ましてきたようなわけにはゆくまい、という心配も生じるかもしれないし、ただ我慢しているだけで済まなくなるだろうからだった。
ブラジルに来てからは、相手が父親だろうと誰だろうと、思ったことをずけずけ言う柳子がしょっちゅういっしょだから、娘に目のない龍一が、自分勝手なことばかりもするまい、できるまい、と思うのが、チヨの頼みの綱だった。
「柳子はどこで酒を飲んだんずらねえ」
チヨが、夫の鉾先がまともに向かってくるのを避けるために、独り言のように頬杖ついて言うと、
「隣でだって言っとるぞ、隣の小屋のなかで飲んでいて、ふらふら外に出ていったんだって言うが、こんな隙間だらけの板壁の向こう側で、柳子が酒を飲んでいるのが、どうしておめえに見えなかったんだ。気がつかないっちゅうのが、おめえの油断だっちゅうんだ」
「お隣は、今日はみんな、自給用の畑に蒔いた人参を掘りに行きなさっていたんずらに」
「秋子は行かなかったらしい。秋子が柳子を誘って濁酒を飲ませたっちゅうじゃねえか。秋子っちゅうのは、あばずれだろ、男好きのする娘だし、百貨店に勤めてたっちゅうじゃねえか」
 百貨店で働く女店員も、喫茶店で働く女給も、均並に軽蔑する客商売だから、と思っていた龍一の言い方に、
「あなた、そんねん声を高くして」
と制するチヨが、龍一の偏見を気にしたのではなかった。
チヨも、秋子に対する評価は、龍一とほとんど同じだったから。
チヨが、隣に聴こえなかったずらか、と心配して夫を抑えなければ、聴こえるのを承知で、彼は言い募ったかもしれなかった。
龍一は感情が昂ぶってくると、自制心をなくするところがあったのだから。
熊野を軽蔑している龍一だったが、秋子はたしかに男の心を狂わせる魅力があって、秋子を抱く妄想を、ベッドに入ってから暗闇のなかで描いたこともあったのだ。それを妄想だけに圧し留めて、決して現実化し得ないと思っている抑圧が、歪つな嫉妬になっていたから、秋子に言い寄っている熊野だけではなく、言い寄られている秋子まで、悪し様に言ってしまうのだった。
チヨもある種の偏見では龍一と同調するところがあったが、そういう境遇に追い込まれたのも、男好きのする容姿も、秋子の責任ではなく、むしろ彼女は被害者なのだからと、その点では同情的で、秋子があばずれになったのも、悲しい運命のせいなのだからと思っていたから、秋子を面と向かって非難する気にはならなかったが、
「だからっちゅうて、柳子に変なことを教えてもらっちゃあ困るじゃねえか」
と言う龍一の意見には、同調する。
なにしろ、柳子が泥酔してしまうまで酒を飲むなどということは、チヨにとっては、青天の霹靂だし、論外のことなのだから、すべてを秋子のせいだ、と責任転嫁する龍一の言い方に、過去のことから推し量って身勝手なことだと思っても、いまは秋子を弁護する気持ちにはならなかった。
日ごろの、柳子のお転婆な行動を、タツが、
「柳ちゃんは不良少女やさかい、あんまり付
き合わんようにしなはれ」
と評して、子どもらを柳子から遠ざけるようなことを言ったと、どこかから耳に入ったときから、チヨは、タツに対して快からぬ思いを持っていた。
柳子が持っている性知識と、秋子や夏子が知っている性知識とは、まったく正門から入って覚えたものと、裏門から入って覚えたものとの違いだと惟うほどで、柳子が性に関する言葉を不用意に使っても、さばさばしていて卑らしさを他人に与えなかったが、秋子や夏子が恥ずかしさを混ぜて言う性の言葉には、どこかしら淫猥なところがあると、もう一年近くなる交際のなかで、チヨは感じてきていた。
そして秋子の躰つきや仕草を観て、この子はもう処女ではないだろうと、チヨにはわかったから、不良少女は秋子さんのほうではないのか、と口にはしなかったが、心に反感を持っていたところに、こんどのことが起こったのだから、秋子が柳子を誘惑して、泥酔するほど酒を飲ませたと聴くと、チヨは、
「もう秋子さんとは付き合わんようにせんきゃあ」
とこちらが言いたくなるくらいです、とタツへの反感を増幅させた。
どちらの親も親馬鹿で、わが子の落ち度をよその子に擦りつけるものだとわかっているから、苦笑混じりに、だったのだけれど。
チヨのような反省を持たない龍一は、
「秋子っちゅうのは、どっか崩れたところが見えるが、あの歳でもう男を知っているようだから、柳子に注意しておかんといかんぞ」
といつまでも秋子に拘って言う。
いろいろ家庭の事情はあるだろうけれど、母娘して熊野に取り入ろうとしている様子が明らかだったから、龍一が不快な感じを持って視るのは当然だろう、とチヨもこちらのほうでは夫の言い分を肯定する。
チヨが、柳子の様子を覗きにゆくと、柳子は、中風で倒れた祖父が、山颪かと思うような鼾を掻いていたのとそっくりな鼾を掻いていたから、ぎくっ、として柳子の肩をゆすった。
チヨが憶えている祖父の臨終は、鼾が止まったあとすぐに息を引き取ったのだから、あのときの祖父の鼾に似た柳子の鼾に、恐怖を覚えたのだ。
そういえば、柳子が鼾を掻くことなど、かつて一度もなかったと思って、チヨは、いっそう心配になる。
「あなた、柳子があんなに高い鼾を掻いててだいじょうぶずらか」
チヨが龍一にそのことを報せると、龍一は眉を顰めはしたが、
「心配はねえさ、ぐっすり眠ったら、酔いも納まるさ」
と言いながらも、息を潜めて、聴き耳を立てている。やはり心配になるのだろう。しばらくのあいだ龍一とチヨは、どちからも話し掛けず、神経を柳子の眠っている部屋のほうに向けていた。
交尾期の蝦蟇の鳴き声そっくりだ、と思うことで、すこしは気分が和らぐのがおかしかった。
夜の交響楽が長々と響くなかで、龍一はまた、外で抱いてきた女を想いながら、チヨを抱き寄せた。
「花の碑」 第八巻 第四三章 了
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