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「花の碑」 第八巻
第四一章
小森秋子が、熊野に身を任すことを決心するために、それほど大袈裟な覚悟がいったわけではなかった。
すでに大阪で、母親から泣きつかれたとき、父が「そんなことするくらいやったら、一家心中したほうがましや」と言うのを、秋子自身が宥めて、「どんなことしてでも生きるのんがいちばんだす。生きてたらまたええ目もでけますねん、生きるために身ィ張るのんはちょっとも恥ずかしいことやあれしまへんえ」と言う母のほうが正しい人生観や、と秋子も思ったほどだったから、もう何人もの男を知っている躰が、いまさら惜しいとも考えなかったのだ。
いつでも、どこでも、人生は賭けや、熊野が吉田のようなことをしたら、あのときみたいに泣き寝入りなんかせえへん、思い切って刺し違えてもええ、という覚悟もできていた。
「熊野さん、園子さんと別れてウチに義理立てせんかてええねんし。ウットコの借金を熊野さんが被ってくれるか、帳消しにしてくれたら、ほかに条件あれしませんさかい」
秋子は、熊野を園子から取って得なことなんかあれへん、と思っているから、熊野夫婦がみっともない夫婦喧嘩をしたというのを知って、熊野にきつく言い渡したほどだった。
男を何人か知っているといっても、熊野ほどその行為によって恍惚感を知らしめてくれた男はいなかったから、秋子もそんな気持ちになれたのかもしれなかった。
ほとんどの男が呆気ないほど早く終わってしまうのに、ねちねちして嫌らしかった吉田のようではなく、顔に似合わないやさしい声を出すのが、躰のほうでも同じで、武骨で粗雑だろうと思っていた行為がさにあらず、繊細微妙な動きをして、女の深いところからえもいわれぬ快感を呼び起こしてきて、苦しいほどの悦びを与えてくれる熊野だったのだ。
それがまた長い時間をかけてだから、ああ、このまま死んでしまうのではないかと思う恐怖ではないのだけれど、もう死んでもええと思う極限状態まで突き上げて、セックスのほんとうの歓喜というものを、躰のなかに植え付けられたから、そのときには、もうこれ以上の絶頂感を、今後二度とは味わえないだろうと思うのに、またしばらくすると、もっとすばらしい愉悦を知るのではないだろうかと、逞しい熊野の肉体を求めて、躰の芯が疼くのだった。
タツが言うことも、全部が全部御都合主義ばかりではなく、お針子から縫製工場を経営するまでになった実際面の経験が言うことだから、姿形が良く頭脳明晰でも、厳しい現実に立ち向かってゆく力のない鷹彦など鼻にもかけないのは当然で、いま現実に生活の窮状を救ってくれるのは熊野以外にいないのだから、醜男でも野卑でも、男の逞しさに縋らなあきまへん、というのが真っ当な生き方なんや、と秋子も体験的に知って、いま縋るもんいうたら熊野さんのほかにあれへんのやよって、と気持ちの上では、まだみずからの敗北を認めたがらない根性があった。
身は任しても、そして躰が要求しても、心から熊野を好きになってのことではないのだから、彼の子を産みたいと思うようなことはなく、その行為による快感とは裏腹に、彼の精液が体内深く入ってくることを拒否するものがあって、大阪の町角の、煙草屋の軒先で風に揺れながら、恥ずかしげに歪んだ字で「サックあります」て書かれてたボウル紙が、ブラジルの片隅で心に揺れて、なんとか妊娠せえへんようにせなあかん、ということだけは考え、またオギノ式をはじめていた。
「子ぉ産みとうおませんさかい、いつでもいうわけにはいかしません。妊娠せえへん日ぃだけにしてちょうだい」
一度してしもうたら、女はもう俺の言いなりになる、と過去の女たちとの経験でそう思っていた熊野は、それまでなよなよしていた秋子が、そんな女たちと違って、してしまったあとのほうが、性格が勁くなったように、言いたいことをはっきり言ったから、芯は勁い女たい、と怖いやら、うれしいやらで、ええ加減なことしたら、金玉握りつぶされるかも知れんと、心を縮み上がらせていた。
 しかし、秋子の肉体だけが熊野を求めるのとは逆に、熊野のほうは、もうこの女を忘れられんたい、という執念をいっそう持つようになっていた。
そうは言っても、秋子もあの日、はじめて熊野に身を許す気になって、
「もう辛抱でけんけ、秋ちゃん、いつまでも焦らさんでくれんね」
と熊野が圧し掛かってくると、もう妊娠のことなど忘れてしもうて、男の躰にしがみついて行ったのだから、ウチかて、ええ加減なオナゴや、と自分自身のだらしなさを呪ったりした。
罰当たりは覿面で、熊野の好きなようにさせていたとき、柳子が傍を通りかかったのには驚いた。
口を食い縛って、背筋を貫く快感に声を放つのだけは堪えなければと思いつつ、絶叫してしまったのを聴かれなかったかと、それが辛かった。
あれで熊野は、醜い顔が崩れるほどに満足し、秋子のほうも、いぜん鷹彦に抱かれて見たい、と寝床のなかで悶々とした躰の疼きが癒され、炎天下の労働の辛さも、いちじなりとも忘れられたのだから、男の人て、しょうない生き物や、なんどとばかりは言えないのだ。男はんは性欲を表に出しはるけど、オナゴは膣を溶鉱炉にして熱いマグマをつくってんねんさかい、と秋子は女の業を知っていた。
それでも秋子は、
「熊野さん、鼻の下長うしてるだけやのうて、ちゃんと面倒見てくれへんかったら、ウチ黙ってしませんさかい」
と責任を熊野に被せて、釘一本差しておくのは忘れなかった。
「わかってるたい、そげなこと言わんでも、ちゃんと責任取るばってん」
熊野は長いあいだ待たされたあとの征服感で満足しただけではなく、かつてほかのオナゴでは体験したことのなかった、秋子の肉の虜になって、このあともこの至福のときを何度も再現しなければ、と思う執着がいっそう増幅していたから、秋子のほうも絶頂感を得て、そう強いことも言えない状況にあることまでは思いが届かなかった。こんなええオナゴ滅多に居るもんやなか、このオナゴのためじゃったら少々の無理もせんけりゃならんたい、と覚悟を決めていた。
いや、覚悟などというものではなく、自制できない愛着を、体験するまでは気持ちだけで求めていたのが、肉体までもが猛々しくなって、園子が求めてきても、背を向けてしまうほどになってしまったのだ。
園子が拗ねて、すすり泣くのを聴きながら、俺は秋子のために身を滅ぼすかも知れん、と思ったりした。そして自暴自棄からではなく、それでもええ、と思うくらい秋子の肉を貪ることで得られる満足感を反芻する。
秋子は一度も野天でこんなことをしたことはなかったから、はじめてのときには、いくらこんな草叢のなかに隠れても、誰かの眼が覗いているのではないだろうかと思って、なかなか気分が熊野の巧みな誘導にも乗ってゆけなかったのに、おかしなもので、一度してしまうと、二度目はもう下界の視線だけではなく、お天道さんに肌を曝すのを躊躇しなくなる。
そんな生易しいものではなかった。秋子自身が呆れるほど、男を求めて腰のうら辺りが疼く夜もあったのだ。ウチもやっぱりお母ちゃんの子や、好いてへん男はんにでも抱かれ
たい、抱かれてるあいだは相手が誰やなんかどうでもよくなるんやさかい。
それほど狂うたなかででも、男の自由になるオナゴやあれしまへんえ、こっちが男を自由にあしらわんと、と秋子はきつい気持ちを持って、生理にことよせ、熊野の欲望を制御するようになった。
こちらの躰の都合だけではなく、焦らせて待たせたあとの行為が、いっそう高い快感を得られるのは、男だけではなく、女のほうも同じなのを知っているからでもあった。

だから今日も、熊野が誘わなくても、
「ちょうどこんどの日曜日、だいじょうぶやさかい」
と秋子のほうから、熊野をぞくっとさせる艶のある視線を、そそいだ。
秋子と熊野が、小川のほうの、風除けの雑木林ではなく、ずっと上の大きな原始林のほうへ連れ立って行くのを、ミモザの背の上から見とめた柳子は、遠目にもふたりのあいだに普通ではない親密さが濃く漂っている雰囲気を感じて、この頃秋子が、こちらに対してちょっとよそよそしくなった原因は、これなんだと思って、その原因の密度の濃さを計りたい誘惑に敗けてしまう。
視野の高さが違うし、平面をこちらに傾けた地形だから、秋子と熊野が歩いてゆくのが手に取るように視えた。
そこは、休日にはほとんど人の通らないところなのが、乗馬するようになってからこの農場を隈なく探索した柳子も、知っていた。
ふたりはべつに人目を憚るといったこそこそしたふうではなく、なにか談笑しているようだったから、鷹彦を夢に見るほど慕い、熊野を虫唾が走るほど嫌っていた秋子さんも変わったなあ、と柳子は思いながら、自分のほうがこそこそ隠れてついてゆくのを疚しく思う。だけど旺盛な好奇心を抑えられるものではない。
これからふたりが何をするのかはおおよその見当がついていながら、そしてそれは、覗き見などしてはいけないことだとわかっていながら、それだからこそ覗き見する価値もあるのだと思う。
ああ、あのふたり、あれでも用心したのか人目を憚ったのか、農道と農道のほぼ中間の、まだコーヒーの実が採取されていない、実も葉もたわわに実り、繁っている、人の秘事を隠してくれるところで立ち止まり、コーヒー樹の波間に沈んだ、と柳子はしっかりその場所を確認してから、ミモザから降り、手綱を木の枝にからめて、忍び足で近づいてゆく。
少しばかり秋子のほうが疎遠になって、また春雄も柳子と馬に乗ることを禁止されているらしく、柳子のほうには来ず、子ども相手に遊んでいた。
もちろんコーヒー採取の作業が終わるまでは、口を利くのも億劫にもなるほど、躰が疲れてきているしで、家族同士の付き合いも、いままでのようには親密さに欠けるところはあったのだが、まだ秋子との友情に罅が入っているわけではなかったから、覗き見などしているのがわかったら、友情が決定的に破壊されることになるだろうと思って、柳子も細心の注意を払っていた。
熊野も秋子も、柳子が接近してきているのはまったく知らずにいたから、柳子がつい近くまで来たときには、もう衣服を脱いで全裸になっていた。
柳子は、どん、と胸を突かれたような衝撃に、声を放ちそうになったのを、やっとの思いで堪える。そして、自分自身が他人から裸体を見られているような錯覚がして、辺りに眼を配っていた。
そこがちょうど、ふたりの姿が見え、かつこちらの姿を見られない位置だと思って、そっとコーヒー樹の陰に身を屈める。
秋子は二人が脱いだ衣服を褥にして、横臥し、熊野が上に被さってくるのを、少しも怯
む様子もなく、心持ち足を広げて、熊野が割って入ってくるのを、待っていた。
秋子の眩いほどに白い裸体に、柳子は眼を瞠った。まるでその白さは、神々しい光を放っているように視えた。それは、いまから、いやらしいことを始める女の裸体には、思わせないものがあった。
それと対照的に、熊野は熊襲みたいな人やねえ、と彼の裸体も知らずに陰口し合ったことがあったのだが、それが現実にもその通りで、胸毛だけではなく背にも黒いごわごわした毛が生えていて、名は体を表わすってこの人のためにあるみたいだ、と柳子はまじまじと見て、嘔吐を覚えた。
熊野は、何度してもこのオナゴは、いまはじめてするような新鮮さがあって、こちらまで初心な気持ちにさせられるのがふしぎばい、と思いながら、羽二重餅の肌を抱いて、おもむろに入ってゆく。
秋子は、入ってくる熊野が、同じ日本人なのになんでこないに違うんやろ、ともう知っているのに、はじめて経験したときの感激をまた覚えて、ああ、もうやめられへん、と思う。
熊野は、女の海に溺れてゆきながら、溺死してもええ、とまた思う。はじめてしたときの感激が新たになると、快感が相乗的になるようだった。
秋子は、徐々に這い上がってくる快感のなかで、身を捩ったとき、眼の端にちらっと動いたもののあるのを感覚する。土に顔がめり込むように被さって動いている熊野の肩越しに、秋子はもういちど確認しようと思って眼を凝らすと、コーヒー樹の陰で動いたものがはっきり視えたわけではなかったが、あ、柳ちゃんちゃうやろか、と思った。思ったとたんに躰が硬直していた。
熊野は、もう秋子が早々と絶頂に達したのかと驚きながら、秋子から羽交い締めされる感じに堪えられなくなってしまう。
男女がすることは、すでに何度も、両親のまぐわう息遣いを耳にし、隣の夫婦が睦むのを覗き見し、覗き見しなくても大っぴらにガイジンたちが野合するのを見ていたから、そのことにショックを受けたりはしなかったが、秋子がそれをすることに、少しも躊躇しないばかりか、むしろ熊野をよろこんで受け入れているようなのがショックだった。
それでもまだ柳子は、秋子が、家族全員の苦しい生活をいくらかでも楽にできたら、と思う犠牲的精神で、こんなことをしているのだと思いたかった。そうでなければ救われないではないか、と涙が込み上げてきそうだったから、もう二人がどんな関係まで進んでいるかを確認できたのだし、と思って、そっと後退りにその場を去る。
秋子の人生にとっては、すごく悲しいことだと思って、柳子のほうが身につまされ、熊野に対しては、このあいだ園子をあんなに苛めていながら、秋子にでれでれしているのを見て怒りを湧かせ、これが厳しい人間の生きざまなのだろう、と強引に認識させられることに、憤りを覚えた。
柳子は、わなわなと躰が震えはじめるのを、じっと堪えているうちに、全身が硬直してくるのがわかった。脚を前に出せないで立ち竦む思いがして、コーヒー樹の枝につかまって、みずからの肉体に起こりつつある異変の、恐怖感を耐えなければならなかった。
ようやく躰にもとの柔らかさが戻ってくると、柳子はいっさんに駆け出して、ミモザの背に這い上がり、鬣に顔を埋めるようにしてうつ伏せる。
ミモザは柳子の心境を察している様子で、ゆっくりと歩き出していた。
秋子は、あの子はきっとウチの行動を監視しつづけていたのに違いないと思う。後始末をしながら周囲に視線を配ったが、すでに人影はなかったし、気配も感じられなかったから、ひょっとしたら錯覚やったかもしれへん。気のせいやったかもわかれへん。そうであって欲しいと思う。
柳子を嫌いになって避けているのではなく、理由がどうあれ、熊野に身を任せることを一種の人生の敗北には違いないと思う気持ちが、柳子に顔を合わせる気づつなさになっているのだから、友情は壊しとうない、いつかこのことを理解してもらうために話合わなあかん、と思っていたやさきだったのだ。だからまともに見られたら恥ずかしいて、どう言い繕うてええやら、言いように困る。どうぞ柳ちゃん、見やへんかったことにして。たとえ見ても、これはあんたらにはわからへんおとなの世界のことやさかい、眼ェ瞑って欲しい。何も知らんことにして通り過ぎて欲しい。と秋子は心のなかで手を合わせていた。
神さんが造った運命やし、前世から仏さんが決めてたことやし、ウチひとりではどうにもなれへんことやさかい。
秋子は意識的に責任回避を考えてそう思うのではなく、人情に溺れ易い大阪人間の自然な感情でそう思うのだった。
「花の碑」 第八巻 第四一章 了
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