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「花の碑」 第八巻
第四〇章
柳子がいつもこんなことを考えていたわけではなかったが、何の関連もなく、ふいに口から出てくるのは、いつもの癖だった。
「ねえ、お父ちゃ、『働けど働けどわが暮らし』っていう石川啄木の歌知ってるでしょ」
夕食の席で急に柳子が言い出すと、龍一は、何を言うための前置きかわからないから、用心しいしい、
「ああ、あったな、暮らしが楽にならんとかいう愚痴ばかりこぼしている男の歌だろう、儂はあんなひ弱な男の歌は好かんよ」
と話の接ぎ穂を断ち切るような受け方をする。
「そうじゃないわよ、歌のことじゃないのよ、わたしたちの現在の生活状況を言いたいのよ。このままだったら、どうにもならないでしょ、どうにかしなきゃあと思って」
「そりゃそうだ、そんなこたあおまえから言われんでもわかっとるよ」
「じゃあお父ちゃ、なにか対策立ててるの、」
「ああ、考えてはおる」
「お父ちゃの考えてるのは、考えてるんじゃなくて、時間を稼いでるだけでしょ」
「親を馬鹿にするな」
「馬鹿になんぞしてないけど、いろいろとジョアキンさんの手を煩わした前例もあることだし」
「嫌みを言うな」
「嫌みじゃなく、現実を言ったんですけど、働けば働くほど借金が嵩んでゆくようでは、啄木さんより生活が悪くなってゆくんじゃないかと心配してあげてるんですけど」
「それを嫌みというんだ。隣の借金と違って、我が家のは罰金だ」
 口達者な娘から一本とって、龍一は溜飲を下げる。
「あら、お父ちゃ、わたしのせいにするつもりなの」
「いや、責任は儂にあるんだが」
変な言い方をすると、娘から揚げ足取られて、またうるさいことになると思って、龍一は早々と白旗を立てて、形勢の悪い戦線から迂回する。
「そうよ、そういうふうに責任の所在をはっきりさせておいてから物言ってよね」
チヨが、くすくす笑って聴いている。
この頃柳子が頓に理屈っぽくなったのは、あの青年の影響だ、と思って龍一は苦々しい顔をしたが、それを言うと、また娘が突っかかってくるのはわかっているから、のらりくらりと躱すしかないと思っている。
「それで何を言いたいんだ」
「べつに」
「べつにってことはないだろう、何かいい思案でも浮かんだというんじゃないのか」
「わたしが思案することじゃないもの、お父ちゃのほうにいい思案でもあるのかなあって、ちょっと打診したかったのよ」
「具体的にはないよ、まだ」
「まだなくていいのかしら、もうすぐコーヒー?ぎが終わったら、ここを清算してよそに行くんでしょ、それともまだここに居るつもりなの、お父ちゃ」
「いや、ここにはいないよ、どこかへ行くさ」
龍一の言い方が、どう聴いてものんきそうだったから、
「まあ、あなた、そんなことを」
とチヨが呆れる。
「はははあ、当てもない旅烏もいいもんじゃないか」
龍一は冗談にして言ったが、ほんとうにそういう気持ちもあった。
家の外で何かをすると、自分が家に帰るよりも早く、噂のほうが広まっていて、誰のことかと噂されている本人のほうが聞き耳立てるほどに狭い長野の窮屈な生活から、巧い具合に抜け出してきたブラジルだったから、いっそ息抜きには無目的のほうがいいと思ってもいた。
しかし、柳子の気持ちを慰めるために買った馬の代金や、柳子が仕出かした悪戯で払わなければならなくなった罰金とか、責任量がこなせない労働力を補うための加勢を雇った日当とか、ベンダに借りを作りたくない生活費を持ち金で賄っているのだから、懐にしてきた日本円を換金したものが、眼に見えて減ってゆく不安は大きかった。
移民船のなかで、片岡製糸から養蚕技師としての派遣を中止されても、乗りかかった船だから、せっかくのブラジル行きを中止せず、手持ち資金で二、三年は物見遊山をできるだろうと思っていたのだけれど、このままでゆくと、そうのんきにもしておられなくなっているのは事実だった。
かといって、ブラジルを一年だけで、のこのこ帰ってゆくと、それ見たことかと嗤われるのは必定だし、もうちょっと観て見たいという未練もあったし、娘から言われなくても、どうしようかと考えてはいたのだ。
迂闊なことをすれば、家族もろともブラジルの大地に呑み込まれて、消滅してしまわないとも限らない、そんな愚かな結果になれば、儂はともかくも、娘の柳子に申し訳ない。柳子だけでも日本に帰すか、とも考えていた矢先だった。
「柳子、おまえ一人で日本に帰れるか」
 思ったことをひょいと口から出すのは、柳子の性格を創った張本人だから、そっくり娘と同じだった。
「どうして、どういうことなの」
 唐突に言われて、柳子は眼を丸くする。
チヨも予想していなかったから、不審な視線をねじれさせる。
「儂はもうすこしブラジルに居て、情勢を窺がうつもりだが、どうせ二年かそこらのことだ、おまえが先に帰っていてくれたら、儂は安心しておられるんだが」
「いやよ、せっかく来てしまったのよ、ブラジルをもっと知らなくちゃもったいないじゃないの」
「そうか、おまえもそう思うか。じゃあこれからも、嫌な農作業でもしてくれるんだな」
「してきたじゃないの」
「ああ、ようやってくれてると思ってるよ」
「じゃあそれでいいじゃない」
父娘の会話を聴いていて、もっともほっとしたのはチヨだった。
「ねえ、お父ちゃ、わたし一度鷹彦さんといっしょに薬局に行って、日本語の新聞読んだことあるんだけど、そのとき、その新聞に、土地を売る広告が出てたわ」
「おお、そうか。いくらくらいで買えるのかなあ」
「日本人の造った植民地でね、一区画が五アルケーレスで四コントの四年分割払いだって」
「そうか、一度見に行ってくるか」
「わたしも行く」
「いや、おまえはまだ行かないほうがいい、他人に知られたくないからな、儂がひとりでこっそり行って来よう」
チヨが心配顔になる。そして表情に顕わしただけではなく、口にする。
「だいじょうぶかなんし」
「おまえもここに来た折、見たじゃないか、リンスという大きな駅の駅前に、日本人の店があっただろう、熊野も言ってたが、村上さんもそう言ってたよ、リンスに行けば、日本語で用が足せるって」
「そうだってよ、お母ちゃ」
「はっきりするまで隣のものにも言うんじゃないぞ、おまえは口が軽いから」
龍一は、柳子に向かって口止めをする。
そう言った龍一は、柳子の親らしく、いたって尻が軽い。柳子が分譲地の話を出して、興をそそられただけでなく、うんそうだ、小
さい土地を買ってブラジルで悠々自適というのも悪くないなあと思うと、もう居ても立っても居られなくなる。
リンスの駅前には、日本人の土地斡旋業者も店を構えていると言った旧移民の村上の話によると、分譲地の区画は一応十アルケーレスづつになっているが、それを半分にもしてくれるらしい。半分といっても五アルケーレスだ。五アルケーレスといえば、日本の十二町四反ほどだというのだから、日本では貧乏百姓が易々と手に入れられるものではない。
十二町四反の農地が、自分一人の手におえるものではないのはわかっていたが、なにも慌てることはないのだし、端から少しづつ齧ってゆけばいい。うん、そうだ、ここでも、契約労働者の身の儂が、もう日雇い労働者を雇ってるんじゃないか、あいつらはうんと安い日当でも働くんだ。それも一農年の収穫で地代も労賃も払えばいいというのだから、儂が炎天下で苦吟しなくても、なんとかなりそうじゃないか。
先祖代代小作人を使ってきた家の、総領息子に生まれたものの発想は、他力本願だし、甘ったれているのだ。なんとかなるだろうと思うのは、性格的なのんきさでもあった。
ブラジルでは大先輩の旧移民、村上のところに足を運んで、土地購入に関する知恵を授けてもらおう、と考えて、龍一は、次の日曜日に訪ねる。
「オニブスがねえ」
「オニブス」
「オニブスちゅうのは、ブスの鬼婆のことでねえよ、乗合バスのことだすら、オニブスちゅうても、ジャルジネイラじゃけんど、それが朝晩二回、薬局の裏に停まりますけん」
村上の話し方は、非常にわかりにくかったが、そのジャルジネイラというオニブスの乗合バスに乗れば、同じことを三回言い換えて、リンスの駅前まで連れて行ってもらうと、駅前に日本人の不動産屋がある、というのだから、未知の国でも道に迷うことはないとわかっている安心の上に乗って、龍一は出かけることにする。
龍一は、宵っ張りの朝寝坊の柳子が、まだ白河夜船を漕いでいる時間に起き出して、チヨの心配する顔に、声を落して、
「寄り道なんぞせんから、心配するな」
と言ったのは、日本では、家を出てゆくと、あまりにも寄り道や道草することが多かったからだろうが、まだ西も東も解らないブラジルで、夫が寄り道などできるとは、チヨも思っていたわけではなかった。
龍一は、熊野にだけ、一農年が終わったら自作農になるので、土地を購入するために外出させてくれるように、ただしこのことは、それができない人の気持ちを考えて、口外しないで欲しい、と頼むと、何年も移民を世話してきた熊野だから、
「内藤さんみたいに、はっきり断ってもらうと、気持ちよかたい」
と快く承知してくれたから、龍一のほうも気分をよくした。
「門の前に出て、オニブスが来たら、手ぇ上げたら停まるけ」
 熊野が、オニブスと言ったから、村上さんはジャルジネイラとおっしゃっていましたが、と笑いながら訊くと、もうジャルジネイラ言わんとたい、村上は頭が古くて、頑固者じゃけ、と熊野も笑った。
村上老人が話した、ジャルジネイラという乗合バスは、車体の側面がなく、公園においてあるような長い腰掛が、前向きに並んでいるところに、じかに乗り込むようになっているということだったが、大門の近くで龍一が待っていると、日本の乗合バスと同じような箱型で、前方にある入り口から乗車するようになっていた。
凹凸のひどい地道を走っているあいだに、解体してしまうのではないだろうか、と心配になるほどの代物だったが、言葉のわからな
い龍一でも、なんの支障もなくリンスの駅前まで運んでくれた。
この当時のリンスの町は、ノロエステ線の中心地で、市街地にもその周辺の農地にも、日本人移民がおおぜい住んでいて、大通りに面した家の軒先を借り、日本人だけを相手に日本商品を商っているだけでも、充分生計が成り立つほどだった。
駅付近だけでも、日本人向け食料雑貨店が十軒も数えられたし、うどん屋があり、豆腐屋があり、日本式の旅館も数軒あり、日本人の医師もいて、農業から商業に転業した家族が百家族以上にものぼっていた。
駅前で出会った日本人が、見知らぬ龍一に向かって、なんとなく目礼して通り過ぎるのが、まるで長野の安曇村のなかを歩いているようだ、と龍一に思わせた。
それに心を慰められるだけではなく、日本語で用が足せるといった安心以上のものを感じて、なんだ、あんなガイジンの経営する農場で、半農奴的な監視つき労務者になり、苦労して、馬鹿みてしまったなあ、と移民収容所では、もっとも条件がよさそうだと選んだのだが、それしか方法を知らなかったことを、いまさらに口惜しがる。
日本人が営む商店は、日本語の看板が上がっていたから、不動産斡旋所はどこかと訊ねることもなく、探す手間もかからず見つけることができた。
のんきな龍一でも、金持ちの血を引いてきた狡さと用心深さで、店内の雰囲気をまず嗅ぎ取る心眼を働かせながら、のっそりと入ってゆく。
なかにいた三人の男たちが、かえって胡散臭そうな顔をして龍一を観察した。
「わたし、内藤龍一と申すものですが、農地のことについてお伺いに上がったのですが」
龍一が、腰を低くして言うと、とたんに彼らの眼が、いっせいに和んだ。その和んだ眼のなかに、商売人の計算高さが滲み出しているのを、龍一はすばやく読み取っていた。
この種の人間は、普通の商売人以上に用心しなければ、うっかりするとゲテモノを掴まされることが多いから、と思っていた龍一は、そんな気持ちが言葉に表われないよう気をつけながら、
「日本人植民地のなかの農地が売られているとか聴きましたもので」
と言った声が、物欲しげな心のうちを露わにしてしまっているのに気づいて、われながらしまったと思う。
男たちの顔のなかで、いちばん彼らの気持ちを代表したのは眉毛だった。まるで人形浄瑠璃の、人形の眉のように大きく動いて、
「まあ、そこに掛けんね」
と声を揃えて言って、三人が顔見合わせ、苦笑する。そして目顔で示し合わせるようにして、二人の男は奥の席に移り、三人のなかでいちばん温厚そうな丸顔の男が残ったのを見て、龍一はなんとなくほっとする。
「儂は山田ちゅうけ、なんでも気安う相談してやらんね」
龍一が固い椅子に尻を据えるのを確認するように、言葉を切って、
「どっち方面欲しいの」
と問う。
「ええ」
龍一は困る。どの方面と訊かれても応えようはないのだから、新参者だと侮られるのは嫌でも、曝け出さなければならなくなる。
「まだブラジルに来たばかりで、どちらと訊かれても、どちらが東なのかわからないので」
「ブラジルに来たばかりで、こんなところに土地探しに来たんは、あんたが最初たい」
山田は呆れ顔をする。
「はあ、そうですか」
とぼけた顔を見せる龍一を見て、かえって山田は、これはただ者ではないぞ、と思う。
奥で聞き耳を立てていた二人も、山田と同じ思いの顔をした。
「たいていブラジルに来るもんは、契約労働者か、日本人が造った植民地に入ってくるのが普通でね、土地を探してくるのは、もうブラジルの様子が少しはわかったものだもの」
「まあ、わたしも来たばかりと言っても、もうかれこれ一年近くにはなりますが」
「それにしても。いまどこに居るんね」
「スイス人耕地というところですが」
「スイス人耕地といっても、いくつもあって、この辺り一帯がスイス人耕地なんだよね」
「ああ、そうでしたか、さあ、わたしの居るところはどこなんでしょうかねえ」
「わっはっは」
三人の男たちが、いっせいに笑う。
嗤われたと思った龍一も、自分が言った言葉に気づいて笑ってしまう。
「いやあ、あんたはおもしろい人だね、そののんきさだったら心配ないですよ、ブラジル向きたい」
山田が言い、
「どこなの、くには」
と奥から声がかかる。
「あ、もちろん日本ですが」
 龍一が、くにという言葉がどうにでも取れるあいまいな言葉だから、一応国籍のことにして応えると、また男たちが、声をそろえて笑った。普通日本人同士が話していて、くにはどちらか、と訊かれると、出身県を指すものなのだ。
「生れ故郷のことなんだけど」
「ああ、長野です。長野の安曇村」
「ああそう、東京、大阪の、都会者かと思ってたがね」
「横浜に長く住んでたもので」
「そうだろうね、そんなバタ臭い感じしたもの」
「農業の経験はなさそうだね」
「ええ、はじめてなんですよ」
龍一は、長野の養蚕農家だというのを、そう意識せずに伏せていた。
「さてと、あんたのほうに希望地がないちゅうことになると、こちらで適当なところ探して上げようかね」
「どの方面がいいかはわかりませんが、希望はあるんです」
 龍一は、急いで、条件があることを表明しておかなくては、と思って言う。
「ああ、そう、どういう」
「ちゃんとした家のあるところを」
「ちゃんとした家」
「ええ、掘っ建て小屋じゃなくて」
「ちゃんとした家ねえ、ちゃんとした家ちゅうのがどんな家だか、儂にはわからんが、まさか煉瓦建てとか言うんじゃないだろうねえ」
「そういうものがあればいいですが」
「あんた、そこで何するの、農地といえば、まさか、あんた、別荘買いにきたんじゃないだろうね」
「いえいえ、滅相もない」
「別荘が滅相もなくて、煉瓦建てちゅうんだから、あんた何様なの」
「いや、そんな何様とか宮様とかいうものじゃありませんが、いま住んでるところがあまりにひどいもので」
「ひどいちゅうても、あんた、コーヒー農場の契約労働者で入ったんじゃないの」
「そうですがね」
「それじゃあ掘っ建て小屋が普通なんだけど、あんたのように、はじめから煉瓦建てなんぞちゅう贅沢なこという人、儂はいままで見たことないよ」
「ありませんか」
「ないねえ。どうも、あんた、どこかのお坊ちゃんのようだねえ」
「いや、そんなものじゃありませんが」
山田は、龍一の言うことを信じられないようだった。口をへの字に結んでいる。
「山田君、ゴヤンベーにあったじゃないの、煉瓦建ての、あれさ、あれ」
奥に座っていた男が、声を投げる。
「ああ、あれねえ、あそこはガイジンが別荘にしてたとこだけど、まあ、あそこでも農業できんことないわな」
二人の会話が、なんだか怪しげに聴こえたから、龍一は、
「権利書のはっきりしたところをお願いしたいんですが」
と念を押す。
三人の男の眼が、いっせいに改まる。
「あんた、ただもんじゃないね、そういうことを言うのは。でもねえ、あんた、儂らがそんなおかしなもの扱ってる思うてもろては困るよ」
奥の男が、むっとしたように、声に凄みを利かして言う。
「いや、そういうことは思っていませんが、不動産のトラブルは、思わぬところから発生するもんですから」
「なにか日本で、そういうことしてたの、あんた」
「いいえ、そうじゃないですが、友人が不動産のことで困っていたのを見てきてるものですからね」
「これ、読んでみんね」
山田が、それまで玄人が素人を弄るような物言いをしていたのを改めた調子で言って、差し出した新聞の、社会面のなかの赤インキで囲んである記事を、太くて短い人差し指で指差す。
「ほれ、ここ」
龍一は、頸を伸ばして読む。
「土地年賦拂新規定で買主の權利を保障」という見出し記事だった。
「年賦拂土地賣買に就いては今年度新たに買主に對する權利を保障される規定が設けられ一般在留邦人の受ける恩惠も相當大きいものと豫想されているが、年賦で土地を賣買する場合一、地圖。二、契約書。三、参拾年間に於ける地券の經歴。四、税金納入證明書等を不動産登記所に登記せねばならぬ事となった」
龍一が読み終わるのを眼で追っていた山田が、
「今年出た法令だよ。あんた運がいいんだ。法律で護られてるし、その上、うちのような信用のできるところにきたりで」
と我田引水も、忘れずに付け加えて言う。
「そういうことじゃけ、おじさん、安心せんね」
三人の男のうちで、もっともずるそうな男が言う「安心せんね」は、かえって逆効果だと龍一は思いながら、
「あなたから、おじさんと言われると、ばかにされているような気がしますよ」
とすこし硬い表情になって、苦笑する。
「ブラジルに長くいるとね、ブラジル式の言い方になるんですよ」
龍一の担当になった山田が、龍一の人品骨柄が卑しくないと思ってだろう、ぞんざいだった言葉遣いを改めて、弁解のように言う。
「わたしがいちばん若いように思うのに、歳いった人から、おじさんと呼ばれると変な気がします」
「内藤さんは、お幾つになりました」
「四十五です」
「じゃあ若いわけだ、儂がここではいちばん若いが五十だもん。だけどあんた、老けて見えるね」
「そうですか」
龍一はくすぐったい気分で聴く。女たちからは、いつも歳より若いと言われていたのを想い出しながら。
「どうね、ゴヤンベーの土地、視に行くかね」
権兵衛でも田吾作でも、視に行かねば話が始まらないだろうと思って、
「はい、その権兵衛さんのところをお願いします」
と龍一は頭を下げる。
龍一が権兵衛と聴いたゴヤンベーというの
は、これも日本人の耳と舌の都合であって、正しくはグァインべーという、日本人が多い植民地の一つで、その他リンスの町からもっとも近いものとしては、一九一五年に拓かれた平野植民地をはじめとして、翌年にはバルボーザ、次の年にはエイトール・レグルー、そしてつづいて上塚植民地など、日本人の手で原始林を伐り拓いたものが、この辺りにはたくさんあった。
そのなかでも、グァインベーは小さい植民地だったが、すでに小規模な町もできていて、日本人相手の商店や食料品店もあった。
山田は、龍一をその植民地に連れてゆくあいだじゅう、ほとんど切れ目なくしゃべりつづけていたほど、話好きな男だった。
すでにブラジルに来てから二十年になるといい、知ったかぶりをする感じはあったけれど、悪気のない、いかにも百姓上がりの斡旋業者といった、まだ朴訥さの剥げ落ちていないところがあった。
龍一は、そんな山田から、ずいぶんたくさんの、日本人社会のことを知り得た。
山田は、さすがにこの辺りの顔見知りらしく、グァインベーを通るという小型トラックをつかまえて、同乗させてもらい、二十キロ足らずの植民地に降り立つと、腕を上げて三百六十度、ぐるっと指し示す。
「ここらみな、日本人の土地だよ」
その様子が、一国一城の主が平定した領土を四顧するようで、おかしかった。
日本人向けに売り出されている植民地の区画は、購入し易いようにと、最小五アルケーレスに分割されていて、一アルケールが二町四反余りあり、五アルケーレスといえば十二町歩以上あるのだが、それが四コントス、日本円に換算して八百円になる。もちろん八百円といえば大金で、日本にいるとき百円札など一度も見たことのないものが多かったのだから、日本ではおいそれと買えるものではなかった。
それを年毎の収穫時に返済して、四年ばかりで払い終わり、小地主になれるのだから、日本にいるときには小作人や水呑み百姓だったものには、ブラジルに移民して来てよかったなあ、と感激できることだった。
ここらは、スイス人耕地のように、見渡す限りコーヒー畑ばかりというのではなく、トウモロコシが植えられていて、野菜畑も広く、日本の農地を彷彿とさせるところもあった。
人間到る処に青山有りで、日本でつくった借財を返済する金さえ送れば、みずからが錦を飾って帰郷することもないと思うのだが、そこは人間、浅ましい見栄があって、外国に渡って成功したことを、鼻高くして自慢もしたいのだろう。
山田の話によると、ちょっと故郷に錦を飾って、大地主になった法螺話をぶちまけて、またブラジルに舞い戻り、日本で大尽風を吹かせてきた自慢話を、ブラジルでするというのが、ひとつの流行になっているとか。
農業は、自然を相手にして博打を打つようなものだから、なかなか思い通りにはゆかないが、一丁当たれば、一朝にして何百町歩何千町歩という大地主になれるというのも、ブラジルでなら、決して誇大妄想ともいえなかった。
そんなことを、山田の話を聴きながら、龍一も思った。
龍一は、まだここを墳墓の地とする気持ちはまったくなかったけれど、いつまでも物見遊山な気持ちでいてはいけないなあ、たとえ二、三年で日本に帰るにしても、儂はブラジルでこれだけのことをしてきたんだ、と言えるようなことをしても、いいんじゃないか、と山田の話を聴きながら思いはじめていた。
妻のチヨはともかくも、娘の柳子まで己れのわがままで連れてきてしまったのだから、ブラジルに来た意味はこれなんだ、と示すことができる証を立てなくてはならないだろう。
男って偉いものだなあ、と娘に思わせる意
地を見せるためには、ここらで気持ちを入れ換えて、本気にならなければならないだろう、と男の虚栄が考えはじめる。
娘が成人して、彼女自身の人生に船出してゆく餞にも、なんらかの格好はつけておかなければ、父親だと威張っているわけにもいかないではないか、と反省して、今日は思い切って出てきてよかった、と心の膨れる感じを覚えた。
何が、儂を、こんなふうにまじめな気持ちにさせたのか、何が、儂に、青年のような心の昂ぶりをもう一度持たせたのか、ふしぎな気もしたが、思えば一直線に、長野から神戸に、神戸からブラジルに、そしてスイス人耕地にと来てしまって、まだゆっくり周囲を見る余裕もなかったのだから、儂の目には、ものが映っているだけで、見ていたとはいえなかったのだ。ブラジルに来てはじめて、一人で出歩いて、同胞がブラジルの大地に逞しく根を張り生きている姿を目の当たりにして、やっと目が醒めたようだった。それが興奮させたのだろう。
「これなんだがね」
山田が、周囲が畑ばかりの農地にはそぐわない、有刺鉄線を張り巡らせた一角で立ち止まって言う。
それでも農家らしい素朴な感じの、傾いた門扉を押して、なかに入ると、少し奥まったところに煉瓦建てのしっかりした家屋があった。
農地を求めてきた客が、煉瓦建ての家があれば結構なんですが、と言うのを聴いて、呆れたふうに嗤われたが、ちゃんとこういうところがあったんじゃないかと、この家を見て龍一のほうが呆れる。
「むかしガイジンが別荘にしていたんだけど、周囲が拓かれて騒々しくなったんで、嫌気して売りに出した家だから、ちょっと古いがね」
山田が気の毒そうに言ったのは、そればかりではなく、敷地のなか全体に、背丈を越える雑草が繁茂していて、荒れ放題に荒れていたからでもあった。
しかし、龍一は、煉瓦造りの家の佇まいが気に入って、ほかをゆっくり吟味する気持ちを失っていた。ブラジルに来て一年で、もう自分の土地を手に入れ、煉瓦造りの家に住めると思う昂ぶりが、ほかの悪条件をご和算にしてしまっていた。
それというのも、若いときに横浜の学校の寄宿舎に住んでいて、港を見下ろす丘の上の、ガイジンの住んでいる煉瓦建ての家屋を見た印象が、ずっと心に残っていたからだった。
「敷地はおおよそ五アルケールあるがね」
「五アルケールの土地つきのこの家、いくらくらいで買えますか」
「五コントス」
「五コントス」
龍一は、山田の言葉をオーム返しに言ったけれど、それが高いのか安いのか判断はできない。一千円という日本円にして考えると、法外に高いようでもあるが、
「四年の分割払いでいいし、奥にコーヒーの樹が植わってるし、ここにトウモロコシでも植えて、収穫したものを売れば四年で払えるんだから、安いものだよ」
 と山田が、なんでもないように言う。
「安いですか」
 龍一は、頭のなかで素早く計算したけれど、価値基準が違うから、労賃や物価と比較検討すると、あまりにも安すぎて、かえって疑問が湧く。
「ああ、掘り出し物だね」
山田の言う通り掘り出し物かどうかは疑わしいけれど、いま懐に残っている金を遣わなくても済む、というのは大きな魅力だった。
近い将来金に困っても、これを転売すればいいし、有り金はたいて支払いを済ませて、二、三年後に日本に帰って、何はなくてもブラジルに煉瓦建ての別荘が在るんだ、などというのは、いい恰好のものではないか、と思
う。
「家のなか見せてもらえますか」
「ああ、見たらいいね」
厚い木の扉を押し開けると、ぎいっ、と大きな音を立てたが、建て付けが悪いわけでもなかった。
玄関を入ったところの居間は、堅い材質のフローリングだったし、浴室などはポルトガルから輸入したタイル張りだという。
柳子が苗木を抜いて呼び付けられたとき、はじめて見た支配人の家のなかの造作より、こちらのほうが金も手もかかっているのではないだろうか、と思うほどだった。
よし、これを儂は手に入れるぞ、と龍一の決心は固まった。
山田に案内してもらって、周辺の様子を見て歩く。
山伐りは済んでいるが、まだ畑として耕されていないところもあって、分譲地としては新しい感じだった。
「この辺り、まだ売りに出されたばかりですか」
「いや、もうみな売れとるたい。近いうちにどんどん日本人が移ってくるじゃろ。十月が移民の移動月じゃけんね」
「ああ、そうらしいですね」
さあ、わしも、十月には、ここに移ってくるぞ、と思うと、龍一は胸の中から膨れてくる思いがした。
しかし、それを顔に顕わにするのを控えた。物欲しそうなところを見せて、付け上がられては損をするからな、と用心して。
「ほかのものも見せてもらってから」
龍一がそう言うと、すかさず山田が、
「いまのところあれよりいい出物はないね。あれも欲しがってる人いるたい。じゃけん、あんた欲しかったら唾付けといたほうがええ思うが。儂は商売抜きで言うちょるたい、あんたがええ人じゃけ」
山田の言うことを、そのまま鵜呑みにはできなかったが、不動産屋に三人いたなかでは、山田がもっとも真っ当らしく見えたし、わずかな時間ながら話し合っているうちに、打ち解けられるものを感じていたから、
「手付金はどのくらい置けばいいですか」
と訊ねてしまう。
「なあに挨拶程度でええけ」
挨拶程度がいくらなのかわからなかったが、あまり細かいことまで訊ねると、かえって甘く見られるからと思って、龍一は唾を飲み込む。
「どう、あんた、そこで、うどん食べていかんかな」
山田も話にワン・クッション置くつもりになったのだろう、いっしょに物を食べるのが親しくなる近道だということを知っているらしい作戦に出てくる。
「そうしましょう」
龍一もそう思って、同意する。
うどん屋は、町外れの植民地と接する辺りにあった。その土埃を被ったうどん屋の風情が、ちょうど犀川の見える明科の街道筋にあった蕎麦屋のそれに似たところがあって、龍一の郷愁をそそった。
店内に入っても、日本の蕎麦屋の造りそのままだったから、自分が想像した情緒を壊されなかった。木曽桧かと見紛う分厚い材質の食卓が店内の大方を締め、長い腰掛けがその両側にあるのまで、そっくりなのだ。
いやそれよりも、もっと龍一を唸らせたのは、
「いらっしゃい」
と迎えた初老の女の丸々とした赤い顔、小太りの背格好まで、明科の蕎麦屋の女房を彷彿とさせていたのだ。
あれえ、儂は白昼夢を見ているのだろうか、それとも狐に、と龍一は眼をこすったほどだった。
「あんらまあ、山田さん、久しぶりじゃないの、あたし、もう逃げられたかと思ったわよ」
その女が、ほかに客のいないのをいいことにして、龍一がそばにいても一見の客なのはわかっているからだろう、構わず山田の頬にキスをして言ったから、山田のほうが照れて、
「そんなこと言うたら、こちらの人が誤解するたいね」
と言う。言いながら、奥の炊事場のほうに首を伸ばして様子を窺がってから、
「あんたはいつまでも丸まるしてて、元気溌剌でよかたい」
と言いながら、女の尻を撫でている。
龍一は、いま山田が頸を伸ばして奥の様子を窺がったのは、奥に女の亭主がいるからだろう、それを警戒するということは、儂の存在など、あってないような振る舞いなのだと惟ったが、こちらを侮ってというよりも、女の亭主をコケにしているのだから、ひどいものだと思った。
山田とうどん屋の女房が、すばやく交わした目混ぜや、二人の間に流れた密かに甘い感情を見逃さなかったから、誤解する必要もない深い仲になっているだろうことは、女の数を踏んできた龍一には、すぐに読めた。
そして奥の炊事場に居るのがこの女の亭主ではないのかということも推測できて、女は恐いものだ、と己れがそんな不埒な行為をしていたときには気づかなかったことが、他人のしている行為を視て、いまさらのように反省させられた。
浮気をした男は、鼠のように辺りを憚ってきょろきょろするが、女のほうは大胆になって、むしろそれを見せびらかすような態度を取るものなのだ、と人妻との経験が豊富な龍一には、すべてが丸見えだった。
「あんた、ピンガ飲むかね」
山田が言って、龍一は過去をさ迷っていた思いを消す。
「いや、そのほうは駄目でしてね」
 龍一がそう言うと、
「どちらのほうがいけますのかしら」
と打てば響くように返した女の言い方で、この女は、ずぶの素人ではないなとわかる。
山田が、ちょっと白けた顔をする。他人から盗んだ女でも、ほかの男に色目を使うと気分がよくないという、男の身勝手さからだった。
「あんた、天ぷらうどんでええね、女将、ほら早くしてやらんね、天ぷらうどん二つとピンガ一杯」
 山田が言うと、女将はふてぶてしく笑いながら、
「はいい、天ぷらうどんとピンガ一丁」
と奥に向かって声を投げる。
聴こえたのか聴こえなかったのか、返事はなかったが、待つ間もなく注文したものが出てきたのだから、聴こえていたんだなあ、すると奥で、店の気配を窺がっていたはずの、亭主の鼻白んだ顔が見えるようだった。
他人事なのに気を揉んでいる龍一など、眼中にないように、女はピンガの入ったコップを山田の前に置きながら、猫がするように躰を摺り寄せている。
山田も、コップの縁から溢れて零れているピンガを、唇を突き出して啜りながら、密着してくる女の肌の温もりを貪っているように、心地よさそうに眼を細めている。
龍一は、日本人も、ブラジル生活が長くなると、日本人の奥ゆかしさを失って、ガイジンのように、人前でべたべたするのが平気になるんだ、と思いながら、やはりこれはいかん、嫌らしい感じだ、と視線を逸らせて、なおかつ横目で見ている。
ピンガを啜っている山田の唇が、コップ越しに見えて、まるで深海の底に蠢く軟体生物のようだ、と思う生々しさが、性的な感覚を撫で上げられるようで、ぞくっ、とした。
つづいて、うどんが出来上がって出てきたが、鉢から溢れて滴れている汁も見苦しい上に、女の親指が、第一関節まで、どっぷり汁に浸かっているのを見て、龍一は食欲を削が
れてしまった。
食欲は削がれたが、性欲はそそられた。この種の女は、だらしないところはあっても、性行為がたっぷりしていて、男を満足させる肉を持っているのを、知っていたから。
その上、山田と同じくらいの年格好だが、初老といっても、まだまだ肌に艶があって、肉付きもよく、小柄で小太りという龍一が好む躰つきだったから、もう一年近く、まったく反応がないチヨとの性行為に、味気なさを覚えていた彼は、思わずうどん屋の女に嫉妬をねじれさせてしまって、恥ずかしかった。
「この人とはね、幼なじみで」
山田も、女が龍一を無視して躰を擦りつけてくるから、弁解がましく言いながら、そんな女の厚顔無恥な行為を、嫌ではないようだった。
こちらをうどんに誘ったのは口実で、この女に会いたかったのだろう。いい気なものだと思って、思った気持ちが言葉に出てしまう。「うどんが伸びてしまうほど熱いですねえ」
いろんな意味に取れる表現をしたのだが、
「今日はあたしの奢りにしますから、我慢して頂戴ね」
と女は、わかっているようなことを言う。
この女には勝てない、と龍一は兜を脱ぐ。
海千山千といった感じの不動産屋の山田でも、この女の手のうちだろう。それで幸せなら、それに越したことはないのだから、と少年のときから年増女に可愛がられ、再婚した年上女房に馴れてからでも長い龍一なのだから、女によりかかって生きる気楽さは知っている。
「どんなねえ、山田さん、今夜あたり」
女がいよいよ艶を含んだ声で、子どもが物をねだるような、物欲しそうな眼つきをあからさまにするのを、ちらっと視線をすばやく移して視た龍一は、女の指をしゃぶったと思えばいいのだから、と女が親指を浸けた汁を、不味そうに吸う。
「ああ、まあね、まだ元気なことは元気だけど、忙しくて。まあ何とか都合つけて」
 山田も、女をよろこばすことは心得ているのだ。勿体つけて言う。
「うわっ、うれしい」
 人前で恥ずかしくもなく、と惟うと龍一は馬鹿にされているようで、腹が立ってくる。
「旦那はいまでも、あの時間に買い出しに行ってるのよ」
龍一にも、その意味のわかる謎をかけて、女が言う。
それを聴いていると、もううどんを汁から掬い上げる気がしなくなる。
山田は、ピンガを飲んだあと、うどんをずるずる呑み込んで、
「ああ、うまか」
と意識して奥に聴こえるように、大きな声で言う。
奥にその声が届いたのだろう、咳払いするのが聴こえた。
とつぜん、龍一の想念が、長野の桑畑に飛んだ。あの咳払いが、あのときとそっくり同じに聴こえたからだった。妻の浮気の現行犯を目撃しても、離れたところから咳払いで警告するだけだった小作人の男のことを。
それを想い出して、悪かったと反省したのではなく、人妻を寝取る快楽以上のものは、ほかにない、という背徳の美を容認することにおいてだった。
楽屋裏に夫がいるのを意識しながらする浮気ほど、スリルと官能を盛り上げるものだし、芸術性を高めるのだから、と。
山田と女のあいだに流れる濃密な情感に刺激されて、過ぎ越し日々の甘い味わいが甦ると、儂はなにも悪いことはしていない、何をしても虚しい人生のなかで、たとえ刹那的であっても、生きている悦びを実感できるのはあのこと以外にないのだ、と再認識させられただけだった。
長野の山々に囲まれた安曇野を、しっとり潤した情緒はよかった。この殺伐としたブラ
ジルの平原では、とうてい醸し出せないものがあった。たっぷりとした情感を持っている長野の女たちもよかった。東京や横浜の女のような埃っぽい乾いた心など、味わうべきものもなかった。
しきりに未練が故郷へ飛んで、龍一は気持ちが揺れる。自分自身の不始末と、わがままで妻や娘を連れてきていながら、自分ひとりが故郷へ懐いを馳せている身勝手さは自覚しながら、なおかつ、それらを突き抜けてゆく己れの情感をいとおしむ。
どうせ虚しい人生に、女を抱いたあとの虚しさを、さらに積み重ねる愚かさはわかっていても、その愚かさと虚しさを、じっくり味わうために女を抱いてきたのだなあ、とブラジルの殺伐さの上に立って、思いを新たにする。
「待ってるから」
席を立った山田の手を握って言う女の声が、喉に絡んだ。溢れ出す熱い情感を抑えかねたからだろう。
龍一は、それを聴かぬ振りして聴きながら、ブラジルの乾いた大地に、儂も足跡を残して帰らなければならない、とふいに思う。
そして、そんな感傷がまだ儂の心のなかに残っていたのかと、若さが枯れきっていなかったことを知って、胸のなかが熱いほどに温もるのを覚えた。
どういう形の足跡を残すことになるのかは、まだ見当もつかなかったが、まず足場をつくることを思いついて、自分自身の住む場所を求めてきたのはよかった、と思うと埃っぽく乾燥しているブラジルの風景が、人間的な、そして原初的な発情が、土にまで沁み込んで行くようで、ブラジルのほうが儂の性分にあっているのではないだろうか、と思えるようになった。
かつてみずからの居場所を確保しよう、などと考えたことなどなかった龍一だった。妻と娘を安心させるために繕うだけではなく、自分自身の心構えとしての行為に、彼自身が感激していた。
やはりブラジルに来てよかったのだと思う。日本にいては、いくつ年を重ねても、いつまでも甘えん坊のままだっただろう。
そしてこれは、儂ひとりのためだけではなく、柳子にとってもいいことだったのだ。こんな貴重な体験を、日本にいてできるものではない。せっかくブラジルに来たのだ、これを豊富な形の経験にして、柳子に提供してやらなければならない。それが強引に連れてきたことへの理由づけになるだろう。
あの隙間だらけの板壁小屋から、煉瓦建ての家に入れてやるのも、ひとつの感激ではないか。
「山田さん、もうほかの物件を見せてもらわなくてもいいですから」
龍一がそう言うと、商談が成立したのだと思った山田は、いっそう機嫌がよくなった。
龍一は、山田の機嫌のいいのは女に会えたからだと思って、この男もまともな仕事のできる男ではないなあと思う。みずからのことは横に置いて。
リンスの街に戻って、手付金を支払い、機嫌のいい山田から、帰りのバスの時間と、乗り場を確かめておいて、それまでの時間を、駅前通りの端から端まで歩いてみる。
ブラジルでいちばん日本人の多い町だというだけあって、日本人が経営する商店が軒を接していた。日本人だけが使用する醤油や味噌まで売っているのが、うれしかった。
小森に進呈する分まで買うと、重い荷物になったが、甘いものに目のない柳子にと思って、どっさり羊羹と饅頭を買い求める。
山田に頼んで、バスの運転手に、スイス人耕地で降ろしてくれるように言ってもらう。
来るときには、バスの揺れるのが、気持ちの不安をいっそう大きくさせたけれど、帰りのバスが揺れるのは、自分自身の心の躍動を象徴しているようだと思えるし、行きと同じ
風景のなかを戻ってくるのに、埃をかぶった木々までが、愛嬌を持って包み込んでくれるように観えるのだから、その身勝手さがおかしかった。

「ほら、土産だ」
龍一が、リンスまで何をしに行ったのか訊かなくてもわかっていたが、柳子は結果がどうなったのか知りたくて待ちきれない。
「お父ちゃ、いい土地あったのぉ」
柳子も弾んだ声で訊ねるから、しいっ、と隣に聴こえなかったかと、龍一は柳子を抑えにかかった。
「はっきりするまでは、隣に言うな。向こうは出たくても出られないようだからな」
話しながら土産の包みを広げていた柳子が、「うわっ」
と頓狂な声を上げる。
「羊羹じゃないの、饅頭も」
こうなると、柳子は、もう土地の話より、羊羹のほうに気を取られてしまって、龍一の今日一日の行動を根掘り葉掘り追求することを忘れてしまう。
「隣がなにか言ってたか」
龍一は、今日一日雲隠れしていたことは小森もわかっているはずだから、どこへ行っていたかを言わないわけには行かないのが苦痛だった。それほど龍一と茂の友情は深まっていたのだ。
「お昼までは気がつかなかったようですに」
「お父さんご病気ィって、秋子さんが訊いてた」
柳子は屈託なく言う。
「いえ、ちょっとほかに用事ができてと言うと、おかしな顔なさったけど、それ以上何も訊ねなかったから、助かりましたに」
チヨは、気まずそうだったらしい様子を話す。
龍一は辛かったが、仕方がない、ほんとうのことを話すほうが酷なんだからと思い、思ったあとですぐ、率直に話すべきだろうと惟う。
どちらにしても、土産物を小森のところに届けると、リンスまで何をしに行ったのかと詮索されるだろうと思って、
「儂が、味噌や醤油が欲しくて我慢できなくなって買いに行ってきたと言って、隣に持って行きなさい」
とリンスに行ったほんとうの目的を話すにしても、少し間を置いてからにしよう、と心に決めて、嫌だったけれど行った目的を違えて言うことで、向こうの関心を逸らせる工夫をする。
そして、自分自身でそんな姑息な気遣いをしておきながら、疚しいことをしているわけでもないのに、隠密にしなければならないことに、ちっ、と舌打ちする。
タツという女は、どうしても好きになれないタイプの女だったが、茂のような陽気な男は、龍一の友人関係でははじめてのタイプで、希有な存在だと思っていたから、ブラジルでたった一人の友人を失いたくなかったが、これだけはどうすることもできない。こちらはここに埋もれてしまうわけにはいかないし、生活の打開を図らなければならないのだから、自前の金で自分の土地を買って出てゆくという最良の方法を取れることになれそうなのを、いっしょによろこんでもらえないのが辛かった。
小森の現状では、どんなに足掻いてもここから出て行けるはずはなく、熊野に娘を売ってまで苦境から逃れようとしている様子が、見まいとしても見えるだけに、ぎりぎりのときになるまでは、こちらの明るい見通しを知らしめるわけには行かないだろうと惟う。
隣には、こちらの心の昂ぶりを見せられなくても、それを自分一人の胸に収めておれるものでもなかったから、声を抑えて、
「いい出物があったんだ」
とチヨと柳子のあいだに、頸を伸ばして言う。言いながら、リンスに行って帰ってこれたことで、ブラジルを一人歩きできる自信がついたことと、その自信が、不貞なことを考える起因になったことは、五アルケーレスの土地が荒れ放題だったこととともに伏せて、煉瓦建ての家だ、タイル張りの浴室だ、というほうを強調して、リンスから近いし、日本人がたくさん住んでいるところだと話すと、チヨも柳子も顔を紅潮させ、眸を耀かせたから、龍一は、儂も男を上げ得たと思って満足する。
龍一が自己満足している横で、チヨは心配をしはじめていた。一度道がつくと、また出歩く癖がぶり返すのではないだろうか、と。
龍一が家に居着かず、急なことが起こっても連絡の着けようもない雲隠れをするのは、チヨが龍一のところに嫁いでくる以前からのことで、地主の総領息子のすることだ、とチヨの家でも嗤っていたのだ。
まさか自分が龍一の妻になることなど考えてもいなかったチヨは、他人事として聴いていたのだが、若妻が辛抱しかねて実家に逃げ帰ったあと、地主からのたっての願いと、小作人から自作農にしてもらえる条件を断りきれず、父親同士が決めた後妻の座に納まった初夜から、後家のところに燻っていた龍一を親が連れ戻してくるという、不可解で破廉恥な状況ではじまった夫婦生活だった。
その上、年上の後妻が、まだ処女だったのがふしぎなことのように、龍一は、なんだか皮肉のように言ったのだ。
チヨのほうが驚くようなことを口にする龍一だったのだから、また出歩く癖がつくと、眼を瞑っていても歩ける安曇とちがって、風が吹いてくる向きもわからない異国の空の下では、家に残されているものが困ることになるだろう、とチヨの不安は尽きなかった。
幸いブラジルに来てからは、いつも柳子が傍にいてくれるから、ひとりで不安な夜を過ごさなくてもよくなったのだけれど。
それにしても龍一が、二年で日本に帰ってくると言ったのだから、ブラジルで土地を購入することを思いつくなどとは、チヨの予想外のことだった。いったい何を考えているのか理解に苦しむ。養蚕技師として、ブラジルに行くのだが、家族同伴というのが条件だから、柳子も連れてゆくと言い出したときには、旧家の嫁の窮屈さから解放されるのを内心よろこんだり、異国で生活する不安に慄いたり、親子三人で暮らす晴れがましさを思って胸のなかがざわついたり、いろいろ複雑な心境になったものだが、唯一、龍一の女道楽がこれでいったん納まるだろうという安堵だけは何物にも換え難い大きなものだった。
だから龍一が、ブラジルに土地を買うということは、二、三年で日本に帰ってゆく考えを変更したのだろうか、と惟ってほっとしたり、この先どうするつもりなのかと、新たな不安が起こったりしても、チヨは自分の意思を示すことなど顔色にも見せず、じっと成り行きに身を任すつもりだったが、もう女のことで悩まされるのだけは嫌だと思っていた。
ブラジルに来てからは、いつも柳子の眼が父親を見ているから、龍一もむかしのようなことはするまいと惟って、その点では心に余裕を持たせてくれたが、「わたしもいっしょに連れてってよ」と柳子が言っても、「商談に女が口出しするのはよくないんだ」と言い、「口だしなぞしないから」と柳子が言っても、「柳子が黙っておれるわけがない」と、どうしても柳子が同伴するのを嫌うのは、女賢しゅうして牛失うというだけではなく、一人のほうが都合のいいことが起こらないとも限らないと思う気持ちがあるからではないだろうと、邪推してしまうチヨだった。
柳子が、お母ちゃ、くよくよしないで、自分のしたいようにすればいいのよ、長野の旧い家の窮屈さから解放されたのだし、お父ちゃが暴力振るうようなことしたら、わたしが
許さないから、と言ってくれるのだから、取り越し苦労などしなくていいのだけれど、貧乏で苦労し、旧家の嫁に入って苦労し、夫の女遊びで苦労し、と苦労する癖がついてしまっているようで、まるでくよくよしていなければ、自分自身の存在感が希薄になるように思ってしまうのだから、なんという救われない性分なんだろう、と哀しくなったりもした。
嘘の浮世を虚しく生きて、何がおもしろいのかと思うのだけれど、龍一がうろうろするのを見過ごせないのが情けなかった。龍一がどこをほっつき歩いても、所詮は日本がブラジルになっただけなのに、と惟ってチヨは、龍一の放埓さよりも、自分自身の頑なさに嫌気するような女だった。
なにはともあれ、現在の屈辱的な環境から抜け出せることだけはわかったから、明るい道が開けたのだ、とチヨは自分自身を無理に納得させることにする。そして、こんなことを考えられるようになったのも、柳子が傍にいる生活を得たからなのだ、と心の休まる思いがした。
「花の碑」 第八巻 第四〇章 了
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