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「花の碑」 第九巻 第四五章 |
柳子と秋子が濁酒を飲んで、泥酔した事件で大騒ぎになったけれど、それがひとつのショック療法になり、かえって内藤の家族も小森の家族も、雨降って地固まるで、一切のことを諦めという袋に収め、作業はいっそう拍車がかかり、弾みがついて捗った。 いま何を考えたところで、埒が開くものではないのは、考えるまでもなく、誰もがわかっていることなのだから、一心不乱にコーヒーの実を?ぐ以外にすることなどない。 すべてはコーヒーの実の収穫が終わって、一農年の清算が為された時点で、そのあとのことの思案をし、それぞれの新しい生活をはじめるしかほかに方法はないのだ。 そういう人たちのなかで、ただ一人、明日の生活を考えないものがいた。川田鷹彦だった。 俺にはもう、新しい生活などというものはない。しかし、こんなところが俺の終焉の地になるなどとは思わなかった、と苦笑混じりに惟う。 こんなところで、と鷹彦は惟うけれど、それは彼自身の敗北感が思わせることで、こんなところに来るまでは、南米のブラジルというところは、コーヒーとサトウキビの生産出荷で有名な国で、コーヒーの白い花が匂うなかで、サトウキビの甘い香りの満ちるなかで、大地に大の字になって死ねたら、それだけでも俺にとっては贅沢な死だ。 尋彦叔父の構成家族として移民することになったとき、ささくれ立った畳の上に寝そべって、遥かな国ブラジルに、何の目的もない夢を描いていたのだ。 何の目的もないと言えば語弊があるけれど、「死」を目的にしているのだから、「無」と同じなのだ。 死ぬためにブラジル移民に加わるという行動を考えた原因は、嫂の死だった。その嫂が死んだ原因は、義弟鷹彦との密通が発覚したためだったが、彼女はそのとき鷹彦もいっしょに心中してくれるものと思っていたのだ。 彼女は東京へ出奔して、新しい生活を築こうと言ったのだが、まったく生活力のない鷹彦が、心中しようと言ったからだった。 結局鷹彦は、死ぬよりも苦しい慙愧のために、苛まされることになったのだが。 鷹彦が学芸の虫になったのは、彼が十四歳のときに発刊された「岩波文庫」のマニフェストに触発されたからだった。 当時法政大学教授だった三木清が草稿を書き、岩波茂が手を加えた文庫発刊に際してというマニフェストは、村で神童と言われてきた鷹彦を魅了して止まなかった。 「真理は万人によって求められることを自ら欲し、芸術は万人によって愛されることを自ら望む。かつては民を愚昧たらしめるために学芸が最も狭き堂宇に閉ざされたことがあった。今や知識と美とを特権階級の独占より奪い返すことは、つねに進取的なる民衆の切実なる要求である」 鷹彦は、この高踏的な宣伝に酔って、いつも「岩波文庫」を携帯していることに誇りを持っていたし、貧しい農家から東京の大学に進学することに、誉れを感じていたのだ。 しかしその結果は、観念的な理論を口にするだけで、労働することを蔑視する男になってしまったのだ。 「生まれてはみたけれど」とみずからを自嘲し、「大学は出たけれど」就職することを嫌い、山野を逍遥しながら読書三昧の日を送っているあいだに、嫂との密通に溺れ込んでいったのだった。 鷹彦にいっそう挫折感を抱かせたのは、権力による弾圧が厳しくなり、思想的「転向」の時代に入ってからだった。 いままでは、事毎に考えすぎてきた。考えてもどうなることでもないのに、くよくよと考えて、ひとり呻吟していたのがおかしいくらいだった。考えることで心を細らせ、憂鬱を紛らわせるためにセックスして躰を細らせ、太陽と地球と月とがそれぞれの引力で均衡を保って回転している以上限りなく刻む時を、俺みずからが限りあるものにして、とうとう行き詰まりに来てしまったのだ。 もうあとへ戻ることなどできないし、ここから先へ進むこともならず、天へ昇れる身ではないから、地に落ちるしかないだろう、と自問自答して、結論には達していた。 しかし、彼が日本にいるときに夢見た死に様のようにはロマンチックなものではないことがわかって、赤いコーヒーの実に包まれている環境のなかで、悲哀を託つことになった。 ここに来たときにはコーヒーの花の白さに埋もれて作業をし、いままたコーヒーの実の赤さに埋もれて作業をし得たのだから、いまここで死んでも、夢は叶えられたことになるのだけれど、彼自身の心が、ブラジルの荒涼さを上回るほど殺伐としていたから、こんなところで土に埋められる身、と想うようになってしまったのだ。 死ぬときには美しく、と惟ってきたセンチメンタルが贅沢すぎて、諦めるしかないことを諦めきれない。その諦めきれない女々しさに、また自嘲する。 いったい俺に人生というものがあったのか、と振り返ると、なかった、としか言いようがない。よくも二十五年を無為に過ごしてしまったものだと、みずからが呆れる。 いっしょうけんめい詰め込んできた知識を、実人生に生かせなくて、なんの意味が在るのだ。すでにかんばせもない身ながら、死に様を思う虚しさに、苦笑するばかりだった。 鷹彦は、すべての行為には意味が必要だった。意味のないことや、意味のないものは、存在しないのと同じだと思ってきた。 寝るという行為も眠気を取るために必要だし、目覚めたらいっぱいすることがあるのだ。しなくても済むことかも知れないけれど、顔を洗うとか、歯を磨くとか。飯を食ったり、糞を垂れたり、セックスしたり、一応動物として生きるためにはしかたなくすることが。 勉強するという無意味なこと以外は、ほかの動物たちと変わらない、そんな繰り返しの日々を過ごしてきたことにも意味はあるはずなのに、観念的にそれらを超越していなければならない人間として、非常に恥ずかしいことだと考えていたから、恥ずかしくない人間として生きた証拠を残さずに、死ぬのが残念でならなかった。 もしも、積み重ねてきた知識を実用に生かせないのなら、生きている意味はないのだから、死んだほうがいい。そう思ったのは、ずっと若い中学生のときからだったが、自殺する勇気もないままに、うじうじと、いたずらに日を重ねてきてしまったことを自己嫌悪するのだった。 過去に口から吐いてきた言葉の数々には、階調もなく音律もなく、ましてや、しゃべる意味などどこにもなく、坊主の念仏となんら変わることのないものだった。 日本に亡命してきた中国人や朝鮮人たちは、彼らの思想を生かせる明日を夢見ていた。そしてそれは、現実的に不可能な空念仏ではなく、ほとんど疑いもなく実現可能な理想だった。 そんな彼らを尊敬しながら、俺自身は、彼らを見習って、何かをしようと考えるのではなく、何もしないことが現政府に反逆することなのだ、と詭弁を弄して逃げていた。それがほんとうの意味で、逃げ口上なのを自覚しながら、食べるのは糞を放れるためであり、セックスは精液を放出するためにするのであり、これこそが生きている証拠ではないか。動物である人間のすることは、どんなに理屈を捏ねても、究極は食と性のために蠢いているだけではないか、と自嘲しながら、人に向かっては、それが正論のように言い繕ってきたのだ。 そんな虚しい日々のなかで、浮き上がった平和論を唱え、世界の地図から国境線を排除しようなどと、キリストの唱えたまったき善に等しい、決して達成できるはずのない理想論を、みずからが頭のなかで想うだけではなく、恥ずかしげもなく、人に向かって吹聴してきた愚かしさ。 キリストはまだしも、他人に幻想を与えるだけの魅力の在る言葉で、欺瞞する弁舌の技があったらしいが、俺には他人を惹きつけるカリスマ性も、才能もなかった。 たとえそれが実現不可能な理想だとしても、宗教は欺瞞による言葉で、救いを求めてくるものに、一時なりとも人の心を慰め得るのだから、存在理由はあるだろうが、俺の言うことなど何の役にも立たない空論であり、自分自身をも欺けなかったのだ。 体裁のいいことをしゃべっていると、何も知らない女たちだけが、俺を学識の在る人物だと、畏敬の眼を向けてくれたから、いい気になっていただけだった。 その女たちの数といっても、俺と密通した一握りの人妻だけなのだから、お笑いものだが。 俺自身は、しゃべったあとも、セックスしたあとと同じくらいの虚しさを覚えてきただけだった。 自分自身が信じられなくて、どうして人を信じさせ得るのだ。キリストの欺瞞性の徹底さがなかったからだ。新興宗教の教祖たり得ないひ弱な魅力は、女誑しの甘言でしかない。 俺は、そんな虚しさを知りながら、嫂の甘い蜜に魅了されて、愉楽の海に潜っていた呆け者だったから、姦通している現場を抑えられても、不貞腐れて、他人の裁断を待つだけだった。 嫂が潔く自裁したのは、あの虚しさがわかったからではなかっただろうか。おそらく不義密通が発覚したからというだけではなかっただろう。俺と駆け落ちして新しい生活を築きたいと言うほど、生活力は俺よりも勝っていたのだから。 優柔不断というよりも、嫂を見殺しにした俺は卑怯者だった。己れの処置もし得なくて、嫂の自裁があったから恕されたのをいいことにして、尋彦叔父の懐に逃げ込んだのだ。ブラジル行きの構成家族になって日本を脱出できるのを善しとして。 それを一つの救いだと考えたのだからいい気なものだ。一時的な自慰に過ぎず、罪業は一生従いて回るほど重く、救われるはずなど金輪際ないのに。 それがわかっていながら、逃げてきたブラジルでもまた、日本で犯した同じ罪を繰り返して、叔母の甘い懐に抱かれて、乳房をしゃぶっているのだから、救いようなどどこにもないのだ。 たいして体力もないのに、どうしてこんなに性欲だけが勁くて、そして見境もなく女を求めるのか、俺自身にもわからないのだ。 なにしろ全身に倦怠感が蔓延して起き上がる気力もないのに、ペニスだけが勃起するのだから、これはもう俺自身の欲求からだけではなく、悪魔が乗り移っているからに違いない、と思うことで自己弁護し、罪の軽減を図ろうとする姑息な卑怯さ。 それは畢竟、自分自身を欺くことになるのがわかっていながら、そうしなければ生きて来られなかったのだから、と思った瞬間に、なぜ生きてこなければならなかったのだ、いつ死んでも、誰も悲しんでくれるものもいないのに、と冷笑するもうひとりの自分の影が立ち上がる。 うるさいやつだなあ、いちいち俺のすることに、道義面して干渉するなよ。どちらがほんとうの己れなのかわからないけれど、常に二律背反し合うふたりの俺が、互いに自分の存在を認めながら、相手の存在を認めず、反撥し合う。 ぎしぎしと反撥し合いながら、反撥し合えることに、ある種の快感を覚えているのだから、自己反省も、世間への反撥も、遊びに過ぎないのだ。 完全に己れ自身の存在を否定するのではなかった。どこかに逃げ道をつくっておいて、鼠のように壁の向こう側へ逃げ込むのだ。だから俺の影武者は、いつまでも、どこにでも、ついてまわって、本人に向かって冷笑を浴びせつづける。 いかなる関係のセックスでも、それを道義的に考えないで、動物的な肉体の機能としてしか考えないからだろうけれど、それは、キリスト教会からして、その矛盾を犯しているのだから、俺独りの矛盾ではない。 性欲は食欲と同じ性質のもので、道徳によって左右されるようなものではない、と考え ているのが正しいことだとしても、正しいと判断しているのは俺自身の良心を欺瞞するだけの価値観であって、世間には通用しない強弁なのだが、人間社会が欺瞞の上で、モラルという虚飾の裏側にある愉楽の園を求めているのだから、俺ひとりが懊悩することなどないのだ。 そういうことに関しては、動物的なエゴイスムに徹する女の欲求のほうが、正直だといえるだろう。 男のほうが、その点、その社会性のためにみずからを裏切り、さもしく狡猾に、ずうずうしい卑怯さで、えげつないほど老獪に立ち回る場合が多い例を、いくつも見てきた。一括して言うなれば、結局は破廉恥で没道義なのだ。 女はいったん、一人の男に愛を感じると、とことんみずからの愛を献身的に捧げようとするもののほうが多いように惟う。 男はいったん、女を抱いてしまうと、もうほかの女を抱くことを考える。 亭主もちの女が浮気すると、亭主を蔑ろにすることに平気でいる。そして浮気が発覚すると、浮気の相手と新しい生活を築こうと考える。 妻帯者の男が浮気をするとき、いつも女房を意識しながら、秘密を保とうとする。できれば女房と恋人を、永遠に両立させたいと考える。そして浮気が発覚すると、うろたえて、どうしていいか、わからなくなる。 俺自身のことに限っても、女のほうは俺になんらかの愛情を感じて抱かれているらしいのに、俺のほうは相手の女が誰でも構わない、女性性器を持っておれば事は足りると、性欲だけで行為することになんの疚しさも覚えないのだから、たとえ強姦という犯罪行為ではなくても、精神的な凌辱であることに変わりはないだろう。 ほかにどうしようもない性欲が睾丸に漲ってくると、みずからの手で処理すればいいのだが、女が苦痛の表情をするのを見なければ満足できないのだから困る。俺はサディストらしいと早くから自覚していたが、どうしてなのか、ブラジルに来てから、それがいっそう嵩じてきたみたいだ。 広子叔母を困らせ、尋彦叔父を悲しませていることを自覚すると、いっそうの性的快感を得られるようになってきたのだ。 それだけではない。俺はマゾヒストでもある。激しい性欲によって、精力を無闇に放出し、日に日に俺自身の体力を消耗して、それが死を早めることになるのを知りながら、そして死を恐れながら、ふふん、自業自得だ、どうせ自分の頸を括ったり、腹を裂いたり、毒を含んだりする勇気がないのだから、生命を繋ぐ精液を垂れ流すことで死ねるのなら、苦痛がなくていいではないかと、ぞくっ、と脊髄を駆け上がる蒼褪めた快感を楽しんできた。 もうこうなれば回復の見込みがないのは決定的だ。みずからの肉体を貪って、自滅してゆくしかない。どうせもう取り戻せない人生なのだ。これでいいのだ。精液にまみれて死ねれば本望ではないか。セックスのために、過去一切の知的努力を放擲してしまったのだから。 そんな汚穢にまみれた俺が、内藤柳子という清純な少女には、あくまで高潔な人間であるように見せかけようとするのだから、なんとも滑稽ではないか。見栄っ張りもいいところだ。 その見栄の表皮を毟り取って、何度柳子に圧し掛かってゆこうとしたことだろうか。 口先で、柳ちゃんはいつまでも純粋でいてほしい、などと浮ついた奇麗事を言いながら、心のなかで燻る、真っ黒い悪魔の欲情に負けそうになっては、それを広子叔母のなかに放出したことだろうか。放出した精液が、いまはもう赤くなっているのではないのか、と考えたりしながら、それを確かめるのが恐くて、後始末をしてくれる叔母の手元を視ることもできなかった。 しかし、そんな虚しいことをしながら、まだ処女を冒すときの快感を想像することからは解放されなかったのだ。 俺はサディスティックに、柳子の股を裂き、 槍を突き刺し、掻きまわし、血みどろになった股間にむしゃぶりついて、その血を啜る夢を何度も見たが、それを実行したくて心が慄き、その慄きに身震いする快感が性的快感と同じなのを知って、恍惚状態のなかに浸ってきた。 あるときには、彼女の心臓を掴み出して、土足で踏み躙り、処女だろうと娼婦だろうと、体内の贓物に違いはないんだと、あの好奇心旺盛な少女に開陳してやりたい欲望に、何度狂いそうになったことか。 その狂気を、文子はよろこんだのだから、ばかな女が傍に居て、俺を救ってくれたようなものだ。いや彼女をばかなやつと蔑む資格が俺にはない。彼女こそ神だ、観世音菩薩だ。吉野の原始林のなかにいる、すべての邪悪な心を鯨のように呑み込んで恕してきた、と彼女の叔父が言ったことが肯ける。父親や叔父や誰彼に慈悲を与えながら、一度も妊娠したことがないというのだから。 彼女は、道徳という言葉も知らなかったのだ。まったく文明の垢に汚れていないものには、道徳というくだらない皮など被らなくても生きられるのだろう。彼女こそ純粋無垢な救いの神だといえるだろう。それをバカな女だと冷笑しながら抱いて、彼女の躰の熱さに、わが身を焼かれてきたのだ。 俺は既成の道徳を否定し、反道徳なことをしながら、常に否定している道徳意識に苛まれてきたのだから、俺のほうこそ救いようのないバカなんだ。 しかし、その意識が反面教師になり、柳子を押し倒そうとするみずからの手の汚さに気づいて慄然とし、少女を冒そうとする真っ赤な情欲を踏み躙って、その火を消そうとしてきたのだった。 よくも彼女とのあいだに、プラトニック・ラブなどという欺瞞の壁を積んできたものだ。まあ嘘の壁でも積まなければ、彼女の処女を奪っていただろうから、嘘の効用もばかにはできないのだけれど。 罪を重ねることほど、この世のなかに大きな愉悦が在るだろうか。理由なき殺人はその最高たるものだろう。 須磨子は、過去に大きな罪を犯して、信仰の道に入ったということだが、神を信仰するのは苦痛を伴うけれど、罪を犯すのは快楽につながると言った。あの女もただ者ではない。神は、日々に重ねる罪を謝すために存在するのだと言って、罪を犯すことを当然のように言うのだから。 「鷹彦さんは、罪を重ねてきたとおっしゃるけど、その日犯した罪は、その日のうちに神に謝罪すれば、その都度恕されるのだから、重ねることにはならないんです。鷹彦さんの行為は、たしかにモラルに反することですけど、自然な肉体の要求でもあるんですから、それが罪の行為だと思われるんでしたら、神に恕しを乞うて、また自然が要求する行為をなされたらいいんですよ。ひとつひとつの罪はけっして積み重なるものではなく、別個のものです。ひとつひとつを謝罪すれば、ひとつひとつ赦されて消滅してしまいます」 須磨子の言うことこそ、神を冒涜するものなのだけれど、クリスチャンは、みんなその矛盾と欺瞞の上で平穏を得ているのだ。非常に都合のいい理屈だが、たいていの宗教は、ご都合主義にできているのだから、あれでいいのかもしれない。 俺は自堕落な行為で、精神的にも肉体的にも滅んで行くのに、須磨子は神の御心のままに子を宿したと告白したが、想像妊娠なのだろうか、それともほんとうに誰かの胤を宿したのだろうか。彼女は神の子だと言ったが、マリアの真似をして、父無し子を産むための口実が、二十世紀のいまも通用するとでも思っているのだろうか。須磨子には、まったく恥の概念など微塵もないような、平然とした顔で言っていたが、厚顔無恥の空とぼけなのか、意識的な鈍感なのか、教養がありそうに見えても、ほかのキリスト教信者のように、人間が猿から進化したなどと言わないで下さい、と言うほど愚昧なのかもしれない。 キリスト教徒たちは、自分自身が神に直結しているのだという、錯覚の思い上がりがあって、須磨子のように理知的に見える女でも、猿からの進化を否定する。ほかの動物と同じことをして生きていながら、そして子を産みながら、それが勁い倫理のなかで罪をつくる詭弁を、詭弁とも想わない厚顔無恥なものが多いのだから。 それは須摩子ひとりではなく、教会の陰湿 な裏側で、人妻や娘を、或いは少年を誑かして性を貪っている神父や牧師も同じことなのだ。世の中に彼らほどの偽善者はいないだろう。俺がみずからを偽善者だと自戒しているほうが正直なのだ。 あの信仰が、エジプトの奴隷として使役させられていたエルサレム人が集団脱走をして、中近東の砂漠を長い逃避行をするなかで造られた倫理が元だというのは肯ける。しかし、二十世紀の現在も盲目的に信仰され、顕在しているというのは、信じられない事実なのだから、何をか謂わんや。 ユダヤ教や、それから派生したイスラム教やキリスト教が掲げる神は、妬み、憎しみ、呪い、滅ぼす神だから、俺が俺がと我を立てて、戦乱の絶え間がないのも当然だろう。戦争は一神教の齎す完全な悪なのだ。 一神教ではなく、八百万の神々が統治してきた日本も、「皇祖皇宗ノ~霊」だとか「皇祖皇宗ノ遺訓」だとでっち上げて捏造した大日本帝國憲法によって、天皇を絶対的統治者に仕立て上げ、一神教的存在に祀り上げたために、八紘一宇という見果てぬ夢を見て、未曾有の戦争に突入してしまったのだ。 一神教というものは、常に排他的で、異教の存在を許さないのだから。 まあ何事も、すべて自然の摂理です、神の御心の成せることです、ということにしてしまえば、この世のプロブレムはないわけだ。キリスト教の大発展の因は、どうもこの辺りにありそうだなあ。 ここの教会の司祭も、こっそり支配人の妻を愛人にしているというし、支配人は混血の黒人を大っぴらに同じ屋根の下に囲っているというし、所詮この世は曼荼羅世界だ。 あのとき、須磨子から誘われて、教会のなかを覗きに行って、教会の裏側で行われている人間臭い日常を知っただけでも、足を運んだ効果はあったのだ。俺自身の罪業を、俺自身が軽減できたのだから。 澄ました顔で十字を切っているあの指で、女のバギナにも慈悲を施しているという噂が、もう噂ではなく、公然の秘密として囁かれているのを知ったのだから、生命の本質は那辺にあるかを悟らせてもらったことにおいて、やはり教会の存在には意味があったと認めよう。 俺はバカだった、とつくづく思う。須磨子の偽善のほうが利口な生き方だったのだ。俺は犯した罪に苦悶してきたけれど、その罪を独りで苦しむこともなかったのだ。須磨子のように、罪を犯すことを楽しみ、その都度、神に許しを乞うて、許されたのだと勝手に解釈して、新しい一日を迎えておればよかったのだから。 もう後悔は遅きに失したけれど。 鷹彦の煩悶が、悟りを開いたそれによって、すべて解消されたわけではなかったが、死を覚悟する境地には到達できたようだった。 いつまでも叔父の手足纏いになっているのは、みずからの自尊心が許さないし、ぜったいなる孤高を保つには、体力が伴わないし、どうせもう間近に迫っている死期なのだから、自死したほうが潔いと考えるのだが、密通した嫂を見殺しにした臆病者の俺に、自死する勇気が持てるだろうか。その不安はいまでもついて回っていた。 どんな形で死ぬにしても、故郷山口の、山のなかの陰湿で狭量な寒村で生を畢るよりは、茫漠として捉えどころもない干乾びた大地に骨を晒せるほうがよかった、といまは思う。 狭い故郷の墓に入れられたら、連綿とつづく村の歴史のなかで、縊死した女と、こそこそ逃げ隠れした男の話が、延々と語り継がれるだろうけれど、この広大な大地の一隅で放埓に生き、軽蔑されて死んだ男のことなど、葬られてしまえば、その日のうちに忘れ去られてしまうだろう。 そうは思っても、蝋燭の火が消えるようにして病死するのは、あまりにも寂しく惨めではないか、とまだみずからの死に様に拘りつづけていた。 自殺を、もっとも潔く、なおかつ美的なものに考える鷹彦は、どういうふうに自死する かに思い悩む。 生きているときに、他人の目に醜さを晒すことを嫌って、無理して背筋を立てていただけではなく、死に姿まで気にする男だった。 首を吊って死んだ嫂の姿を垣間見て、卒倒しかけた鷹彦なのだ。あんな醜い姿を他人の目に晒すのなら、まだしも嗤われながら生きているほうがいいのではないだろうかと思った。 水死体は、洪水のときに見ていたから、無様な水脹れを曝すのも、もってのほかだった。薬を飲むとしても、毒薬はいけない。眠るように死ねる薬でなくてはならないと思う。 ああ、死にたい。死ななければ清算できない俺の人生なのだ。遣り直しはできないのだから。生まれ変わることもないのだから。一回きりの人生を抹消することで、醜かったすべての過去を、この大地に溶解してしまいたい。そのために買い溜めた睡眠薬だった。 鷹彦は、もう起き上がれなくなった躰を無理に起こして、水を飲んだり、糞を放れることだけが精いっぱいになってしまった昼も夜も、死ぬことだけを考えつづけていた。 叔母さん、叔父さん、ありがとう。ぼくに最適な死に場所をつくってくれたことを感謝しているよ。もう俺がどう頑張っても叔母に抱かれてすすり泣くようなことができなくなってから、夫婦仲が元に戻ったことをよかったと思っているよ。どうせ俺は員数を揃えるだけの存在だったんだ。居ても居なくても叔父さん夫婦にとってはどうでもよかったんだから、居なくなるのが早いほうがいいに定まっている。 あとはもう、大量の睡眠薬を、口のなかにねじ込むだけの、決断の日へ、理屈を捏ねながら、己れを追い込んでゆくだけになった。 それでもまだ、この世に未練が残る。柳子の存在が、その未練の原因だった。そして、性懲りもなく、柳子を抱きたかったという未練なのだから、死んでも救われないのだけれど。 鷹彦の死に際の悪い呪詛がつづいているあいだも、まさか鷹彦が死ぬなどということを考えたことのない柳子の、明日へ向かってかける思惟は、明るかった。 もう父に向かって、どうしてブラジルなんかに連れてきたのよ、という不満がなくなって、知らぬ国のいろんなこと、風景、風物、人情、はじめて接する黒人の、反感、好意、そねみに、ねたみに、ひがみなどなど。 そして、ヒト、ウマ、ウシ、ブタ、イヌやニワトリの行動まで、つぶさに観察してきたこの一年の外国生活で得た知識と経験は、良三叔父が予想した通り、貴重なものだと思ったし、これからももっともっと豊富になるだろうと考えると、父に礼を言わなければならないくらいだ、とわかってきた。 それを具体的に、柳子にそう思わせたのが、龍一のアラモ植民地の購入だった。 日本から直接入植したスイス人耕地というコーヒー農場の、日本の農地と比べると、一つの国かと思うほど広いけれど、南米大陸のなかの、一握りほどの土地だと思うと狭い環境から、わずか百キロ先にあるというアラモ植民地に移動するのだ、と考えると、柳子にとっては、ただ百キロほど移動するという観念ではなく、無限に向かって伸びてゆく思いがするのだ。 彼女の無限は、現実にある距離感覚を超越して、童話的な広がりも加味して思考するから、それは地球を何周するかというだけではなく、宇宙に向かって飛翔したいと考える欲求となる。 鷹彦は、もう世界のことを考えなくなり、彼自身の躰に見合う大きさだけでものを思わなくなり、視界がどんどん狭まって、ついには一個の物体という卑小なところに囚われ、すべての思考の門が閉ざされてしまったのだが。 それがなんとなく察しられる鷹彦の姿を視て、気の毒にと思うのは柳子だったが、彼女は鷹彦の死を考えることなどなかったのだけれど、ときどき幽鬼のような影になって歩いているのを視るだけのチヨには、もうすぐ鷹彦の近くまで死神が来ているように思えた。 しかし、ああこの人はもうすぐ死ぬだろう、と惟っても、それを誰かに向かって伝えることなどできないし、おしゃべり好きな柳子に言えば、たちまちのうちに千里の先まで噂を飛ばすことになって、手相見でも「あんたは明日死にますよ」などとは言わない他人の不幸を、何の恨みがあって言うのかと責められることになるだろう。 それでなくても、つねに人の思惑を気にしている小心者のチヨだから、身に余るようなことを考えたこともなかったし、身に余るようなものを欲しいと思ったこともなかったから、広いブラジルだとか、狭い日本だとかいうことには関係なく生きてきたのだ。 どうせ自分ひとりが関わる広さなど、土地にしろ、人間関係にしろ、知れたもので、日本にいたときでも安曇の外へ出ていったこともなかったし、ブラジルに来てもスイス人耕地の外を意に止めたこともなかったのだ。 そんなチヨが、はじめて心を動かしたのは、龍一がここから出てゆくために購入したというアラモというところに寄せる惟いだった。 心を動かせたのが、ほんとうにはじめてというチヨは、自分自身が驚いていた。 きゅっと胸のなかが収縮して、痛みを覚えたほどだった。そしてこの、胸の痛みということは、こんど初めてのことではなかったのを憶い出す。憶い出した脳裏の隅に立ったのは、良三の姿だった。 ああ、良三さん。と声が出そうになってチヨは慌てた。思わず辺りに目を配ったほどに。 そして、すべてを忘れようとしているわたしにも「ものを思う」という自由はあったのだ。心のなかは無限の広がりを持っていたのだ、と思った。 こんなことを思える環境のなかに、わたしはいまいるのだ。安曇の旧家のなかで、姑の指図のままに一日じゅう這いずり回っていたときには、一瞬たりとも考えられなかった自由な時間が。 柳子が宇宙へ向かって思いを広げるほどではなかったが、チヨも、地球の裏側まで思いを伸ばすことのできるのを、いまさらのように知ったのだ。 それは龍一が、ガイコクに土地を買ったということから広がった思惟だったことは、柳子と同じだけれど。 ただ柳子と違ったのは、柳子が思考を観念的に宇宙へ向かって広げたのに対して、チヨは、憶い出を日本まで伸ばしただけで、具象化するのは、自分が耕せる土地さえあればいい、ということだった。 親が三反もの土地の地主になって、小作人から自作農になれるという、内藤家から出された条件で、自分自身が親のために、龍一と結婚することになったのが、土地というものを意識した最初だったのだが、そのときでもチヨ自身は、自分の土地を欲しいとは思わなかった。 自分ひとりで扱いきれない広い土地を手に入れたからといって、夢が広がるわけでもないし、気苦労だけが増えて、世間を狭めるような結果になるのを懼れるほど、これ以上は狭くなりようもない小心者なのだから。 チヨは「私」のなかに閉じこもることで安心を得る。 柳子は「私」のそとに向かって飛び立つことで、益々広がる希望と、いよいよ深まる思考を持てると考えていた。 龍一は「私できる土地」というものに執着するだけで、それ以上の考えはなかった。 土地があるという安心の上に乗っていると、孫悟空が釈迦の掌のなかを飛び回ったように、仏の慈悲が届く範囲内でわがまま一杯に、女の臀を追いかけまわせるというだけの、卑小な欲望を持つだけだった。 安曇の富農というだけで、それ以上の大地主になりたいという欲望がなかったように、ブラジルで大牧場主に成って見せるぞ、という気概など持たなかった。 それほど広い範囲でなくても、彼自身が行動できる範囲内で卑小な欲望を満足させられればそれでよかったのだ。 最終的には、甘い女の懐に抱かれて、陶酔できれば、それ以上の喜悦など、この世に存在するはずはない、と考えるようになったのは、幼年のときから安曇の畑のなかで、小作人の女たちからちやちやされて、乳の出ない乳房を口に含んで育ったからだろうし、少年になると、信州の広さを識るとともに、女の肉の快楽も知り、横浜の学校に行くようになると、長野県と神奈川県と東京に線を引いた三角形の範囲内で、女遊びをする楽しさを覚え、とくに横浜でガイジンの人妻の味を知って、日本の女の堅い肌ではない、腐りかけているようなガイジン女の肉の、爛れたような匂いに噎せるのが、女遊びの究極ではないだろうか、と錯覚もしたのだ。 こんど日本からブラジルへ距離が伸びると、それに連れて範囲も広がり、より珍品を味わえるのではないだろうか、と思っていたが、まだその機会には恵まれていない。 まだ恵まれていないということは、日本に帰国してゆくまでには、そんな経験もできるだろうという、小さな希望なのだけれど、かつて女に不自由をした覚えのない龍一だったから、距離とか広さは伸びたり縮んだりする有機的なものなのだから、生活環境が広がると、女の数もそれだけ多くなるはずだろうし、機会も多くなるだろうと、ブラジルに自分名義の土地を手に入れたところから、彼だけの希望をつくっていた。 誰でもそうだろうが、人間、人格が卑小であればあるほど、広がる希望は不可能なほど大きくなるのだが、柳子ひとりが宇宙的拡大を夢見ただけで、龍一もチヨもそれほど大きな夢を描くことはなかった。 そして「土地」という、イザナキとイザナミが沼矛を指し下ろして、塩こおろこおろとかき回して引き上げ、その矛の先から滴り落ちる塩が重なり積もりて島と成りき、くらいの小さなものはとにかくとして、地中表面に浮かぶ陸地は、元々人間が造ったものでもないものを争って、占有するという驕慢な行為の端くれだから、わずか五アルケーレスほどの農地を自分名義にしたからといって、無に等しいことなのだ。 しかし、ブラジルと言う国は、ポルトガル人が偶然に発見した新大陸だということだが、さすがに民族の坩堝というだけあって、国の形態を成していながら、外国人が不動産を所有するのを黙認する寛大さには、感心させられる。 日本なら、差し詰め、どこかから流れついた異国人が、これだけの土地を所有するとなると、たいへんな金と苦労と手続きとを必要とするだろう、と龍一は感慨一入だった。 ここから、何かが始まることだけはたしかだ、とまだ目標を立てたわけではなかったが、予感はあった。 |
「花の碑」 第九巻 第四五章 了 |
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