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「花の碑」 第九巻
第四四章
チヨは、夫がリンスに出かけて行った目的は知っているのだから、不動産の契約をしてきたとか、もう登記を済ましたとか、新しい土地を買ったことに関する何事かを言い出すまで、こちらからそのことに関して訊ねないつもりでいた。
龍一が日本に居たときから、そとでしてきたことを、根掘り葉掘り訊かれるのを嫌うという習慣を、ここでも踏襲したわけではなかった。
チヨは口下手で、下心もなく訊ねても、相手に真意が伝わらず、そういうことを訊ねるのは、儂の行動を疑っているからだとか、詮索するのは嫉妬からだとか、龍一のほうに疚しいことがあるから、捻くれて取られるからだった。
龍一は、総領息子として甘やかされて育ったのが、後天的な性格にもなったのだろう、なんでも悪いことは他人のせいにするところがあって、それが幼少のときだけではなく、成人してからも反省することなくつづいていたのだ。
日本ではそれがしょっちゅうのことだったからというわけではなかった。
ブラジルに来てこのコーヒー農園に入ってからいままでおおかた一年、出歩くことの好きな龍一が外出する理由もなかったから、畑と小屋とのあいだを行き来するだけだったのが、ここの契約期間が終って出て行く先を定めるためだったら、家長ひとりが出てゆくのは許可するから、と熊野から伝えられたらすぐ、
「儂は自分名義で買える土地を探してくるよ」
 と言ったときの顔色が、ぱっと小鳥が飛び立つときのように、一変したのだ。
 それがわかったチヨは、ああ、この顔色の変化は、日本で何度も視てきたものだ。目的へ向かう道からふらふら外れ、寄り道し、遠回りして、遊んだあとで用事を済ますという癖が、久しぶりに発揮できる期待のために耀いている顔色だ、と察したのだ。
チヨは、帰ってきた龍一のなんとなくそわそわしている様子。外で悪戯をして帰った子どもが、父親から叱られるのを逃げるために母親の袖の下に隠れるような仕草が視えて、商談とは別の、なにか話せないこともしてきたように思う勘が働いて、ああ、ブラジルに来ても、あの癖はなくなっていなかったのだと知ったのだった。
だからこちらから口を出すと、また夫の感情が捩れて、かえってそのことに触れるときの不快さが跳ね返ってくるだろう、と考えたから素知らぬ素振りをしていたのだ。
セックスに関する限り、龍一は時とところを選ばず、交尾期の犬と同じで、どこででも行き逢った雌の尻を嗅ぎ、暗黙裡にでも相手の許諾があれば仕掛かって行くらしいことは、彼が独身のときから耳にしていたことだったから、それに対して嫉妬の情は起こらなかった。
内藤の家に嫁いできてからも、夫の放蕩はつづいていて、あまりにも長いあいだ帰ってこなかったとき、舅が龍一を叱ったのだが、おまえを勘当しても、チヨは離縁しないぞ。チヨはおめえだけの嫁じゃねえ。内藤の嫁じゃ、と言ったことがあったから、チヨはそれを心得ていて、龍一のすることに一々拘らない習慣がついていたのだ。
生活への意欲も、腕っ節も強くないのに、性欲だけは人一倍強いらしく、そうして外で遊んで帰っても、妻をまったく蔑ろにするのではなく、手を伸ばしてきて、自分の蒲団のなかに引き寄せ、上に乗ってくるのだけれど、その行為は、子を産むための、内藤の血を受けた子孫をつくるための行為だと思っているチヨだったし、そのために龍一のところに嫁いできたのだと覚悟していたから、龍一ひとりの妻としてよりも、内藤家の嫁としての務めのために、眼を瞑って、性行為によって感じるなんらかの快感を極力排除するように神経を散らし、ほかのことを考えながら、夫の行為が終わるのを待っているだけの性生活だった。
そういう冷静さが、男に味気なさを与え、外で遊ぶのを助長することになるのだとは、夫の浮気もよその女の浮気も、男のどうしようもない性欲によって惹き起こされるものだから、と思い込んでいるチヨには考え及ばないことだったのだ。
その習慣は、いまも変わらなかったが、龍一が、「赤道を越えたときに儂も変わったのだ」と言った言葉が、ほんとうにその通りに、人生などという高潔なものではなくても、実生活のなかでの考えや行動が変わってくれたらと思う気持ちがあって、その期待を裏切られたくなかった。
しかし、夫の言ったことが、その片鱗なりとも現実になりそうな気配なのだから、せっかく彼が思い立って自分名義になる土地を探しに行ったついでに何かをしても、環境の好転に水を差すような態度を見せないほうがいい、とチヨは思っていたのだ。
龍一は、そんなチヨのささやかな願望など思い遣るやさしさを、彼女が妻という位置に居るかぎり持つことはなかった。土地を買うのも女を買うのも、すべて男の甲斐性ですることであって、墓石に俗名も戒名も彫り込まれない女が口出しすることではない、と思っていたから。
そとの女たちには、意思の疎通を図るために、一個の人間としての価値を認め、その時々の刹那的な愛を大切にすることはあっても、親があてがった妻は、あくまで内藤家のために子を産むための存在であり、夫の身の回りに気を配る女中であり、それ以上の何者でもないと思っているから、男が外でしてきたことを、逐一報告することもないし、しなければならないと考えたことなどなかった。
見合い結婚した前妻は、内藤家と同等クラスの家から嫁いできた女だったから、龍一の女遊びに我慢ができず、実家に逃げ帰って、親がいくら辛抱するようにと宥めても、頸を横に振り、在らぬほうを観ながら離婚を要求したというのだが、チヨは、歩合作に入っていた先祖からの労務者だった家の娘で、まったく女三界に家なく、借り腹という人権を無視された存在で、対等の人間関係ではなかったから、龍一も、チヨをそのように扱ってきたのだ。
だから外でゆっくり女の味は味わったけれど、味わうことのできなかった緑茶の、鼻に快い香りと、舌に苦味が刺すのを楽しみながら、後頭部に残っている女の残り香もいっしょに反芻していても、なんらチヨへの裏切りを想うこともなかった。
疚しさを想うのは、娘に対してだけだった。その娘が、泥酔していたというアクシデントは、みずからの疚しさを帳消しにしてしまう効用こそあれ、ほんとうは大騒ぎするほどのことではなかったのだ。
酔いから醒めれば、元に戻るのだから。
「だいじょうぶだろ、もう寝るか」
龍一がそう言うと、チヨは、ぞくっ、と寒気が走った。
日本でも、そとで女を抱いて帰ったときには、女の移り香を感じるから、取って付けたような愛想だけで抱かれるのは、とくに嫌なことだった。いま女の移り香をはっきり嗅いだわけではなかったが、勘が嗅ぎ出す女の色香がたしかに感じられて、怖気づいたのだ。
ブラジルに来て、サントス港からまっすぐサンパウロの移民収容所に入り、そこから移民列車とトラックを乗り継いでこのコーヒー農園に送り込まれ、一度も外出したことのないガイコクの土地なのに、地理に疎い土地を、はじめて歩いた夫が、一週間以上も家を空け、外で何があったのか一言も言わずに、「さあ寝るか」と言われると、まさかとは思うけれど、夫が外で遊んできたのではないだろうか、という勘が働いても、それは自分自身の動物的な嫉妬心から感じることであって、事実そんなことがあったとは指摘できないのだから、もしそんなことがなかったとすると、夫が留守にしてきた間に溜めて帰った性欲を、放出する行為を要求してくるのではないか、柳子がこういう状態のときに、そういうことをしているのもどうか、と気になって、
「わたしは、もうちょっと起きとりますに」
と言って、柳子の様子を窺がいながら、炊事場から動かなかった。
安曇を旅立ってから今日まで一年のあいだ、神戸移民収容所の共同部屋、移民船のなかでは特別室を金を払って獲得したが、同じ部屋のなかに寝つきの悪い娘がいたし、サンパウロ移民収容所では、ベッドが大部屋に並んでいる状態のなかでだったし、そしてこの隙間だらけの板壁の労務者小屋では、娘はもちろん隣からも覗き見できる環境のなかで、ずっと息を殺して抱かれてきたのだ。
夫が一度に放出する精液の量が多くてもいいから、それをする回数を尠くしてくれたらと思いつづけてきた。
そういうことで、今夜はそれを回避する理由ができて、ほっとするチヨだった。
龍一が黙って立ち上がったとき、柳子の部屋で大きな音がした。
龍一とチヨが、びっくりして走って行くと、柳子がベッドから落ちていて、這い上がろうと、もがいていた。夢うつつのなからしく、覗きにいった両親には気づいていないようだった。
龍一が、柳子を抱き起こし、ベッドに寝かしつけると、柳子が寝言のように、なにごとかをぶつぶつ言うのが聴こえた。
だから目覚めているのだろうと惟ったチヨが、
「柳ちゃ、寝とるといいに」
と言いながら毛布を掛けて、幼児を寝かしつけるときのように、軽く叩いてやると、うわ言は納まったから、そのまままた眠ってしまうだろうと思ったのに、柳子の眼がぱっちり開いたから、龍一もチヨも、ぎょっ、となった。
そればかりか、何に腹を立てたのか、チヨの手を邪険に払って、
「だいじょうぶよぉ」
と尖った声で言う。
その声の調子が、正常に戻っていなかったから、頭のなかもまだ混乱しているのだろう、と龍一もチヨも思って、
「うん、そうかそうか」
と子どもをあやすように、ほんきに取り合わないように応える。
すると柳子は、もくもくと起き上がってきて、
「ほんとうにだいじょうぶなんだから」
とまだ巻き舌で言って、ベッドから足を下ろし、スリッパに爪先を入れようとするのだけれど、うまく入らなくて苛々している。
チヨは、柳子を助けようと思いながらも荒々しい感情に掻き乱されているらしい娘のほうに手が出せなくて、おろおろする。
そのとき、突然正気に戻ったように、
「なんだ、親爺帰ってたのかあ」
といまごろになってはじめて父の存在に気づいたように言って、笑ったから、チヨも龍一も、柳子を見直したほどだった。
チヨなどは、そこにいるのが柳子だと思えないほど、薄気味悪さを覚えたらしかった。
まるで娘らしい外観だけを装った小悪魔が出現した錯覚に陥って、躰を小刻みに震わせた。
まさかと想いながら見直しても、目尻が釣り上がっているし、巻き舌だし、声の質も代わっていたし、言葉遣いが柳子のものとは思えない伝法なものだったから、きっと邪悪な鬼が乗り移ったのに違いないと想ったのだ。
気持ちが荒んでいるというのではなく、柳子の全身から禍々しい妖気というようなものが発散していて、こちらに向かって突っかかってくるように感じられ、たじろがせる。
龍一が気むづかしい顔になって、柳子を叱るべきか、黙認するべきか、判断に苦しんでいると、苦虫を噛んでいる龍一を見て、柳子のほうが口を切る。
「なんだよぉ親爺、文句あるのかぁ、ないのかぁ、どっちなのよぉ。こっちには言いたいことが山ほどあるんだよぉ」
柳子自身が考えて言っているのではなく、なにかしら激しい感情に突き動かされているらしいのがわかる。
酒の魔性に煽られているのだろうけれど、普段積み重ねてきた鬱憤が爆発点に達しているようで、龍一は柳子を叱るどころか、気圧されて逃げ腰になる。
こういう時の父親はだらしがない。言葉を失う。だから大抵の父親は暴力を振るって、みずからの弱点を挽回しようとして、皿に大きな穴を掘ってしまうのだ。
龍一も例外ではなく、言葉を呑んだ反動で手を振り上げてしまう。
それを察して、チヨが素早くあいだに入って、
「なんだに、柳ちゃ、そんなこと言って」
男に向かって女の荒れるのは、女でなくては鎮められない。男が対面すると、いっそう煽る形になって、状況を悪化させることになる。
そう判断してチヨは割り込んだのだけれど、柳子の姿を借りた悪魔が、せせら嗤う。
「お母ちゃの出る幕じゃないんだよ、わたしはお父ちゃに話があるんだから」
柳子の手で、チヨは押し退けられてしまう。細い腕なのに力がこもっていた。チヨが危うく倒れそうになる。
「言わんでも、柳ちゃの言いたいことはわかっとるから」
 チヨは泣きそうになって言う。
「変なこと言うわねえ、言わないうちからどうして言うことがわかるのよ」
「言いたいことがあっても言わんのが女の勁さだに、柳ちゃ」
チヨは自分のことに照らして、毅然とした態度で言う。
「だめだめ、お母ちゃ、それは日本に居るときのことよ。ブラジルに来たらブラジルの精神で生きなきゃぁ、じめじめとナメクジになって我慢してると、ブラジルの太陽に焼かれて存在をなくすんだから」
柳子はまだ舌の縺れが戻っていない巻き舌だったが、頭のなかの混乱は整理されつつあるようだった。理路は整然としてきている。
チヨは、柳子の言うことは、東京にいる良三の妻の影響だと思っているから、心の底に反感があって、おもしろくなかった。
チヨは、儒教的な精神で夫に忍従する日本の女の生き方を美徳だと思ってきたのだ。隠忍自重して、慎ましく夫に仕えるのが妻の務めというよりも、そうあらねば家庭の平穏を保てないと考えているからだった。
良三の場合は特殊な家庭で、姑も小姑もいない夫婦二人だけだし、夫婦二人が外で働いているのだから、たとえ婦人解放運動に雅子が関与していなかったとしても、自ずから人生観は変わってくるだろうが、それはいまの世の中で通用するものではなく、未来のことなのだ、とチヨは考えていた。
長男龍一と末弟良三とでは、兄弟であっても時代感覚はひと昔分違うのだ。その妻たちチヨと雅子では、それに輪をかけて、ふた昔分は違うだろう。
チヨ自身には未来がなかったのだ。現在だけを大切にして、夫の未来のために傅くのが妻の勤めだという常識に従っていたから、女が現在のために口を尖らせ、口角に泡を吹くのは、みっともないことだと思っていた。
若いとき、良三の進歩的な思想を憧憬しながらも、将来はそういう社会になるんでしょうねえ、と言って、チヨ自身が関わる世界ではない、と身を退いてきたのだ。
チヨは、世界のことを知りたいとも思わなかったし、他国の女の生き方を真似たいとも思ったことはなかった。
雅子のしていることは、ガイコク女がしていることを真似ているだけで、日本の女の生き方ではない。たとえ生活する場所が変わっても、変えてはならないことだと思うからだった。
そんな思いは、ブラジルに来てから、ブラジルの女たちが大きな声を張り上げて、夫に食って掛かるのを視て、いっそう堅固になっていたのだ。
家庭の安穏を保つためには、女が常に夫の陰に隠れていて、自己主張することを控えていなければならないのは、世界共通の夫婦の在り方に違いないのだ、と実地学習して再確認したのだから。
柳子ももう十八になったのだ。いままでのような我がままを許していては、とんでもない女になってしまうだろう、柳子の自由にさせてやれ、と言っていた龍一自身、おめえの躾が悪いからだ、と矛盾したことを言うのだが、それは龍一の身勝手さとばかりも言えない困惑があるのもわかるから、チヨは夫の身勝手さよりも、娘の身勝手さのほうを窘めることになる。
安曇の旧弊な村社会のなかで、柳子は幼いときから、「この子は変わっとるなん」と誰からも言われてきたのだから、突飛なことを言ったり、したり、するのは柳子の性格であって、雅子の影響を受ける以前のことだから、チヨが、東京の尻軽女の影響で、と考えるのは妥当ではなかったのだ。
しかし、東京から帰省してくるたびに、身体の成長は遅々としているのに、精神というのか、知識というのか、女学校に行くようになると、ときには眉をひそめるような思想的なことを言って、びっくりさせられてきたのだ。このままだと危険思想の方向へ、傾斜してしまうのではないだろうかと心配にもなって、龍一にそのことを言うと、「なあに心配することはねえ、背伸びしているだけだ」と取り合わなかった。良三の妻の悪口は言っても、その影響を受けているはずの娘には寛大なのだ。
チヨは、柳子が新時代の女になるよりも、大和撫子という淑やかで賢い女に育ってくれるほうが安心できると惟うから、それなら信州の山のなかで育てたほうが、身体的にも精神的にも純粋培養されたのではないだろうか、と悔やんだことが年毎にあったのだ。
その一方では、こんな旧弊な狭い山のなかで育てるよりは、そして龍一の影響を受けるよりは、良三の影響を受けたほうがいいだろう、とも考えて、考えあぐね、結論しかねて、過ぎてきたのだった。
その思い迷った結果の、悪いところがいま突出して、「親爺い」などというような伝法な東京言葉を遣わせたのに違いない、とチヨは思って、仰天するのだ。
「さあ柳ちゃ、湯冷まし飲んで、もうちょっと寝るといいに」
直接彼女の言葉遣いの悪さを非難すると、かえって意地になって、突っかかってくるだろうと思って、チヨは懐柔しにかかったのだが、
「誤魔化さないでよ。お母ちゃは、ずるいのよ、ずっと自分自身を誤魔化して生きてきたんでしょ、わたしはぜったい男に隷属しないんだからね」
 とチヨ自身が意識しなかったことを、剥き出しにされて、まあ、と息を呑む。
娘がおとなの言葉でしゃべっているのに驚いたのだ。いままでもおとなぶった言い方をすることはあったけれど、子どもが背伸びして言うことだと聴いてきたのだが、今日の柳子の言い方には、いままでになかった響きがあった。ほんとうに柳子が言っているのだろうか、何か魔物が取り憑いているのではないだろうか、とチヨは柳子の顔を見直したほどだった。
「親爺さん、あんた、ここは日本じゃないんだから、独りでのんきにほっつき歩いてたらだめよ。ちゃんと責任ある行動を取らなきゃあ」
龍一も、苦笑するどころではなかった。眼を白黒させる。娘のこのやわらかくてかわいらしい口から出ている言葉だとは、どうしても思えなかった。思想的には良三や雅子の影響だろうけれど、喋り方はまるで土方や仲仕を、いや女だから、どや街の街娼を思わせるような響きがあった。
一週間あまり家を空けているうちに、我が家に悪魔が住み着いたのにちがいない、と疑いたくなるほど、柳子の中身が入れ替わっていたのだから。
「どうしたんだ、いったい。酒に酔ったせいばかりじゃねえみたいだぞ。チヨ、なにがあったんだ、儂の留守中に」
 これはただ事ではない。よほどのことがなければ、柳子がこんなになるはずはない、誰の影響なんだ、喋り方が関東弁だから、隣の娘ではないだろう。東京女の雅子は尻軽女でも伝法な口を利いたことはなかった。容姿や言葉遣いは上品なのだ。
いくら考えても龍一は、天変地異が起こったとしか思えなくて、対処の仕方がわからなかった。
「なんにもありませんに、わたしにもわかりません」
 チヨにも、柳子の突然変異がわかろうはずはなかった。
どう対処していいのかわからないから、龍一もチヨもうろたえるばかりだった。
このままだと、しまいには柳子と龍一が取っ組み合いの喧嘩をはじめるのではないか、と心配になってきたチヨは、
「柳ちゃ、ね、お願い、寝てちょうだい。言いたいことは明日にして」
とほんとうに懇願する気持ちになって、どうでも柳子を寝かしつけなければと、柳子の肩に腕をあてて、寝室のほうに押し返して行こうとする。
すると柳子は、案外身軽にチヨを躱して、龍一が座っている横に、どさっ、と彼女自身の躰を投げ出すように座ってしまう。
チヨはもう、観念するしかない、と眼を瞑る。
龍一は、苦虫を噛んだが、こうなると逃げるわけにもいかなくなって、
「ああ、言いてえことを言いてえだけ言やあ気が済むさ」
と臨戦態勢になる。
「さすが男ねえ、覚悟がいいじゃないの」
「親を見縊るな」
「やる気ね」
「なんですか柳ちゃ、そんな喧嘩腰になって」
チヨは、こういう場面になるのを怖れたのだが、もうどうしようもないと思って、もし夫が柳子に言いたい放題言わせ、我慢ができなくなって手を振り上げたら、その手を止めに行くしかない、と心を決める。
大喧嘩になってしまうと、どちらもわがま
まなのだから、譲ることをせず、柳子の家出にまで発展しないとも限らない。人一倍臆病なチヨは、そこまで考えると膝ががくがくしはじめる。
しかし、チヨの心配は取り越し苦労で、龍一は苦虫噛んでいても、妙に腹立たしさは起こらなかった。古傷の瘡蓋を剥がされるのだろうと覚悟すると、いつかはこういう日が来ることは避けられないのだから、いっそ柳子が酒酔いの朦朧としたなかで、思いっきり無惨に瘡蓋を剥がしてくれたほうがいいかもしれないと思う。
そう覚悟すると、古い瘡蓋を剥がされるときの痛さと、痒いところを掻かれるときの快さとが綯い交ぜになる予感に、腸の捩じれる思いがする。
柳子が、なにを言いたいのかわかっているわけではなかったし、どこまで突っ込んでくるのかもわからなかったから、少しばかりの怖れと興趣とが重なり、妙な昂奮を覚えもするのだ。
啜っている緑茶が、いつもよりも苦い感じがするのは、そのためだろう。
「柳ちゃも、もうおとなずら、おとなはそんねん子どもみてえに向きにならんもんだ」
「お母ちゃは少し引っ込んでてよ。お父ちゃが言いてえことがあるなら言いてえだけ言えって言ってるのよ、言わせてよ」
 柳子が、龍一の口真似をし、
「うん、おめえは口出しするな」
と龍一が柳子に同調すると、柳子は、きっとなって、
「お父ちゃがそう言うとだめなのよ、抑えつけることになるから。同じ言葉でもね、言うものによって意味が違ってくるんだから」
 と今日の柳子は、親に向かって説教する。
こんなに柳子を理屈っぽい女にしたのは、良三と東京女と、そしてここに来てからは川田鷹彦という、ろくでなしなのだ、と龍一は思い出すと、この三人が三人とも揃って軍国主義に反対の立場に立っているものばかりだから、苦々しいだけではなく、娘への悪影響を惟って怒りを覚える。
 そもそも日本の軍隊は、天皇陛下が統帥遊ばす軍隊なのだ。軍国主義は日本の国是だ。そういう考えが龍一を占有していたから、軍国主義に反対するものはみんなアカだとしか思えなかった。
「難しいんだなあ、今日の柳子は」
「今日だけじゃないわよ。わたしはねえ、いろんなことを安易に片づけてしまわないんだから。なんでも難しく考察しなきゃあだめなんだから」
 柳子の言い方が、しつこいのは、酒のせいだろうが、理屈はいわゆる進歩していると偉そうぶっている連中のものだ、と惟うから龍一は心穏やかにはなれないのだ。
「誰からそんな難しいこと習ったんだ、良三か、雅子か、鷹彦っていう青年か」
 龍一は、どうしても柳子に影響したものたちの名を出さずにはおられなくなる。
「関係ないわよ、わたしの意思で言ってるのよ」
「ほう、柳子も自分の考えを持つようになったのか」
「まえから持ってたわよ」
「そうだったかな」
「茶化して誤魔化さないでよ」
「誤魔化したりはせん」
「わたしたちブラジルに来てるのよ」
「そんなことは言われなくてもわかっとるよ」
「ぜんぜんわかってないわよ、お父ちゃも、お母ちゃも」
「わかってるさ」
「わかってないわよ。いまだに日本の古い仕来たりを踏襲してるじゃないの」
 ここまで言葉の投げ合いをして、「古い仕来り」のところで、龍一の思考が停止する。
 言い合っていた文句の流れを停止させたのは、柳子に向かって、「古い仕来り」の「古い」は言わなくてもいいんだ。「仕来り」というのは、古い習慣のことなんだから、と教えてやるためではなかった。
 龍一自身が女遊びをしてきたのは、男社会の仕来りから食み出していたことではなかったのだが、家のなかでは旧弊な仕来り通りにしていて何も思うことはなかったのだが、外の女たちと過ごす時間には、女も一個の人間なんだから、亭主に傅くばかりではなく、自由な考えで、人生を楽しまなければ損だよ、などと新しい生き方を口にしてきたのだ。その新しい生き方と、良三たちの新しい考え方が同じではないのはわかっていたが、じゃあ俺が口にしている新しい女と、雅子が実践している新しい女の生き方とのあいだに、どれほどの違いがあるのかは、龍一自身にはわからなかったのだ。彼自身、自分が新しい考え方を持っているとは思っていなかったし、新しい生き方をしたいとも考えたことはなかったのだから。
 しかし、女を口説くための科白だとしても、男社会の奴隷になっている女を哀れに思い、浮気する時間だけでも自由であらねば、あまりにも可哀想だ、と思う女への思い遣りはほんとうだったのだから、そこで龍一の思考の流れは停滞することになるのだ。自分自身がわからなくなるからだった。
「どういうことだか、わからん」
「そうでしょう、わかっていないから、わたしが言うのよ。お父ちゃは身勝手なのよ。みんないっしょけんめい働いてるのに、独りぶらぶら遊びに行って、一週間以上も帰ってこないんだから」
「なんだ、そういうことか。それならわかっていないのは柳子のほうじゃねえか。儂は土地の契約やら登記やらで、日にちがかかるからってチヨに言って出たじゃねえか。チヨ、おめえは柳子にそう伝えなかったのか」
「言いましたに」
「聴いたわよ。でもお父ちゃ、その間に二度も日曜日が入ってるのよ。どうして一度帰ってきてまた出かけないのよ」
「そうか、そのことで怒ってたのか」
「怒ってるんじゃないわよ、あなたの考え方
を変えてもらわなければならないって言ってるのよ」
 あなたなどと、娘から突き放した言い方をされて、龍一は、ううん、と唸ってしまう。
「どう変えるんだ」
「だから、ここはブラジルだって言ってるんじゃないの。ブラジルに居るあいだだけでも日本の男性の身勝手さを止めて欲しいのよ」
「だからどうすればブラジル式になるんだ」
「お母ちゃとわたしを、一個の人間として認めなければならないっていうことよ」
 一個の人間としてか、と龍一は懐かしさにほろりとなる。外の女たちには、儂自身が言ってきたことばだったから。
「認めてるよ」
 そのことなら、龍一は胸を張って言えるぞ、と思った。
「認めてないわよ、お父ちゃの行動は」
 そうか、ことばだけではだめだったんだ、行動として顕わさなければ。
 もう一度日本を振り返ってみて、儂は女を口説くときの科白としては使ったけれど、行動としてそれを顕わしただろうか、と考えてみると、覚束なかった。というよりは、女を一個の人間として扱うという行動っていったいどういうものなのか、説明するのは難しい。納得させるのはいっそう困難だ。
「ちょっとけえるのがめんどくさかっただけじゃねえか」
 一週間あまり家を空けた理由を説明し、納得させるのに骨を折っているのだから。
「そのことだけじゃないわよ、すべてにお父ちゃは、日本にいるときと同じようにお母ちゃの人格を無視して」
「おお、また難しいことを言い出したぞ」
「茶化さないでって言ってるでしょ」
「お、そうかそうか」
「もっと真剣に聴きなさい」
「わかった、聴くよ」
 こうなればもう、何を言われても、柳子の言い分を全面的に肯定するしかないようだ、と龍一は観念する。といってもそれは観念的にであって、実際的には馬耳東風を決め込むつもりになっていただけだった。
「お母ちゃがね、お父ちゃが何をしても文句を言わないで従順にしてるのは、ほんとうにお父ちゃを敬ってるからじゃないのよ」
「まあ、柳ちゃ、なんちゅうこと」
 ずばりと柳子が、こちらの内面を曝け出すようなことを言ったから、チヨは仰天してしまう。
「いいから、聴きなさいよ」
 柳子が冷静でいるのが、チヨにはいっそう怖かった。つぎに何を言い出すか、予想もできないところから、藪から棒を突き出すのだから。
「夫に仕えるのは日本の女の美徳ずら」
 チヨは、常套句を楯にして防禦するしかない。
「それは仕方なく、でしょ。本心からそう惟ってしているんじゃなくて、心の底には恨みをどろっと沈めながら、上辺の従順さで」
チヨは、柳子の言うことが図星だったから、生唾を飲む。そして恐いことを言う子だと眼を瞠る。
「妻は夫の奴隷じゃないわよ」
「おいおい柳子、儂がいつ、チヨを奴隷扱いしたんだ」
「あらお父ちゃ、ぬけぬけとそんなこと言えるわねえ、ずっとそうだったじゃないの」
 奴隷とは思っていなかったが、妻は夫の性欲と身の回りのことに気を配って、影のようになっていればいいのであって、そこには人間としての存在感など考えたこともなかったのはほんとうだった。
「奴隷じゃねえ、献身だ。日本ではそれが女の美徳になっとるんだ。女が口出しせず、男が国を治め、家を治めているから規律が護られてるんじゃねえか、女がえらそうに口を出すと国も家も乱れるんだ」
 こんな奇麗ごとを言って、世の中は保たれているんだ。
「そんな考え方が男の身勝手だって言うのよ。わたしに言わせれば反対だわ。男が世界を支配してるから、世の中が乱れて戦争ばかししてるんじゃないの、女が主権を握ったら即刻世界中に平和が訪れるのよ」
「ほう、偉そうなことを言うなあ。しかしな柳子、それは見果てぬ夢というもんだ。女が国や社会を牛耳って平和になるなんちゅうことは絶対ないんだぞ。いっそう混乱が大きくなるんだ。歴史がそれを証明しとる」
「どこの歴史よ。お父ちゃは、いつ歴史の勉強したのよ、出任せ言わないでよ」
「出任せじゃあねえぞ。昔から女は国を傾けるというのは常識になっとるんだからな」
 これはここだけの言い逃れではなく、ほんとうのことだと思っている。
 支配者が女に溺れるととうぜん国は傾くだろうし、女をなかにして男が争えば、それが戦争につながるのだ。女を得るために金が必要になり、女を得るために嘘が必要になる。すべて男にのしかかってくる災厄の根源は、女にあり、女が起こすものなのだ、と龍一は思って止まない。
「そんなことどこに書いてあるのよ」
「そりゃなんちゅっても、儂と柳子とではまだまだ勉強した量が違うさ」
「へえ、お父ちゃは本など読まないくせに」
「そりゃ柳子が知らねえだけだ。水滸伝や三国志や紅楼夢なんぞ、お父ちゃが若いうちに読んどるんだ。だから儂はこんなとこでも皆が一目置いてくれるほどの物知りなんじゃねえか」
 狭い社会だったが、生活に役立つ物知りは儂ひとりだ、と龍一は思っていた。
川田鷹彦がインテリだと思われていても、彼の言うことは実生活には何も役立たない理論だけのことだったし、もうひとりの中村須摩子は、聖書のなかの観念論を受け売りしているだけで、こちらも憂き世から浮き上がっている。
「よく言うわねえ、お父ちゃの読んでるのは講談本ばかりじゃないの。物知りが聴いて呆れるわよ」
柳子はそう言ったが、三国志とか水滸伝というものがどういう書物なのか知らなかったし、世の物知りたちの多くが、そういう講談本などから知識を得ているのだということも知らなかった。
「どちらにしても男が女を隷属物扱いしていることは確かなのよ。だからわたしたち女性は、断固として現体制と闘わなければならな
いのよ。お母ちゃ、しっかりしてよね」
「はははあ、気の毒だが、柳子は女だから代議士にゃなれねえし、投票権もねえんだぞ、いくら演説の練習しても、空念仏だ」
「練習じゃないわよ、いま本番として抗議しているんじゃないの」
「儂ひとりを相手に演説しても始まらんじゃねえか」
「まず我が家の体制から改善してゆかなきゃあならないのよ。しかしてのちにぃ」
 いよいよ柳子が演説調になってきたから、ははん、こいつはまだ酔いから全面的に醒めていないんだ、とわかる。
「わかったよ、改善するから早く寝んか」
龍一は、柳子が酔った勢いで言っていることだからと思って、適当にあしらうつもりでいた。
チヨも、この調子だったら、夫と娘のあいだに大喧嘩ははじまらないだろう、とその気配から安心して、
「女のでしゃばりは見っともねえずら」
と笑いながら言って、遅い夕食の準備にかかる。
「まだお母ちゃはそんなこと言ってる。だからいつまでも女の地位が向上しないのよ。女がみずから人間の権利を放棄して、男に従属していてはだめなのよ。ブラジルに来てわかったでしょ、お父ちゃの働き方とお母ちゃの働き方の違いが。畑仕事から家事まで、ほとんどお母ちゃ一人で切り回していて、お父ちゃがその上に君臨している矛盾が」
「なんだ柳子、その口振りは川田の甥の口移しだろう。あれこそ働かずにいて口幅ったいことを言う反体制派だぞ、あんな男の言うことなんか害にこそなれ、なんの益にもならねえんだぞ」
龍一は、鷹彦の影響だと思うと気分が悪くなる。
柳子は、鷹彦の悪口を言われると神経を尖らせる。
ふたりが互いの言葉尻を捉えて言いがかりをつけだすと、一度安心したチヨが、また心配になってくる。
「川田の甥は、男の裏切り者だ」
龍一は、口の端に笑みを湛えて冗談のように言ったつもりだったのだけれど、顔が歪つになるのは避けられなかった。
「鷹彦さんの悪口言わないほうがいいわよ、我が家の相克に関係ないんだから」
「関係ないことはないぞ、自分の娘に変な思想吹き込まれて、親として黙っちゃあおれねえんだからな。いや、こういうことは柳子一人の問題じゃねえ、日本人全体の問題だ。女が権利を主張するようになると社会の混乱を招くんだから、それを煽動するやつは騒擾罪に匹敵する犯罪者だ」
「大袈裟なこと言わないでよ。お父ちゃの言うことのほうが、よほど社会の混乱を助長する言い方だわよ」
「そんなこたああるものか、あいつは何しにブラジルに来たんだ、あんな躰でコーヒーの実を?ぐために来たはずはなかろう。ブラジルに住んでいる日本人社会を、アカい思想で染めるためじゃねえのか」
龍一は、鷹彦の名が娘との間に挟まったのを幸いにして、柳子と言い争っている焦点をずらせる考えになって言う。
「鷹彦さんはそんな人じゃないわよ、あの人アカじゃなくて白なのよ」
 柳子には、まだ鷹彦のほんとうの姿はわからなかった。まったくアカでもなさそうだし、白いはずは全然なかったのだけれど、白とアカが散髪屋の看板みたいに、あるいはまた、ねじり飴みたいに、ねじれながら天に昇ってゆきそうなのをいつも観ていて、こちらまでねじれそうだと感覚していたのだ。
「そんなこたああるものか、それは柳子があいつに誑かされているんだ」
 誑かされている、という表現が、まったく的外れだとは言えないようにも思えた。交際し始めたころには、まっすぐ立っている端正な姿そのままに、彼の心もまっすぐのように感じていたのだけれど、このごろの鷹彦さんは、いっそう捩れ方が酷くなってきていて、白もアカも濁ってきているように、柳子は感じるようになっていたのだ。そして話し方も皮肉ばかりが多くなって、「柳ちゃんはいつも元気溌剌でいいなあ」と、元気なことに羨望し、溌剌としていることに怨嗟を持っているような言い方をするようになっていた。
 龍一の言った「誑かされている」という言い方に、柳子は肯定するように感じたのは、直接彼と接触しているからだったが、たまに遠くから鷹彦を視るだけのチヨには、最初ことばを交わしたときの印象が勁い記憶になっていたから、あの人が女を誑かすなどというようなあくどい男とは決して思えなくて、
「まあ、ひどい言い方なさって」
と思わず父娘のあいだに割り込んでしまい、あっと口に手を当てる。
「おめえは黙っとれ」
 即座に龍一が、柳子に向かって話している声音とは違う、抑圧する声で言う。
「それ、それよお父ちゃ、頭から抑えつけて女性の口を封じようとする態度を、わたしはいま問題にしてるのよ。お母ちゃの発言を封じることも、鷹彦さんをなかに入れることも、ぜったい反対なんだから」
父が母に黙れと言った横暴を非難しているが、さきほど柳子自身が、お母ちゃは黙ってて、と抑えたことを忘れているし、父の「誑かす」を否定しないで、こんどは母の「ひどい言い方」という発言を肯定しているのにも気づかないのだ。
「惚れた男を庇うんだな。柳子も一人前の女になったちゅうことだ」
なんとか話の焦点をぼかしたくて、龍一はにやにやしながら、鷹彦を前面に押し出すことを止めない。
柳子は、惚れた男、などという言葉を聴い
て、吹き出してしまう。やっぱりお父ちゃは下世話な解釈しかできないんだ、と思って。
「ばかねえ、お父ちゃは。男女の友情を、そういう低俗な関係でしか見られないなんて、やっぱり講談本的範疇からは抜け出せないのよねぇ」
「そういう難しい単語をわざと使って人を煙に巻くのがアカの遣り方だ。おめえはもう桃色に染まってきとるぞ」
 龍一はそう言いながら、軽い嫉妬を覚えていた。まだ抱かれたとは思えなかったが、接吻はしているのではないのか、と惟ったからだった。
「いやらしいお父ちゃ」
 柳子がそう言いながら、顔を薄桃色に染めていた。キスとも言えないキスだったけれど、はじめて男性の唇に触れられた感触が、いまでも消えず唇に残っていたから。
「まさか、おめえ、あいつといやらしいことしとらんだろうな」
 龍一は、娘が顔を染めたので、やはり接吻はしたんだなあ、とそれまでは薄かった嫉妬を、濃くして言う。
「ばかっ」
柳子が、父を打ちにゆく。自分が顔を染めてしまったことに腹立たしさを覚え、父から心のなかを見透かされたことが恥ずかしかったから、それを打ち消すためには、口だけではだめだと惟ったからだった。
龍一は、声を出さずに顔だけで笑いながら、柳子の手首を捉えて防ぐ。防ぎながら接近した娘の唇の色艶が気になって、視線が柳子の唇に焼きついてしまう。
柳子は、心が乱れて、拗ねた顔をして、手首をねじて、父に掴まれた手をもぎ取る。
もぎ取りながら、極度に接近した父の顔に鷹彦の顔を重ねて、キスしたときに薄く目蓋をあけて視た鷹彦の顔が、離れて視ているときの青白い顔とはぜんぜん違って、赤黒い醜い顔になっているのを、おかしいなあ、どうしてだろう、と感じたのを思い出す。
そして、いま急接近している父の顔のほうが、よほど端麗な顔立ちで、肌がつるっとしていて美しいと惟う。
この美しい顔貌と後頭部が絶壁なのは、明らかに朝鮮民族の血を混じり気なく享け継いでいるからだろう。
龍一にはおかしなところがあって、普通日本人は朝鮮人を故もなく蔑視するし、日本に帰化した朝鮮人は、自分が元朝鮮人であったことを隠そうとするのだけれど、彼にはそういう卑下もなく、「儂は朝鮮貴族の後裔だ」とむしろ誇りを持って友人たちに言ってきたし、ここでも旧移民の村上に向かって言ったのだ。まあ、村上が「儂は村上水軍すなわち海賊の末裔だ」と言ったことに合わせたのだろうけれど。
柳子はいつも、講談本で得た知識だろう、と父を軽蔑しているけれど、良三叔父のように大学までは行っていなくても、農業学校と経理学校と二度も中等教育を受けているのだから、それ相当の勉強はしてきたし、その間に読んでいる本もあるだろうから、亀の甲より年の功というだけではなく、初等教育しか受けていない人の多いなかではやはり一応の知識人には違いないのだ、と柳子も理解はしていたのだ。
それでだろう、日本の歴史がある程度わかるのは。
いやわかるというだけではなく、自分なりの判断をして、学校では教えない天孫降臨の事実関係を推測してもいたのだ。
天孫降臨の想像図を見て、この衣装は朝鮮民族の衣装だよ。儂が想像していた通り、日本の曙は朝鮮民族の来航で明けたのだ。彼ら朝鮮貴族が政争に敗けて九州に逃げて来て、東征し、奈良に都をつくったのが、国というものが日本にできた最初だよ。日本の文化は朝鮮人が持ってきたものだ。漢字など中国からの文化の輸入は、何世紀もあとのことだ。
だから日本の天皇の始まりも朝鮮民族だし、いまの天皇が南方民族との混血だとしても、儂らは日本に政権を造った朝鮮貴族の直径の子孫なんだ。という矜持を持っているから、自然に備わった気品に磨きがかかったのだろう。
内藤龍一の天皇崇拝は、昭和の天皇を超越して、歴史を遡ってずっと遠い先祖への崇拝だったのだ、とも言えるだろう。
そういう話を折に触れ聴いていた柳子は、父が鷹彦さんのアカい思想や、尻軽女の雅子さんの婦人解放運動を毛嫌いするのも、旧い歴史を擁護するからに違いない、と惟った。
そう惟うと、よけい父が苦虫を噛むようなことを言いたくなる。
「あのねお父ちゃ、女の権利を主張して運動してるのは鷹彦さんじゃなくて、雅子叔母さんのほうよ、わたしが目覚めたのは、鷹彦さんに揺り起こされてじゃなく、叔母さんの影響なんだから」
あっ、と龍一とチヨがいっしょに声を放った。ふたりが声を合わせて驚いたのは、柳子が帰省してくるごとに、新しい知識を披瀝して、その新知識のなかに、婦人の権利などということばが入っているから、これはあの東京女の受け売りに違いないと思っていたのだが、はじめて柳子が、はっきりそれを言ったからだった。
「そうだろうと思ってはいたが、あの跳ね上がりの東京女め。あいつもアカだぞ。いまに警察に挙げられるからな。そうなりゃあ良三も一蓮托生だ」
龍一が苦々しく吐き捨てるように言う。
龍一が、良三の妻を悪し様に言うのは、生粋の江戸っ子だということを鼻にかけて、儂らを田舎者と軽蔑しているようなところがあると思っていたからだった。
「ふんとうだに」
 チヨが哀しい眼を伏せる。
 チヨが、良三の妻を好かないのは、好きな良三が、嬶の臀の下に敷かれているということを姑や小姑の話のなかで聴いたからだった。
「叔父さんや叔母さんはアカじゃないわよ」
「ああ、女性解放なんぞというのはアカと同じだ」
「いっしょじゃないわよ、ぜんぜん違うわよ、共産主義は経済問題じゃないの、女性解放は人権問題よ、そんなことも知らないで、叔母さんを誹謗しないでよ」
「公序良俗を乱すところが同じなんだ」
「いまの日本の男社会が良俗だっていうのが古い頭なのよ。脳味噌の入れ換えはできないから、叩き壊さなきゃあなんないわね」
 過激な娘の言い方に、
「それみろ、アカだから破壊を考えるんだ」
 と龍一が言い、
「まあ、柳ちゃ、なんちゅうおそろしいことを言うの」
とチヨは本気にして、躰のうちから震えはじめる。
思想かぶれになると、人間らしさを失って、冷酷無惨な悪鬼になるという人の噂を信じているチヨだった。
「社会を改革するためには、古いものを塗り替えるんじゃなくて、古いものは破壊して、新しいものを建てなくちゃなんないのよ」
 柳子は両親が驚くのがおもしろくて、受け売りに過ぎない過激な言葉を拾い集めて並べ立てる。
「止めなさい、柳ちゃ、そんねん恐ろしいこと言うのは」
 チヨは気が気ではなかった。いまのこの環境は、壁に耳あり障子に目あり、というようなものではないのだ。周囲が戸締りもできないような開けっ放しで、筒抜けの状態なのだから。
「ううん、柳子もとうとうアカに染まってしまったか。これはぜったい東京女のせいだけじゃねえぞ。あの末成りひょうたんの青白い顔した男のアカに染まってしまったんだ。こんなこたあ柳子に言える言葉じゃねえ。困ったもんだ」
龍一は、ほんとうに頭を抱え込んでしまう。
チヨは、良三のところに柳子を預けたのが間違いだった、とずっと遠い過去に戻って後悔する。
チヨはここに入植してからの鷹彦の影響を考えなかった。雅子ひとりの悪影響だと思いたかったのだ。
チヨの憂慮は個人的な範囲を出るものではなかったが、龍一の心配は、内藤の血族からアカを出すことの懼れだった。
畏れ多くも天皇陛下の御治めになっておられる日本に、アカの思想が蔓延ることの危惧を思うのは、当時の日本国民の一般的な物の考え方だったから、龍一がそれを思っても決して突飛なことではなかった。
女だてらに、みずからの権利を主張するだけでも世の末だ、と感じているのに「社会の改革は」などと娘が口にすると、驚天動地の
ことに考えてしまう。
龍一も、チヨが心配したように、隙間だらけの板壁のそとを窺がっていた。柳子の言うことが外部に洩れたら、警察官が押っ取り刀で飛んでくるのではないかと、瞬間ブラジルにいることを忘れて、そう思ったのだ。
もう十年も前のことだが、共産党員全国一斉検挙の報道が安曇の村まで揺れ動かしたことがあったし、五年ほどまえには、長野県の六十二校の教員がアカらしいというので、大ぜい検挙されたことがあったのだから、アカの恐怖は、おおかたの暗愚の民の心のなかに染み込んでいることだった。
「柳子、そんな言葉をぜったい口にするな」
龍一が厳しい眼つきになって戒めるのは、庶民が常識的に持っている恐怖心からだった。
思想犯だけを目標にして、徹底的に捜査網を広げ、徹底的に検挙するために設けられた特別高等警察は、市民に恐怖政治の印象を与え、警察官を蛇蝎のように嫌悪させることになっていたのだ。
聴くところによると、ブラジルも赤い思想を排除することに懸命だというのだから、秘密警察が張っていないという保障はない。
柳子は、まだ完全に酔いが醒めていたわけではなかったが、両親の顔色の急変は察しられたから、
「お父ちゃ、そんなに心配しなくても、わたしは共産主義革命のことを」
「柳子、もっと声を小さくしろ」
「ふふ、これくらい、それでなんだっけ、そうそう、そんなに恐い顔しなくても、簡単に言えば、わたしとお母ちゃをもっと人間扱いして欲しいっていうだけのことなのよ」
「儂はなにもおめえらを動物扱いした覚えはねえぞ」
「動物扱いっていうんじゃないわ、お父ちゃ一人でなんでもしてしまわずに、わたしたちにも少しは生活設計とか、将来的方針とかの説明をして欲しいって言うのよ」
「だけど、柳子はそう言うが、隣を見ろ隣を。隣の女房がああだから、家庭が巧くゆかんのじゃねえか、夫婦別れ寸前なんだぞ」
「あなた、そんねん大きな声で」
チヨが慌てて、隣の様子を窺がい、ひやひやして夫を制する。
「なに構うものか、少しは耳に痛いことも聴かせてやらなきゃわからん女だ」
「お父ちゃ、隣のことにまで口出さなくていいじゃないの」
「いや儂が言ってるのは、隣に限ったことじゃねえ、日本全体のことだ。女が大きな顔をして碌なことはねえと言っとるんだ」
「それをわたしが問題にしてるんじゃないの、そういう男の傲慢さを恕せないって」
「また堂々巡りかなん、お父ちゃも柳ちゃもいい加減にして、ご飯を食べて」
「ご飯なんぞ要らないわよ、わたし」
「儂も要らん」
チヨは困り果ててしまう。
「なんでもいい、とにかく女がでしゃばっていいはずはねえんだ」
「お父ちゃの石頭は、どうにもならないみたいね」
「どうにもならんくらい重いほうがいいんだ、世の中簡単にひっくり返らんほうがいいんだからな」
「もういいわよ、お父ちゃ、ちょっと黙っててくれない、わたしお母ちゃに話があるから」
龍一は、柳子の鉾先が逸れたので、ほっとする。
チヨは、お鉢がこちらに回ってきたので、困ってしまう。
「もういいに、柳ちゃ、お母ちゃはいままで通りでいいんだから。女が辛抱すりゃあ、それで済むことずら」
「幻滅ねえ、わたしの親たちは、どうしてこうなんだろう、前世紀の遺物よ」
「そんなことがあるものか、これが今世紀の
在り方なんだ。おまえを、女の尻に敷かれとる良三のところに預けたのが間違いだったよ」
チヨは、あれっ、と思う。龍一が、さきほど自分が思ったことを口にしたからだった。もちろん、それぞれが、良三と雅子に掛ける思いは違ったけれど。
「女が男と同じところに立って発言すると、尻に敷かれてるって見えるらしいけど、良三叔父さんのところは、夫婦二人が外で働いてるんだから、家のなかのことも二人でするのよ。わたしのところのお父ちゃは、畑でする作業がお母ちゃよりも劣っているのに、家のなかで威張ってふんぞり返ってるんだから」
「女が外で男のように働くから変なことになるんだ。女は家にいて家事をするのがいちばんいいんだ。柳子ももっと家事を覚えんといかんぞ、結婚したら困るんだから」
 龍一が言ったことに、柳子は、にやりとする。
「ふうん、そうお、女は家にいて家事をしておればいいの。じゃあ、いまからそうしようよお母ちゃ、明日からお父ちゃ一人で働いてもらって、わたしら家にいようよ」
龍一は、ううん、語るに落ちるとは、と苦々しい顔をする。
チヨが、にこにこ笑っている。
「もういい柳子、儂が降参するから。おまえも腹減っとるだろ、茶漬けを食って寝んか」
 龍一が白旗を掲げたから、柳子の矛先が鈍る。
「お腹なんぞ空いてないわよ、まだげっぷが出るくらいだもの」
「その調子じゃ、明日は頭がづきづきして起きられんだろ」
龍一とチヨは、急いで茶漬けを掻き込んで、
「さきに寝るぞ」
と立ち上がる。
柳子は、父が降参したので気を良くして、こんどは父が外でしてきたことを訊ねようと思ったら、龍一がさっさと寝室に逃げ込むように入ってしまったから、仕方なくベッドに戻る。
濁酒の壷に落ち込んで、どっぷり浸かったからだろう、全身の皮膚が酒精を発散させているように臭っているし、自分自身が吐く息が臭うのだから、体内の贓物まで濁酒漬けになっているのだろう。全身がふやけていて、軟体動物になってしまったみたいだ、と自覚する。
体重も急激に減少したらしく、ベッドの上で眠ろうとしても、眠りの底に沈んでいかない。いや、逆にだんだん浮き上がってきて、なんだか躰が宙に浮いている感じがする。
そのうちに、躰が宙に浮いていると思ったのは錯覚で、水中を流されているんだ、とわかったのは、板壁や天井から流れ込んでくる青白い光が縞模様に揺れていたからだった。
なかなか寝つかれないと思いながら、知らぬ間に睡魔に囚われていたのだろうか、夢を見ているような気がするが、現実でもあるような気持ちもある。いや、どちらでもなく、ゆめとうつつの境界を行きつ戻りつしているらしい。
ときおり意識が朦朧となって、自分自身の躰が分裂する感じもあった。ああ、感じだけではない。ほんとうに躰が浮遊しているのが見える。なんだか気味悪く、心のなかが、がさがさしている感じがする。
あれ、あんた誰なの。影がダブって見えるのは、ダブっているのではなく、二人居るのだと気づく。見ている自分と見られている自分が、互いにあれが自分自身だとわかって気安く呼応して、分離したり、一体化したりを繰り返しながら、青い光の届かない暗い空洞のなかに入って行く。
丹那トンネルよりも長いなあ、などと思いながら、早くこの暗闇から抜け出さなければならないと、いっしょけんめい空気を掻いて泳ぎはじめる。泳ぐといっても、ただ無闇に手足を動かしているだけで、自分自身の躰が
前進しているのか、停止したままなのか、或いは後退しているのか、わからない。それでも手足を動かしておれば、いつかどこかに辿り着くのではないかと、かすかな望みを持って空洞のなかを泳ぎつづける。
ずうっと遠いところに、眼に眩しい白熱の光を放っているものが見えてくる。ああ、あれが未来なんだ、と朧げな認識がある。すると過去が気になって振り返る。過去は真っ暗闇でなにも見えなかった。しかし、明るいほうが未来で、暗いほうが過去だと思うのは自分の意識であって、確かな根拠があってのことではない。そう思いたいみずからの願望が定めているのだろう。どちらがどうともいえないあやふやな空間に、居心地の悪い状態で浮いているだけの自身の存在が、いかにも嘘くさく思えてならなかった。
こんな中途半端なところに拘っていては、いつまで経っても埒が明かないだろう、と思うのだけれど、前進しているのか、後退しているのかわからない状態では、どうにもしようがないなあ、と徐々に焦りが出てくる。だけど、その中途半端な状態にいるのが自分自身なのか、他人なのかもわからなくなってくる。
そんなこともわからなくなるなんて、やっぱり酒を飲むのはよくないなあ、と殊勝に反省している自分が見えて、おかしくなってしまう。酒は気違い水だ、と言ったのは誰だったか。わたしの場合は気が狂うというより、なんだか痴呆症になってしまったようだと思う。
いろいろ過去のことを思い出そうと思うのに、ぜんぜん想い出せない。記憶喪失症に罹ってしまったんだろうかとも思う。そうだそうだ、いくらなんでも、わたしが痴呆症になるというのは可哀相すぎる。記憶喪失のほうが恰好いい。そういうことにしておこう。春雄くんなぞに知られたら嗤われるから。
「はははあ、考えすぎだよ、柳子姉ちゃん」
春雄のことを思い浮かべたとたんに、春雄の笑い声が聴こえるだなんて、できすぎていると思う。
「意地悪ねえ、春雄くん」
柳子が唇を尖らせて言うと、春雄がクロールで泳いできて、柳子の髪をつかむ。
「ばかっ、なにするのよお」
柳子が逃げようとして頭を振ると、ころっと頭が胴からはずれてしまう。その頭を小脇に抱えて、春雄はどんどん遠ざかってゆく。
「返してよう、わたしの頭」
頭がないのに、どこから声が出ているのか、柳子はふしぎとも思わず叫んでいる。
いっしょうけんめい手足を漕いで、春雄に追いつこうと焦っていると、右手が、左手が、左足が、右足が、つぎつぎに胴から離れて、ばらばらになって流れて行く。
そのときはじめて柳子は、自分自身の胴体だけになってしまった躰が、空気の流れに乗って移動していたことを知る。頭と手足と胴体がみんなばらばらなのに、流れている速度は同じようだった。
柳子の頭を小脇に抱えた春雄も、彼の意思で泳いでいるのではなく、どんどん流されているのだ。
そして、いつの間にか春雄の姿は消えていて、頭だけが中空に漂っていたから、それを拾って胴に据える。胴に据えた頭は膨張したり、収縮したりしていて、づきづき鈍痛がする。
「酒を飲んだからだよ」
鷹彦が嗤っている。ああ、鷹彦さんから嗤われるのは嫌だ。あの人から嗤われるようなことは、もう決してしないでおこう。もう酒は金輪際飲まないわ、と後悔する。
ばらばらになった四本の手足が、けらけら嗤っている。
頭だけは胴に戻ったけれど、柳子は悲しくなって涙が溢れてくる。この後なにが起こるのだろう、と不安になってきたのだ。自分で
はどうしていいのかわからないし、神様は意地悪で向こうを向いてしまって、何も教えてくれないし。
だんだん神様に向かって腹が立ってくる。このままだと気が狂ってしまうかもしれないと不安になる。あとは神様よりも慈悲深い仏さましか助けてくれるものはないと思って、柳子は一心不乱に念仏を唱える。
安曇のお婆さんが、いつもぶつぶつ唱えていた念仏はこうだったかなあ、
「カンジンザイィボゥサァツ、ギョウジンハンニャァハァラァミッタァジイ、ショウケンゴォウンカイクウ、ドォイッサイクウヤク」
少し違うようだけどまあいいか、
「シャァリィシイ、シキフウイイクウ、クウフウイイシキ、シキソクゼエクウ、クウソクゼエシキ」
 ああ、ここ、ここが好きだった。何宗の念仏か知らないけど、唄うようなところがいい。調子に合わせて踊り出したくなるほどだった。とくに最後の、
「ギャアテイギャアテイ、ハアラアギャアテイ」
 というところなど、足が浮いて、手がひとりでに舞い出す。
「まあ、この子は、念仏踊りをはじめたに」
 ばあさんも、じいさんも、指差して笑い転げると、調子に乗って踊りつづけたのを想い出す。
門前の小僧習わぬ経を読み、で祖母の口真似をしているうちに、すっかり覚えてしまった摩訶般若波羅蜜多心経を唱えていたのだ。
念仏というものは、心で唱えるものなんだろうか、頭で唱えるものなんだろうか、口先だけでは願いを叶えてくれないだろう。わたしは心から念じていますと心に思って念じればいいだろう、と考えながら一心不乱に念仏を唱えていると、どっすん、と大きな音がして、全身に強い衝撃を受ける。すごく高い天界から地上に落ちたような気がして、辺りを見回すと、ベッドから土間に落ちている自分自身を発見する。
柳子は笑ってしまう。亀の子のようにもがいて、やっと躰を反転し、ベッドに這い上がる。
その辺りまでだった、朦朧としていながら覚えているように思ったのは。

頭がづきづきしている。なにかしらずっしりと重たいものが、頭のなかに一杯詰まっているような感じがする。それは脳味噌ではなさそうだ。ガラクタみたいだ。だからだろうか、もう物事を考える隙間がなくなっている。何かを考えると、頭のなかに溶解して行かなくて、考えたことのひとつひとつが、小さな粒子に凝結してしまい、頭皮の上を滑って、ぽろぽろ落ちて毀れてしまう。
「そんなぐええじゃ、明日の朝は起きられんだろう」
父が言った通りだ、と柳子は思う。起きると頭のづきづきが、いっそうひどくなって、両手で抱え込まなければおられなくなる。
はっきり目覚めているはずなのに、眼に映るものすべてが、白っぽくて輪郭がぼやけていて、夢のなかの光景を見ているようだった。
そういえば、夢のなかでか、うつつにか、覚えはないけれど、一心不乱に念仏唱えて拝んでいたような気がする。わたしはいったい何を拝んでいたのだろうか、いくら考えてもわからなかった。
なんだか雲の上を歩いていて、足を踏み外して天井からではなく、天上から落ちたようだった。それなのに天井は壊れていないし、躰もだいじょうぶみたいで、わたしはベッドに這い上がったのだ。
なにかが爆発したような大きな音がしたのは、いったい何だったのだろうか。それを確かめたいと思うと、もうじっと横になっておれなくなって、頭を抱えて、と言っても小脇にではなく、ちゃんと頸の上に据わっている頭だけれど、それを両手で支えるようにしてベッドから下りる。
炊事場で、ごとごと音がしているから、あの辺りが大音響の発生源かもしれない、と思って覗きに行くと、母が竈の前に蹲って橙色の炎のなかに入ってゆきそうな恰好をしていたから、びっくりして、後ろから抱きついて
行くと、
「ああ、びっくらした。柳ちゃ、どうしたんな、もうでえじょうぶか」
と母が大息ついて言うから、柳子は、
「お母ちゃが、竈のなかに入って行こうとしてたから、わたし抱き止めたんじゃないの」
と言ったから、チヨが、おほほ、おほほと笑いだす。
「どうして、何がおかしいのよ」
 柳子は笑わせようと思って言ったのではなかった。ほんとうに幻覚に捉われていたのだ。
「だって、柳ちゃがおかしなこと言うからだに」
「どこがおかしいのよ」
 柳子には、自分自身が平常な状態ではないことに気づいていなかった。
「お母ちゃが竈のなかに入るだなんて言ったずらに」
「そんな気がしたのよ」
「まだ酔っ払ってるんずら、きっと」
「もう醒めてるわよ、でも頭がづきづきする」
「寝とったほうがいいに」
「なんだか大きな音がしたから、何だろうって見に来たのよ」
「お母ちゃには聴こえなかったがな」
「なにかが爆発したような、大きな岩石が落ちたような」
「夢を見ていたんずら、きっと」
「夢だったのかしら」
「そうずら、夢ずらに」
「ああ、頭がづきづきする」
「お母ちゃには二日酔いっちゅうのが、どうなるのかわからんなあ。お父ちゃが、頭がづきづきするんなら寝とったほうがいいって言っとったに。今日はお母ちゃも休みにするからな」
「へえ、お母ちゃも畑に行かないの、珍しいこともあるものねえ」
「柳ちゃひとりを小屋においておけんずらに」
「なんだ、わたしのためなの」
「そりゃあ、そうずら」
「わたしならだいじょうぶよ、ちょっと頭がづきづきするだけなんだから」
「柳ちゃのだいじょうぶは、口癖だから信用できんからな」
「あら、お母ちゃ、変なこと言わないでよ、わたしの言うことが信用できないだなんて」
「柳ちゃを信用しないんじゃないんだに。まだ酒が残ってるから、言うことを信用できないっちゅうんずらに。酒の上で言うことだからな」
「ううん、お母ちゃもなかなか厳しいこと言うわねえ」
「それ、早く寝台に戻らんか、お父ちゃが起きてくるから」
龍一が起き出してきて、柳子とまた口論がはじまったら困ると思って、チヨは心配して言う。
ああ、そうだ、お父ちゃは昨日、町から帰ってきていたのだった。わたしが酒を飲んで何がなんだかわからなくなったから、街へ行った結果を話さなかったのだろう。お母ちゃが、お父ちゃの来ないうちにベッドに戻らんか、だなんて変なこと言うけれど、まあこの頭の痛さはなんというのだろう、頭のなかに心臓が移ってきたみたい。その心臓がいまにも破裂しそうで辛抱できない。もう少し寝ていたほうがいいかもしれない。
今日の柳子は、素直にチヨの言うことをきいて寝室に戻る。そしてベッドに横になると、急に秋子のことが心配になり出す。
昨日、秋子から誘われて、甘酒を飲んだのは思い出していた。陽気に歌を唄って歩いたのも覚えている。秋子が浄瑠璃の真似をして、心中の道行きだとか言って、品を作って歩いたり、男役だとか女役だとか言って、なんだか変な声を出したりして、天満の網島だとかなんとか、その辺りからは、いま思い出そうとしても、断片的で、つぎつぎ出てこない。どの辺りで朦朧の世界に踏み込んでしまったのかはわからない。
秋子さんとの友情を大切にするためには、後がどうなっても、いっしょに酒を飲んで酔っ払って、秋子さんの悲しみをいっしょに悲しんであげなければならないと考えたのだから、自分自身を失うほど飲んだことを後悔はしないけれど、陽気に歌を唄うところで踏みとどまるべきで、こんなに頭がづきづき痛むほど飲むのはいけなかったんだなあ、と反省する。
しかし、秋子さんが、労働によって躰が疲労するだけではなく、心も疲れ果て、大地にうつ伏せになるほど酒に溺れ込んで行く気持ちはわかるから、可哀相にとは思うけれど、酒を飲んで酔っ払っても、秋子さんの痛烈な悲哀は癒されるのだろうか、頭がこんなに痛むのを後悔するくらいだから、酒を飲んで酔っ払ったことを後悔すれば、悲哀はいっそう深まりこそすれ、癒されることにはならないのではないのだろうか。
まだぼんやりしている頭脳でも、理屈っぽい柳子はくだくだと考える。
「どうだ、頭が痛むんだろ」
龍一が笑いながら、柳子の部屋を覗く。
「うん、づきづきする」
柳子は酒を飲んで酔っ払ったことが照れくさいから、怒った顔をつくって、背を向ける。
しかし、なぜだかわからないけど、向けた背に、父のやさしさが、じいんと沁み込んでくる感じがあった。
こんなにしんみりした情緒は、かつて感じたことのなかったものだった。いままでの父のやさしさは、すごく意識してそうしているというような生硬さというか、取ってつけたような阿りというか、よそよそしさがあったように思う。
父娘のあいだで、よそよそしいというのも変だけれど、そしてそれは、柳子のほうでそう思っているからそう感じたのかもしれないけれど、良三叔父に対するよりも、父に対するときのほうが一歩下がって物を言うというところがあったのはほんとうだった。
その不必要な隔たりの感覚が、いまなくなっている感じを受けた。なぜだろう、どうしてだろう、と柳子は考えてしまう。
この変化は、いったい何に起因するのだろうか。父の内部で何かが起こったのだろうか。わたし自身の心の変化によるものなのだろうか。いまはまだわからなかったが、潤いの在る情緒的な何かによって浸されていて、かさかさしたものが父とのあいだからなくなっているのは確かだった。
「ねえ、お父ちゃ、昨日わたしが何をしたのか知ってるのぉ」
柳子は、顕らかに甘える口調になる。
「さて、柳子がしたこと。なんだったかなあ」
「すごく特別のことしちゃった」
「特別のこと」
龍一は、柳子が昨夜突っかかってきたことをいままたぶり返すと、朝から気まずいことになって嫌だと思って、用心しいしい言葉を交わしていたのだが、どうもそうではないらしいとわかって安心する。
「なにをしたんだ、儂に隠すのはよくないぞ」
「だから、隠したりしないわよ。わたし酒飲んじゃったんだから」
「酒を飲んだのは知ってるが、それからどうしたんだ」
「どうしてわたしが酒を飲んだのを、お父ちゃが知ってるのよ、お父ちゃはわたしが寝てるあいだに帰ってきたんでしょ」
あっ、と龍一は、柳子の顔を見直す。ほんとうにそう思っているのか、何もかもを帳消しにするために覚えていないことにしたいのか、そんな駆け引きを柳子が知っているとは思えなかった。ということは、みずからがしたことを覚えていないということになるのだが。
若いときから、女には間断なく親しんだが、そんな無頼な生活のなかでも、酒にはあまり親しまなかった龍一だから、泥酔するほど酒を飲んだ経験がなかった。だからもちろん、泥酔して己れがした行為を覚えていないという経験もなかった。
「柳子、おめえほんとうになにも覚えてねえ
のか」
「覚えているわよ、秋子さんと甘酒飲んで酔っ払って、歌唄って歩いたの。気分がすっとしたわよ」
それは嘘だった。気分など少しもすっとしていなかった。頭はづきづきするし、気持ちがもやもやしているし。しかしそう思わなければ、もっと惨めになる、と柳子は思った。だから酒を飲んで気分を晴らしたのだ、と父には思わせたかったのだ。
「そうか、それだけか、じゃあ、それでいいじゃねえか」
龍一も、そういうことにしておきたいと思った。
しかし、龍一のそういう思いに柳子が引っかかってきた。
「お父ちゃ、なんだか変よ」
「どうして」
「なにかほかにありそうなのに、何か隠してるみたいに聴こえる」
「そんなことねえさ、柳子が何も覚えてねえんなら、それでいいじゃねえか」
「そこよ、そこ。そういう言い方がおかしいのよ。なにかがあるのに、なにもなかったことにしようというのが。なんだか意識的に簡単に終わらせてしまおうとしているようで、気分が悪いのよ」
「しかし柳子が覚えていねえんだろ、覚えてねえことは、していねえことじゃねえか」
「覚えていないけど、なにかしたように聴こえるのよ」
「あなた、ご飯を早く召し上がらんと、遅れますに」
チヨが声を掛けてくる。
チヨが言うように、作業に出る時間が迫っているのも事実だったが、チヨは、夫と娘のあいだで、また口論がはじまっては困る、と思って割り込んだのだった。
「よしきた、そうしよう」
龍一も、ここは逃げるに如かずだ、と思って炊事場のほうに身を退く。
料亭の仲居を抱いて帰った後ろめたさがあったから、なにもかもを穏便に遣り過ごさなければならない龍一なのだ。だから柳子に対しては、触らぬ神に祟りなしだし、チヨには機嫌のいい返事で応える。
「お父ちゃだめよ、逃げたら」
「あとだあとだ、遅れるからな」
龍一は急ぎ足で、井戸端にゆく。
柳子は昨夜普段着のまま寝たから、そのまま起き出してきて、
「柳ちゃ、お父ちゃは作業に出るんだに」
とチヨが引き止めるのを、聴こえなかった振りをして、龍一のあとを追う。
柳子は、ひとつことに熱中し出すと、傍からの声も聴こえなくなるし、傍のものも視えなくなるところがあった。
龍一が口を漱ぎ、顔を洗っている井戸端に来て、
「お父ちゃ、わたしが何をしたのか言ってよ」
と詰め寄る。
「何もせんよ、酔っ払っとったって言っとるんだ」
柳子のしつこさに閉口しながら、龍一は、ああ、と大きく伸びをして、
「ブラジルの朝はいつも、日中の暑さが嘘みたいにさわやかだなあ」
と感慨深げに言う。
それは実感だった。どんなに日中が暑くても、日蔭に入るとひんやりするし、夜になるとぐんと気温が下がって、ここが亜熱帯なのを忘れさせるほどなのだ。ブラジルといえば熱帯地方で、その酷暑に耐えられるだろうかという先入観があったから、いっそうそれが快かった。
人情がラフだし、気候温暖で、なんだか自分の性格に適合しているようなブラジルに、自分名義の土地を持ち得たという、ちょっとした誇りと、安心と、これで何とかなりそうだという期待とが、心の緩みになって、久しぶりにチヨ以外の女を抱き、性的に得た満足
感も手伝って、柳子の異常な行為を咎める気持ちを和らげていたのだ。
「それだけじゃないでしょ。お父ちゃは、わたしに何か隠してるように思う」
柳子の言うことが、龍一が口外できない、すでにしてしまった行為を詰問しているのではないとわかっていながら、どきりとする。
「ほんとうに柳子は、なにも覚えていないのか」
「だから何をしたのって、訊いてるんじゃないの」
「したんじゃないけど、言ったんだ」
「なにを言ったの」
「酒飲みにはな、柳子、笑い上戸に、泣き上戸、怒り上戸というのがあって、酔っ払うと無性におかしくなって、げらげら笑い出すやつがいるかと思うと、なんでもが悲しい原因になって泣きつづけるやつがいたり、怒りっぽくなって人に突っかかってくるのがいたりしてね。そういうことから言えば、柳子の酒は絡み上戸だな」
「絡み上戸って、どんなのよ」
「なんだかんだと、人の言葉尻を捉えて絡むんだ」
「わたしが酔っ払って、誰かに絡んだって言うのぉ」
「ああ」
「誰に絡んだのよ、熊野さんにぃ」
「熊野に絡んだんだったらたいへんだ。熊野でなくてよかったぞ」
「じゃあ、誰なのよ」
「儂にだ」
「お父ちゃに絡んだのぉ」
「ああ」
「なんと言って」
「ほんとうに何も覚えていないのか」
「覚えていないわよ、なにもそんなことしなかったからでしょ。お父ちゃ、わたしをからかってるんでしょ」
 柳子はまったく覚えていないのではなかった。断片的には覚えていることもあるのだけれど、それを繋ぐのが難しいのだ。面倒くさくなるのだ。
「からかってなぞいないけど、たいしたことじゃなかったから、儂も一晩寝たら忘れてしまったなあ」
「嘘だぁ、嘘でしょ、わたしがお父ちゃに絡んだなんて」
「酒に酔って言ったりしたりしたことは、夢かうつつかっていうあいだのことだからな、覚えていなきゃあ覚えていないで、それまでのことじゃあねえか。いつまでもこだわることはねえさ」
ああ、と龍一はもういちど背伸びをして、空を仰いで踵を返す。
柳子もつられて空を仰ぎ、空に何もないことに、いつも感じたことのない虚しさを感じる。
龍一が、こちらに背を見せて勝手口を入って行く姿を、柳子は視て、いままでに感じなかった父の背に思え、なぜだろう、と頸をかしげる。
なにかしら父の姿には、かつて感じたことのない異質な、しっかりした輪郭というのだろうか、硬質な彫金で造られたもののような、頼れるおとなの背、を感じたのだ。
どうしてだろうか、柳子は、もういちど虹彩の焦点を、父の背の上に置いて絞ってみたけれど、わからなかった。
泥酔すると、自分自身の行為を記憶する装置に欠落が生じるものなのを、はじめて経験した柳子は、それが非常に恐ろしいことに思えた。明らかにそれは人間性の欠落というのだろうか、人格の喪失というのだろうか、そう思えるものがあるようだった。いったいわたしは何を言って、父に絡んだのだろうか、気になってしようがなかった。
たとえ酔わなくても、いちど確認しておかなければならないことがあるはずだった。
父がブラジルに来てから、日本に居るときと、どう変わったか、というようなことを知りたいとは思っていたから、その潜在的に持っていたものが、酔いに任せて放出したのだろう、とだいたいのことはわかる。
古いことまで持ち出して父を詰問したのだろうか。エゴイストだとか、母を苛めるとか、わたしたちを騙してブラジルに連れてきたとか、炎天下で労働をさせるとは何事か、とか言って、日ごろの不平不満をぶちまけたのかもしれない。
お父ちゃが、なんとか、かんとか誤魔化すのは、そういうことをぶり返されたくないからだろう。そうに違いない。
しかし、そういうことなら、なにも酒の力を恃んで、酔わなければ言えないことでもない。平常の会話のなかでも、言えることだったのだ。
どちらにしても、わたしは、自分ながら非常に恥ずかしいことをしたらしい。
秋子さんとは事情が違う。彼女は、彼女自身の憂さを霽らすために酒を必要としたのだろうけれど、わたしには霽らさなければならないような憂鬱はない。
彼女への同情からだとしても、自分自身が泥酔してしまうほど付き合う必要があったのだろうか。ああ、ある、ある、あった。友情というものはそういうものなのだ。命を懸けるのがほんとうの友情なのだ。いやしかし、それはあくまで正気のなかでのことでなければならない。泥酔して自分自身を見失ってしまっては、友情も非情もないではないか。
柳子は、男が考えるようなことを考えて、こういうことを考えられるのは、すでに正気に戻っているからだと思って、やっと安心を得る。
ずうっと遥かな彼方まで茫漠とつづいている平原。
こんな果てしもない高原のなかでおおかた一年近くも暮らしてきたのだ。箱庭のような信州。おもちゃ箱をひっくり返したような東京。そんななかで十七年も生活してきたことと比べて、何らかの変化がなければならないだろうと惟うのだが、わたし自身がどういうふうに変わったのか、さっぱり視えて来ないし、自分自身の存在の意味が把握できない。
視線を遮る何物もないから、却って思惟が纏まらないのだろうか。
この景観は、心にゆとりを与えるとともに、捉えどころのなさから恐怖心も覚えさせるのだろうか。
広い景色のなかにいると気持ちも雄大になってくると思うのに、逆に瞳孔がどんどん収縮してきて、思考も狭まってくるようだった。
志向がどれほど世界に向かって雄飛しても、観念的なものは、限定された具体的な肉体のなかに、帰巣本能がある鳩のように戻ってきてしまう。
いうならば、わたしの志向は、自分自身の小さな肉体から解放されることはなく、外界とは関係なく、ずっと肉体の奴隷のように囚われたままなのだ。
そういう現状を意識しているから、酒の勢いを借りて、思考の壁を突き破って飛び出そうとしたのではなかっただろうか。
そしていま、それが不可能だと観念して、諦めたような感じだった。
とにかく酒で停滞している思考を解決しようとして、無駄な努力に終ることを知っただけでも、泥酔するまで酒を飲んだ意味はあったと思う。
おそらく秋子さんもそうだろう。彼女の現状打開は、けっして酒ではなんにもできないはずだ。
無駄なことはもうしないように気をつけなければ。

母が言うには、昨夜は食事もせずに寝たらしいのに、朝も食欲はなく、ただただ眠いだけという頭の重さに耐えかねて、柳子はまたベッドに縋りつくように眠ってしまう。
やっと昼が過ぎてから、ベッドにへばりついている柳子を心配したチヨに起こされて、目覚めたとき、禍々しい夢を見たように思うのだけれど、どういう夢だったのか思い出せなかった。
「茶漬けでも食べて、また寝るといいに」
母から茶碗を突きつけるようにされて、まだ食欲はなかったけれど、喉に茶漬けを流し込むと、なんとか胃に落ちていったが、濁酒で急激な刺激を与えた胃が怒っているのか、拒絶反応を起こして、やたらとげっぷが出た。
まだ躰が中途半端な状態だったから、自分自身の躰を他人の躰のように、用心しながらベッドに横たえてやったけれど、夕方近くなって、こんどは躰とベッドが反目しはじめたから、気分が悪くなって起き出す。
「熱めの湯で行水すると、躰がしゃんとするに」
母が用意してくれた盥に浸かって、全身にちりちりした刺激を与え、肌を覆っていたぬるぬるとした悪感を流すと、ようやく頭のなかの構造が元に戻ってきて、あるべきかたちになり、考えることが、すばやく脳裏の抽斗に整理できるようになった。
父から絡み上戸だと嗤われ、母には二日越しの心配をさせ、みずからも頭痛と倦怠感とで一日を無駄にしてしまうような飲酒は、これから絶対慎むべきだ、と大いに反省する。こんな不健康極まりない後味の悪さが、わずかでも自分の人生の一部を侵食するようなことは許せない、と痛切に思う。
歩いて足がふらつくようなことはもうなかったが、なんとなく頼りない感じがするのは、全身を侵食している空虚さのせいだろう。
隣でも、皆が畑に出ていったあとに秋子がひとり残って、一日中呻吟しているようだったが、声を掛ける気は起こらなかった。板壁の向こう側で身悶えている秋子の姿は見なくても、彼女の苦痛が直に伝わってくるから、よけい嫌な感じがした。
セックスは、子を産むためだけにするものではなかったのだとわかっても、じゃあ、なんのためにするのか、男性の体内で自然に起こる性欲を放出するためだけなら、熊野は園子と夫婦なのだから、それで事足りるはずではないのか。
柳子にはまだ、セックスが快楽行為だとは考えられなかったし、事実、ガイジンの男女がしているところを目撃しても、男女が歓び合っているのではなく、呻吟していて、苦痛に満ちた行為をしているように視えたし、熊野と秋子がしていたのを視たときも、二人が楽しく遊んでいるようには視えなかった。
とくに秋子の顔も声も、荒行に耐えているものとしか思えなかったから、やはりセックスは、父が母にするときのように、子を産むための本能で、男性が性欲のために一方的にするものなのだろう。女性にとっては苦行でしかないものなのだ、と思った。
だから秋子さんは、そんな嫌なことをしたために汚れた躰と心を酒で洗浄したかったのだろう。どちらにしても、人間も動物の一種にすぎないためにしなければならない苦行が在るのだなあ、と思って嫌になる。
なんだかどろりとした泥濘みたいなところを、どうしても通過しなければならないのだろうか。そうは思えなかった。
セックスは、誰もが忌避することのできないものとは思えない。したくなければしなくて済むものだろう、まず結婚しなければいいし、男性が言い寄ってもきても拒否しようと思えばできることのはずだと思う。わたしはしない。ぜったいセックスなどというおぞましい行為はしたくないと、こんどの飲酒騒ぎで、秋子がセックスしていたときの苦悩と、その苦悩を紛らわさなければならないために飲酒するという愚行を、実体験して、いっそう切実に思う。
この農場に来たばかりのときには、広大な原野に魅了されて、その平穏な田園風景のなかにいると思う爽快感と、大地に抱かれていることによる動物的な原初に戻った安堵とを覚えたのだが、わずか一年にも満たない月日のうちで、ここも決して天国ではなく、生々しい人間社会の一部であり、なおかつ農奴に等しい、契約に縛られた最低の生活環境なのを知ったうえに、あからさまに為されているセックスが、男女の安楽ではなく、苦行なのだとわかって、それならば寧ろ、繁雑で騒音に包まれている都会生活のほうが、かえって気が紛れるのではないだろうか。性生活にしても、非文化的な野合ではなく、人目に触れないところで、礼節を保って為されているように思えるから、と都会では人間生活が陰湿で、悪辣で、詐欺的で、虚栄で覆われていることを知らない少女の感傷のなかで、惟う。
いちど都会の水を飲んでしまったものの宿命とでもいうのだろうか、しきりに東京での生活が懐かしくなって、日本へ帰りたいという希求が、きりきりと胸を締め付けてきて困った。
柳子はそれを意識していなくても、それは誰にでも起こるホーム・シックにすぎないのだけれど。
柳子が懐かしむ日本は、生まれ育った故郷の安曇ではなく、東京だった。
柳子は、休暇で安曇に帰省しても、清冷な空気を吸い、自然に浄化された水を飲んで、ああ、やれやれと心を休めることを知らず、すぐに山村の退屈な日々に飽き、汚水を殺菌してつくる水道水を飲み、煤煙に噎せ、油の浮いた掘割の汚水に鼻をつまむような、東京を恋しがって、チヨを悲しませたのだ。
ひどいときには、「お母ちゃもこの村の人もみな、死んでるみたい、東京の街の人たちは生きてるわよ、あれが人間の生活だと思うわ」などと言ったりした。
こういうところは、平和な田園生活がいいと言う鷹彦さんと、意見の合わないところだけど、わたしは良三叔父さんのように、取材記者になって、都会の雑然としているなかを、人にぶつかりながら駆け抜けたいなあ、と柳子は思った。
しかし、いまでは、日本を懐かしむ心のなかに、すでに領域を占めているブラジルも、確かな風景として存在を顕示していたのは否めなかった。
一つの農場が、一つの国ほどもあると錯覚させる馬鹿でかい広さなのに、これがブラジルのほんのひと欠けらだというのだから、南米大陸というのは想像もできない広大なところで、その広さを端から端まで、この眼で見てみたいものだ、とも思う。
そういう男の子が夢見るようなことを考えるところが、柳子がほかの女の子と違うとこ
ろだった。
長い月日を費やして馴れ親しめば、そこは第二の故郷たり得ると、鷹彦さんがいつか言っていたけれど、もしも日本に帰っても、ブラジルがわたしの第二の故郷なのよ、と人に言えたら、すごく大きな人間に見えるのではないだろうか、という魅力も捨て難いものだった。
そのためには、一年や二年で日本に帰るわけにもいかなかった。そして、ただ物見遊山ではなく、この大地に汗や血を滴らせることによって、いっそう執着が生まれるだろうから、父が彼のわがままから造った環境だとしても、それを享受するのが自然な生き方であって、こんなところに連れてきた、と父を責める愚かさだけは顕わさないようにしなければならない、と思う。
それやこれやを考えると、酒を飲んだことも、飲みすぎて働けずに、一日家に居たことも、反面教師として無駄ではなかったのだ、と結論づける。
須磨子さんならさっそく、「神様がお与えくださった休息日です」などと言うだろう、と思っておかしくなる。
一週間以上も家を空けただけでなく、放埓をしてきた龍一は、神から与えられた休息ではない、人間臭い休息を、みずから先取りした罪の償いをして、
「いやあ、参った参った、一人じゃあどうにもならん」
と悲鳴とともに帰ってきた。
今日一日を、どういうふうに作業してきたのか、それでも終業の鐘を聴くまで畑に居たのだから殊勝なことだ。日本に居たときの龍一からは考えられないことだったから、彼が赤道を越えた時点で、儂も過去を超越して新たな人生を築くよ。チヨ観ててくれ、と言ったことを信じなければならないのかなあ、とチヨに思わせた。
なにしろ「旧家」という重圧がなく、龍一の眷族一切がいなくて、ここに在るのは、夫と娘と三人の、家族というよりも、ささやかな家庭なのだ。チヨ自身の家族との過去の生活が嘘のような環境が、これからもつづくのだから。
そして農業に関する限り、わたしが主役なのだ。重要な存在なのだ。わたしの考えで生活を営んでゆくのだ。そんな自負があったから、娘が言うような、夫に従属し、奴隷のように傅いているだけ、とは思わなくなっていた。
そんな気持ちが、夫に仕える妻の勤めとしてのやさしさを、いままでになく自覚させるのだった。
「まあまあ、この汗、水に浸かってきたようだなん」
心の底にある蟠りを横において、笑顔をつくって迎えられるのも、そのためだった。
汗でずくずくになった作業着を脱ぎ、本体に相伴して疲れた様子のペニスをひょこひょこ踊らせながら、チヨが湯加減を見ているタンボールの五右衛門風呂の縁を跨ぐ龍一の姿は、十分農夫として通用するものだった。
農夫を実践していることでは、新しき村をつくった武者小路実篤を一歩跨いでいる、とチヨはほほえましく観た。
湯船の縁を跨いでいる龍一の、足のあいだで揺れているふぐりを見ながら、柳子が来て、
「降参したぁ、お父ちゃぁ」
といつにない上機嫌な顔で、声を掛ける。
「ああ、降参したよ」
龍一は、呆けた顔で素直に言い、眼の焦点をぼやけさせたが、自分名義の土地をブラジルで得られ、見知らぬ女をブラジルで抱いたことが、彼の素直さと裏腹に、妻と娘を従属させる自信をも大きくさせていた。いくら娘がそれを非難しても、男が女を従えていてこそ生活が成り立ってゆくのだ。女ではできないことを儂はやって、ブラジルに行ってこういうことをしてきたんだ。儂名義の土地がブラジルにも在るんだ。と吹聴できるようにしてみせるから。いまに見ていろ、という高揚感がふつふつと湧き上がってきていたのだ。
「お母ちゃの有り難味がわかったでしょ」
 柳子は、龍一の体内に充足してきている男の誇りがどんなものか、推測できるはずはないから、父の気分を自分勝手な解釈で汲み取っていた。
「ああ、わかったよ」
 龍一も、娘の言うことがどういうところからでてきているのかなど、どうでもよかったから、大きな気分で受け容れられた。
いままでは実際に、作業をするというだけなら、そばにチヨがいるから、怠け心を引きずられてできてきたのであって、ひとりでする虚しさには耐えられなかったのだが、いまからは違うぞ、と思っているからだった。
「そう、それなら、わたしがお酒飲んだのも、結果的には悪くなかったのよねぇ」
 龍一のやさしさが、どういう結果でこうなっているのか深く考えないで、柳子は、彼女
自身の過ちを擁護する。
「こいつめ、それを言いたかったんだな」
龍一は、ざぶっ、と両手で掬った湯を顔にかけて、娘の甘えを容認する。
「でも、終わりよければすべて善しって、お父ちゃの口癖じゃないの」
「まあ、それはそうだが、娘が泥酔して外を歩くなんぞというのは、見られた格好じゃあねえぞ」
龍一は、熊野が秋子を抱き、柳子を小森が抱いていた光景を脳裏に反復させて、再び嫉妬を吐き出す。
ああ、またそのことを言い出して、柳子が反抗しなければいいが、とチヨがはらはらする。
「わたしが自分を見失うほど酒を飲んだのは悪かったって反省してるわよ。でも酒を飲みたくなるような環境に連れてきたのはお父ちゃだからね、そのことだけは忘れないで欲しいわ」
昨日くだくだ管を巻いたことよりも、今日の一言のほうが、龍一には、ぴしゃっ、と応えた。
チヨも、今日の柳子の言い方は、一味違うのを感じたから、醜い言い争いになる心配はないと思ったが、
「もうそれはゆんべに済んだことずら、あなたがまた持ち出すから」
と夫のほうの責任にして、抑えにかかる。
「なんだ、わたし、昨夜そんなことでお父ちゃと遣り合ったのぉ」
柳子が笑いながら言ったから、チヨは、やれやれと思いながらも、柳子が昨夜のことをまったく覚えていないらしいことを心配したり、呆れたりする。
龍一も、口に出てしまったことを迂闊にすぎたと思ったのだろう、また、ざぶざぶっ、と頭から湯を被って、顔を上げると、
「お父ちゃ、そんなに逃げ隠れしなくていいのよ。わたしはお父ちゃに連れて来られたことを非難するつもりはないのよ。お父ちゃがそれを自覚していてくれたら、それだけでいいんだから」
と柳子が、対等のおとなの口調で穏やかに言ったから、チヨは安心し、龍一は、
「いまさら言われても、してしまったことはどうしようもねえさ」
と消極的に認めるしかなかった。
「だから、そのことについてはもう言わない。でものんきに一週間も家を空けた理由は説明してくれるわよねぇ」
柳子のしゃべり方が、ほんとうに一夜のうちにおとなびたから、酒の効用もばかにしたものではないなあ、と龍一は娘を見直す。
「ああ、なんだ、そのことか。それは儂が帰ってくると、おまえが酔って大騒ぎしていたから、話す暇もなかったんじゃあねえか」
「あらそうだったの、お父ちゃが帰ってきたら、家を留守にしていたあいだ、お父ちゃがどこで何をしていたのか、しっかり説明してもらいたいと思って、手薬煉引いて待ってたのよ」
「はははあ、そうか、うっかり帰ってきたらまともに矢を射掛けられて討死にするところだったなあ、柳子が酒に負けて戦意喪失していてくれて助かったよ」
 ほんとうに龍一は、ほっとした。
「まあ、そういうことらしいわね。お母ちゃは何も言わないけど、ブラジルに来て、お父ちゃがまたふらふら出歩く癖をぶり返したら困るものねえ。外に女の人でもできたらもっと困るから」
 チヨは、内心を柳子の口から暴露されて、慌てる。
「柳ちゃ、わたしはそんなことを」
チヨはあとが言えない。柳子に向かってそんな愚痴をこぼしたことなどないのに、疑心暗鬼でいたことを、ずばりと言われて、視線の遣り場に困る。
龍一は、娘からみずからの行状を見ていた
ように指摘されて、うろたえたが、いまここで弱みを見せたら、いっそう自身の立場を悪くすると思って、
「ばか、おまえは柳子にそんなことを言ったのか」
とチヨを叱りつけることで、挽回を図る。
「そんなこと言うもんですかな」
言わなかったけれど、思っていたのだから、チヨの声は弱々しくなる。
「お母ちゃは言わなかったわよ、そんなこと。わたしが勝手に想像して言ってるのよ」
 柳子が明快に防禦してくれて、チヨはほっとしたが、
「お父ちゃが誤解するようなこたあなんも言いませんに」
と懇願する眼のなかに、やさしい厳しさを混入して窘める。
「儂は、ぜんぜん疚しいことなぞしとらんから。あちちち。チヨ、どうしてまた薪などくべるんだ。儂を茹で殺す気か」
ざぶっと、五右衛門風呂から飛び出した龍一は、ほんとうに茹でられたように躰が真っ赤になっていた。
知らぬ間に薪を入れていたチヨは、自分でも驚いて、
「すんません」
と謝りながら、急いで焚き口から薪を掻き出す。火花が散って、夫婦の複雑な心境を焦がした。
柳子が大笑いする。母がわざとそうしたのだろう、と思いながら。
「とにかく一週間、連絡無しに家を空けたんだもの」
「連絡のしようなど、ねえじゃねえか」
「土曜日曜はどこも閉まってたんじゃないの、お父ちゃ」
「そりゃそうだが」
「いちど帰ってきて、また出かけてもよかったって思うんだけど」
「帰るのが面倒だっただけだ」
「それもエゴイズムなのよ、心配してる妻子のことを心配しないのは」
「なるほど妻子がいたんだ。それは心配したさ、心配はしたけど、いい話を逃がしたくなかったからな、不動産屋に付き合ってたんじゃねえか、男にはな、いったん外に出たら七人の敵がいるって覚悟しなければならんほどの、女の解らん男の世界ちゅうもんがあるんだ」
龍一は、なんとかこじつけても言い逃れしなくてはならない、と必死になる。
「それほどの覚悟して、ほんとうにいい話があったのぉ」
「ああ、あったんだ。それを纏め、契約し、自分のものにするために、けえりが遅くなったんじゃあねえか」
龍一は、柳子の見ている前で、隠しもせず股間を拭い、まだしっかり水滴を拭っていない裸に浴衣を羽織って、食卓につきながら、話しつづける。
チヨは、父娘のあいだに行き交う情感の穏やかな様子に安心して、いそいそと夕食の支度をしながら、龍一が柳子に話す一部始終を聴き洩らすまいと、耳に神経を集中させていた。
龍一は、最初見て気に入っていた煉瓦建ての家の在るグァインベの土地が、遺産相続の問題が持ち上がっていて、買えなくなったことや、急遽つぎの候補地を視るために、リンスから汽車に乗って西に八十キロほど先の、リンスと同じように発展していて、日本人移民もリンス周辺からそちらに移っているというアラサツーバという街の様子を話し、その町から近い、アラモ植民地まで行ったことや、視た土地の地形もいいし、煉瓦建てではなかったが、木造のしっかりした家があって、畑もグァインベーのものよりいいから、もうほかのものを物色せずそれに決めて、契約やら仮登記やらで、リンスとアラサツーバのあいだを何度か往復したから、日数がかかったのだと説明すると、チヨも柳子も、すんなりと了解して、龍一がついでに遊んできたことなど詮索する根拠の欠片も見出せなかった。
それどころか、
「もう他人の農場で契約労働者とか、小作人という屈辱的な立場で働かなくてもいいんだぞ。自分らが勝手にできる土地なんだからな。チヨも自分の考えでなんでも自由につくればいいんだから」
と誇らしげに言った龍一の言葉で、チヨはブラジルに来てからの、一切の問題が解消したばかりか、彼女自身の拘りも取れたと思って、夫を誤解して悪かった、と心のなかで詫びたほどだった。
柳子も、昨夜、酒の勢いで父に食って掛かったことなど忘れて、眸をきらきらさせていた。
柳子は、家族三人が団欒する、こんな雰囲気になったのは、はじめてのことだと思って、その温かさに気持ちが和らいだ。
龍一もチヨも、同じ思いなのだろう、三人のあいだを、軽い言葉と笑い声が、小鳥が囀るように飛び交ったのだから。
「花の碑」 第九巻 第四四章 了
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