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「花の碑」 第十三巻 第六八章 |
雨が適宜に降ったせいもあり、光合成にも恵まれて、仮植えした桑の苗木から、ひと月もしないうちに、小さい葉っぱの形をした薄緑色に膨らんでいたものが、どんどん伸びてきて新しい枝になり、それが四方八方に手を広げ、柳子に感嘆の声を上げさせる。 彼女自身の躰がいつまで経っても娘らしい成長を遂げないだけではなく、感受性までが少女のままの新鮮さを保っていたから、あいつはいつになったら一人前の女になるのか、と龍一を悲しませる。 何を見てあんな声を張り上げているのかと思ったのは、養蚕小屋の傍に居た龍一だけではなく、家の横の蔬菜畑で三つ葉を摘んでいたチヨも、自家用に残したコーヒー樹の手入れをしていたジョゼーまで、遠くから頸を伸ばして柳子のほうに視線を注ぐ。 「ほれ、お父ちゃ来てごらんよ、桑の葉がいっぱい手を広げてるわよ」 桑の葉が日に日に成長してきているのは、すでに知っていた龍一だったが、山を揺るがせるほどの感激性と、針の孔から覗き見るほどの観察癖を持っている柳子だったから、傍に居るものの好奇心まで駆り立てて、どんな珍しいものを発見したのかと引き寄せられてしまう。 陽光が雑木林の向こうから斜光線の縞をつくって、すでに今日も暑くなりそうな気配を予告していたが、土はまだ黒々と湿気を帯びていて、桑畑一面がまだくすんだ感じだったが、かえってそれが苗木から無数に萌え出した薄緑の葉たちの姿を際立たせていた。 白っぽい緑の産毛に覆われた葉は、触れれば形を崩してしまいそうなのに、葉の内部に膨脹してゆく力を充分蓄えているのが窺がえる。 それはまるで、現在の柳子の姿そのものだった。外観はまだ少年っぽいけれど、知性に富んだ青年に、そう、見たところ娘ではなく青年に形を整えてきているのに比例して、内面の充溢は飽和状態になっているにちがいないほどだろう、と思わせる耀きが外に向かって発散しているのがわかるほどだった。 スイス人耕地で、物見遊山に来ているようなと他人の目に映っていたのんきさが影を潜めて、このブラジルで何かを成さねば、と思う気持ちは、内藤龍一の胸のなかにだけ起こった異変ではなく、柳子の心にも芽生えていて、日本に帰って新聞記者になってと思う気持ちが薄らいでいた。というのは諦念のせいではなく、なにも日本に帰らなくても、ブラジルのなかで充分何かができそうだと惟ったからだった。 そう柳子に思わせるようになったのは、こんなに大ぜいの日本人たちが、大きな植民地を造って、広大なブラジルの土地を耕し、生活しているのを目の当たりにしたばかりではなく、汗臭いけれど活気に満ちた青年たちのなかに入って、みずからの活動の場を見出したからに違いなかった。 柳子にとっては、はじめて経験する社会的な文化活動において、自分自身の価値を他者から認められたことで、その価値以上の矜持が芽生え、それがブラジル生活の地盤に根を張りはじめたからだろう。 せっかくいい先輩を得たという喜びが敢え無く潰え去った鷹彦の死を補うように、年齢だけではなく平和主義的思想まで同じような鈴木一誠と知り合えたし、彼らとは正反対の思想を持つ軍国主義者の佐藤肇との親密な交際を得たことも、柳子にはその矛盾を矛盾としてではなく、生活の厚みとか広がりとして同時に抱え込むことができるのも、性的な無垢さが、思想的にも偏りのない純粋に人間的な眼で、男性を捉えられたからだろう。 どちらかを批判的に観るのではなく、どちらからも自分自身に必要な養分を吸い取ろうとする、芽生えたばかりの貪欲さに違いなかった。 アラモ植民地に独立の地を得たことが、スイス人耕地での契約労働者という半農奴的な、自由意志で行動できない環境を振り返らせ、彼女に主体性を持たせたのだから、遊び半分な気持ちを捨てさせ、本気になってブラジルと取り組んでみようという覚悟が生じたのにちがいなかった。 龍一が、あの一年はブラジル生活の予行演習だったのだというのも、あながち負け惜しみとは言えないだろう。 龍一もやっと、赤道を越えたとき儂は自分自身の過去と決別して、新しい人生をつくり直そうと考えたんだ、とチヨや柳子に言ったことを、いま実行に移せるのだという思いに興奮を覚えていた。 なにしろ日本に居るときには、自分に子どもが産まれてもまだ、親の脛を噛って生活していたのだから、みずからが汗を流して労働したのはブラジルに来てはじめてのことだったし、他人に使われるということの辛さと不自由さとともに、文字どおりの労働の苛酷さを味わったのだから、ブラジルではこれが一番小さな土地区画だと聴いても恥ずかしくないほど、自由な身になれたことの喜びのほうが大きかったのだ。 その上、ブラジルに来るための理由づけにした養蚕を、技師という肩書きだけではなく、それを吹聴してきた恰好だけでもなく、ほんとうにそれをみずからの手で始めるのだと思う気持ちは、龍一を有頂天にさせてあまりあるものだった。 それはまるで、両手を大きく広げて大空を翔ぶ不死鳥という感じだった。 思わず、にっこりして、「蛟龍雲雨を得」という言葉を、絵に描いたようだ、と自己満足に陥っても、それが恥ずかしくなかった。 そして、いまに見ろ、龍一の名に恥じない昇り龍の儂の姿を見せてやるから、と盗らぬ狸の皮算用を、早くも心のなかで弾いていた。 その弾む気持ちが、気質的にもそうなのだが、意識的にものんきに構えていた大尽気取りを忘れさせ、躰全体に意欲が顕われ、それが足の運びにもなり、方向が定まったのだから落ち着いていいところが、かえって落ち着きを無くしたように、せかせかと歩く姿に見えた。 消毒して密閉してあった養蚕小屋の周囲を、一日に何回となく歩きまわって、 「お父ちゃもわたしに似て、じっとしておれない質ねえ」 と柳子に言わせるほどだった。 「柳ちゃはおかしなこと言うなん、お父ちゃが柳ちゃに似たんだなんて。柳ちゃがお父ちゃに似たんずら」 チヨまで嬉しさを隠せない笑い声を上げて、龍一と柳子が眼を合わせ、肩をすぼませるほどだった。 もともと赤ら顔の色艶がいいチヨだったが、ブラジルに来てから少しくすんで見えていたのが元に戻って、笑い声まで光っていた。 その通りで、移り気で、短気で、わがままで、それでいて一つのことに熱中し出すとほかのものが見えなくなるという柳子の、先天的な性格のほとんどの責任を負わなければならない龍一だったから、いまは養蚕のことしか頭になかった。 腕を組んで物思いに耽っているような龍一の姿を見て、こんどこそ下手な考え休むに似たりではなく、養蚕事業をすすめる段取りをしているのに違いない、と柳子に思わせる確かな輪郭が、龍一が佇む風情にも視えた。 月の満ち干が人間の身体にも影響する、というのはずっとむかしに聴いたことだったが、天候の急激な変化は、人間の精神に影響すると柳子に教えたのは、川田鷹彦だった。 ちょうど一年前のいまごろ、スイス人耕地では、大地を貫くような太くて鋭い稲妻が、ほとんど毎日襲ってきて、地軸を揺るがせるような豪雨が、轟音を蹴立てて通過するという、日本では一度も観たことのなかった大自然の脅威を目の当たりにしたのだけれど、いま思うと、あの年にはほんとうに人間まで狂っていたのではなかったのだろうか、と世の終わりのような精神の荒廃を感じたものだった。 それを感じさせたもっともたるものが、熊野と秋子のセックスする場面を目撃したことだっただろう。 それを視るまでも、ガイジンが野外で大っぴらに開陳していた動物的な行為を観ていたのだが、それに対して否定的な苦痛は覚えなかったのだけれど、秋子と熊野がそのガイジンたちと同じ行為をしているのを観たときには衝撃を受け、痛烈な悲哀に巻き込まれ、いつまでも捩じれて狂った人間関係に拘りつづけたのだ。 そしてそれを荒々しい天候のせいだ。自然現象が人間の精神まで狂わせるのだ。と秋子のせいではなく、自然のせいに責任転嫁させることで、心を慰めたものだった。 今年は、去年感じたような天候の狂気がないらしく、穏やかな日がつづいていた。 稲妻も細く遠慮がちに光り、豪雨ではなく驟雨がしっとり大地を湿らせ、陽光がおもむろに射して、万物の成長を促すといったやさしい風情だった。 形を整えはじめたコーヒーの実が、雨滴を宿してその甘露に歓びを震わせているし、大地に根を下ろした木も草も、いま萌え出ずるすべてのものが、自然の恵みに感謝して合唱しているのが、柳子には聴こえるような気がする。 そんな風景のなかを行きつ戻りつしている龍一の姿が、無駄のない点景になっていて、「なんだかお父ちゃ、自然の大きな移ろいに呑み込まれて茫然自失しているみたい」 と柳子が言うのも、心のゆとりのなかでのことで、決して心配したり、からかったりしてのことではなかった。 「お父ちゃは、もうお蚕さんのことしか思ってないんずら、ひとつことを思うと傍のものが眼に入らなくて、一途に思い込む人だもんなあ」 チヨがそう言う顔からも、陰気な翳りが消えていた。 「思い込んだら命懸けっていうわけだわね」 柳子が、龍一の女遊びに引っかけて言っても、チヨはそれを勘繰りもしなかった。 龍一が養蚕のことだけしか考えられなくなっているばかりではなかったのだ。チヨも蚕を飼えるということだけで、すっかりブラジルでの生活に張り合いが出て、生気が顔色に戻っているのがわかったのだから。 ぱっと派手にはしゃぐことなどしないチヨだったが、貧乏な農家の子として産まれてきたことで、じっと物事に耐えながらも、うちらに闘志を燃やしている性格だったから、それを発揮できる場所さえあれば、人の何倍もの成果を見せる自信があって、ただうれしいというだけの顔の明るさではなく、汗っかきのせいばかりでもなく、耀いて視えた。 チヨは、村の青年会で姉さん女房のような世話役をしていた関係で、若い者からの信望が厚く、若者のなかに内藤良三がいて、彼の口から、内藤家の話題のなかに、チヨの名が上がるようになり、小作人の労働力として手放せないために婚期を逸している娘がいるのがわかり、働き者で、面倒見がいい、ということから、妻に逃げられた龍一の再婚相手に年上女が最適だろうと、内藤家の家族会議で一方的に決定づけられたのだった。 「あんたが龍一の嫁になってくれたら、龍一の生活も改まるだろう。あんたの親たちも、もっと裕福な暮らしをしてもらえるように取り計らいましょう」 小作人から自作農になれて、内藤の家族同様の扱いを受けるという、そんな条件が、結婚してすぐ嫁に逃げ帰られたほど女狂いの龍一の後妻になった理由だったが、結婚を承諾したのは、まず親を思う気持ちからだったとしても、龍一に対しては醒めた気持ちでいながら、村の青年会のなかで誰よりも好意を抱いていた良三の嫂になれると思う気持ちが多く働いたことを心に秘めている楽しさだけは隠して、龍一の後妻になったのだ。 チヨが龍一のところに嫁いできても、龍一の女遊びは止まなかったから、姑はあからさまに、 「チヨの姉さん女房ぶりも見せかけだけだったんだなあ」 と皮肉を言われたが、そんなときでも良三が庇ってくれたから、その温もりだけで姑の冷たい言葉を聴き流せたのだった。 龍一が、赤道を越えたときに心を入れ換え て、新しい人生を経験してみようと思っているといっても、全面的に信用はしていなかったチヨだったが、蚕を飼うと言い出したときだけは、やっと夫の変化がほんとうに見えた気がした。 そして、夫に変化を与えたのは、赤道でもなく、神でもなく、お蚕さんだ、とチヨは確定的にそう惟った。 チヨにとっての神様は、生れたときから、母親の背越しに見てきた蚕だったのだ。少し大きくなってからは、そっと蚕を摘み上げ、掌の上で桑の葉を食べさせたこともあった。お蚕さんが笑ってる。お蚕さんが怒ってる。お蚕さんが泣いてる。などと言い、蚕だけを友にして育ったチヨには、ほんとうに蚕の気持ちがわかる気がしたほどだったのだ。 舞踏会は夜開かれる。華やかなものは夜の闇にこそ映える。という言葉どおり、桑の葉の饗宴も、夜のうちに盛大に行われていた。まるで互いが競い合ってでもいるかのように、枝をぐんぐん伸ばし、桑の葉は毎朝見るたびに成長しているのがわかるほど速かった。 へええ、もうこんなになって、これがひ弱に視えた苗木が成長した姿なのか、と改めて見るほどの変貌で、それも、はじめ同じくらいの長さだったことを疑うほどに、それぞれが競い合って、頭を揃えて成長してはいなかった。こんなところにも生存競争の厳しさが現われているのが、恐ろしいほどわかった。 触れると形が崩れてしまいそうに頼りなかった萌黄色の若芽が、いまはもうしっかりした緑色の顔を光らせ、輪郭線も克明になり、葉肉の厚さもたっぷりついて、逞しい姿を桑畑全体に見せるようになっていた。 枝条がまっすぐで太くなく、着芽が均等で葉の性質が良好なのもわかった。 さっそく龍一は、柳子に言って、ジョゼーに桑の樹を定植させる。 大型トラックで運んできて植え込まれた桑の成木も、すでに敷地の背景になっていた。 そしてみごとな桑園ができるのに満足を覚えた。これで儂もブラジルの養蚕農家を築くことができるぞ、と。 「さあ、今日はバウルーまで蚕の種を買いに行ってくる。田澤さんが、バウルーまでゆくといいものがあると言ってたから」 龍一が、朝のコーヒーを喫むとすぐ立って、気ぜわしそうにするのが、いかにも遣る気充分といったふうに見えた。 チヨも、いよいよ実動する養蚕に、眼を耀かせ、夫の外出するための用意にこまめに気を遣っていた。 柳子も、はじめて父に向かって信頼感を覚えている眼を向ける。 龍一は、昨夜のうちに用意してあった小さい革鞄だけを持って家を出る。 親をびっくり仰天させた、イギリス女の匂いのような革の臭いのする鞄なのだ。龍一がどこへともなく出かけるときに、ちょっとしたシャツや下着や洗面具を入れたこの鞄を提げて出るときには、二、三日が一週間にもなって、家を空けることになった忌まわしい鞄だった。 土地を買うために、スイス人耕地から出かけるときにも、この鞄を持って出たのだが、そのときにはまだチヨは、この革の鞄にこだわりを持っていたのだが、いまはその鞄にまつわる過去の歴史に表情を歪めることはなかった。 ほとんどの日本人が旅行するときには、風呂敷や信玄袋や、荷物の多いときには小型の柳行李を担いで歩いた時代だったから、龍一の持ち歩く瀟洒な鞄は、ひと目で日本のものではなく高級なガイジンの持ち歩くものだとわかる代物だった。龍一はそれを、チヨの神経を逆なでするものだと気遣うこともなく、自慢にしていたのだ。 アラモの町も、アラサツーバの町も、柳子が住んでいるところから北にあったから、柳子が青年会にいくときも、たいていの用事を片付けるときにも、家を出ると北に向かって歩いてゆくのだが、龍一は、南のミランドポリス駅に出たほうが便利だと、田澤から教わっていて、はじめて方向の違う道を歩いて行った。 龍一らがブラジルに来た少し前に、ノロエステ変更線としてジュピアとアラサツーバの間に新線ができていて、アラサツーバ経由でバウルーに出るのには、こちらのほうが列車の回数も多くなっていた。 父を見送って出た柳子が、背の高い龍一の後ろ姿を見ながら、 「お父ちゃもやっと本気になってるみたい」 といままでになく頼もしい感じを受けて言うと、 「お父ちゃの本職だもんなあ」 とチヨは、かつて龍一を養蚕技師と認めたことなどなかったのに、夫が養蚕技師だったのを思い出したように言い、それを誇らしげにしたのが、柳子にはおかしかった。 長身といっても痩せているわけではなかったから、龍一の背は肉付きがあって、後ろ姿にも日本人ばなれした恰好良さが見える。どこから視ても農夫には見えないだろう。といってそれでは何に視えるというわけでもなく、ちゃんとした職業など思い当たらないのだけれど。 このとき内藤龍一は四十七歳になっていて、男性としてもっとも成熟していた時期だったから、いよいよブラジルに来た第一目的の養蚕をやるという意気込みも手伝って、その高揚感が後ろ姿にまで顕われていてもふしぎではなかったのだ。 「お母ちゃ、お父ちゃの後ろ姿に惚れて結婚承諾したんじゃないぃ」 母がある時期、良三叔父を好きだったというようなことは耳に挟んでいたが、父と母が結婚にいたる経緯を詳しく聴かされているわけではない柳子が、そう言っても、チヨは、 「ばかなことを言って」 と受け流したが、複雑な思いが走馬灯のように胸のなかを去来していた。 たとえ両親や弟妹たちのためにと思って、好きでもない男の妻になり、妻だからという義務感だけで自己を滅却できるのは、大和撫子だからという押しつけの既定概念の上でのことなのに、いつかしらそれよりももっと勁い情念が日常生活のなかで育ってきて、夫婦というふしぎな感情に絡め取られ、義務感というようなお仕着せではなく、おぞましいと思いながらも肉体的に生々しい絆ができているのに気づくのだった。 男の成り余れるものを、女の成り足らぬところに差し塞ぎて、その矛をこおろこおろと画き鳴らして、男の血が注入され、女の血と交じり合い、成り成りて産まれ出たものが一個の人格を形成して、その肉体が男の血と女の血を併せ持っていることによって、他人であった男と女が、形式的な夫婦関係ではない血と肉の一体感が生じ、他の人間関係とは別種の繋がりが出来上がってしまうのが、考えてみればふしぎだったが、そういう特殊な関係にありながら、決して夫婦が肉親たり得ず、夫婦別れをすればいつでも元の他人の関係に戻れるという不安定な関係でもあり、男と女がすでに他人に戻っていても、ふたりの血で形成した一個の人格は厳然として存在し、子を通じては永遠なる両親という関係で繋ぎ止められているというおぞましさを思うと、遣り切れなくなるのだが、いっしょに生活している限りにおいては、空気や水と同じ必要性を持った存在として、互いが互いを意識しなくなり、傍にいて当然のような顔をしているのだ。 男のほうは、姦通罪という犯罪行為になる人妻との関係を外につくって平気で居られるし、法で罰しられたということを耳にしたこともなかったけれど、夫のある女が、夫以外の男性と密かに通じる難しさは、ほかのどんな罪よりも犯しがたいし、発覚すれば間違いなく罪に問われる。そんな不平等な関係が公然のようにあるなかで、それでもなお、その越え難い境界を越えてでも、愛し合った男女が、肉体を結び合おうとするのは、そこに曰く言い難い情感の本質を探り合えるからではないだろうか。 チヨが、龍一との夫婦関係の遣り切れ無さを少しでも塗り込めてしまえたのは、妻の心のなかにある夫への裏切りだっただろうと思う。義弟になった男の俤をいつまでも慕っているという、ぜったい口外できない秘密を心のなかに仕舞い込んでいることの、なんという潤いとその豊かさか、とみずからが小説の主人公になっているような現実が、信じられないことなのに、想い出すたびに陶然となるのだった。 「お母ちゃ、なによ、そんなにぼんやりして」 柳子から声を掛けられて、チヨは、あっ、と目覚めた感覚のなかで、娘に知られたくない思い出を透視されたのではないだろうかとうろたえる。 「おかしなお母ちゃ、お父ちゃがもう帰ってこない旅に出て行ったような頼りない顔をしてるじゃない」 柳子の勘違いを、チヨは好都合にした。 「まさか、嫌な子だな」 どんな顔になっていたのか、みずからがわからないものを、娘に視られるのが恐くて、チヨは急いで踵を返し、家のなかに戻る。 「お父ちゃひとりで行ってだいじょうぶなのかなあ、わたしがついて行ったほうがよかったんじゃないかしら」 母がぼんやりした顔をしていたのは、父への心配からだろうと思って、柳子はそう言う。 「田澤さんから書いたものをもらっとったし、バウルーっちゅう町は日本人が大ぜいおって、日本語で用事が足せるっちゅうとったに」 心の襞から食み出した思念の裾を、畳み込みながらそう言えるみずからの図太さは、夫が無意識のうちに教えたものなのだから。 「そうなの、それじゃあ何も心配しなくていいじゃないの」 柳子は言いながら、母が父を心配してあんな顔をしていたのではなかったのだとわかると、母の心のなかに、娘でも立ち入れない領域があるような気がした。 「蚕の種を売っているのも円堂商店っちゅう日本人のところだって言うしな」 「まあ、道さえあればロンドンまででも行けるって威張ってたから」 「お父ちゃも柳ちゃとおんなじで無鉄砲だからな」 「父娘だものねえ。お母ちゃの心配の種は尽きないわけよねぇ」 「まあ柳ちゃ、そんなことぉ、わかっとって言うんだもんな」 先ほど、くだくだ考えていたことを見られていたような気がした惧れが薄らいで、チヨは安心する。 「そうじゃないぃ、子どもは親を選べないんだもの」 「まあ」 チヨは小さい眼を大きくして、開けた口を閉じるのを忘れていた。柳子の言う通りなのだ。 「でも、お父ちゃがわたしらをブラジルに連れてきて酷い生活させたこと怨んでたけど、いま考えるとよかったかも知れないわね、死んだ鷹彦さんが言ってたけど、あのまま日本に居たら、嫌でも戦争に巻き込まれてゆく運命にあったんだから、自分の人生だからって自分の自由にはならなかったんだものね」 「鷹彦さんは気の毒なことだったなあ」 チヨが柳子の話していることからずれたことを言っても、それを合いの手にして聴き流した柳子は、 「結果的にはお父ちゃの選んだ道は正しかったって言えるかもしれないわよ」 とチヨには思いつかないようなことを、柳子は言いつづけた。 柳子自身に自覚はなかったが、鷹彦や一誠の影響を受けて、いくらかは国際的な政治に批判的な眼を向けられるようにはなっていたのだろう。肇の軍国思想に男らしさを感じるという矛盾を拭い去れないままに。 戦火から程遠い位置にあるブラジルでも、民族主義の台頭とともに、帝国主義的な考え方を権力者が持つのは自然な思想的流れであって、ジェツリオ大統領も独裁政治を確立させることで、その方向へ向かいつつあった。 彼も最初は共産主義思想の蔓延を懼れての言論統制だったが、同じ共産主義体制の拡大を懸念するドイツや日本が、資本主義世界との競合から対立関係に発展しつつある情勢を見て、ドイツと日本への警戒心を強めるようになってきていて、外国語の教育を禁止するという制度を政令化する段階では、とくにドイツ人社会と日本人社会に対する措置を重点的に考えはじめていたのだ。 もちろんそれは、ヨーロッパにおけるドイツ勢力の動きと、去年の暮れからヒトラーの 率いるナチス党が、ユダヤ人迫害の手を国内だけではなく、近隣諸国にまで拡大して、侵略を画策している動静と、アジアにおいては日本政府が、五族協和の精神を拡大して東亜新秩序建設を打ち建てるという近衛内閣の声明が十一月に発表されて年が明けたことなど、世界的な動静を考察しての動きだった。 いよいよ世界が騒然としてきている気配はこのブラジルにいても感じるのだけれど、それはあくまで気配だけで、実際に大砲の弾が飛び交う轟きや、戦車が疾駆する地響きやらが、ここまで聴こえてくるわけではないから、新移民が到着して、日本の情勢を伝え、軍国精神を声高らかに吹き込んで、ブラジルの日本人たちが、こんなにのんきにしていていいのだろうかという焦りを持っても、龍一やチヨや柳子の、養蚕に向けている高揚感に水を差すほどの影響はなかった。 佐藤肇は大いに影響されて、 「俺、日本へ行って志願兵になろうと思っているんだ」 と柳子に向かって言ったりした。 「だめよ、戦争は権力者のための国取り合戦という愚かな行為だけど、実際には人間が殺し合いをすることでしょ、肇さんが死んだらわたし泣いて泣いて涙が足らなくなるからミイラになっちゃうわよ」 柳子が冗談にそんなことを言うと、柳子の涙が涸れるほど泣いてくれるというのは、個人的感情としてはうれしいけれど、戦争を単なる殺し合いだという認識不測に対しては感情を害して、肇は、むっとする。 「なんだ、きみまで鈴木のようなこと言って。腐った鈴木の西洋思想にかぶれて、日本精神に黴を生やすなよ」 肇がむっとしたのは、柳子が一誠の思想の影響を受けていると惟ったからだった。 「あら、一誠さんも泣いて泣いてなんて言ったの」 「ふざけるなよ。そうじゃないよ、戦争をやくざの喧嘩のように殺し合いだろうというような感覚しかもっていないことを言ってるんだよ」 「それぞれの政府が正義をかざして不義を懲らしめるのだと言っても、互いに勢力範囲を拡張しようと争うのだから、平たく言えばやくざの縄張り争いと違わないって、前の耕地にいた人も言ってたのよ」 「日本人か」 「そう」 「アカイ思想を持ったやつだろう、そんなことを言うやつは。国取り合戦というのは戦国時代のことじゃないか。畏れ多くも天皇陛下が八紘一宇の精神で、世界を平定なされようとしているときに、その御心に殉じようと考えないのはアカかぶれでしかないよ」 「天皇陛下が出てくると、もう何も言えないけど、ブラジルで農業に従事しているのも八紘一宇の精神の一つだって聴いてるんだけど」 「それはそうだけど」 「それだけでいいじゃないの、わざわざ戦場に行かなくても、わたしたちは外国に来て日本の国威を示す実際行動をしているんだから」 「それでもなあ、銃を執って敵と闘うというのは男の本懐だからなあ。ひとつ軍人は武勇を尚ぶべしなんだ」 「武勇といっても大きな勇気と小さな勇気があるんでしょ」 「あれえ、きみ、軍人勅諭知ってるのか。武勇には大勇あり、小勇ありて、同じからずと書いてあるんだ」 「それは知らないけど、わたしの父がぶつぶつ言ってるなかに、そんなことば聴いたような気がするから」 「はははあ、門前の小僧か」 「そう、習わぬ経を読みなんだけど、どうせ常識的なことを言ってるだけだもの」 「ふうん、軍人勅諭は常識なのか」 「教育勅語にしても、道徳的なものはみな常識を並べているだけだと思うわ」 「じゃあ、天皇への忠誠も常識ということじゃないか」 「どうしてそんなに怒るの」 「怒ってるんじゃないよ、鈴木が、天皇への忠誠心などというものが、ほんとうに日本人の精神としてあるのだろうか、強制されていることではないのか、などと言うから、俺ははっきり言ってやったんだ、おまえのようなブラジル人にはわからんけど、日本人には疑いもなく、意識しなくても精神の根底にあるものだって」 「肇さんの気持ちはわかるけど、その忠誠心をアジアに帰って行使しなくても、ブラジルで発揮することを考えてもいいんじゃないかと思うんだけど」 鈴木一誠との対比を嫌って、柳子は話を肇個人の問題に絞って言う。 「発揮する方法がないんだ、いまのところ。それで苛々してしまうんだ」 「だからこのあいだのように、わたしに向かって発揮してしまったのぉ」 「あ、それ、もう言わないでくれよ、あのとき母が心配して見に来たときに、ちょうど俺がきみの上に乗って行ってたから、あとで父に叱られたんだ、血気にはやって粗暴な振る舞いをしてはいかんと」 肇の正直な告白を聴いて、柳子は、あっさりした男らしさを感じ、粗暴だった彼の振る舞いを拘りなく恕すことができた。 「でしょう、わたしが拒んでよかったのよ、まだまだ肇さんは両親の監視つきなんだから、焦らない、焦らない、きっとそのときが来るから」 「ほう、きみはすごく自信ありげに言うけど、どういう形でそんな時が来るのか見えているのか」 「見えてなぞいないけど、女の直感だわ。女は男よりも動物的臭覚が働くっていうじゃないの」 柳子は明るい表情で言っていたが、なんとなく感じる予感は、そんな明るいものではなかった。 佐藤肇の心のなかにあるのではないかと思う憂国の志は、黒い炎に見えて柳子を慄かせた。 鈴木一誠が暗い面持ちで言ったことが、柳子の心のなかに蟠っていたからに違いなかった。 「ドイツのヒトラーには宗教的なカリスマ性があってね、宗教的なカリスマというのは一種の狂気に通じるものだから、世界が狂気に支配される日が来るのを思うと憂鬱になるんだ。日本の東条英機が、狂人のヒトラーを崇拝しているファシストだし」 そういうふうに言う一誠の声が、死んだ鷹彦の声のように聴こえて、ぞくっとしたのを柳子は思い出していた。 一誠と鷹彦とは外見がまったく違うし、声の質も違うのだけれど、年齢が同じだと思う先入観が底にあった上に、思想や物の見方が同じだったからだろうか、話すのを聴いていると、いつもふたりの姿がダブってしまうのだった。 「まだ死にたくなかったんだが、もうどうにもならないよ」 鷹彦の病状が悪化して、ベッドから起き上がれなくなってから見舞いに行ったときに、鷹彦が泣き顔と苦笑いとをいっしょにした暗い表情で弱々しく言った眼の裏に、生への執拗な欲望の炎がゆらめいていたのを柳子は見たから、死にきれなかった彼の霊魂が一誠に憑依して、一誠の口を借りて言っているのではないだろうか、と思ったほどだった。 もちろんそれは話の内容だけのことで、腺病質で青白い顔をした、誰が見てもひと目で肺病病みだろうとわかる鷹彦と、肩幅ががっちりしていて浅黒い顔をした、いかにも農夫としか見えない容貌と体格を持っている一誠とでは、面影を重ねようもないのだけれど。 それなのにときどき、ふっと一誠に鷹彦を重ねてしまうのは、独学だというのに大学出の鷹彦に匹敵するほどの知識を持っているし、その豊富な知識が実証的で、どちらかという と鷹彦の文学的感性の観念的な理論よりも、聴いているものを納得させる力があると柳子に思わせた。 そういう一誠に一線を画する付き合いをさせるものは、彼がプロテスタントだという理由だけだった。 日本人が西洋の宗教を信仰するということにはどうしてもちぐはぐなものを感じてしまう柳子なのだ。そのもっとも納得できないところは、イエス・キリストだけが神で、天皇は神ではないという彼らの言い草が気に入らなかったからだった。 戦争はそれぞれの国の、権力者の勢力争いであって、民衆が望んですることではない、人間誰でも平和であったほうがいいのに決まっているし、本来民衆には国境などというものはなくてもいいのだ、と言う鷹彦と一誠の同じ主張を正しいとしながらも、西洋の野で私生児として産まれたというイエス・キリストを崇めるよりは、日本の国を創った八百万の神々の末裔であるところの、イザナキ、イザナミを日本人の元祖とする万世一系の天皇陛下のためには、死を賭して忠誠を誓うという肇のほうが、より日本人としては妥当な考え方であり、生き方であり、死に方だと思うから、ふたりのあいだで柳子は揺れ動くことになる。 どちらにも否定するところがあり、肯定するところがあったからだが、しかし、もう一歩考えを推し進めると、天皇もイエスも神であるのならば、どうして万能の神の知恵で、人間世界から戦争をなくすることができないのだろう、と疑問が湧く。 天皇みずからが軍の統帥だといって、国民に忠誠を誓わせ、いくら聖戦だといっても人間を殺戮することに違いない戦争をはじめたり、イエス・キリストだけが唯一の神だとする狭量さで、十字軍の時代から他を排斥しようとするから摩擦が生じたりするのではないのか。 そう思うと柳子は、天皇もイエス・キリストも、神というより、いかにも人間臭いものを感じさせられて仕方がなかった。 父に向かってこんな考えを言葉にしたりすると、佐藤肇のほうが日本人の青年としてまともだ、鈴木一誠という青年はスイス人耕地に居た川田鷹彦という青年と似ていてアカかぶれのようだから、あまり付き合ってはいかんぞ、というだけに留まらず、父自身が天皇陛下を神様だと崇拝しているのだから、烈火のごとく怒り出すだろうと思う。 柳子は、どちらにも味方しないで、中庸を取りたいと思っているから、態度があやふやになってしまうのが心外といえば心外だったが、父からも、一誠からも、肇からも、誰からも好かれている女の子という立場をみずからも容認して、当分はその甘えのなかで揺れ動いていても許されるだろうと考える。 そんな甘い考えに唇が綻んだとき、 「柳ちゃ」 とチヨが声を掛ける。 幼いときから、ときどき魂が腑抜けになったように夢見る眸になって、心ここに在らずという茫然自失している娘を、この世に呼び戻してやらなければ、そのまま向こうの幻想世界に行ったきりになるのではないかと心配になって、べつに話すこともなく、用事があるわけでもないのに、チヨは柳子に呼びかけてやる習慣がついていた。 心配性のチヨは、ちょっとしたきっかけで心配し出すと、その心配がどんどん肥大して行って、しまいには心臓の動悸が、自分自身の耳に聴こえるほどになり、息遣いまでおかしくなるから、 「お母ちゃ、どうしたのよ」 と柳子のほうが、逆に心配してしまう。 「柳ちゃがまたぼんやりしだしたから、呼んでみただけだあ」 今日は、休日だから、ジョゼーも来ないし、龍一もバウルーに行ったままだから、気持ちに緩みが生じているのは柳子だけではなく、チヨもそうだった。 「ばかみたい、お母ちゃのほうが心臓発作でも起こすんじゃないかと心配するほど、息遣いがおかしくなってるじゃないの、どうしたのよ」 「わたしはどうもしないさ、柳ちゃを心配しただけだに」 「なんだ、ばかばかしい、ふたりが互いに心配し合ってたらきりがないじゃないの」 そんなことを言い合って、二人がなんとなくあやふやな笑い方をするのは、生活環境が好転してくる予感にゆらいでいる気持ちを抑えきれないことと、まだ確実ではないことに期待する浅薄さを顕わにできないもどかしさからだった。 それでもチヨは、養蚕に自信があったし、繭を売れば確実に現金収入があることは間違いないのだから、くだらない夢想ではないのだ、と夫が動き始めた結果が良好に進展してゆくだろうことを疑えなかった。 当分は日本の戦争のことなど忘れて、養蚕に精を出すのがいいんだろうと柳子が思ったとき、 「お蚕さんにいい繭をつくってもらうのには、戦争のような忙しさになるな」 とチヨが言った。 「あれ、いまわたしが日本の戦争を忘れようと思ったことが、変な形でお母ちゃに伝わったみたい。蚕を飼うのが戦争のようだなんて」 「そういう言い回しをするずらに。信州じゃあみんなが戦争みてえな忙しさだって言っとったに。柳ちゃは安曇に帰ってきても、ふんとうに東京っ子のように傍観者だったけどな」 「そうでもなかったわ、みんないっしょうけんめい働いて、わたしたちのような無生産者を養ってくれてるんだなあって、無言の感謝はしてたのよ」 「まあ、いまはそう言っとるけど、ブラジルに来るまでじゃあ、農業するものを最低の労働者のように言っとったずらに」 「それはむかしからそうだったもの、士農工商だなんて階級つけてた徳川時代でも、それは御都合主義でつくった階級で、農業するものが一番ばかにされてたんだもの。わたしは総領息子の一人っ子だけど、ぜったいに安曇の家は継がないって考えてたのよ」 「いまは違うずらね、柳ちゃ。柳ちゃももう二十歳ずら、いい婿さんを探して結婚のことを考えてもらわなくちゃあねえ」 「なによぉ、薮から棒に。わたしまだ二十歳じゃないわよ」 「もう二十歳ずら。年が改まったんだから」 「わたしは五月になってもまだ十九よ」 「ブラジル式にはそうなるらしいけどなあ」 「少しでも歳取るのいやだもの、数え年で言うの止めようよ」 「歳なんかどうでもいいずらに、結婚のことせえ考えてくれりゃあ」 「だから考えた末に、結婚はしないと決めたんだから、もう結婚の話はしないでよ。わたしはお母ちゃを安心させるために、自分を犠牲にして、結婚して、苦労するつもりはありませんからね」 チヨには、最初から娘と言い争って勝ち目のないことはわかっていたから、いつまでもねちねち言うつもりはなかったが、娘がどこかしら焦点の定まらない眸で、ぼんやり考え事をしていると、つい年頃だからと観てしまうし、それは結婚すれば治まることだからと思うし、性的な萌芽を巧く処理しなければ気を病んでしまう娘も居るのだから、と心配するのだった。 「さっきぼんやりしとったけど、誰かのことを想っとったんずら」 「誰かのことを思ってたにしても、結婚相手のこと考えたんじゃないから。死んだ鷹彦さんはどうしてるのかなあって」 「まあ、この娘は。死んだ人がどうしてるかなんて変なこと言う」 「変かなあ、だけど鷹彦さんはこういうときにはどう言うだろうとか、どう考えたかなあなどと想うのは、まだわたしの頭のなかで生きてるようなものだものねえ」 「そう言やあそうだけど。人は死んでも人の心んなかでいつまでも生きとるんずら」 「お母ちゃ、霊を信じるぅ」 「そりゃあ信じるさ。悪霊も善霊もあって、生きとる人間に影響するっちゅうずら」 「そうなの、生きてる人間に影響するの」 「するっちゅうに」 「そうかあ、するのかあ、やっぱりねえ」 「なにかあったんか、そんなことが」 「ううん、まあねえ」 柳子は、鷹彦が一誠に乗り移っているのではないかと思ったことは、母に説明したくなくて、言葉を濁す。 チヨは、鈴木一誠という青年が、鷹彦と同じような思想を持っていて、娘に影響していることはまだ知らなかったから、鷹彦さんには気の毒なことだったが、あの人が死んでくれたことで柳子と一悶着起こさなくて済んでよかったと、このことに関しては利己主義だと非難されても、非情にならざるを得なかった。現実的に考えても、肺病で、労働力にならない人を婿にすることなど考えられないことだったのだから。 彼の知性には尊敬を抱き、人柄には襟を正していても、左翼思想を娘に吹き込んでいるらしいという夫の見方も間違ってはいないようだったし、女の直感で、性生活に乱れがあるのではないだろうかと思うところもあったし、なによりも、これからのブラジル生活に耐えてゆく体力がなく、胸を病んでいるのがわかったから、柳子に感染する懼れもあるからと心配していたのだ。 あんなひ弱な体質が、この厳しい現実に耐えて行けるとはどうしても考えられなかったから、タツのように青白い文学青年という侮蔑は持たなかったけれど、柳子と抜き差しならない関係になるのを懼れていたのは否定できないことだった。 それが予期していなかった早死にをして、危惧していた関係が切れてくれたことに、彼には気の毒なことだったと思いながら、娘のためには安堵したのが正直な気持ちだった。 「柳ちゃ、こちらに来てふんとうによかったなん。青年会にも入れて」 鷹彦との別離をよろこぶ気持ちを、チヨは違った形の表現にした。 「ええ、それはもう言うこと無しだわ、スイス人耕地には文化がなかったんだもの。もし鷹彦さんがいなかったら、わたし、もっとヒステリーを起こしてたかもしれないわ」 チヨがスイス人耕地のことからアラモ植民地のことに話題を変えようとしたけれど、柳子はスイス人耕地でのことに拘りを残した。 「そう言えばそうかも知らんなあ。そういう点じゃああの人はひとつの救いだったなあ」 チヨは、そんなご都合主義な返事をしてしまって自己嫌悪したが、人間というものはみずからの意志ではどうにもならない運命に流されていくのだから、と惟う気持ちがそれを許した。 「お母ちゃも、彼にも何らかの存在価値があったことはわかってたのね。タツおばさんはまったく鷹彦さんを無価値な男としか思っていなかったらしいけど」 「そりゃあ、わかってましたに」 「全面的に反対してたお父ちゃよりはいいところがあるんだ、お母ちゃは無駄に本を読んでいないってことよね」 「なにを言うんな、お父ちゃののんきなところがいい、お母ちゃの陰気なところは好かないなんて言っとったずらに」 「それはいまでも変わらないわよ、でも養蚕はじめると決まったらすぐ、お母ちゃの顔色が明るくなったから、お母ちゃの評価を考え直してあげてもいいわよ」 「もうひとつ考え直して結婚してくれたら、もっとお母ちゃは安心するんだけどなあ」 「またそれを持ち出す」 柳子は、結婚話にはうんざりする。 「でも、こちらに来て、おおぜいの青年や娘さんのいるところに入ってゆきゃあ、自然に結婚話も起こるずら」 チヨは、男女の仲は自然に固まってゆくものだと考えていたから、それを口にしなくてもと思いながら、口にした。 「お母ちゃは男と女が集まるところではいつも性的な関係がついてまわるって考えるのねえ、動物的よ、そんなの」 動物的という柳子のことばに、チヨは眼を丸くしながら、それは肯定しなければならなかった。 「女はいつか」 「だめだめ、その話はしないでって言ったばかりでしょ」 「佐藤さんいい人だって思うんだけど」 「へえ、お母ちゃの好きなタイプは鈴木さんのほうだとばかり思ってた」 「そりゃ鈴木さんのほうが落ち着いておって、ものごとをじっくり考える人だと思うけど、少し暗い感じがするし、キリスト教者だからなあ」 「ああそうかあ、それが第一番の障害なんだ。異教徒というのは小説的なテーマだとばかり思っていたけど、外国にくると現実的な問題になるのねえ」 「柳ちゃ、鈴木さんのこと思っとったんずら」 「結婚の相手としてじゃないわよ、鈴木さんと佐藤さんの友情に罅が入りかけてるらしいのが、わたしの心配だったのよ」 「柳ちゃのせいで」 「あら、お母ちゃわかってたのぉ」 柳子は、一誠と肇の友情に罅が入ったのは、自分をなかにして争うことよりも、戦争に対する思想的な対立からだと思っていたのだが、それを母に言うと、話が面倒になるからと惟って、男女の問題で友情に罅が入ったのだろうと思わせる話し方をした。 「なんとなく、そんなことになると困るって思っとったんだに」 「うん、そこなのよねえ、わたしも二人のあいだに挟まってちょっと困ってたんだけど、やっとこのあいだ話し合いが着いたから」 「どんなふうにかな」 「いまのところ結婚は考えていないから、どちらとも友人として交際したいって、了解取ったのよ」 「ふんとうにそんねん簡単に話し合いができるもんかねえ」 「ほんとうにできたのよ」 「どちらかが誰かと早く結婚してくれたらいいのにねえ、悶着が起こらなくて」 「はははあ、お母ちゃも自分本意に考えるのねえ」 「そんなことねえさ。そりゃあ柳ちゃのことずら」 「じゃあ、どちらかが先に誰かと結婚してしまったあとの、残り者とわたしが結婚したらいいっていうわけぇ」 「残り者っちゅうわけじゃないずら、どちらもおんなじように好きなら」 「どちらにしても、わたしは結婚しないんだから、そんなことで頭を悩ますことはないけど」 「頭を悩ますのが娘のときのいい想い出になるんだに」 「あ、お母ちゃ、そうなのぉ、ねえお母ちゃもそういう経験あったのね」 「ありゃあせんよ、わたしにゃあ、そんなこと」 「顔が真っ赤になってるもの、すごい恋愛したことあるのぉ、話してよ、ねえ、ちょうどいい機会だもの、お父ちゃが居なくて」 「まあ、この娘は。そんなことなかったさ、お母ちゃの家は貧乏だったから、恋愛している暇なんかありゃあせんかったさ」 チヨは、言葉尻を勁くさせて、柳子の想像の糸口を切ろうとした。 「嘘うそ、恋愛に貧乏も金持ちもないでしょ。お母ちゃが若いときに青年会の世話をしてたって言ってたじゃない。そんな暇があったわけでしょ」 「暇じゃないさ、忙しい時間を割いて、頼まれてしとったことさ」 「だからそんなときに村の青年と接触する機会は充分あったんでしょ」 「そいだもんで青年会の雑用をするだけで、恋愛なんかする暇なかったさ」 チヨはそう言いながら、良三のことを想い浮かべていた。 「でも心がうきうきするようなことはあったはずだわ、お母ちゃも小説読んで、本のなかで情緒的な恋愛は経験してるんだもの」 「そんなふうに言うんだったら、誰でも恋愛経験はあることになるずら」 チヨは、こんな話を娘とできるようになったことに驚きながら、こそばゆいうれしさを覚えていた。 「だからその感情移入を現実の青年に重ねて考えることはあるって思うなあ、お母ちゃだって生身の人間なんだから」 「そりゃあるでしょ、恋愛なんかじゃあなくて、心で思うくらいは」 「楽しいでしょ、それでも」 「そりゃ誰でも、心に留めて独りで楽しむくらいはするさよ」 チヨは、柳子の誘導尋問に乗ってしまったのに気づかなかったから、 「わたし知ってるのよ、良三叔父さんがお母ちゃのこと好きだったっていうこと」 と遠い日のことを突然出されて、うろたえた。 「それは、恋愛とは違いますよ」 「それも恋愛感情だわよ」 「でも歳がうんと違いますに」 「歳に関係ないじゃないの、お父ちゃがやきもち焼いたって言ってたくらいだから、そうとう感情的には進行してたんじゃないぃ」 話に良三の名が出てくると、チヨは心が乱れて、言葉がしどろもどろになった。 それを感じて、柳子は、母と良三叔父とのことは、単なる噂ではなく、ほんとうにあったことなんだ、と確認できた思いをした。 「いいじゃないの、お母ちゃ、お父ちゃを裏切るようなことしてなかったら、若いときに誰かが誰かを好きになることなど普通のことなんだから。そういえば、お母ちゃを内藤の嫁に欲しがったのはお父ちゃじゃなくて、お祖父さんだったって叔父さんが言ってたけどほんとうなのぉ。わたしそのこと良三叔父さんから聴いたとき、なるほどそうかもしれないって思って、おもしろかった」 「良三さん、そんなことまで柳ちゃに言っとったの」 「お母ちゃに関することを話すときの良三叔父さんの様子は相当なものだったわよ。雅子叔母さんがいないときにだけ話すっていう理由がわかるほどなんだから」 「まあ、いままで誰からもそんなこと聴いたことなんかなかったに」 「そりゃそうよ、良三叔父さんも、これは口外無用だよって、わたしにだけ話したことなんだもの。お祖父ちゃもお母ちゃを好きになってたんだって、お祖母ちゃがお母ちゃを苛めた理由も嫉妬からだったってよぉ」 「まあ、良三さん、そんなことまで気をつけて観とったんずらか」 「そりゃお母ちゃを好きだったんだもの、すごい関心を持って観察してたんでしょ」 「ちっとも知らんかったなあ」 チヨが視線をずらせて、遠くを見るようにぼんやりするのを、柳子は見逃さなかった。 「お母ちゃはどうして良三叔父さんと結婚しなかったの、相思相愛の夫婦ができて、そうなれば、ふたりのあいだに産まれたわたしも、すべての点で違った人格が形成されていたって思うなあ」 柳子は、夢見る少女になって、母と叔父とのあいだに産まれた別の自分を想い描いて、にんまりする。 「ばかねえ、そんなこと考えても、どうなるもんでもないずら」 チヨは笑ったけれど、その笑いには、空想して楽しむような明るいほころびではなく、はにかみでもない、苦痛が混在していた。 「だから残念なのよ。良三叔父さんが言ってたわ、お母ちゃは読書力があって、記憶力もよくて、安曇の村では若者の憧れの的だったって。ああ、そうそう、このことは、哲雄さんも言ってた」 「分家の」 「そう、絵描きの哲雄さん」 「哲雄ちゃは、まだこんな子どもだったのに」 チヨが、手の平を下にして、床から一メ ートルくらいの高さを示したから、柳子は笑って、 「哲雄兄いちゃは、わたしの従兄でも、わたしとは二十二も違って、お母ちゃとは八つしか違わないのよ。哲雄兄いちゃは少年のときから観察眼が優れてて、いつも青年たちのなかに混じって話を聴いていたから、まだ嫁入りまえのお母ちゃのことも知ってるって言ってたわよ」 そう言いながら柳子は、安曇野の風景を想い描いていた。 密度の濃い日本の風景を想い出すと、ブラジルのいかにも殺伐とした、捉えどころのない風景には失望する。箱庭のようにせせっこましい風景でも、日本の風景にはしっとりした情緒があって、こまやかな情感を育てるのには適していたと惟う。 「そうだったんか、哲雄ちゃのことはあまり知らなかったけど、無口でおとなしい子だったから。柳ちゃはなついて、哲雄ちゃのあとついて歩いとったけど」 「ええ、哲雄兄いちゃがアトリエに入って仕事をしているときは入れてもらえなかったけど、風景画の下絵を写生するときについて歩いて、それで信州のいろんなこと教えてもらったのよ」 「哲雄ちゃはちょっと陰気な感じで、良三さんとは対象的な性格だったけど、良三さんとは兄弟のようにしとったようね。そう言やあ、良三さんが早稲田に入る前に作ってた同人雑誌の仲間に、松本中学にいた哲雄ちゃが加わっとったのを、いま想い出したに」 「まだみんなが独身のときには、お母ちゃとお父ちゃが結婚するなどとは、誰も考えなかったんだってね」 柳子の眸が、好奇心いっぱいに見開かれる。いまみずからが体験している環境と、そっくりな状況が、母の若いときにあったんだなあ、と感慨が沸く。 「お祖父ちゃが熱心に嫁になってくれって言いに来るまでは、わたしも、まさか内藤の総領息子のところに嫁いでくるなぞとは思ってもいなかったなあ。お父ちゃは、伊那の富農から嫁をもらっても、女遊びが止まらなくて、嫁さんに逃げられたんだものねえ」 「そうだってねえ、兄貴には困ったもんだって、良三叔父さんも嘆いてたわよ」 「良三さん、柳ちゃに、そんな話まで聴かせたの」 「うん、ずっと大きくなってからよ。じゃあお母ちゃとお父ちゃのことは、なにもかもお祖父ちゃの責任だわねぇ」 「責任を擦りつけるのは気の毒ずら、お祖父ちゃが独りでどんどん話を進めてしまわなかったら、なかったことには違いないけど。それは総領息子の将来を心配してのことだったんだから」 「まあいいじゃない、心のなかに住んでる男のひとへの愛を秘めて、旧家の嫁になるなんて、すごく小説的じゃないぃ」 「柳ちゃは、小説の読みすぎだなん」 「お母ちゃだって、たくさん小説読んでいるんだから、男女の微妙な心理は理解できるはずでしょ、それが横暴な夫に仕えているだけじゃ勿体無いと思うなあ。いまからでも小説書いたらどうなのぉ」 「まさか、読むのと書くのとじゃあ大違いずら」 「だいじょうぶよ」 「また柳ちゃの、だいじょうぶ、がはじまった」 「書けるわよ、若い人たちが教えられるほど理解力が深かったっていうんだもの」 「これからうんと忙しくなるんだよ、お蚕さんを飼い出すと」 チヨは、笑って言いながら、結婚した相手の男性によって、女の一生が、いくつも違った形になり得るのだと惟うと、ふしぎなような、おかしいような、諦められるような、気がした。 「すごい恋愛小説とか、不倫小説とか、お母ちゃが書き始めると、世の中のことぜんぜん知らないわたしなどびっくりするようなものができるって思うけど」 「まあ、柳ちゃ、不倫だなんていうような言葉使っちゃいかんに。聴いただけでも恐ろしくなっちゃうじゃない」 突飛なことを平気で言う柳子には、いつも瞠目させられるチヨだったが、そのたびに良三の俤が立ち上がってくるのを、懐かしむとともに、恥ずかしさもあって、身がちぢむ思いをする。誰にも知られず墓の中まで持っていかねばならないことだけれど、一度だけの良三との不倫は、不倫しようと思ってしたことではなく、なんだか水の流れに流されてきたふたつの落ち葉が、流れのままに絡まって、くるくる渦に巻かれたあと、また弾かれるように離れて、互いの運命のままに違った方向へ流れてきたような気がする。 人の心も躰も行動も、みずからの意志ではなく、あれよあれよと思うまに、勁い力に引きずられ、気がついたときには、とんでもない関係になってしまうということがあるものなんだと、茫然とした過去を思い出しても、あのことだけは、発覚して断罪されても後悔もなく、苦痛もなく、むしろその運命のいたずらを胸に秘めて死ねると思っていた。 「あら、お母ちゃ、わたしの夢見る少女の性癖は、お母ちゃの血だったんだわ。なんだかぼんやりして」 柳子から指摘されて、チヨは過去から引き戻される。 「そうじゃないに、柳ちゃが小説の話をしたから、どんな話が小説になるかしらんと考えとったんだに」 チヨは、娘の前で、平気で嘘をいえる自分自身に呆れる。 「いい傾向じゃないの、わたしは新聞記者になれても、小説家にはなれないって、叔父さんから言われてたのよ」 「あら、どうしてずらか」 「文章の性質がそうなってるんだって。良三叔父ちゃも、自分の能力がわかったから、若いときの小説家志望を捨てて、新聞記者になったんだって言ってた」 「あら、良三ちゃ、そんなことだったの」 血は恐いものだ、とチヨは自分自身の血が凍る思いがした。 何も知らない柳子には話だけで済まされるだろうけれど、何でも見通しているように言われると、墓場まで持っていくつもりの秘密を暴かれているような、恐怖に包まれるチヨだった。 「小説は虚実皮膜のあいだで創るもんだから、真実だけを伝えなければならない新聞記事とはちがうんだって」 「そう言っても、世間はそうは見てくれませんに、小説を書いたもののしたことだって思うずらなん」 「題材としておもしろいと思うんだけどなあ、旧家の嫁を取り巻く夫と義弟と舅との相克なんて」 「まあ、柳ちゃ、呆れてしまう。お父ちゃにゃ、こんな話を冗談にも言っちゃいけませんに」 チヨは、心が震える。 「そんな心配しなくてもだいじょうぶよ、わたしがいくら口が軽くても、言っていいことと悪いことの判断はできるんだから。でもねお母ちゃ、こんな機会は滅多にないものね。女ふたりでしかできない話を、遠慮なくすればいいのよ」 まあ、とチヨは、まるで立場が逆さまになったような柳子の言い方に、呆れてしまう。小さいときからおとながびっくりするようなことを言う子だったけれど、それがいまもつづいていて、いっそう老成した感じだった。娘とこんなことまで話す機会があったなんて、いままで一度も考えたことがなかった。まるで歳の離れた妹と話しているようだと惟った。 「お母ちゃはお父ちゃに遠慮しすぎるのよ、お父ちゃはさんざん女遊びして、お祖父ちゃから勘当されそうになったっていうじゃないの。そのときでもチヨは内藤の嫁で、龍一一 人の嫁じゃねえから、お父ちゃを勘当しても、お母ちゃを離縁せんぞ、ってお祖父ちゃは言ったんだっていうじゃないの、お母ちゃには内藤の嫁として認知された存在価値があったのよ、だからお父ちゃに遠慮することなどないのよ」 チヨは、娘から直截に指摘されて、旧家の嫁として暮らした日々を、反転させた映像として蘇らせ、いい気持ちはしなかったが、柳子にはみずからの本心を明かすつもりにはならなかった。 「お祖父ちゃはどういうつもりであんなこと言ったのか知らんけど、わたしは柳ちゃのお父ちゃの妻ですに。お父ちゃがもしも勘当されとったら、いっしょについて出るつもりだったんだに」 「へえ、お母ちゃて、ほんとうに山之内一豊の妻なんだ。のんきで頼りない浮気者のお父ちゃにでも貞淑なんだ」 「それが女の務めずら」 「それだったら、女ってつまらないじゃない、一個の人格もない夫の従属物だわ。だから雅子叔母さんが女性解放運動に熱心になるわけもそこにあるんだわ」 雅子の名が出ると、チヨはいい顔をしなかった。チヨの雅子に対する評価は、龍一と同じで、時代にそぐわない跳ね上がり女だと思っていたから。 「お母ちゃの考え方が古くても、お母ちゃはこれが女の生き方だと思っとりますに。雅子さんは、良三さんの世話を等閑にして外出ばかりしているっていうことだから、妻としての務めは充分なされていないって思っとりますに」 母が雅子叔母を批判するようなことを言ったのは、いまがはじめてだと思って、柳子はチヨの顔を改めて視たほどだった。 「でもお母ちゃ、お母ちゃ一人の考えはともかくも、これから女も一個の人格として自立しなければならない時代が来るのは間違いないって、良三叔父ちゃも言ってたわよ」 「そう、良三さんがそう言っとったんならそうなんずら」 「雅子叔母さんの言うことは信じなくても、良三叔父ちゃの言うことなら信じるっていうのは、お母ちゃもずいぶん身勝手だわよ。ふたりが言ってることは同じなんだもの」 「それは違いますに、同じ言葉でも男が言うのと女が言うのとじゃあ意味が違いますに」 「へえ、お母ちゃも屁理屈を言える人だったの、知らなかった、いままで。それをお父ちゃに向けて言えば、内藤の家庭の在り方もずいぶん違っていただろうなあ」 「そんなことしたって、よくはなっていませんに。我がまま者のお父ちゃだから、わたしを捨てて出て行ってしまいますに」 チヨは、龍一に未練があって言うのではなかった。内藤の嫁という立場を失うのを懼れたのだ。 「お父ちゃが出ていったら、お父ちゃよりもっと立派な人を見つけて再婚すればいいじゃないの」 柳子は、彼女自身の存在を忘れて言う。 「まあ、柳ちゃ、なんちゅうことを」 「わたしならぜったい我慢できないわ」 「我がまま同士だものね、柳ちゃにはおとなしい男の人でないと巧く行かんかも知れんなあ」 「おとなしいも、おとなしくないも、どんな男性も夫にするつもりはありませんからね、わたしは言いたいことを言えないような環境では一分たりとも生きておれないから、ぜったい結婚なぞする気はないのよ、だいたいからね、子を産むために結婚するなどというのが我慢できないのよ」 「柳ちゃも、もうそれがわかっとるんだから、男の人との交際は慎重にしなきゃあ。誤解されないようにけじめをつけてな」 「誤解された経験者の言うことだから、言葉に重みがあるわ」 「冗談じゃあないに」 「だいじょうぶ、だいじょうぶ、これでもわたしはちゃんとけじめをつけて交際してるんだから」 「お願いしますに」 「お願いなぞしなくても、だいじょうぶだって言ってるでしょ」 柳子は、母のしつこい用心深さ、小心さに腹を立てる。 「お父ちゃが居らなくても、ジョゼーさんと二人で桑の木とコーヒーの樹の手入れお願いしますに」 「どうもあのジョゼーさん、わたしは苦手だなあ、黙ってよく働く人だけど、ガイジンにはめずらしく陰気だものね、なに考えてるのかわからないところが気味悪くて」 「それはわたしも感じてますに。でも田澤さんが寄越してくれた人なんだから、話をしなくても作業だけしてもらっていたら問題もないずら」 「なければいいけど」 「用心に越したことはないに」 「それが嫌なのよ、いつも用心しなければならないとか、戦々恐々でいなければならない状況のなかにいるのが」 口ではそう言っても、それほど用心をしている柳子ではなかった。 「でもそれはジョゼーさんに限ったことじゃなくて、いつでもどこでも用心しておらなくちゃあ。どこを歩いても外国ずら、ここは」 「うん、それもそうねえ。じゃあ一仕事してくるか」 「ほほほほ、柳ちゃがそんなこと言うようになったんか」 チヨは明るい表情で笑う。 こんなに柳子と核心に触れるようなことをしんみりと話したことが、かつてなかったから、なんでも話してしまうと心が霽れるものだ、とチヨは思った。 娘からむかしのことを引き出されても、いままでのように暗い気分にならなかったのは、養蚕をはじめるという、はっきりした目的を持ったことと、それが自分のもっとも手慣れた仕事だし、確実に収入に繋がることを思うからだった。 龍一が、もうアラサツーバの料亭で仲居と浮気をして帰ったことを知らないチヨは、夫が機会さえあれば元の木阿弥に戻ってしまうだらしなさがなくなっていないとは考えながらも、赤道を越えたときに、過去の龍一とは決別したんだ、と夫が言ったのが嘘ではなかった証のように、かつて持ったことのない鍬で、一年間びっしり労働に耐えてきたのだし、彼みずからの算段で土地を購入し、こんどまた養蚕を始めると覚悟し、それを実行し始めているのだから、やはり男だったのだ、と認めないわけにはいかなかった。 あのときは自分たちの土地を購入するために出かけているのだと思うだけで、夫に浮気をする時間があるかも知れないなどと考えなかった。 その油断の一端は、柳子の成長だった。躰は相変わらず娘らしく膨らんで来ず、痩せて骨っぽい少年のようなままだったが、知識を急速に身につけて、どんどん成長してきた精神的な面が目を瞠るほどだったから、安曇に居るときは、舅が龍一の監視役を勤めてくれていたのを、ブラジルに来てからは娘が父の監視をしてくれるという安心があったからでもあった。 その安心が、今日はいっそう確実になったとチヨは思う。なぜなら、いままでは娘を子どもの領域においていたのを改めて、母娘ではなく女同士として話し合えるようになっているんだなあ、と気づいたからだった。 まるでこの頃の雨のような雰囲気だと、チヨは感慨する。 近頃の雨は、決まった時間に来る夏の雨には違いなかったが、去年のような豪雨ではなく、軽く通り過ぎてしまう驟雨で、暑さとと もに気持ちまで洗われる思いがした。 柳子と話し合ったあとの気分が、一雨きたあとに陽光が射すようなさわやかさだったから、チヨはそう思ったのだ。 柳子には、ジョゼーをあまり意識しないでおればいいなどと言ったけれど、ジョゼーの陰気な目つきは、チヨも気味悪く感じていたし、柳子の子どもっぽい躰を見る男の眼よりも、自分自身の成熟した女の躰を見る男の眼のほうが、いっそう隠微な感じがすると思っていたから、夫のいないあいだはとくに、ガイジンとの距離をできるだけ保っていなければならないと用心していた。 チヨは、遠くから柳子とジョゼーの作業にそれとなく視線を伸ばしていたが、自分自身は家の傍の野菜畑から向こうへ行かないようにしていた。 そして、夫の帰ってくるのを心待ちにしている自身の変化に気づいて、ひとりくすくす笑い。こんな笑い方をしたことのないことを惟って、赤道を越えて変わったのは龍一ばかりではなく、わたし自身も変わったのだ、と自覚し、納得し、それを肯定する気分になっていた。 柳子が常々言ってきたように、ブラジルに来ているのだから、ブラジルに合った考え方をしなければならないだろうと思いながら、そんなに容易く心の入れ換えなどできるものではないと考えていたのに、知らぬ間にそうなってきていたのに、いま気づいた。 人間も、気候の変化にだけではなく、風土や風習というものにも適応してゆくことができるようになっているのだ、と思いながら、龍一がいまごろどこを歩いているだろうと思いを伸ばしても、過去に抱いた嫌悪感は湧いてこなかった。 それどころか、かつて思ったこともない待ち遠しさが心のなかに滲み出てきて、あら、と思い、こそばゆい感じになって、西のほうへ視線を振ると、青かった空の色が、なんとなく黄色味がかっているように視えた。 ああ今日は、真っ赤な夕焼けになるかもしれない。明日はきっと上天気になるだろう、と思った。 |
「花の碑」 第十三巻 第六八章 了 |
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