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「花の碑」 第十三巻
第六三章
田澤が、なかなか雇い人のいいのを見つけるのは難しいし、すぐの間には合わないから、自分のところで働いているのを一人回そう、ジョゼーといって、まだ四十歳だが、彼の女房は富子の下で炊事婦をしているし、もう子どもも六人も居るまじめな男だからと、龍一をよろこばし、内藤の仕事を手伝うようにとジョゼーに言って差し向けてくれた。
ジョゼーは、ヨーロッパ系の血が濃く入っている混血で、髪が渦を巻いているところと鼻翼が横に広がっている形が黒人の血が入っているのをわからせるけれど、その端整な顔立ちは理知的にも視えた。しかし、無学文盲だという。
長身痩躯なのだが、上半身裸になって働くから、腕や肩の筋肉の盛り上がりようは隆々としていて、チヨの眼をうろたえさせるほどだった。
そして、ジョゼーが働いている様子を覗き見ると、男にしかできない荒仕事に、黙々と打ち込んでいる彼の躰全体から、汗というより、活力が迸っているのが遠くまで感じられて、龍一と柳子がアラサツーバに出かけているあいだじゅう、小心者のチヨの心を怯えさせた。
スイス人耕地でも上半身裸の労働者は幾人もいたけれど、広大な農園に散らばっていたし、たまに農道で行き会うことがあっても、チヨは視線を土に這わせて行き違ったから、まともに男の裸を見ることはなかったのだ。
ここが奥行きのある農地だといっても、スイス人耕地とは比べるべきもない狭さだったから、いまほど男の裸体から発散されてくる禍々しい情念を感じたことはなかった。ジョゼーの活力がそこらじゅうに充満していて、その熱気が、炊事場に入っても伝わってくるような気がするのだ。
ジョゼーが意識的にそうしようと考えてするのではないだろうけれど、肩や腕や胸の筋肉が、躰が動くたびにもりもりと隆起したり、その位置を微妙にずらしたり、女の気持ちを逸らせず、ああ、と気づいたときには、彼のほうをぼんやり視ているのだ。
男の裸体になどに興味はないと思っているのは意識的な錯誤であって、無意識のうちに視てしまう己れの関心に、チヨは自分自身の情念の邪まな傾きに恥ずかしさを覚えた。
だからといって、家のなかに閉じこもってもいられないのだ。いや、家のなかにいるほうが余計にジョゼーの肉体を意識してしまうようだった。閉じこもっているほうが怖いように思えて、陽光の眩さのなかに紛れたいと思って、チヨは農作業に手がつけられない心の揺れを感じながらも、家の外回りのことを探してうろうろした。
どんなにチヨが働き者だといっても、ブラジルの乾燥した炎天下では、眩暈を起こしてしまいそうな酷暑の下で、ジョゼーは平気らしかった。
黒人にありがちな口の軽さもなく、黙々と働く様子は、遠くから見ていると、ミレーの絵に出てくる農夫の姿に見えた。あの素朴さは土から産まれ、土にまみれて育った、根っからの農民のものなのだなあ、と見ているものが自然に手を合わせたくなるような光景だった。
素朴な信仰心は、キリストとか釈迦という偶像に向かって手を合わせるものではなく、太陽や空気や水に向かって手を合わせるものではないだろうか、とチヨは、ジョゼーを観ながら思った。
そんなジョゼーなのに、彼がチヨを視る眼に暗さがあった。ジョゼーの眼の暗さに気づいたとき、チヨは、ちょっとたじろいだほどの、心の慄きを覚えた。
そういえば、こんな目つきをした使用人が、安曇の内藤の家にも一人いて、いつもチヨを下から掬い上げるように視たから気味悪かったのを想い出す。
その男が、桑畑のなかに潜んでいて、桑の葉を摘む娘たちを盗み見ながら自慰行為をしているという噂が立って、内藤の家では、穏やかに言い含めて出ていってもらったというエピソードを、いっしょに想い出していたから、そんな雰囲気を醸し出しているジョゼーをその男にダブらせてしまうのだった。
ああ、そういえば、スイス人耕地で通訳をしていた熊野の目つきにも、どことなく暗い感じがあって、この人の心の底には、こちらが想像できない邪悪なものが潜んでいるのではないだろうか、とチヨは思ったことがあった。
熊野がどんなにやさしい言葉遣いをし、どんなに移民たちを世話していても、彼から一度も心の温もりを感じたことがなかったし、チヨには、熊野が眼の裏側に潜めている心の暗さが視えて、油断できない気配りがおのずから肌に皮膜を被せたのを想い出す。
人の噂によると、熊野は想像に絶するほど勁い性欲があって、その隠微なものを人の目から隠すために、やさしい声を使い、細々と世話をやくのだろうと、そういう性的な感情の内面や裏側に詳しい龍一が言ったのだから納得できたのだった。
いや、やさしい声で世話をやくのは、女に言い寄る前提で、古い移民の話によると、園
子という美人の女房がいながら、豊満な肉体を持っている女には目がなくて、人妻だろうと娘だろうと、日本人やガイジンの見境もなく言い寄る姿は、イタリア人そっくりだとも聴いた。
雑木林やコーヒー畑のなかで、そういうことをしているのも、ガイジンと変わらないという。それが偶々のことではなく、しょっちゅうのことだというのだから、彼の性欲の勁さが並外れているのは間違いないと思った。何人もの主婦や娘が熊野の子を孕んだなどと信じられない話も、農場中を飛び跳ねている柳子から、耳に入ってきた。
チヨは、安曇のあの男や、熊野の性欲の異常さから、男の隠微な目の色の暗さは、性欲の勁さからくるものではないだろうかと思って、ジョゼーにもそれがあるのではないのかと懼れた。
何も口を利かない。何を要求してくるわけでもない。じっと顔を見合わせたわけでもない。それなのに、相手がこちらに対して何かを意識しているもののあるのを、まるで話し掛けてくるように伝わってくるのだった。ジョゼーは無言で働いているのに。
自分自身の過剰な小心さ、臆病さのせいだとわかっているのに、ほんとうにジョゼーが心のなかで話している声が、こちらの耳の奥深くで聴こえるのだ。幻聴だと思えないほどはっきりと。
そして彼が話し掛けてくるのが、チヨの耳のなかでは日本語なのだ。まさかと思って耳を澄ますと日本人と少しも違わない日本語なのだ。田澤さんにジョゼーは日本語がわかるのか、一度確かめておこうと惟うほど、朴訥だけれど理解できる話し振りだったから、チヨは、自分自身の頭がどうかなってしまったのかと心配した。
「奥さん、あんたの故郷は山の中だって、田澤さんが言ってたけど、美しい絵に描いたような風景のなかで、ゆったりとした時間の流れにどっぷり浸りながら暮らしていたんだってねえ。どうしてこんな殺伐としたブラジルなんぞに来たんだよ。俺は一度日本に行きたいと思っているんだ。そして日本の女性と結婚して、夫に従順なおとなしい妻を愛しながら暮らしたいなあと思っているんだ」
 こんなことをぶつぶつ口のなかで呟くような話し振りで訴えてくるのが聴こえたから、チヨはぎょっとしてジョゼーのほうに視線を伸ばしていったのだが、彼は黙々と土に向かって話し掛けるような姿勢で働きつづけていた。ああ、やはりわたしの空想がつくった幻覚だったのかと思ったけれど、あまりにも克明すぎる幻聴に恐ろしくなったほどだった。
 そんなことがあったのをチヨは、夫と娘が帰ってきても、話さなかった。夫が鼻の先で嗤い、娘がお母ちゃの臆病にも呆れると言って嘲るだろうことが眼に見えていたから。
そんな心の惧れも、柳子が話す、今日一日外出先であったことの話のなかに紛れてしまって、忘れることができたのだが。
ジョゼーの話し声は、その日だけではなく、そして自分の傍に龍一がいるときでも、柳子がジョゼーの傍にいるときでも、ゆっくりと語りかけてくるのが聴こえるのだ。彼はわき目も振らず働いているのに。
ついにチヨは、わたしは神経を病んでしまったのだろうか、と自分自身の幻聴を疑い始めるのだった。
しかしチヨの心配は一時的なものだった。そのうち、養蚕をはじめるという高揚感と、その準備の忙しさに、ちょっとしたジョゼーに対する不安も、いつしか考えなくなっていた。
柳子は、暴漢から襲われた経験から、ガイジンに背を向けて作業するという不用意な姿勢を見せることに警戒はしたけれど、ジョゼーのそんな気持ちの暗さには気づかないで、陽気に話し掛け、彼の仕事の要領のよさを父に伝えたりした。
ジョゼーは、つぎに何をするのか十分に心得ていて、こちらが指示する前に彼の判断で作業を進め、それが間違いなかったし、気の利いているわりには気走りがなく、控え目で、無駄口を叩かず黙々と働いたから、柳子が彼に対して持った印象はよかった。
「柳ちゃ、ジョゼーさんを悪く言うつもりはないけどなあ、ガイジンはガイジンだから、油断を見せちゃあいかんに」
チヨが、ジョゼーの寡黙でよく働くことをよろこびながらも、そこに暗さがあるのを気にしてそう言っても、
「ジョゼーに限ってはだいじょうぶよ、お母ちゃの心配性も行き過ぎだわよ」
と柳子は取り合わなかった。
まさか、くしゃみするのも恥ずかしいほど明るい畑のなかで、すべての日常性を破壊してしまうような暴力を、この寡黙な男が行使するかもしれないとは、どうしても考えられなかった。
しかし、男の性が衝動的に噴出するものであることも、ようやくわかってきていた柳子だったから、用心に越したことはないと、母の注意は一応の了解事項にする。
チヨも柳子も、田澤が世話してくれた使用人をそういうふうに視る女の側の危惧が、男に素直に認められるとは思わなかったから、龍一には伝えなかった。
二アルケーレスのコーヒー樹を抜いて、そのあとに桑の苗木を植える作業からはじめるのだが、コーヒー樹の伐根と整地と施肥は、田澤がジョゼーに支持してくれたから、それができるまでには間がある。
なにしろ二アルケーレスといえば、安曇の家内蚕業なら何百軒分の蚕を養えるほどの桑園になるのだ。
龍一がなぜそんなに大きな桑園をつくるかというと、つぎつぎ蚕小屋を建てましてゆくつもりもあったが、安曇の風景に匹敵するほどの広大な桑園を背景にした贅沢を味わいたかったからだし、せっかくブラジルに来たのだからという思いと、性格的な豊穣さのせいだった。
桑園つくりの基礎作業はジョゼーに任しておいて、龍一は、蚕具の用意をする。
安曇で龍一が農作業をしているところなどついぞ見かけたことはなかったし、スイス人耕地ではベッドや食卓という大きな家具は造れなかったけれど、元来が器用なのだから、さすがに養蚕農家の倅だけあって、かごろじなどは見よう見真似でつくっていた。
「へえ、お父ちゃもちゃんとそういうものがつくれるんだ」
 柳子が感心するほど、しっかりしたものだった。
とくに稚蚕室というものはつくらず、サッペを編んだ移動式の壁にする簾を何枚もつくって、稚蚕の成長に合わせ、必要に応じてそれで囲うつもりだった。
これはブラジルに来てサッペ小屋に住んだり、サッペのクッションに寝たり、小森茂が作った蓑のお化けのようなものからヒントを得て、龍一が考案したものだったが、サッペの活用は蚕室の通風と採光を加減するのに都合のいいものだった。
これはスイス人耕地での一年の経験を生かした賜物なのだから、決して無駄に日々を過ごしていたのではなかったことを、龍一は実際的な作業で証明して見せたのだ。
夫がせっせと何かをつくっているのを見て、こんなものを安曇で見たことのなかったチヨは、発蟻を刷き立てる催青枠にしては大きすぎるしと惟いながら、龍一がひとりでこんなに働いているのをかつて見たことがなかったし、養蚕のためにいっしょけんめいになり出しているのだから、と好きなように時間を潰している夫の邪魔をして気分を害してもと、それは何か、と訊ねもせずに横を通った。
ジョゼーもひとりでせっせと、古いコーヒー樹の伐根をし、整地し、桑園になる敷地を広げてゆく。
田澤甚平が覗きにきて、龍一には、おおい、と手を挙げて挨拶しただけで、ジョゼーのところに行き、何かを言ってさっさと帰っていったから、こちらの用事ではなく、向こうの家族に関する用事だったのだな、と思っているうちに、甚平の長男が小型トラックで肥料を運んできた。堆肥と尿素と過燐酸石灰、塩化カリなどだった。
そのときには龍一が気づいて腰を上げ、挨拶に行ったが、ジョゼーに言ってありますから、と彼もまた急いで帰っていった。
互いに忙しい時間帯だから、と思って龍一も軽く挨拶するだけにした。
龍一も柳子も、いままでのようにブラジルの生活を二、三年経験するだけという漠然としたことではなく、養蚕をはじめるということと、養蚕をするなら養蚕技師という肩書きに恥じない良質の繭を作らなければならないという意気込みを持ったから、気持ちだけではなく、実際の作業にそれが顕われていた。
その活気が隣から見ていてもわかったのだろう、アドルフとアントニオが来て、感心するだけではなく、臨時に手の要るときは遠慮なく言ってくれ、いつでも牧童に手伝わせるからと言った。
もう田澤を通してアドルフに頼まなくてもいい間柄になっていたから、龍一は柳子のブラジル語が完全なものとは思わなかったが、当座の役には立つのをすでに認めていたし、養蚕小屋を建ててもらう交渉をすることにした。
龍一は、養蚕小屋の簡単な平面図と側面図を作り、それに必要な柱材は雑木林から調達すること、壁材は牧場の奥に繁茂しているサッペを使用することを柳子に言わせ、アドルフの了解を採った。臨時の人夫賃は惟ったよりも少なかった。
屋根材や壁にサッペを使用するのは費用を節約するためではない。住居のように壁を板で囲ったり、屋根に瓦などを乗せたりすると、真夏には四十度近くにもなるこの辺りの気温だから、小屋のなかは天火のようになって、蚕が溶けてしまうからだった。サッペなら、熱を吸収するし、通風にもよい。龍一が作ったサッペのすだれが移動式防暑材になることが、チヨにもそのときわかって、龍一の知恵に感心した。
「それでも暑いときには、サッペ葺の小屋ごと散水して、温度の調節をしてやらんと」
そういう日本の養蚕にはない作業を、田澤が教えたから、ブラジルでの養蚕は気候風土に似合った荒っぽいテクニックを要求されるのを、龍一も知った。
それですぐに、江戸時代の火消しが使ったような、手押しポンプを購入した。
柳子は珍しがり屋だから、これはわたしの役目よと宣言して、おもしろがってポンプを押し、始動させ、練習していた。
小屋を建てる位置と、広さと、高さとを、龍一と柳子のふたりが、手まねと、足の先も駆使して説明し、アドルフが牧夫たちに指示すると、彼らは牛の尻ばかり追っている日常の作業とは異なる臨時の仕事をする興味からというばかりではなく、日本人が臨時収入をつくってくれるという実質的な余得がうれしくて、それまではどちらかというと隣に住むようになった日本人の、ちょっと風変わりな家族を侮って、「おい、ジャポン」とふざけて声など掛けていたのが豹変して、
「シン、セニョール(はい、ご主人さま)」
と敬服している眼の色で、興奮気味に声を飛び交わし、牧夫頭が割り当てた人数に分かれて、整地するもの、柱を埋め込む穴を掘るもの、雑木林から適当な太さと長さの丸太にした木材を伐り出して運んでくるもの、サッペを刈って束ねてくるもの、地面を線引き台にして、柱と屋根組みを造ってしまい、それを綱で引き起こして穴に嵌め込み、つっかい棒で支えて組み立て、サッペの壁を結わえ付けて張ってゆき、見る見るうちにばたばたと、幅十メートル、奥行き二十メートルの養蚕小屋を建ててしまった。
龍一が側面図に描いた突き上げ窓まで、北側を除いた三方の壁に、図面通りにちゃんとできていた。
アドルフ自身は手を出さなかったが、小屋がけの経験は積んでいるのに違いなく、テキパキと口で指図はしていたし、牧夫頭が大工か土方の統領のように頭の切れる男で、牧夫を意のままに動かすのを視ていると、この男に指揮される軍隊は連戦連勝するだろうと思わせるところがあった。
大ぜいの牧夫が、戦場を駆け巡るような騒ぎで、牛の尻追うより楽なもんだ、と笑いながら、蚕棚を造ってしまうまでに、チヨが用意したピンガと、マンジョカを蒸したものを油で揚げて出してきても、小屋ができてからゆっくりやろうぜと申し合わせ、一気に終わらせてしまう勢いだった。
二段式の蚕棚の高さで、龍一と人夫とのあいだに、手まね足真似の押し問答があったが、柳子が機転を利かせて、チヨを連れてきて、
「バッシーニョね、バッシーニョ(背が低いの)」
とここで作業するものの背が低いからだという実物を示したから、男たちは笑って納得する。
柳子は、こんな日常的ではないことが好きだったから、まるで女統領にでもなったつもりで、なんだかだと指図しているのがおかしかったが、それにも増して、牧夫たちがおもしろがってかどうか、
「シン、セニョリータ(はい、お嬢様)」
「オオ、セニョリータ(おお、お嬢様)」
などと、柳子の指図通りに飛び跳ねているのがおかしくて、チヨは笑いながら、彼女自身も心の浮き立つ思いをしていた。
それでも早朝からはじめた作業が終わる頃には、陽が傾いてきていて、建てた養蚕小屋の横の小さい広場で、用意周到に作った野外宴会場のまんなかに燃やしはじめた焚き火の赤さが、鮮明に見えるような時間になっていた。
龍一が、小屋のなかを消毒して、養蚕小屋の戸を閉め、柏手を打って三拝するのを、おおぜいの男たちがふしぎそうに見ていたが、アドルフが提供した肉の塊に粗塩を揉み込み、ヨーロッパの戦国時代に人の肉を貫き通したのではないかと思わせる西洋の剣と同じかたちの鉄の串に刺し通し、焚き火に渡した太い二本の鉄棒に渡して焼きはじめると、わっと焚き火の周囲に座り込み、わいわいがやがやことばが飛び交い、たちまち上がる肉の焼ける香ばしい匂いとともに、柳子ら親子がはじめて経験する野趣に飛んだ宴会が、即興的にはじまる。
肉が焼けるまでのあいだに、男たちは、チヨが持ってきたマンジョカの空揚げを肴にして、ピンガを飲みはじめる。
飲みながらしゃべり、笑い、ふざける様子が子どもじみていて、彼らが荒くれだけれど邪気のない男たちなのがわかる。
しかし、いくら邪気はなくとも、その様子は山賊どもの酒盛りのようだし、酒が入ると口うるさくなるのは、どこの世界でも同じはずだから、チヨは怖じ気づいて、どうしようかと心を震わせていた。
龍一は、一口飲んだだけで、もう顔を真っ赤にして、焚き火をなかにしている輪から外れていたが、施主として家のなかに引っ込んでしまうこともできず、居ごごち悪そうに地面に下ろしている尻をもじもじさせていた。
男たちは、傍でそんな様子を見ている柳子に向かって、なんどもピンガを飲めとすすめる。
肉が表面だけ焼けると、アドルフが大きな山刀で肉塊の端に、用意してきていた長い竹串を突き刺して切り取り、柳子のほうに差し出す。
その肉片は、まだよく焼けていなくて、なかのほうは血が滲んでいた。
肉塊の端を切ったといっても、小さな柳子の口にあまるほどの肉片だったから、それを眼の前に突き出されただけで、柳子はぐっと胸に閊える感じがしたのに、そこからいまにも血が滴り落ちそうに視えたから、眩暈を覚えた。
肉は鋤焼きに入れてある細切れの肉しか食べたことがなかったのだ。まして血の滲んでいる肉片など、いかにも猛々しく、おぞましくて、眼をそむけるだけだった。
それでも焼いた肉の香ばしい匂いは食欲を誘った。
「マイズン・ポーコ・アッサ、ポルファボール(お願い、もうすこしよく焼いて欲しいわ)」
と肉に滲んでいる血を指差して、頸を横に振る。
「ああ、ベン・アッサード(よく焼いて)ね」
アドルフは、柳子の要求をすぐ呑み込んで、差し出した肉片を龍一のほうに突き出す。
龍一が、慌てて大きく手を振る。
アドルフはそれを隣の男に回し、よく焼けているところを探して、切り取る。
アドルフが改めて差し出した肉片を、柳子はためつすがめつしてから、血の滲んでいないのを確認したあと、肉を突き刺した太目の竹串を受け取る。
食べてみようと思う気持ちは起こったが、この大きな肉塊に齧りつくのがおぞましくて、口を持っていけない。ブラジルに着いたばかりのとき、移民列車のなかでソーセージを丸ごと口に咥えて齧り、嗤われたことがあったが、あのソーセージのほうは口に合う太さだったのだ。この肉塊はどんなに大口開けても入りそうにない大きさなのだ。国の広さが二十三倍違うのに比例させたわけでもないだろうが。
柳子のびびる様子を、笑いながら見ていた男たちのなかから、食べ方を教えてやろうと思ったのだろう、精悍な顔の髭面の男が、目顔で柳子に観ているように誘い、肉塊からごそっと切り取った肉の一方を手で掴んで、一方を口に咥え、山刀で口に近いところで肉を切る。そして呑み込む。唇もいっしょに斬って呑み込んだのではないのかと、柳子はしばらく男の唇を凝視していた。
その荒々しい食べ方に、凝視したのは柳子だけではなく、龍一もチヨも眼を瞠る。
チヨが小走りに家のほうに行ったから、おぞましくなって逃げ帰ったのだろう、とみんなが思ったのだろう、笑い声が上がった。
チヨが家に駆け戻ったのは、俎板と包丁と小皿と箸を持ってくるためだったのだ。
急いで焚き火の傍に引き返してきたチヨの小道具を視て、こんどは男たちが、何をするのかと興味津々の眼を向ける。
全員の眼が集中するなかで、チヨは、柳子が持っている肉片を、
「それ切ってやるに」
と受け取り、細かく切って小皿にのせ、箸を添えて柳子に渡す。
柳子が細切れの肉を箸に挟んで、小さい口に持ってゆくのを、男たちは固唾を呑んでという大袈裟な表現が適当なほど、沈黙を保って見守っている。
柳子が二本の細い棒で肉切れを挟んで口に運び、口に入れ、咀嚼して、喉に呑み込んで、
「うん、おいしい、おいしい、ゴストーゾ(おいしい)」
と日本語のあとにポルトガル語をつづけて言うと、
「うおっ」
と男たちの歓声が上がったあと、珍しい芸当を観たあとのようなざわめきが起こって、笑い声のなかで、拍手する。
そして、自分たちもピンガを飲み、肉を頬張りながらも、柳子が箸に肉片を挟んでひょ
いひょい口に入れるのに気を取られている様子だった。
アドルフがおもしろがって、よく焼けた肉片を、チヨの前にある俎板に載せる。
チヨがそれを細かく切って、小皿に乗せ、箸を沿えて龍一に差し出す。
血の滴るような肉には手が出なかったが、龍一もよく焼けた肉を口に入れて、食べてみたし、チヨも恐る恐る口にして、ふたりが肯き合ったから、はじめて食べる焼き肉のおいしさがわかったのだろう。
信州では、馬の肉を食べるものがいたが、龍一の母が、桜色した馬刺しをときどき一斤ほど買ってきて食べるのが好きだったのを、龍一が嫌って、
「そんなものを食べるのは下級の労働者だけだに、お母ちゃ」
と言ったことがあったほどで、肉屋自体が「長吏」といわれて差別されていたくらいだったから、チヨなど一度も四つ足の肉を食べたことがなかったのだ。
柳子がすき焼きを食べたのも東京で、安曇では鶏肉や魚肉だけで、牛肉を食べたことがなかった。
焚き火の火照りとピンガの酔いで、顔を真っ赤にさせている男たちが、わいわい言いながら飲み食いする様子は、御伽噺に出てくる鬼の酒盛りのようだ、と柳子は思ったが、こんな野趣に富んだ酒盛りもいいものだなあとも惟って見惚れていた。
そうした男臭い宴会が、わっと盛り上がって、いつまでもつづきそうだったが、あっさりと切り上げて引いてゆく終わり方も、気持ちよかった。
誰かが焚き火に水を掛け、じゅうっと立ち昇る白い煙が、濃い紺色の闇に鮮やかなほど、もう周囲は暮れなずんでいた。
「花の碑」 第十三巻 第六三章 了
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