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「花の碑」 第十三巻 第六六章 |
地上はそれほどでもないのに、天空の高いところは風が強いらしく、雲が切れ切れに西から東へ忙しそうに飛んでいた。 その切れ切れの雲に陽光が間歇的に遮られるから、影と光が交互に走り、大地が波打っているように見えた。 そんな不安定な情緒を強いる天候のある日、佐藤肇は予期していなかった柳子の出現に、その場でとんぼ返りを打ちたいほどの感激を覚えた。 朝寝坊だった柳子も、近頃はすっかり農家の習慣に慣れて、早朝に愛馬ミモザに運動させるのと、飼い葉ではなく、ミモザが直に土から毟り取って食べられる新鮮な野草を与えるのが日課になっていたから、軟らかい草が生えている所を探して歩いていたのだが、方向を定めないで気まぐれにゆく道筋が、どこをどう通ってどこに出てゆくのかも考えていなかった。 方向感覚のあまり鋭敏なとはいえない柳子と違って、ミモザはどんなに遠いところに行っても、ちゃんと彼女自身の厩舎がある方向は的確に把握しているらしいので、ミモザ任せにしていたのだ。 「あれ、柳子さんじゃないか」 声を掛けられて、いつも見慣れている服装ではない野良着の佐藤肇が、トウモロコシ畑を背景にして立っているのをそこに視て、 「わあ、なんだ肇さんも百姓だったの」 と思ってもいなかったことを口走って、弾けるような声で笑ってしまう。 佐藤肇が背にしているトウモロコシ畑が、ざわざわと風を受けて騒いだ。 柳子の笑う顔のさわやかさに、肇の気持ちの硬さがほぐれる。 「変なこと言うなあ、どうしてえ、俺がこんな恰好してるのが、どうしてそんなにおかしいのかなあ」 柳子が笑う意味がわからないから、肇は戸惑いながら、ああ、この眸だ。こんな涼しい眸に見詰られると、ぞくっ、として心が震えるんだ、と今日一日の好運を思う。 柳子がそれを聴いたら怒るだろうけれど、女性は性行為の対象としてしか考えられない肇だったから、こんな骨っぽい、まだ青臭い女性を抱くときの感じてどうなんだろうなあ、と考えてしまう。三日とあけず抱いている女たちはみんな人妻で、「うちの亭主はもうだめなのよ」と言っていても、もしも肇の胤で妊娠しても、亭主の子として育てさせるという鉄面皮な女ばかりなのだ。 そんなすけべえ女の、どろりと溶解して流れ出しそうな腐った淫猥な目玉とは大違いだ、と柳子のどこまでも透明感の漲っている眸で見詰められると、むしゃぶりつきたくなってしまう。 人妻たちとのだらだらした関係がつづいているのは、いつでもしたいときにさせる環境に居て、向こうもセックスするのが好きで、簡単に用が足せるからだった。 だからそう簡単にはできそうにない、きりっとした処女には、身震いするほどの魅力を感じるのだが、同時に慎重さも覚えるのは、人妻とのセックスはあくまでも排泄であって、柳子とするときは厳粛な子孫継承の儀式としてしなければならないと考えていたから、軽々しくは扱いたくなかったのだ。 その厳粛なる行為をさせてもらいたいと思っていた対象である柳子が、予期していなかった時と所にとつぜん顕われたのだから、いっそう感激してしまう。 日ごろ、嘘だらけの女を、偽りの愛で抱いて、溜まった性欲を排泄するだけの行為をつづけているからだろうか、柳子の嘘の欠片も感じさせない、と独善的に考えている清々しさは、こちらの心も洗われるような気がするのだ。 柳子も小さい嘘は口から出任せに吐き捨てるのだけれど、意図的な策略のためではなく、つい、という感じで出てしまうので、訂正もしないで忘れてしまうのだった。 一誠はそれに気づいていたが、肇は上っ調子だから気づかなかった。 昨日抱いたあの女の、涎をこぼしそうな大きな唇と違って、柳子の小さくて薄い桜色の透き通るような唇の可愛さを目の前にすると、その新鮮な果物を思わせるものを、ああ、と息詰まり眩暈を覚えるなかで口に含んでしまいたくなるほどだった。 内藤柳子は、もうすぐ十九歳だということだったが、ぜんぜんそんな歳には見えなくて、まだ少女のような、いや少年のような、あどけなさが残っているのに、いったん口を開くと、こちらがたじたじとなるようなレベルの高いことを、率直に辛辣に言うから、反論するのを忘れて聴き惚れてしまうくらいなのだ。 肇は、妻にするなら、だらしない、性欲を満たすだけの女ではなく、「妻を娶らば才長けて」という詩のように、すぱっと手の切れるような聡明な女でなくてはならない、と常々思っていたから、柳子を一目見たときから、あ、この娘だ、この娘がアラモに来たのは、俺との因縁があったからだ、と独り定めして、柳子との将来を考えはじめていたのだが、鈴木一誠が地の利を得て、急速に柳子に接近しているように視え、柳子と一誠とのあいだがいっそう親密になる前に、何とかしなければならないと、心に焦りを覚えていた矢先だった。 なんとかしなければ、と思っても、ほかの女の上に乗ってゆくような荒々しい行為をすると、男女の仲に罅が入るというだけではなく、柳子自身の躰が、精神とともに壊れてしまいはしないかと懸念するほど、小柄で、か細い躰つきと、繊細な神経を持っているのがわかるから、柳子攻略の戦術を綿密に練っていたところだった。 女性らしい軟らかい肌ではなかったが、少し硬い感じの躰と、刈り上げている頭髪のせいで少年のように見える、ゆで卵の薄皮をめくったときのつるっとした顔。そのくりくりした眸の少年らしさが、倒錯した性欲をそそるのだろうか、肇はときどき濃艶な人妻の姿態を抱いているときに柳子の清楚な佇まいを想い描いて、途中でいやになってしまい、女に誤解されることが、この頃あった。 「なんだ、ここ、佐藤さんちの畑だったの」 「なんだあ、知らずに来たのか、俺に用事があってきたんだと思ったのに」 肇の落胆が視えたから、 「すみません、そうじゃなくて」 と柳子は気遣わなければならなかった。 「べつに構わないけど、何があったの」 「何もありません、特別なことは。ミモザに草を食べさせながら来たら、ここに出てきたんです」 「ああ、じゃあ、俺の念力に引き寄せられて来たんだろ」 肇が、わざとらしく柳子の眼のなかを覗き込むようにする。 「あら、ほんとう、そうだったんですか、佐藤さんわたしをここに呼び付けるために念力を掛けていたんですかあ。道理でなんだかどんどんいつもとは違った道に来てしまったと思っていたんです」 肇の言うことを信じたわけではなかったが、柳子はとっさにそういうことにしたほうがいいように思って、仰け反るような恰好をして言う。 ふたりが立っているあいだを、陽の光と影が忙しなく通ってゆく。 そんなに長い交際ではなくても、鈴木一誠の深慮遠謀型と佐藤肇の直情径行型の違いはすぐにわかるほど性格が対照的だったから、柳子もそんなに意識せずに、接する相手によって対処の仕方を変えていた。 小森秋子が「柳ちゃんはちゃっかりしてる」と悪気なく笑ったことがあったほど、先天的に父から享け継いだ社交性に富んでいたのだ。 そんな柳子の臨機応変な対応に気づかない肇は、自分が出任せに言ったことを、柳子が真に受けてくれたのがうれしくて、それを自分への最大級の好意だと解釈する。 だからだろう、雲が陽光を遮った翳りのなかで、笑う顔が明るかった。 「お父さん」 肇がやにわに大声挙げて、トウモロコシ畑のなかに呼びかけたから、柳子とミモザがびっくりした。いや、柳子とミモザだけではなく、肇から呼ばれた肇の父も驚いたのだろう、 「どうしたんだ」 と上ずった声で言いながら、急いで畑のなかから出てきた。 やや丸顔の肇とちがって、下駄のように四角い顔だ、と柳子はその印象がおかしくて、すごく恐そうな厳つい顔つきなのに親しみを覚えた。 「お父さん、この人が内藤柳子さんだよ」 肇が紹介すると、厳つい顔は変えようもなかったが、眸を細めて、できるだけ柔和な顔をつくろうと苦労しているように見えた。 少し離れた畦道に、肇の母だろうとすぐわかる丸顔の中年の女性が出てきて、こちらには近寄らずに頭を下げるのが見えたから、柳子は、どちらにともなく、 「お早うございます」 と歯切れよく言って、ひょこんと両足を揃え、背を伸ばして腰を折る姿勢を正してお辞儀する。 肇の父は、息子がよく口にする、こんどアラモに来た内藤柳子という人は、東京の女学校を出てきているし、頭が良くて、気が強くて、ちょっとこの辺りでは彼女に優る女性は居ないだろうと、非常な執心ぶりを顕わにしている娘がこれか、と詮索する眼になる。 「ああ、おはよう」 応えながら、姿勢も言葉つきもはきはきした娘が、何の用事でここに来たのかと訝しそうに、そのままの視線を柳子から肇のほうに向ける。 親子が交わした言葉から、わたしのことをしょっちゅう話題にしているみたい、と柳子は思う。 そして、ふたりがどういうふうにわたしのことを取り上げ、どんな評価をしているのかなあ、と気になる。 「青年会の空気を一変した人って言っただろ、ねえ、お父さん、わかるだろ」 肇が、得意そうな顔になって言う。 肇の父が、それを軽い気持ちで聴くのではなく、なんだか重々しい感じで肯いたから、得意絶頂にあった柳子も、少しは遠慮しなければと惟って、 「あの、そんな、一変しただなんて」 と、いつもの軽薄さを抑え、殊勝な顔をする。 肇がそんなふうに、こちらのことを親に向かって言っているなどとは思ってもいなかったから、一応否定したけれど、得意満面は隠し果せなかった。 その一方で、青年会の会議では戦闘的な肇と違って、父の前だけかもしれないけれど、いかにも素朴な態度で父親に接しているのを視て、好感を持って受け止めていた。 青年会で会っているときの佐藤肇は、鈴木一誠ほど好意的ではなく、どちらかというと意地の悪い質問などすると思っていたのに、いまはぜんぜん青年会館のなかでの肇と同一人物ではないような、くだけた親しみを感じさせたから、服装によって人格まで変わるのかなあ、と柳子は思ったりした。 「頭のきれる人なんだ」 肇は、柳子への褒め言葉をまだ上乗せるから、どうしてこんなにわたしを親に売り込むのかしらと、こそばゆい感じを受ける。 「いやだあ、佐藤さん、そんなに買い被ってぇ」 柳子が照れると、 「いや、御謙遜なさらなくても姿に顕われておりますよ」 肇の父が、いくら崩しても柔和にはならない顔で、阿るように言う。 肇が父に売り込むだけではなく、その父親まで息子の言うことを全面的に受容しているらしく、煽てるように言ったから、過ぎたるは及ばざるが如し、というのだろう、うれしさを通り越して、なんだか居心地の悪い感じを受けた。 あまりに取ってつけたような言い方は、腹に一物あり、というのが父の読んでいる講談本のなかの科白だったが、それが透いて視えたからだろう。だから、この人は、わたしに何か魂胆でもあるのかしら、と思ってしまう。 肇も、父が柳子に対する態度がめずらしく柔和なので、こんな一面もあったのか、と父を見直すような顔で見る。 いつもは苦虫を噛んでいるような顔をしているばかりではなく、 「この辺りのやつは、いったいなにを考えておるのか、日本では国民が総動員で聖戦完遂のために時局に当たっているというのに、まるで対岸の火事のような涼しい顔をして、金のことばかり口にしておる」 などと、それが口癖のように植民地の日本人たちを非難しているのに、柳子に対して精いっぱいの世辞を振り撒いているのが、気持ち悪いほどだと思った。 「ちょっと、柳子さんがぼくに話があるらしいんだけど」 肇が、父から柳子を引き離すために、作り事を言ったから、柳子が、まあ、という表情になるのを隠すように、柳子の肩に手をかけて、躰の向きを換えさせる。 あのう、わたし話があってここに来たんじゃないんです、通りかかっただけで、と柳子は、抗議したい気持ちがちょっと起こりかけたのを、なぜか押え込んでしまって、肇が、活発な青年らしくないおずおずした感じで父 に向かって伺いを立てるような言い方をするのを黙認してしまう。 男女七歳にして席を同じゅうせず、というのだから、厳格な父親が若い二人が親から離れたところで話し合うのを許してもらえないのかもしれない、と柳子は思ったが、 「うん、そうか、ゆっくり話し合えばいい」 と肇の父は何か勘違いしているような了解をして、向きを換えかけた柳子に向かって、 「肇をよろしくお願いしますよ」 と慇懃な礼をしたから、柳子はなんだか変だなあ、とむず痒さを覚えながら、 「はい」 と返事をしてしまう。 佐藤さんをどういうふうによろしくすればいいのかなあ、わからないんだけど、と考えて肇の顔を覗き込む。 肇が、柳子にははじめての、はにかんだ顔を俯ける。 あれえ、ますます変だ、と柳子は惟う。 「ああ、ちょっと待って」 肇の父が、ふたりを引き止めたから、背を向けた柳子と肇の足が、揃ってぎくっと停止する。 父は、トウモロコシ畑のなかに入っていって、がさごそしていたが、大きな籠に?いだトウモロコシを入れてきて、 「これ持って帰ってください」 と柳子に差し出す。 「あのう、おじさん、わたしのところもトウモロコシは植えていますから」 柳子は言ってしまってから、ああ、言わなければよかったと思う。素直に礼を言うべきだったなあ、と。 「いや、同じトウモロコシとは限らないでしょう、儂のところのを試食してください。おい、肇、なにをぼやぼやしとる、早くせんか」 肇の父は、柳子に向かって言うのとはまったく声の質の違う角のある声で、息子を叱るように言う。 それが柳子に、ああ、これが元警察官で体操の教師だったという声音だ、と想いださせられた。 「はい」 肇がぴりっと全身に電気が走ったように硬直して、父から籠を受け取る。 「ありがとうございます」 柳子まで、直立不動の姿勢になって、礼を言ってしまう。抗し難い威厳を感じたからだった。 そして恐持てするほうが肇の父のほんとうの姿であって、わたしに阿るような優しさを見せたのは意識的につくった態度に違いない、こちらの威厳のあるほうが、わたしは好きなんだから、ぎこちない優しさなんぞつくらなくてもよかったのに、と思う。 佐藤肇は、内藤柳子の突然の出現を稀有のこととして、こんな絶好の機会を逃がせば、みずからの思いを吐露するときは二度と来ないだろうと思ったから、父が疑うこともなく柳子のほうから用事があってきたという作り事を信じて、ふたりで話すのを許してくれたのを幸運にして、柳子に思いのたけをぶつけていこうと思うと、もう爆発してしまいそうな心臓の動悸を覚えた。 しかし、ことを成就させるためには、柳子が乗ってきた馬がなんとなく邪魔なような気がした。ああそうだ、将を射んと欲すればまず馬を射よ、というではないか、まるでこんなときのために古人が作ってくれていた言葉のように、肇は思った。 まず馬を篭絡するためには、父が柳子に与えたトウモロコシを流用するのが戦術というものだと考えて、肇はトウモロコシの皮を剥きはじめる。その手が小刻みに震えるのを武者震いだとみずからに弁解する。 皮を剥いたトウモロコシを馬の口に持ってゆくと、馬が警戒するような大きな目玉をぎょろりと向けてきた。そして、少し躊躇したあと、ぶるんと鼻を鳴らして笑顔をつくり、 トウモロコシを食べはじめる。 「ミモザは、トウモロコシに目がないのよ」 柳子がそう言ったから、それは物怪の幸いだと肇はほくそう笑む。 「一度ゆっくり話したいと思ってたんだ。いつも一誠がきみを放さないから機会がなくて」 「あら、放さないなんて、そんな言い方するのおかしいわ。家が一番近くだし、帰り道が同じだからそうなるだけで、わたし、一誠さんと特別な関係じゃないですから」 柳子はそういう言い方が、肇を増長させることになるなどと考えないで言う。 「じゃあ、俺がきみと話し合える余地は十分あるわけだ」 「あら、おかしな言い方するわねえ、今日の肇さん、なんだかおかしい」 「今日だけじゃないよ、俺はいつもきみのことを思うと頭がおかしくなるんだ」 「どういう意味かしら」 「きみに特別な感情を持っているから」 「どんな特別な感情かしらないけど、頭がおかしくなるってどういうふうになるの」 「男はいつでも、女性を対象にして感情が昂ぶると、頭がおかしくなって、気が狂うようになるんだ、誰でも」 「誰でもぉ」 「そう誰でも」 「鈴木さんはおかしくならないみたいだけど」 柳子が知らないだけで、一誠も性的昂奮を覚えて、おかしくなる心のために苦しんでいたのだ。そんな男の感情を柳子が知らないらしいのを、肇は知って、 「おかしくならないのは、あいつが男じゃないからだろう」 と一誠を蔑むことで、肇は優位に立とうとする。 「肇さん変なこと言うわねえ、一誠さんも男じゃないの」 「さあ、どうだか」 「あなた。さきほどお父さんに嘘言ったけど」 「嘘」 「わたしが、何か話があって来たって」 「嘘というほどのことじゃないだろ、なんとなく来たにしても、神がふたりを引き合わせたのかもしれないもの」 「神じゃなくミモザよ、わたしをあなたの傍に連れて来たのは」 「それじゃあこの馬に感謝して、うんとトウモロコシ食べてもらうさ」 肇は、まず馬を篭絡して、と考えた戦略を隠密裏に行動していたのだが、柳子がまるで誘導してくれるように言ったから、それじゃあお献体にできるのだと安心する。 ミモザはそういう人間の下心を知っているのか知らないのか、肇が皮を剥いて差し出すトウモロコシを、ぼりぼり食べていた。 「どこまで歩いてゆくの」 「歩かなくてもいいんだ、あそこに孟宗竹の林が在るだろ、涼しくていいんだ」 肇が指差した先に、小さな潅漑用の池があって、その傍に一群の孟宗竹が、さわさわと音の聴こえる風を生んでいた。 「佐藤さん、わたしに何の話があるのかしら」 「取り留めもない話だけど、それでいいんじゃないのかなあ」 「そうねえ、たまには走る雲を見ながら、ゆっくり意味もない話をするのも」 詩的に言った柳子のことばも、肇を感動させることはなかった。 「青年会にゆくと、口角泡を飛ばしての激論になるものね」 「でも、それは佐藤さんがそういうふうに持ってゆくからじゃないぃ、鈴木さんはどちらかというと辟易してるみたいだわよ」 「あいつはいつも逃げ腰なんだよ」 「平和主義者は逃げるしか方法がないからでしょ」 「逃げるが勝ちっていうけど、そんなの嘘だよ、逃げて解決できることなどないんだから、当たって砕けろで、積極的に議論を闘わせなければ物事は解決しないと思う」 肇は、柳子に対しても当たって砕けろ式でいかなければならない、と思いながら言う。 「それはそうだわね、わたしも逃げる方法より闘うほうが好きだわ」 おお、と肇は、柳子の戦闘的なことばに感激する。 「そうだろう、きみの性格だったらそう言うだろうと思っていたよ」 「ありがとう、わたしのことよくわかっていただいて。ああ、ほんと、ここすごく涼しい」 孟宗竹の一群れが蔭をつくっているところが、恰好な芝草になっていたから、柳子がそこに腰を下ろそうとしかけると、 「あ、ちょっと」 と肇が制止した。 肇の言い方が、急だったから、柳子はぎくっとなる。 「どうしたの」 「蛇が」 肇のひと言で、 「ひやっ」 と柳子は悲鳴を発して、肇の躰に身を寄せていた。 こんなありきたりな戦法が簡単に功を奏したことに、肇自身が信じられない思いでいながら、柳子の肩を抱き、 「いちおう居るか居ないか確かめておいたほうがいいから」 ととぼけた顔をして、竹薮のなかを覗き込み、片手を伸ばして竹を揺する。 その恰好が不自然だったから、柳子は蛇がいたのではなく、居るかも知れないということだったのだ、と惟う。 そしてそれは、わたしを脅かそうと肇が企んだことではなかったのだろうかと気づく。 「いじわる、肇さん、脅かしたんでしょ、蛇など居ないのに」 柳子は怒る気持ちにはなれなかった。わたしを抱くための行動に出たのだ、と思って、肇のとっさに閃いた積極的な行動力に感心していた。 敬虔なクリスチャンの鈴木一誠でも、わたしと話しながらなんとなくもやもやした気分になっているのが伝わってくるときがあったが、自分自身のそんな気持ちを抑えているのもわかっていた柳子だった。 そういえば鷹彦さんも、感情の昂ぶりを制御するのに苦しんでいたことがあったなあ、と想い出す。ああそうかあ、肇がさっき言った、男は女性と接していると誰でも頭がおかしくなるということの意味は、こういうことだったのか、と柳子は認識する。 男性は誰でも、女性の傍に居ると特別な感情が起こってくるものなのだろうから、積極的に肩を抱き寄せられる状況を作った肇の行動を責めるわけにはいかないだろう、と柳子は是認する。 柳子には、男性側の心の動きばかりしか見えなかったが、潜在的に在る女性の側の受動的だけれど甘えられる状況を待ち望んでいる欲望があることには気づいていなかった。 とくに一人娘で我がままいっぱいに育った柳子には、勝ち気さのなかに男性への甘えがあって、みずからの勝ち気さを凌駕するほど勁い性格の男性には、その勝気さが脆いものなのには自覚がなかったのだ。 「愛してるんだ」 肇はそう言うなり、唇を押しつけてきた。 肇の行動がとつぜんだったし、柳子の気持ちが無防備だったから、否も応もなく、まともに重なってしまった肇の唇から、自分の唇をもぎ取ることができずに眼を白黒させて、息苦しさを覚え身悶えた。 肇の舌が唇を割って侵入してくるのを嫌って、柳子は渾身の力を振るって、肇の抱擁のなかから、やっと逃れる。 「卑怯だわ、佐藤さん、こんなことして」 柳子がいかにも不潔なものが理不尽に侵入してきたかのように、ぺっと唾を吐いて、手の甲で唇を拭ったから、肇はおおいに侮辱を感じる。 「卑怯ということはないだろ、男はいつでも女の承諾などなしに、自分の欲望を行動に移すものだよ、それが男性的なんだ」 「そして横暴でもあるわ」 「横暴と考えるのはよくないよ、牽引力なんだ。強引なようだけど、そのくらいでなければ、物事はどんどん前進して行かないし、解決していかないんだから。求愛もそうだと思う」 肇の考え方は、自分の父と同じだと柳子は思う。父も妻や娘に一言も相談などしないで、黙ってついてこいというようなところがある。これが男の一般的な考え方だとすれば、肇の行動を特殊なこととして責めるわけにもいかないのだと思う。 「あのう、肇さんは、わたしにこんなことするためにここに連れてきたんですか、話し合うためじゃなかったんですか」 柳子が、角張った調子に言う。 「そのつもりだったけど、急に俺の気持ちが爆発してしまったんだ、驚かして悪かったけど、俺の気持ちに偽りはないよ。俺、きみと結婚したいんだ」 肇も、柳子の堅さに似合う言い方をしたから、柳子はそれをごまかしだとは考えなかった。 「すごく一方的なのね、わたしの気持ちを確かめないで、ご自分が結婚したいから、もうそう決めてしまっているから、キスしてもいいなぞと考えるなんて」 柳子の抗議する声が、心なしか弱くなっていた。 「だからいま言ったじゃないか、考えてしたことじゃないって、感情を抑えられなくなってしたんだって」 「恐いわ、そんな肇さんは。いつも感情の赴くままに行動する人って」 柳子は自分自身がそうだから、肇の直情径行も視えて、それをいっそう懼れた。 懼れながら、一誠は決してこんな行動には出ないだろう、自制心が勁い人だから、と思う。しかし一誠のように熟慮する人をじれったいと思っているもう一人の自分が背中にくっついて、いまその対比が炙り出されたように視えてきた。そしてどちらに軍配を上げるのか、自分自身のことなのに、即決できなかった。それが気持ちを苛々させた。 一誠には人間的な尊敬は覚えるのだけれど、人間臭さは覚えない。それが頼りなさとは考えないのだけれど、歯がゆさでもあった。 肇の積極的な行動を男らしいと思いながらも、こちらの存在を無視した粗暴な行動には、思わず腹を立ててしまう。 どちらが好きだというような、男性を選ぶ気持ちはなかったのだけれど、凭れ掛かって行けるような信頼感を覚えるのは鈴木一誠のほうだと思うし、感情の激しさでは佐藤肇のほうが男らしい感じを受けるし、という程度の接し方だったから、強引にキスされると腹は立てるけれど、嫌悪を覚えるようなことはなかった。そうかといって、キスされたから肇に傾いてゆくというような気持ちにもならなかった。 まだそんな決定的な段階に自分自身がなっていなかったから、驚いたのだ。驚きから抵抗したのだが、肇の気持ちが、ただ性欲に煽られた衝動的なものではなく、結婚したいと言う真剣な行動だとわかったから、悪い気持ちはなかった。 柳子は、じいんと痺れるような感覚を唇に感じながら、川田鷹彦がしたキスとはぜんぜん違う感覚なのを想い出していた。 鷹彦がしたキスは、女神に対する敬愛の表現だと言ったから、軟らかい羽で刷いたようにかすかな感触として残ったのだが、肇のキスは神に対するものではなく、人間同士のキスだから、こんなに生々しく感じるのだろうか、人間の、というより、なんだか動物的な感じがする、と柳子は思ったから、唾を吐いたのだけれど、唾を吐く行為はいけなかったかもしれない、と反省していた。 そして明らかに、肇のキスは、動物的なセックスに繋がるものに違いないと思うから、キスを許せばペニスをバギナに入れることまで許さなければならなくなるのではないだろうかと思うと、ぞっと身の毛がよだつおぞましさが全身を駆け抜けた。 スイス人耕地で、じっくり、丹念に、始まりからずうっと終わるまで観た馬の交尾の場面が、急に立ち上がってきて。 その一線を超えてしまうと、佐藤肇の胤を体内に飢えつけられ妊娠し、いやでも肉体的に妻になって、一生、男に従属した生活をしなければならなくなるのだから、と生物学的な結果に人間的な社会構造をくっつけて考えてしまう。 両親や小森の夫婦関係を見てきて、しないで済むものなら結婚などしたくないと考えたし、もしも、どうしても女が結婚しなくてはならない通過儀礼だとしても、新聞記者になりたいと少女のときから思ってきた勁い欲望を一度満足させてからでないと、希望を叶えられなかった不満が、頭にこびりついていて一生苦しむだろうと思うから、どうしても結婚のことは後回しに考えてしまうのだった。 「きみ、鈴木と結婚の約束したわけじゃないだろ」 「そんなこと、わたし誰とも結婚なぞしないんですから。いま考えていることは都会に出て新聞記者になることだけです」 「新聞記者になるというのは、ただの気持ちだけじゃなかったのか」 「そうじゃないわ、まだブラジルに来て間がないから、日本人社会の情勢もわからないし、おいおいわかってくるにつれて、そんなチャンスもあるんじゃないかと様子を窺がってるって段階だもの」 「本気だったのか、女がそんなこと考える必要ないだろ。女は結婚して男の子を産んで、立派にお国の為になる人間に育てさえすれば十分だと思うよ。行動力に富んだ俺と、聡明なきみとの間に産まれた子が優秀な人間になることは間違いないから」 「まあ、すごく傲慢不遜な言い方するわねえ」 呆れながらも柳子は、生物学的にはそうかもしれないなあ、と惟った。そう惟ったことが観念的ではなく、学術的だから傲慢不遜なことだとは思わなかった。 「自信だよ自信、人間自信を持って生きなければ」 「そういうところは佐藤さんのいいところだと思うけど」 「だろう、だから俺と結婚してくれないか」 「結婚のことはまだ考えたくないの、それを考えないで付き合って欲しいんです」 「むつかしいなあ、きみと近しく交際していてそれを考えないというのは」 「じゃあわたし、もう青年会に行くのを止めます」 「おっ、すごい決断。それだから俺はきみに惚れてしまうんだよ」 「ほんとです、佐藤さんが結婚を抜きにして付き合ってくれないんでしたら、わたしもう青年会に行かないだけじゃなく、二度と佐藤さんとはお会いしませんから」 「ううん、そう言われたら辛いなあ、じゃあしばらく結婚はお預けにしておくから、付き合って欲しい」 「結婚のことを抜きにして付き合ってくれるんでしたら、わたしも佐藤さんのように男らしい性格の人を好きですから」 「鈴木よりもか」 「ふたりを比べてみたことなどありませんから、どちらのほうが好きだなんて言えません」 「言ってくれよ、俺のほうが好きだって」 「無理です、そんなこと、考えたこともないのに」 「だから考えてくれよ」 「すぐには無理です」 「すぐでなくてもいいから、返事をして欲しい。じつは今日それを知りたかったんだ」 「それを話し合いたいと思っていて、話し合う前にキスしてしまったということですか」 「そう、論より証拠っていうだろう。きみは物分かりが良くて助かるよ」 「でも、その返事するのに、いつという期限つけないでください」 「期限はつけないけど、一日も早く」 「せっかちですねえ、佐藤さんは」 「もう佐藤さん佐藤さんと呼ばないで、肇と言ってくれよ」 佐藤肇がそう指摘したから、会話のなかで 佐藤といったり肇と言ったりしている自分に気づいて、柳子はみずからの心の揺らぎを知る。 「わたし、ほんとうのこと言って、鈴木さんと佐藤さんのどちらも好きなんです、お二人は比べられないほど異質な男性ですから、それぞれの特徴に魅力を覚えます」 「と言っても、二人で一人前というわけじゃないだろうな」 「そんな失礼なこと思っていませんわ」 「結婚も二人とするわけにもいかないし」 「だから、どちらとも結婚しなければいいんじゃないですか」 「うまく逃げ道見つけたなあ」 「逃げるなんて、そんな卑怯なことはしません」 「俺と鈴木に関係なくても、ぜんぜん質の違うものを同時に好きになるってことあるのかなあ」 「正確に言うと、違うものを好きになるんじゃなくて、互いが持っていないものを好きになるってことだと思うんですけど」 「なるほどそういうふうに言われると、追求できなくなるなあ、きみのかしこいのには対抗できないよ。だからよけい俺はきみを嫁さんにしたいんだ」 「また振り出しに戻るんですか」 「あはははあ、戻らない、俺は鈴木のようにねちねちしていないからね、きみのように、はっきり、あっさり、待てといわれたら待つさ」 「男はそうでなくてはいけません」 「一本あり」 「肇さんは一誠さんをねちねちしてるって言われますけど、深慮熟考型っていうんでしょ。肇さんのほうは」 「短慮軽考って言いたいんだろう」 「そんな熟語あったかしら、直情径行型って言うんじゃないかしら。一誠さんは大砲みたいにどうんどうんって重い言葉を的確に出すし、肇さんは機関銃みたいに無差別に薙ぎ倒す早口だし、あの人は絶対に不可能なキリスト教の真理と無抵抗の平和主義者だし、あなたは明らかに帝国主義的だし」 「その通りだ、よく観察しているよ。しかし、まったく反対の方向へ行こうとしている二人を好きだというのは、内藤柳子の大きな矛盾だと思うなあ」 「でも、誰でも矛盾を抱えて苦しむのが人間じゃないかしら」 「そう言えばそうだよなあ」 佐藤肇はなにを感じたのか、口を噤んで、遠い空に視線を移した。 小さくちぎれた雲の断片が、先を争うように走っているのが、彼の心を乱した。 柳子は、これまでは好き嫌いのはっきりした性格だと自覚していたのに、まったく異質な二人の男性に対して、同時に好感を持つというのは、確かに矛盾だなあ、と思った。 口は重宝だからどうにでも言い抜けられるけれど、自分自身を誤魔化すことはできない。こんな矛盾を抱え込むことによって、将来大いに悩むことになるかもしれないと思ったが、異質な二人の男性に同時に心を惹かれているのも事実だったから、いまは矛盾を矛盾のままにして、ときが解決してくれるのを待つしかないと、みずからを納得させる。 「たとえばですねえ、世界は平和なのがいいのに決まっていますよねえ。誰でもそう思うって惟うんですけど、なかには戦争の好きな人も居るのかなあ。まあ、いちおう、それはそれとしてですね、止むを得ず戦争が始まってしまった場合は、勝たなければならないことはとうぜんですよね。負ければ外国の支配を受けなければならなくなるでしょ。わたしは、帝国主義は好きじゃないですけど、アジアでも世界でも共存共栄するなかで、優秀な日本民族が盟主になるのはとうぜんだ、と自分が日本人だったら誰もが考えることですものねえ」 柳子は、なぜこんなことを言わなければな らないのか、自分自身でわからないのに、そしてほんとうにはわかっていない事柄を、わかっているような顔をしてしゃべっていることに、面映ゆさも覚えながら、他人から屁理屈だと言われるようなことでも、共通の話題を話し合える相手がいるということで安心ができる。 「いま言ったことなら、鈴木より俺のほうに近い考え方だから、俺はうれしいなあ」 肇がそう言うのを聴いて、わたしは意識していなかったけれど、やはりこの場を繕うようなことを口にしているんだなあ、と柳子は思って、なんだか自分のいい加減さに嫌気する。 佐藤肇は、柳子の言うことを当然だと思う。彼女のような、お花やお茶の作法を習うより、剣道や柔道のほうが好きだという勇ましい女性が、軟弱な平和主義者を好むはずはないのだ。鈴木は学者みたいに持っているいろんな知識を披瀝して、柳子の関心を惹いているようだけれど、男らしさに欠けるところがあるから、その点では安心していていいだろう。きっと柳子は結果的に、鈴木よりも俺のほうを選ぶようになるだろう、と独善的に結論づけると心が霽れる。 「うれしいことには違いないです、こんな男っぽい女性として魅力のないわたしが、ぜんぜん性質の違うふたりの男性から同時に好かれるなんて、思ってもいませんでしたから」 「その二人を、そのうち一人に絞ってもらえると、俺は大いに喜ぶことになるんだけど」 「それはあまり期待しないでください、結婚をする気にはなりませんから」 若い女にはよくそんなことを言うものがいるけど、いつのまにか腹を孕ませてしまうんだから、と肇は年寄りの言うことを都合よく引き出してきて、柳子が結婚しないと言う言葉だけ耳の入り口で切り捨ててしまう。 ざわざわと竹の葉群が騒いだ。 与えたトウモロコシを食べ終わって、その辺りの若い草を退屈そうに毟っていたミモザが、ふたりの様子を盗み見るように大きな目玉をぎょろっと動かせた。 ミモザの動いた目玉とちょうど視線が交わった佐藤肇は、自分の疚しい心のなかを透かし見られたような気がした。 「きみが結婚する気になるまで待ってるから」 「そんなこと無理です、気が遠くなるほどの時間がかかりますもの」 「時間がかかっても、時間があるということは、そこに到達するひとつの区切りがあるということだから、待っているよ」 「長い時間を待ってもらうのお気の毒ですから、ほかの女の人探してください」 「ほかにきみのような女性が居るはずないもの、そっちのほうが無理な話だよ」 「でも、そうしたら肇さんまで一生独身で終わってしまいますわよ」 「いいさ、ずっと独身だった爺さん婆さんが茶飲み友達でいる風景も乙なものだよ」 「へえ、肇さん、ずいぶん年寄り臭いこと言うんですね、熱血溢れて持て余しておられるって聴いてるんですけど」 「どういう意味い」 肇は顔を赤らめる。柳子の言ったことを直ちに性欲に繋げたから。そして、とたんに勃起してしまったペニスが、硬い作業ズボンのなかで膨張する空間を求めて苦しむ。 「男の人って、そういつまでも独りでおれないんじゃないですか」 こんなことを顔も赤らめずに平気で言う娘がいたことに、肇は意表を突かれた。 「きみ、処女だろ」 「まあ、失礼ね」 肇はうっかり言ってしまった言葉を慌てて取り戻そうとしたが間にあわず、柳子を怒らせてしまって、うろたえる。 「いや、そういう意味ではなくて、その男女の性について理解があるみたいだから」 「ありますわよ、いろいろ学問的に学習もし、観察してもいますから」 「はあ、なるほど」 肇は、柳子が澄ました顔で言うのを、珍しいものをみるような顔で観る。ちょっと普通の娘ではないとはわかっていたが、性に関す ることを口にしながら、少しも恥ずかしそうにしないで、学問的に観察しているなどと言う娘だとまでは惟っていなかったのだ。 少年のような姿をしているし、女性的な膨らみはないし、こういう女性は性的に不感症なんだろうか、と思ってしまう。 肇は何人かの女性を経験していたが、まだ処女としたことはなかったから、処女がいったん男を知ると躰だけではなく、考え方まで変わるのではないだろうかと思う。そう思うと、柳子の躰を変え、考え方を変えさせるために、まだ未熟で硬そうな躰を割って、男の精を注入したい欲望を抑えられなくなる。 肇は、やにわに、両足を伸ばして座っている柳子の上に被さっていって、押し倒し、抱きしめる。 柳子は両腕を突っ張って、 「止めてえ、乱暴だわ」 と抗議する。 「乱暴じゃないよ、これが男の情熱だよ」 肇はその情熱で煮え滾っている体内から噴出してくるような熱い息を、柳子の顔に吹っかけて言う。 「こちらの承諾も得ないでそんなことするのは、強姦という犯罪行為になるのよ」 「男が女を獲得するのに、いちいち女の承諾など必要としないんだ。はじめは暴行のようでも、それが事後承諾で責任をとれば、激しい愛の行為として世間は認めてくれるんだ」 「じゃあ、肇さんは、野蛮人だわ、略奪結婚なんて野蛮人のすることよ」 「方法などどうでもいい、俺はきみを欲しいんだ」 「いやっ、そんな暴力はわたし認めない。そんなことするんだったら、今日限りあなたとは絶交するから」 「女は男から征服されて従うものだよ」 「わたしは従わないわ」 「夫婦になってしまえば従うさ」 「従わない」 「従うようになるよ」 「ならない」 柳子だったら従わないかもしれない、と肇は思いながら、従わせるためにはやはり無理矢理ものにしてしまわなければならないと考えて、柳子の唇を塞ぎにゆく。 唇に唇を押し重ねて、舌を差しいれてゆくと、柳子がその舌を歯で噛んだから、ぎゃっと悲鳴を上げて、肇は柳子の上から転げ落ちる。 そして、ぺっぺっと唾を吐くと、血が飛び散った。 「ごめん、切れたあ」 柳子は、肇が手で抑えている口を覗き込む。 肇は痛みを堪えているのだろう、眼に涙を湛えて、じっと口を抑えたままだった。 「噛むつもりはなかったのよ、でも肇さんが乱暴するから、歯が本能的に防禦したんだわ」 「ぐふぐふ」 と肇が口のなかにこもった声を出す。笑ったようでもあったし、文句を言ったようでもあった。 「まだ血が出てるの」 柳子は心配になってくる。 「でも、歯で噛んだだけでよかったのよ、本能的に手が腰の拳銃抜いていたらたいへんだったわ」 つづいて柳子がそう言ったとき、肇はあっと後ずさって、身構えていた。 「脅かすなよ、ほんとうに俺を撃ち殺す気だったのか」 「あら、肇さんしゃべれるじゃないの、舌を噛み切ったのかと思って心配したじゃないの」 柳子が拳で肇の胸を打ったから、その仕草を女のやさしさに受け取って、肇は安心する。 「噛み切られたよ、その辺に俺の舌の先吐き出してないか探してくれよ」 肇は、冗談を言って、ちょっと険悪になっ たふたりのあいだを修復する。 「いやだあ、ばかねえ」 柳子も、肇の気持ちを素直に受け取った。 「俺、舌を噛まれて、きみをもっと好きになったよ」 「いくら好きになっても、無理にそんなことするのは許さないわ、わたし命懸けで抵抗するから」 「恐いなあ、その気の勁いところが好きなんだけど」 「それは認めてあげるわ、なにがなんでも自分のものにしたいって考えるほど、わたしを好いてくれてることだけは。でも、わたしに対して事後承諾はぜったい通用しないのよ、事前承認でなくちゃあだめ」 「そうしなければ、きみを鈴木に盗られると思ったからだよ」 「ばかねえ、そんなこと考えてたの」 「ばかでもなんでも、鈴木にきみを奪われるのは我慢できないから」 「そんなことぜったい起こらないわ、鈴木さんにも許さないもの」 「ほんとか」 「ほんとよ。わたしは誰にも許さないんだもの」 「約束してくれるか」 「約束するわ」 「じゃあ安心して、きみが俺と結婚する気になるのを待っていていいんだな」 「それはだめよ、結婚なぞしないって言ってるじゃないの」 「ほかのものともしないんだったら、俺はいつまででも待っているさ」 「独身のままで一生畢っても」 「ああ、構わないさ」 「じゃあそうしなさいよ、わたしも一生独身でいるんだから」 「じゃあ、握手だ」 柳子が素直に出した手を、肇は強い力で握る。 「さすがにいつも竹刀を握ってるだけあるわねえ、すごい握力だわ」 「きみは百姓してるわりには、軟らかい手をしてるんだなあ」 「そんなにいつまでも握っていて、また変な気を起こさないでね」 「はははあ、もうだいじょうぶだよ、きみに舌を噛まれて、しゅんとなってしまったから」 「よかった、わたしと話すときはいつもいまの痛さを忘れないでいたら乱暴する気も起こらないでしょうから」 「きみにかかったら猪突猛進の俺も形無しだ」 「肇さんはほんとにせっかちなんだから」 「怒っていないか、また逢ってくれるか」 「逢ってあげる」 なんだかすごく馴れ馴れしいことばが、つぎつぎ出てくるのが、自分ながらおかしかった。こちらはキスしたつもりはなくても、二度もキスされたことが、ふたりのあいだの他人行儀な垣根を取り除いてしまったのかもしれない、と思った。 肇もそれを感じていたのだろう、理屈っぽい柳子でも、何度もキスしているうちに親しさが増してきたから、いつか、できるチャンスをつくって、してしまえば、ぜったい俺のものになるという確信を得た。 「でも肇さん、わたしは肇さんの恋人でもないし、とうぜん肇さんの独占物でもないのだから、鈴木さんとの友情にも口を挟まないでよね」 「ああ」 佐藤肇は決して承諾できないことだけれど、仕方がないという不承不承な声を、喉の奥で鳴らした。 そんなところが子どもみたい、と思った柳子は、肇に対するよそよそしかった好感を、わざわざ兄さんになってくださいと言わなくても、肉親に近い馴れ馴れしさにできると思った。 鈴木一誠には、兄さんになって欲しいと頼んで、向こうも喜んだのだけれど、肇とのあいだに生まれたこんな親しさは持てなくて、いつまでも年上の人に対する礼儀は崩せないでいた。 佐藤肇の率直で短絡的な突撃精神には、ちょっと辟易するところもあるけれど、鈴木一誠の慎重すぎて優柔不断ともとれる態度にはじれったさを感じる柳子だったのだ。 祖国日本の、と大上段に構えなくても、キリスト教的に不可能な観念論にすぎない平和主義よりは、日本の勢力を世界に広げてゆくという八紘一宇の精神のほうが、みずからの性格にもっとも適した考え方だと受け止めているのは、スイス人耕地で鷹彦の話を聴きながら、すでに思ったことだったから、鷹彦に似た一誠よりも、はじめて接する勇猛果敢な性格と考え方を持つ肇のほうが、柳子にとっては新鮮でもあり、納得しやすかった。 「ねえ、肇さん、こんどの日曜日、青年会にゆくまえに、わたしの家に来ないぃ」 「青年会にいっしょに行くためにか」 「ちがう、うんと早く来て、わたしと射撃練習しないぃ。射撃練習に適した場所があるの」 「おっ、すごい、やろうやろう」 肇の眸がきらっと光るのがわかった。考えてではなく、ひょっと思いついて言ったことだったが、柳子は後悔しなかった。 「肇さん、拳銃持ってるぅ」 「ああ、親父のがあるよ、軍事訓練に使うんだといえば、親父よろこぶよ。きみといっしょにと言えば文句なしだ」 肇は、父が柳子に接した接し方から、太鼓判を押せた。 「肇さんのお父さん、わたしのこと気に入ってくれたかしら」 「ばっちり」 「そうぉ、よかった。じゃあ、待ってる」 言うなり柳子は、勢いよく跳ね起き、男のような歩き方をして、ミモザの手綱を取ると、すばやく鐙に足をかけ、さっと跳躍して馬の背に飛び乗っていた。 肇が、柳子の姿を惚れ惚れした眼で見あげて、トウモロコシの入った籠を柳子の鞍の前に押し上げる。 「ありがとう、ミモザもきっと肇さんを好きになると思う」 「ああ、今日は俺にとって最高の日だったよ」 「わたしも気持ちが霽れたわ、肇さんと率直に話し合えて」 「うん」 柳子の笑顔を、すごくいい、と思って見あげている肇の眼に、手綱を引かれて首を回したミモザの大きな目玉が笑っているように映った。 柳子が振り返ると、手を挙げた肇の姿が、頼もしい青年に視えて、暴力を振るう相手だけれど、彼が言うように、それは激しい愛の表現だったのだから、と納得してあげようと惟う。 ミモザの鬣を撫でるようにやさしい風が、気持ちよかった。 地上に近いところを流れているやさしい風と違って、高い空を吹き抜けている風は、まだ雲を千切って追い立てていたけれど、それがかえって勇ましそうに思えた。 雲の影が、トウモロコシ畑の上をうねって行く。 コーヒー畑とか野菜畑とか、遠い風景も翳ったり照ったりして、息づいているようだった。 そんな速い雲を観ているせいではないだろうけれど、内藤柳子の心のなかで、二律背反する思いが翳ったり照ったりした。 |
「花の碑」 第十三巻 第六六章 了 |
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