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「花の碑」 第十三巻
第六四章
桑の苗木を運んできた龍一が、
「ほら柳子、見てみろ」
と言って差し出した一本の苗木は、盆栽のように根が太くて、小さな葉を愛想よくつけていた。そして細い幹の薄皮を押し広げて頭を出している芽があった。
それを柳子に見せようとする龍一の眼のほうが耀いていて、まるで悪戯の好きな子どもみたい、と柳子がおかしがるほど、うれしそうだった。
「これはな、柳子、信濃でも名の知られた一の瀬という種類の苗木なんだぞ。成長が早くて病原菌にもつよい、葉の大きな桑の樹になるんだ」
 それがブラジルにまで輸入され、それを接木や挿木や撞木取法で栽植して、増産していたことをよろこび、誇らしげだった。
すこし緑がかった芽は、白い膿を孕んだ吹き出物のようにも視えた。それが苗木の膚にぷつんぷつんと脹らんできているのが、しっかり生きている証を示していた。
父を子どもみたいとおかしがった柳子も、
「うわっ、可愛い芽」
と思わず薄い桜色の唇を、ぽっと開いたままにした。
柳子の、苗木の芽とあまり変わらないほどにしか脹らんでいない小さな乳房が、乳房の付け根のあたりに春の気配を感じるのか、乳首の裏側で蠢くむず痒さを覚えた。
「柳子、この芽を残して、この太い根を削ぎ落としてくれ。いますぐ仮植えするからな」
「どうして根を切るの」
「根を切るんじゃない。刃物を当てて発育を促進するんだ」
龍一から要領を教わって、ペローバという堅い木質の木の切り株を台にして、日本から持ってきていた薄刃の鋭利な小刀で、根を薄く削ぐ。
その切れ味がいいものだから、すぱっ、すぱっ、と苗木を截るのは気持ちがよさそうなのだが、
「柳ちゃ、指を切らんように気をつけるんだに」
とチヨが気を揉むほどの、浮ついた調子に視えた。
そこに隣のアントニオがきて、
「なに遊んでるんだ、仕事をしないのか」
と言う。
「してるじゃないの、見えないの、ウルソ(熊)さんはまだ冬眠中なのね」
柳子がからかって言うのが、ぴったりするほどアントニオが眠そうな顔をして、小柄な柳子の傍にうっそりと蹲る恰好が、学校でウルソと渾名されているとみずから言った通り、黒い巨体が熊のように視えた。
コーヒー樹を伐り倒し、根を起こしたあとを整地して、施肥を済まして、桑の苗木を挿すように準備していたジョゼーが、アントニオの背に、ぬるっとした感情を眸の奥から出してきて、陰湿な視線を突き立てる。
柳子とアントニオは、そんなジョゼーの視線には気づかないで、いっそう親しげに話し合う。
「わたしのことを遊んでるって言うアントニオこそ、学校のほう、どうしたのよ」
「なあに、学校なんぞというものは、そんなに根を詰めて通うところじゃないよ、適当に息抜きしながら行けばいいんだ」
そう言って笑う顔が、いままで気づかなかった童顔に見えて、柳子に、彼が同世代の友人なのだと再認識させた。
「アントニオは、ほんとうは勉強好きじゃないんでしょ、弁護士なんぞにならないで、牧場で牛のお尻を追っているほうがいいんじゃないのぉ」
柳子がからかうのを、うれしそうに受けて、
「そうさ、弁護士なんぞもともといい加減な職業なんだから、どん尻で学校出たからってどういうこともないしさ」
とのんきに言う。
アントニオがのんきにして居れるのは、ブラジルでは大学さえ卒業すれば、学業成績の優劣は問われずに、すんなりそのまま弁護士資格を得られて、世間でも特別扱いされるいい身分になれるからだった。
しかし柳子から観ると、熊のようにのっそりした感じのアントニオと弁護士という職業とが、非常にアンバランスに見えて、これが大陸的というものなのだろうと割り引いて納得しようとしても、納得できないものを考えてしまう。
柳子の先入観念としてあるものが、弁護士といえば偉い人という知識的にレベルの高い人種だと思っていたし、知性的と惟う容姿はすらっとして恰好よくなければならなかったからだった。
アントニオがいくら勉強しても、柳子が敬して遠ざからなければならないような人物になるとは、到底考えられなかったからかもしれなかった。そう考えるのは、アントニオがそんな遠い存在になってしまうのを好まない潜在的欲求があったからかもしれない。
第一印象が親しみの持てるものだったし、頼り甲斐のある隣人としていつまでも自分の身辺にいて欲しいと思わせるものを感じていたからかもしれない。
そう思うようになったのは、アントニオがうんと庶民的な感覚で、彼がなにを衒うこともなく、まず繁茂しすぎて龍一や柳子の手におえなかった雑草を取り除くのを、馬に鞭を当て、牛の尻に細竹を当てて手伝ってくれたことを手始めにして、乗馬を実地に教えてくれたり、手取り足取りして射撃練習を指導してくれたり、まったく隣人の垣根も構えず、人種的偏見を感じさせもせず、打ち解けてきてくれたことから、鷹彦や一誠に意識して「兄さんになってください」と言ったよそよそしさがなく、何も言わないうちに肉親の兄妹のような気安さを覚えはじめていたからに違いなかった。それは互いがざっくばらんな性格からだろうけれど。
柳子が、アントニオのシャツを的にして孔を開けてしまったものを、洗って、穴をかがり縫いして、鏝を当て、ちゃんと畳んで、
「柳ちゃ、早く返してやらにゃあ」
とチヨが気遣ったのに、
「あらら、お母ちゃ、せっかく開けた孔を塞いでしまってぇ」
 と文句たらたら言った柳子は、そのシャツをアントニオに返さなかった。
柳子が、彼女の部屋の洋服箪笥に仕舞い込んでしまったアントニオのシャツに、チヨはいつまでも気を揉んでいたのに、まるでずっとむかしからの友人のようにして、近々と座り込み、なんだかふざけているようなふうに視えたから、チヨは心配でならなかった。
チヨは仮植えの苗木を挿し込みながら、時折柳子が切り揃えた苗木を取りに、二人が話し合っている傍まで来るのだが、二人が何を話しているのかはまったくわからなかったから、かえって気持ちが苛立った。
ブラジルに来てまだ一年とすこししか経っていないのに、そんなに打ち込んだ話ができ
るとも思えない柳子が、いかにもなんでも解るような話し方をしているのが、いっそう不安だった。いい加減な返事などして、あとで取り返しのつかないことにならなければいいがと思って。
チヨが心配する通り、柳子に、アントニオの言うことのすべてが理解できていたわけではなかった。
まだ少ない単語を総動員して、必死に受け答えしているのだが、それでもわからないところは勘でわかったような顔をして、適当に相槌を打っていたのだ。
それはアントニオのほうにも言えることで、柳子の下手なポルトガル語と、単語の間違っているところや、発音のおかしなところを訂正したり教えたりするのではなく、自分勝手に解釈して、わかったような顔をしていた。
そういう適当に理解して納得し合うことが、のちのち誤解を招くことになることにまで、若いふたりは思い及ばなかったばかりか、なんとか会話のできることをおもしろがっていたのだ。
「その桑の苗木を截るのを手伝うよ」
弁護士の卵は、学校の勉強よりは柳子の傍にいて駄弁っているほうが好きだった。
柳子も、アントニオが大学生だとか、将来弁護士様だという思い上がりがなく、赤ん坊の時にはじかに牛の乳房にぶら下がって乳を吸ったんだぜ、という野性的な庶民性を大いにおもしろがって、遠慮をする必要のない相手だと思ってしまったからだっただろう。
「知ってるのぉ、截るのじゃないわよ。こういう芽を残して根の太いところを削ぐのよ」
父から教わったことを、柳子は、いかにも熟練者のような顔をして、アントニオに教える。馬のことやピストルのことで、先方に優位を譲ってきているから、この際を利用して、柳子は大いに立場の逆転を図りたいと惟ったのだ。
「リューコは目分量で、いい加減に截ってるじゃないか」
「いい加減じゃないわよ、ほれ、これを見てごらんよ」
台木の横に置いてあった、截り揃えた桑の苗木を、アントニオの目の前に突きつけて見せる。
「ふうん、無造作に截ってるように視えたけど、リューコの目分量は確かなものなんだなあ」
「そりゃ熟練者だもの」
「リューコは日本でこんなことしてたのか」
「してたのはパイとマイだけど」
「パイとマイがしていて、リューコが熟練者というのはおかしいじゃないか」
門前の小僧、習わぬ経を読むって、小森のおじさんが言ってたけど、それをポルトガル語に訳していうのはわからないから、せっかくおもしろい言葉を思い出したのにと、柳子は口惜しい思いをする。
それと同時に、ブラジルに来てすぐ、言葉がわからなかったばかりに、ひと騒動を起こした剽軽な小森茂もいっしょに想い出して、懐かしがる。
「見様見真似ってどう言うんだったかなあ」
柳子が日本語で独り言を言う。
「何言ってるんだ、隠し事はいかんぞ」
アントニオが聴き咎めて、詰問する。
「隠し事じゃないわよ、顕わしたいのに現われないのよ」
「なにが」
「ことばよ」
「ううん、それは俺にもどうしようもないなあ、リューコが何を言いたいのかわからんものなあ」
「ううんと、ええと」
「がんばれ、リューコ」
「うるさいわねえ、ちょっと黙っててよ。ううんと」
「オオリャ、オオリャ」
 アントニオが、おもしろがって囃し立てる。
「ああそれよ、オリャンド・アプレンデンド(見ていて覚えたの)よ、そう、それ。仕事はパイとマイがして、わたしはオリャンド・アプレンデンドしたのよ」
「ああ、そうか、オリャンド・アプレンデンドしたのか、じゃあ俺もそれをしよう」
アントニオは、ふざけて柳子の下手な発音
の口まねをして、頸を突き出したから、
「頸斬られたいのぉ」
と柳子が小刀を振りあげると、アントニオが、
「ひやあっ」
とすっ頓狂な声を上げて、仰け反る。
そんな様子を、少し離れたところから、苗木を差す穴を掘っているジョゼーが見ていて、白々しい顔をしていた。
アントニオは、ジョゼーの存在などまったく気にならないから、柳子に寄り添うようにしてきて、
「ちょっとリューコ休んでいろよ」
と柳子が持っている小刀に手を出す。
ちょうど腕の筋肉が攣るように痛みはじめていたから、柳子はこれ幸いと、小刀をアントニオに渡す。
 アントニオは、柳子が截っていた要領を見よう見真似で、苗木の根を削ると、日本製の小刀の小気味よい切れ味は、さっぱりした柳子の気性そのままだったから、ますます柳子への思いに馴染んでゆく感じがして、苗木を手入れする音のなかにたゆとうてゆく。
柳子とアントニオが、なんだかだしゃべりながらしたからだろう、桑の苗木の手入れは思っていたより早く済んで、
「リューコ、もう昼じゃないかなあ、俺腹が減ってきたよ」
とアントニオが言い、
「まだ昼にならないわよ。アントニオは食いしん坊なんでしょう」
 と柳子が腕時計を見て言ったところに、チヨがマンジョカの唐揚げとコーヒーを運んできたから、アントニオは、
「リューコのマイは耳がよく聴こえるんだなあ」
と照れくさそうに頭を掻く。
チヨが、ガイジンでも日本人のような仕草をするのか、とおもしろそうに視る。
「マイは耳がよく聴こえるだけじゃないわよ、アントニオがなにを考えているのか、心のなかまで視えるんだから、嘘はつけないわよ」
柳子は、一本釘を刺しておくことを忘れなかった。
「オーッパ、俺はこれに目がないんだ」
アントニオは、柳子の言うことは聴こえなかったことにして、さっそくマンジョカのほうに手を伸ばす。
柳子が、ジョゼーを呼ぶと、おずおずとした様子で来るには来たが、遠慮をしないアントニオが食欲旺盛な感じにマンジョカを口に頬張るのとは対照的に、そっと手を伸ばしてマンジョカを遠慮がちに指に挟んで取り、もぐもぐとおとなしい食べ方をした。
ふたりの男が近くに寄って、はじめて比較できることだったが、肥っているアントニオと、痩せているジョゼーとの体質は見るからに違っていて、痩せていても筋肉の硬く盛り上がっているジョゼーのほうが、太いけれどそれほど硬そうでもないアントニオの腕力よりは、力においては勝っているのではないだろうか、とチヨには思われた。
チヨが比較したのは体格だけではなく、その性質も対照的で、陽気で明るいアントニオに対して、おとなしそうだけれど陰気な暗い性質のジョゼーのほうが、女にとっては危険な存在になるのではないだろうかと、はっきりとは口にできない拘りを持った。それは、須磨子を襲った黒人が普段は無口でおとなしい男だったということを聴いていたからかもしれなかったし、安曇の桑畑で娘を襲ったのも、無口で陰険な男だったなあ、と想い出したからでもあった。
チヨは、人を悪く言うのはいけないと思いながらも、どうしてもガイジンに馴染めないし、日本人とは物の見方考え方も違うガイジンが、心のなかに何を持っているかもわからないと思う不安があったから、みずからの小心さゆえの疑心暗鬼で、くよくよ考えるのはどうしようもなかった。チヨには、黒人や白人が同じヒト科の人間だとはどうしても思えなかったのだ。少しばかり言葉を覚えても、心を通じ合えるはずはないだろうという思い込みのほうが勁かった。
チヨがくよくよ思うようなことを、脳はすばやく処理して、ああ、またこんなことに拘ってしまって、と自己嫌悪したとき、少し離れたところにあるコーヒーカップを取ろうと手を伸ばした柳子の、カップの耳を摘まんだ
指が硬直したまま止まり、カップが地面に落ちて割れるのを、なんだかゆっくりした時間の推移のなかで視た。
柳子は腕に痙攣が走り、指が硬直した苦痛に顔を歪めて、周囲の風景が傾いてゆくような錯覚を覚え、
「ああ、お母ちゃ」
 と呻き声といっしょに訴える。
チヨが、あっ、こぶらがえりだと気づいたとき、
「おっ、カインブラ(こぶらがえり)だ」
とアントニオも、柳子の様子が急変した原因がすぐにわかって叫びながら、すばやく柳子の手を取って揉みはじめる。
アントニオの声が大きかったから、養蚕小屋の傍にいた龍一のところまで届いて、龍一が走ってくる。
柳子の華奢な指が、桑の根を削ぐ不自然な恰好をつづけていたから、手首に負担がかかっていたのだろう。
そんなハプニングを幸いにして、アントニオは、柳子の指先から揉みはじめた自身の太い指を、徐々に二の腕のほうに這わせてゆきながら、眼に滲んでくる卑猥さを隠せなかった。
それを傍から見ていたジョゼーの眼が尖ってきて、つっと腰を浮かせると、黙ったまま柳子の腕を揉んでいるアントニオの手を払い除け、アントニオの行為を否定する意味だろう、頸を横に振って、アントニオに代わって自分が柳子の手首を握り、指を逆に捩じるようにしながら、腕の付け根の筋肉を摘まんで弾くようにする。
「ああ、治ったわ」
すぐに柳子の顔の歪みが正常に戻り、ジョゼーが放した手の指を屈伸させる。
ジョゼーは無表情のまま立ち上がって、畑のほうへ行ってしまう。
アントニオが、嫉妬している眼を、ジョゼーの背に突き刺していた。
柳子や龍一はもちろん、それには気づかなかったが、人の心のなかまで気遣うチヨには、ジョゼーとアントニオが瞬間に交わした火花に気づいていた。
「何をするにもひと騒動起こすんだからなあ、柳子は」
龍一は、たいしたことがなかったのに安心しながら言う。
チヨは、龍一のようには安心しなかった。アントニオとジョゼーのあいだに感情的な縺れが起こってしまったのを、なんとなく感じていて、これからさきで何事もなければいいがと心配しはじめていた。
ひとりの女性をなかにして、反りの合わない男がふたり、反感を顕わにするのは、まだ若かったころに経験しているチヨだったし、それが龍一と良三という兄弟のあいだでのことだったから、ずっと苦しんできたので、ふたりの男が無言のうちに戦わせる感情の荒々しさが、男の性的なものに起因するのだとわかったおぞましさで、苦痛を覚えたのだが、とうとうブラジルに来てしまったことで、チヨ自身の周辺では表面化せず、陰湿な葛藤で終わったから、ほっとしていたのだ。
ほかにも安曇村のなかで、男女関係のもつれから、幾つもの事件が毎年のように持ち上がっていたのだから、外国でもこれだけはどうしようもないことなんだなあ、と感慨深く思うとともに、危惧もした。
もう自分をなかにして、そんなことの起こることはなくなったけれど、こんどは柳子をなかにして男たちの相克がはじまるのだろうなあ、とチヨは心労の絶えないことに疲れを覚える。
鈴木一誠と佐藤肇が、柳子をあいだにして感情を縺れさせているようなのを、チヨは感じていたし、いままたアントニオとジョゼーが反感を生じさせたのを目の当たりにしたからだった。
人間の感情というものは、日本人でもガイジンでも同じなのだと感慨しながら、そういう感情のもつれが、チヨ自身の気持ちをねじれさせるまでに至らなかったのは、養蚕を始めるという心の張りのせいだっただろうか、周囲の明るさのせいだっただろうか。
アントニオとジョゼーの感情の衝突は、すぐ忘れてしまった。そして、想い出す暇も与えられないまま、きらきらと耀く外光と、きらきら跳ね返るような気持ちを盛り上げる養蚕への思いが、チヨを幸せな気分のなかに誘い込んでいったのだ。
「花の碑」 第十三巻 第六四章 了
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