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「花の碑」 第十三巻 第六二章 |
両親が考えているような不安は、お転婆娘の柳子には通じない。 拳銃を買って帰ってすぐ、柳子は、うれしそうな顔をして言ったことが、いっそう龍一とチヨを不安にさせた。 「アドルフさんの息子さんのアントニオが、わたしに拳銃の扱い方を教えてくれるって」 龍一は、隣の半黒人の世話を受けなければならない環境にあっても、できるだけ距離を措いて付き合いたいと考えていたから、柳子が隣の息子とあまり親しくなることを好まなかった。 龍一のそんな危惧をよそにして、柳子とアントニオのあいだが急速に近しくなってきていたのだ。 柳子は、アラサツーバ警察署の署長とアドルフとの会話のなかに、 「息子の嫁にこんな可愛い日本人の娘がいいなあと思ってるんだ」 と言うようなことが出て、ふたりがなんとなく卑猥な感じの笑い方をしたのを耳にし、眼にしていたのに、それを忘れてしまったのか、アントニオが射撃のコツを教えてやるよと言うと、よろこんですぐに応じた。 柳子にとっては、男女問題に気を遣うよりも、いまは拳銃の取り扱い方のほうが、最重要事項だったのだ。 そんな結婚話など聴いていない龍一とチヨのほうが、隣の息子から拳銃の扱い方を教わると聴いて、顔に苦渋を顕わに見せたのは、それが発展して、二人の仲が抜き差しならないものになるのではないかと気遣ったからだった。 つぎの日曜日にさっそくアントニオがやってきた。 居間のソファーに座るとすぐ、 「どれ、リューコのレボルバ見せてみな」 と催促する。 チヨが目礼して、急いで炊事場に入ったのは、コーヒーをつくるためだったが、ふたりが拳銃を手にするところを視たくなかったからでもあった。 龍一は、新聞をひろげて読んでいるように、顔の前に立てていたが、神経を尖らせ、聞き耳を欹てていた。 柳子が、自分の部屋に駆け込んで持ってくると、それを受け取って、 「うん、コルトのモデル・ディテクティブ・エスペッシャルだな、こいつの愛称は、ナリス・デ・レオン(獅子の鼻)と言うんだ。コルト社の人気商品だよ」 と言いながら、拳銃の腹を撫でさする。 その様子で、アントニオがガン・マニアなのが一目瞭然になった。 「アントニオさんのは」 柳子が訊ねると、柳子のレボルバを返して、アントニオが自分の拳銃を抜き取って見せたのだが、その素早い動作が、西部劇のガン・マンを思い出させた。 「俺のは、コルト・オフィシャルポリスって言うんだ。一名スーパー・アミーと言ってね、三八口径では性能がばつぐんにいいんだ。リュウコの手には合わないけど。このチッポ(タイプ)は一九一一年のキャンプ・ペリー全米射撃競技大会で実用レボルバ部門で五〇〇点中四七七点という高得点を記録したんだぜ。それで一躍有名になったレボルバなんだ」 「弾はどういうの」 「弾はリューコのと同じ三八スペッシャルだよ」 「あなたのお父さんのも、そうだって言ってたわ」 「ああ、そうだろう。親父は合理的な男だからね、同じ弾が使えるのを、リューコに選んだんだろ」 ああなるほど、そうだったのか、拳銃を買ったときには、そこまでは考えなかったけど、同じ弾が使えたらいいのに決まっている、と柳子は感心した。 「俺もこのレボルバ使ったら、牧夫たちと射撃競技で、いつもチャンピオンなんだ」 と得意そうに言っても、ことばのわからない龍一とチヨは、苦い表情を隠して、愛想よ くするしかなかった。 アントニオは、そういう人情の機微には鈍感なのか、独善的なのか、柳子の家族全員が自分を歓待してくれていると思って、いっそうぺらぺらしゃべる。 「俺はほかにもコルト・シングル・アクション・アーミーっていうのを持っているんだ。そいつの歴史は古くてね、一八九二年に発表されたもので、西部開拓史に名を刻んだ名銃だよ。四五ロングコルト弾は、そのレボルバのためにつくられた弾丸だからね」 柳子は、アントニオの話を聴きながら、叔父といっしょに観に行った西部劇の活動写真を思い出していた。 隣のアドルフ一家が、内藤一家に対して好意的に接してくれるようになったのは、田澤の口利きがあったからだが、それにも増して、柳子がアドルフとアントニオ親子から気に入られたことが、交誼を深くしたもっともな理由だった。 柳子のはきはきした態度や、物怖じしない率直さや、少年っぽいさわやかさが、人に好感を与えるから、日本人のように疑い深さのない陽気なガイジンたちとのほうが、すぐに親しくなれた。 どちらかというと、陰湿で排他的な日本人社会でのほうが、柳子の性格は、率直なのを、でしゃばりだ、お転婆だ、と見られたり、行動力を軽薄だ、と思われたり、軽蔑と警戒心の目で見られることが多かったのだ。 そういう柳子の陽性な性格を、アドルフもアントニオも気に入って、もう田澤を抜きにしても、並々ならぬ厚意を示し、日常的な細々した心配までしてくれるようになっていた。 あまり親しくなりすぎて、具体的に困ることがあった。まだ血が滴っている牛肉を、新聞紙に包んで、どさっと渡されることだった。牛肉はすき焼きをするとき、少し使う程度で、東京では庶民の食べ物になっている牛丼を食べたこともなかった。 暑いときの多いブラジルに来てから、すき焼きを食べたいと思う嗜好が、舌の上に唾を溢れさせたことは一度もなかったし、とくにアラモに来てからは、新鮮な川魚が手に入るようになっていたから、隣でいつでも好きなだけ牛肉を分けてもらえる環境になっても、その欲求が起こらなかったのだ。 そんなことより、チヨがもっとも心配するのは、柳子に対するガイジンからの欲求だった。 スイス人耕地で、「ジョアキンがペドロの嫁に柳ちゃんば欲しいと言っちょるばってん」などと、熊野が冗談に言ったことを本気にして、身震いしたのを想い出し、アドルフさんもアントニオの嫁に欲しいなぞと言い出すのではないかと、すでに内心恐慌状態になっていたのだ。 「どうしてこの娘は、こんなに黒い人から好かれるんずらねえ。わたしは黒い婿殿なんか気味悪くて。黒い孫なんか欲しくないに」 チヨは、すでにそんなことが決定づけられてでもいるかのような惧れを抱いて、なんども同じことをぶつぶつ言った。 おかしなもので、未知な物事に対する嫌悪感は、動物的なものなのだろう。日本人が黒人を皮膚感覚で拒否反応を示すのと対照的に、黒人のほうも日本人の、のっぺらぼうな顔を感覚的に気味の悪い生き物だと思っていたのだ。 柳子は、チヨが異種への排他性を口にするたびに、柳眉を逆立て、 「お母ちゃ、いい加減にしてよ。ばかばかしいこと考えて。スイス人耕地のジョアキンさんやペドロは文盲でも紳士的だったわよ。隣のアドルフさんやアントニオは学問もあって、もっと紳士なのよ。須磨子さんを襲った黒人と同じ扱いするのは失礼だわ」 と食って掛かる。 「そいでも、ジョアキンさんが柳ちゃをペドロさんの嫁に欲しいって言ったんずらに」 「熊野の嫌がらせよ、あれは」 「アドルフさんも、そんなこと言い出したら 困るに」 「お母ちゃの取り越し苦労もたいへんなものだわ。男女の交際をすぐ結婚の前提だと考えるのがどうかしてるわよ。すぐにセックスして子を産むことしか考えないお母ちゃのほうがよほど動物的で低級だわ。わたしはね、黒い人どころか日本人とだって結婚しないんだから、黒い子も白い子も黄色い子も斑の子も産まないんだから、安心しててよ。いくらお転婆でも躰の安売りはしませんからね」 柳子が息もつかずに一気に言う。 チヨの心配がそれでなくなったかというと、そんなことはなかった。 「田澤さんも面倒見がいいけど、アドルフさんもすごく親切なのよ。隣人との厚誼を深めるのは、日常生活における最大の便宜じゃないの。大いに活用すべきよ」 柳子が実利的に言って、大胆に黒い人と親しくなってゆくのを、おろおろしながら観ているしかないチヨだった。 しかし、いくら人種差別はいけないことだとわかっていても、チヨにはそれが理屈ではなく、感覚的な拒否反応として起こり、肌が総毛立つのだから、どうしようもなかった。 そんなチヨでも、遠い親戚よりも近くの他人ということは十分心得ているから、柳子の積極的な行動を止めさせるわけにはいかなかった。 「柳ちゃ、遠くへ行かんようにせんと」 射撃練習が、この辺りでできないことにも気づかず、チヨはそう言って心配する。 「牧場でやると牛を脅かすし、畑でやって流れ弾が人を傷付けてもいけないからな、雑木林のなかに行こう」 アントニオが言うほうが正当なのだから、雑木林のなかということばに少なからず抵抗を感じても、そうするしかしようがないだろう、と柳子は思う。 雑木林は、日常的にはものを煮炊きするための薪を提供してくれるので、なくてはならないものだったが、そして平和に考えると男女が密会するのには格好の場所なのだが、ときには荒々しい男性の欲望が爆発して女性に襲いかかり、女性の人格を破壊する場所でもあったから、どこかに他人の目があるという環境から外れて、男性が暴力を奮い易い条件を、女性自身が構成してはならないのだ。 殊に痩せて小柄な柳子が、優れた体躯の若い男性の誘うがままに、危険地帯に従いてゆく軽挙妄動は慎むべきなのだけれど。 しかし、と柳子は思う。アントニオの親父さんから受けている絶大なる親切と、深甚なる愛情に対して、彼の息子を、突然暴漢に変身するかもしれないなどいう失礼な想像をするだけでも、恩を仇で返すという人倫に悖ることになるのではないのか。こちらが相手を紳士として対処すれば、相手も紳士的にならざるを得ないのではないのか。 そういう反省もあったのだが、それ以上に柳子を唆す要因は、腰の拳銃を伊達にしたくはないと思う気持ちだった。どうせ危険なものを扱うのだから、みずからも危険を冒して、その危険なものを早く使いこなせるようになり、危険なものによって危険な状況から我が身を護れるようにならなければならないのではないのか、と結論づける。 そうだとしても、簡単に向こうの言うがままになっては、彼を増長させ、こちらを甘く見て舐めてかかるかもしれないから、ここははっきり釘を刺しておかなくてはならないだろうと考える。 「アントニオ、オセ、アンノルマル(あなた、非常識)なことはしないでよ」 柳子は思ったことを率直に、誰に向かっても物怖じしないで言うから、相手もそのさわやかさに応じて、濁りをまじえずに応えられる。 「なんだ、そのアンノルマルって、俺にはリューコの言う意味がわからんよ」 「アン・フエアのことよ、アントニオは英語 わかるでしょ」 「ことばはわかるけど、どうしてリューコがそういうことを、俺に向かって言うのかはわからないな。リューコと俺とは、いつも対等の関係じゃないか」 「アントニオの言うのは権利のことでしょ。わたしの言うのは体力的なことなの。アントニオとわたしでは、どうしたって体力に差があり過ぎるから、その体力の差を利用して、理不尽なことをしないって約束して欲しいのよ」 「そんな約束なぞしなくても、はじめからそれは当然なことじゃないか」 「でも約束して欲しいのよ」 「ああいいさ、約束するよ」 「じゃあいいわ、雑木林のなかで、射撃を教えてちょうだい」 「リューコはしっかりしていて気持ちがいいよ。益々気に入ったぜ」 「わたしブラジル人のなかではガイジンですからね、外国で生活するには、よほどしっかりしていなくちゃ生きてゆけないのよ」 「当然だ。とくにブラジルは多民族の国だから、多種多様な考え方や生き方があって、自分が正しいと思ってすることでも、間違って取られることはよくあるんだ。それにさ、北米ほどの人種差別は表面化していないけど、ブラジルにも人種差別はあってね、俺たち黒人や東洋人は、白人から何等かの形で差別を受けているのは間違いないんだ」 さすが大学まで行って、弁護士になる勉強をしているというだけのことはあるなあ、ジョアキンやペドロと色は同じでも、教養の差はどうしようもなくあるのだ、と柳子は感心しながら聴く。 「わたしはそんな差別に負けないわよ」 柳子が、昂然と胸を張ると、 「俺なんぞ、いつもそれとの闘いさ」 とアントニオは毅然とした眸を上げる。 その眸にゆらぐ哀しさを、柳子は見逃さなかった。 そうかあ、ここにも膚の色が黒いというだけで理不尽な人種差別を受けている悲哀を、汗や腋臭といっしょに滲み出させている男がいたんだなあ、と柳子は同情し、だから日本から来た隣人に親切にする由縁もあるのだ、と認識する。 しかし、ブラジルの黒人と、日本人のあいだには、歴史的な差と、その数において大きな差がある。その上マイノリティーの日本人が混血してゆくと、日本人としての意識が薄れてゆくだろうが、黒人が混血すると、白人のなかに埋もれてしまうのではなく、黒人という意識を持ったものが、どんどんその領分を広げてゆくことになるだろうから、ゆくゆくはブラジルが黒人種の国になってしまうような気がする。 アントニオが、いまに観ておれというような気概を持って生きられる目的性がそこにあると気づいて、柳子は頼もしい感じを受ける。 「じゃあ、アントニオ、お願いするわ」 「ああいいとも、三日もすれば、リューコの腕が確実に人間の心臓を射抜くくらいに上達しているだろう」 アントニオは、みずからの指導の確実なことを示したのだけれど、柳子は、ぎくっとする。そうだったのだ、わたしは人間の身体を殺傷するための武器を持って、その武器で人を傷付けるための訓練をいま受けようとしているのだと自覚して、身震いのでる思いだった。 「他人に向かって銃口を向けてはいかんぞ」と、いつになく恐い顔になって父が言った意味が、いまごろになって、きゅっ、と胸に応えてくる。 「人にもよりけりよ、襲い掛かってくる悪人には、銃口を向けなきゃ、護身のために携帯している拳銃の意味が無いじゃないの」 柳子は、そのとき父にそう言ったけれど、相手が誰であれ、銃口を向けるということが、単なる身を護るための脅しに畢るという保障 はない。武器自体が持っている目的を達成させなければならない事態になれば、その武器の威力に頼らなければ、我が身を守り通せない場合だって充分有り得る。 理由がどうあれ、射撃の腕が未熟だったら、人を傷付けるだけにおわり、射撃の腕が確かなら人を死に至らせることになる。 ううん、忠ならんと欲すれば孝ならずか。柳子は腕を拱いてしまうようなことを考えながら、アントニオの後ろについてゆく。 牧場を横切ってゆくとき、その辺りに群がっていた数頭の牛が、いっせいにぎょろりとした目玉を柳子のほうに向ける。 そして、牛たちの背から数羽のアヌーという名の鳥が、ぱっと飛び立つ。 この鳥たちは、牛の体躯に食いついているダニを啄ばんでいたのだ。牛の血を吸うダニと、そのダニを啄ばむアヌーの関係は、なんだかおぞましいもののように感じるけれど、そういう感覚的な嫌悪感とはちぐはぐな、長い尾をゆらゆらさせて飛ぶアヌーの姿は、気持ちの不快感を忘れさせるほど優美だった。 アヌーがたくさん舞い下りるところには、ダニもたくさんいるはずだから、急いで通り抜けなければ、ダニたちは、新しい血の臭いをすばやく嗅ぎ取って、いっせいに飛び掛かってくるのだけれど、柳子はまだその恐ろしさを経験していなかったから、アヌーの優雅な舞いに見惚れていた。 牧場の片隅を横切って雑木林に入ってゆくと、急に空気の質が変わる。鼻孔にむっとする生暖かい湿気を感じ、革の長靴の底から滲み込んでくるような水気を感覚する。 その身体的な違和感が、不安をつのらせるのか、アントニオに対する信頼度が徐々に薄らいでゆく。 どこまで連れてゆくのだろうか、だんだん人里から遠退いてゆくにつれて、心のなかで目覚めた不安が増幅してくる。するとアントニオの背から、獣の臭いとでもいうのか、人間とは異質な妖気めいたものが立ち上がってくるような錯覚をする。 もう牛が太い喉を鳴らして鳴く声も聴こえないし、人の呼び交わす声も届かない。二人が進む足音を嫌って、鳥の囀りが後ずさってゆく感じがすると、徐々に原初的な雰囲気のなかに踏み込んでいるようで、文明から遠ざかることの恐さを感じるからだろうか、アントニオが教養に関係のない時代を歩いている類人猿に見えてきて、不安を醸し出す。 そういえば、もう敷地の奥の雑木林という感覚ではなく、周囲の木々が、人跡未踏の原始林の様相に見えてくる。 「ねえ、アントニオさん、そんなに遠くまで行かなくても、この辺でいいんじゃないかしら」 柳子は、とうとう不安を声にしてしまう。 「もうすこしだ。この先に恰好な射撃練習場があるんだ」 アントニオは、柳子の抱きはじめた不安など、まったく気づかないようだった。 「この雑木林にも持ち主が在るのぉ、それともここはもう人跡未踏の原始林なのかしら」 なにか話しているほうが、不安が薄れるのを知って、思いついたことをアントニオに訊いて見る。 「ああ、この林は、ずっと奥の原始林までつづいてるんだ。でももう少し先にちょっとした谷があってね、そこが原始に閉ざされた時代と文明の幕が開けられた時代との境界になっていて、そこまでが俺んとこの土地っていうことになってるんだ」 「あら、そうだったの。すごく大きい土地なのね」 アントニオの原始と文明の境界という話し方が、現状にぴったり符号しているのに感心しながら、スイス人耕地といいアドルフ牧場といい、日本では想像もつかない大地主の所有する広大な土地には、呆然として声も出なかった。 「牧場用に伐り開いてあるのは三分の一くらいだよ」 その三分の一だという放牧場のどこに五千頭もの牛がいるのか、わからないほど閑散としているのだ。 「アントニオのところ、ずいぶん大金持なのね」 「大金持、そんなことないよ、土地と牛があるだけで、金などないんだ、俺を大学に行かせるために親父が金を工面してるくらいだもの。この牧場も買ったものじゃないよ、もらったものなんだ。親父は大牧場主が美人の女中に産ませた落とし胤だからさ。そのもらった牧場につづいてる雑木林など、政府が只でくれたところさ」 「ほんとうなの、こんな大きな土地を只でくれるの」 「ああ、少し前までは、この辺りもそうだったんだが、どんどん開拓させるために、いまでも奥地は原始林を拓いたところを所有できて、ちゃんと登記証を出してくれるんだよ」 「じゃあ、わたしのところなど、父が高いお金払って買ったって言ってたから、損したような気がするわ」 「いまはもう、この辺に只で貰える土地などないさ」 「そんなに拓けてきたところでも、この密林のなかは原始のままみたいに、どこかから原始人が出てきそうな感じがするわ」 「恐いかい」 やっとアントニオは、柳子が怖そうにしていることに気づいたようだった。 「恐い感じがするって言っただけよ、恐くないけど」 「はははあ」 アントニオの笑い声が密林の奥へ響いてゆくと、奥のほうから、たくさんの男の声が返ってくる。木々に反響したこだまだとわかっていながら、木の精霊が笑っているような気がして気味悪くなる。 いちじはアントニオを疑ったのに、いまは周囲の雰囲気のほうが怖くて、アントニオに寄り添ってゆきたい気分になる。 「もうすこしだ」 アントニオがそう言っても、目的地などないのではないかと思うほど、密林の奥は深くて、ずっと永遠にさ迷わなければならないような気がしてくる。 ブラジルでは、すぐそこという距離感覚が、日本の物差しとはずいぶん違うことを、もう柳子も知っていたが、こんな原始林のなかの距離感は頭のなかで測りようもない。 「ほら、あそこだ」 アントニオが指差した向こうに、陽光が満ちていて、まるで原始林のなかをさ迷ってきてやっと文明の街に辿り着いたような、安堵を覚えさせた。 「うわあ、明るいわねえ。どうしてここだけ樹がなくて、原っぱみたいになってるの」 柳子のせっかくの感激を台無しにするように、 「伐ったからさ」 とアントニオは、あまりにもあたりまえな返事をして、柳子をがっかりさせる。 「そうよね、伐ればなくなるわよねぇ」 柳子は自分がつまらないことに感心しているとも気づかないで、気味の悪くなっていた密林から抜け出たことのうれしさを、いっぱいに表現していた。 「ここも牧場にするの」 「そういうことになってるんだ。伐り拓いて所有権を確保しておかなくてはならんから」 「ああそうかあ、そういうことにもなるのかあ、所有権ねえ」 柳子は、ブラジルのように広大な大陸では、まだ誰の所有権もなくて、占有権の先取りという開拓地の特殊な方法が生きている現実を、いまはじめて視て、経験的に知った。 「この拓いてある向こうの谷底に河が流れていてね、いい地形なんだ」 その河の縁に、小さな小屋が建てられていた。 「あの小屋に誰か住んでるの」 「ああ、アドルフ牧場が雇っている見張り番が居るよ」 そう話していると、小屋のなかから、のっそりと男が出てきた。男の手にライフル銃が握られているのに、柳子は気づいた。そして活動写真で観た西部劇の一場面を想い描いた。あの開拓史の場面は、映画的につくられたものではなく、一世紀を隔てた現在もこうして現実として生きていたのだ、と惟う。 「おい」 アントニオが手を挙げると、男も軽く手を挙げた。 「ちょっと射撃練習をするからな」 アントニオが大きな声を投げると、男は肯 いて、すぐまた小屋のなかに入った。 「ここでなら、誰に気兼ねなく射撃練習がで きるよ」 「そうよねえ」 柳子は、アントニオの言う通りだけど、そ れは畢竟誰にも気兼ねせずに殺人を行使でき るし、強姦することもできるし、ということ になるから、わたし自身の危険にもつながる ことにもなると気づいて、声が小さくなって いたが、見張り番が居るという状況が、ひと つの救いでもあると思う。 「ほれ、あそこに的が在るだろう」 アントニオが、陽光を背にする方角を指差 した広場と雑木林との境に、他の樹よりも一 回り幹の太い樹があって、それに丸い円を描 いた的が打ち付けられていた。 そんな用意が出来ているということは、常 時ここで射撃練習をしているということなの だ、と柳子は思う。 そして、射撃練習が常に為されなければな らない状況が、この辺りにはあるということなのだと認識する。それが誤った認識だとは思えなかった。さきほど一世紀前の状況を脳裡に描いたからかも知れないけれど、ブラジルはどこの国とも戦争しているわけでもないのに、そして軍隊ではない一般市民が、常に射撃練習をしていることから考えて、いまなお開拓時代のように各国からの移民が植民地を拓いているというのだから、そういう殺伐とした旧時代精神があるということなのだろうと思うと、なんとなく自分自身もそういう旧い時代に紛れ込んできたように感じる。 しかし柳子は、それに違和感を覚えるのではなく、物語的なものを感じておもしろがっているふしがあった。 「ねえ、ここからあの的を狙って撃つの」 柳子は、距離がすごく遠い気がして、訊ねる。 「うん、そうだな、リューコの拳銃ではちょっと無理だな。三十メートルくらいが適当だろう」 「三十メートルってどのくらいかなあ、ぜんぜん距離がわからないわ」 「来なよ」 アントニオが歩いていって、目測で位置を決める。 「これが三十メートルなのお、まだすごく遠い感じ」 「遠くないよ、このくらいの距離で練習したほうがいいんだ、ほんとうは。でも、さあ、はじめは五メートルから的を狙って、まず一発撃ってみな」 そう言って、アントニオはずんずん的のすぐ近くまでゆく。 柳子は、なんだかバカにされたような気がした。 「もういいわよ、十メートルくらいのところで」 「さあ、五メートルでも最初は当たらないよ」 「見くびったわね」 「見くびるもないだろ、はじめてなんだろ」 「はじめてだけど」 「じゃあ、だんだん距離を取るようにしたほうがいいよ」 負けん気の勁い女の子に呆れながら、アントニオは七メートルのところで立ち止まる。 「じゃあ、ここから撃ってみなよ」 アントニオから促されて、柳子は拳銃を銃帯から外し、手の平に握る。無機質な金属のひんやりした感触を手の平に受けると、それが心臓まで伝わってきて、きゅっと締めつけられた感じがした。 おかしなものだと思う。恐らくこの小さな拳銃の存在理由が、人を殺傷するためにあるという感情が神経に緊張を強いるのだろう、と思うと突然、川田鷹彦と鈴木一誠の姿がダブって心眼のまえに立ち塞がる。柳子は思わず一歩退いていた。彼らは絶対的平和主義者で、無抵抗主義を主張する人たちだと思う潜在意識が呼びつけたのに違いなかった。 そうじゃないわ、これはあくまで護身用なのよ。柳子はふたりの幻影に向かって弁解する。そう弁解する声が聴こえたのか、須磨子の姿が二人の後ろに現われて、皮肉に嗤った。なによ、護身用だって言ってるでしょう。 護身用なら柔道とか空手とか合気道とか、いくらでも自分自身を護る武器を持たない武術が、日本にも在るじゃないの、と須摩子が言った。 それが空耳だとわかっていながら、柳子は反発する。知ってるわよ、そんなことあなたから言われなくても。でもそれで相手に反撃できるほど上達するまでには時間がかかりすぎるじゃないの。いますぐの間に合わないじゃないの。あなたのように柔道四段で体力の ある人だって、あのとき大男の黒人に一旦は押さえつけられ、あわや強姦されそうになったっていうじゃないの。わたしのように痩せて小さいものが、いくら柔道を身に備えていたって、あまりにも大きな力の差には対抗できないんじゃないかしら。 柳子がいっしょけんめいになって弁解していると、三人の幻影がつぎつぎに消えていった。 わたしの言い分を認めてくれたのだろうか、それとも、どうしようもない娘だと思って消えたのだろうか、と柳子はしばらく気になっていたが、アントニオから、 「早く撃ってみな。そのレボルバは、引き金が軽いからな、うっかりすると的を狙う前に発射するから気をつけるんだぞ」 と催促され注意を受けて、心機一転するつもりで頸を大きく振って、拳銃を握っている右手を挙げる。 「撃ってもいい」 「そんな恰好ではだめだよ」 ひょろっと立っているだけで、片手を挙げた柳子の姿に、アントニオは笑ってしまう。 「真正面を向いて、左手も添えて」 アントニオが、口を添える。 柳子が左手でカヴァーすると、 「もっと眼の高さまで挙げて」 とアントニオが言う。 柳子が拳銃を眼の高さに持ってきて、的を狙うと、 「息を止めて、そっと引き金を引くんだ。腕に力を込めておかないと、跳ね返りがつよいからね」 と手を添えるように言う。 柳子は引き金をゆっくりと絞ってゆくが、どこで撃鉄が落ちるのか、まったく予測できない不安が気持ちをゆるがせた。 「ほら息を止めなきゃ。銃口がゆれてるよ」 「止めてるんだけど」 「慣れるまでは指に神経を集中して、引き金が落ちる瞬間の感触を覚えなければいけないよ」 アントニオがそう言い終わらないうちに、パン、と乾いた音が弾けた。 柳子の手が反動で跳ね上がった。油断していた柳子は、拳銃を手から落しそうになった。実際はそうでもなかったのだけれど、柳子には発射音が、ものすごく大きな轟音に聴こえてびっくりしたのだ。 柳子は、引き金が落ちた瞬間の感触など、ぜんぜん掴むことができなかった。 そして銃弾が、どこに向かって飛んでいったのかもわからなかった。 「しっかり狙いをつけないで引き金をひいてはだめだよ」 「まだ引くつもりがなかったのに、落ちてしまったのよ」 柳子は、アントニオを牽制する意味で言う。「危ないなあ、傍に居れんぞ。リューコの傍に居ると、横っ腹に穴開けられそうで」 「じゃあ、少し離れたところで観ていてよ」 こんな勝気な娘に拳銃など持たせるのは危険だ、とアントニオは心配する。なぜなら、これからこの娘とふざけ合いたいと思っていたのに、うっかりふざけていて、めくら滅法にぶっ放されてはかなわないと考えたからだった。 「リューコ、リューコのレボルバは撃鉄が軽そうだから、いつもは安全装置をかけておかなくてはいかんよ。自分の腿を打ち抜く危険があるからな」 彼女自身の肉体を傷つける心配を持たせておかなくては、ほんとうに危険だと思った。 「いまは用心しすぎて緊張して、指が勝手に引き金引いてしまったのよ」 「ああ、じゃあ、こんどは用心と緊張を半々にして、やってくれないか。いま撃ったのは的から五メートル右側の樹に当たったよ」 アントニオが言った。 彼には弾道が視えたのだろうか、と疑いな がらも、たった七メートルの距離から撃って、五メートルも的から外れていては、眼を瞑って撃ったのも同然だと惟って、がっかりした。 「第一発が、この距離から撃って五メートル外れただけなら、たいしたもんだ」 アントニオが褒めても、少しも嬉しくなかった。銃弾はぜったいに真っ直ぐ飛んで、狙った的に当たらなければ意味はないのだと思うからだった。 「リューコ、いま撃って、どこが間違っていたか気がついたか」 アントニオからそう質問されても、柳子にわかるはずはなかった。 「わからない」 柳子が口を尖らせて言うと、 「躰の構え方だよ」 と言いながら、アントニオが柳子の傍に来て、柳子の両肩に手を掛けた。 柳子は、肩越しに後ろから襲ってくるアントニオの腋臭で、鼻が曲がりそうになるのを堪えなければならなかった。 「肩と両足を、的に向かって直角に向け、もう少し開いて」 アントニオが大きな躰をすっと折り曲げたかと思うと、柳子の足首をぎゅっと掴んで押し広げる。 柳子は、ごとん、と大きな音を立てて、心臓が傾ぐのを感覚する。 「この姿勢を崩さず撃ってみな」 柳子は、まっすぐ腕を伸ばして、息を止め、ゆっくり引き金を引く。パン、と乾いた音が周囲の雑木林に乱反射するのを、轟音ではなく、こんどは軽く受け止められた。そして撃鉄が落ちる瞬間も捉えられた、とうれしくなった。 しかし、銃弾は、 「うん、こんどは三メートルまで接近した」 とアントニオに、的外れを確認されて、がっかりする。 柳子ががっかりしているのに、アントニオは、 「たいしたもんだ、この次には的に当たるだろ」 と褒めたのだ。 「そんなにじっと的を狙って構えていなくていいんだよ。さっと狙って、そっと引き金を引いてみな」 アントニオが言うように、そう巧くできたらいいけど、と柳子は思いながら、こんどはさっと気軽に構えて、じっと狙わず、そっと引き金を引く。 前の二回には、引き金が重く感じられたのに、アントニオの言う通り、気を楽にして引き金を引くと、軽い感触で撃鉄が落ちて、しっかり構えているときよりも反動も少なかったように思ったし、発射音も気持ちよく聴けた。 「当たったじゃないか」 アントニオの言うのが信じられなかった。 「当たったの」 「当たったよ。眼を瞑ってたのか」 「引き金引いた瞬間に眼を瞑ったのかしら、弾が的に当たったのが見えなかったわ」 「どれ、あそこに行って見よう」 アントニオがそう言うが早いか、柳子のほうが先に駆け出していた。 的は三センチほどの厚さの板だった。 「ねえ、どこぉ、どこに当たったのぉ」 的には無数の穴が開いていたのだ。そして、もう射抜かれてから日数が経っていると見分けられる古い穴がたくさんあったが、比較的新しい穴もあったから、柳子には自分が撃った銃弾が開けた穴が、どれなのか、すぐには見分けられなかった。 「ほれこれ、これがリューコの弾のあとだよ」 アントニオが、的の一番外側の円に、零れそうに引っかかっている穴を指差す。 「ほんとうぉ」 「ほんとだよ、見ろよ、煙が上がっていそうな新しい穴じゃないか」 「うん、そう言えばそうかなあ」 煙など上がっていなかったから、確認はできなかったが、なんだか木の焼かれる匂いを嗅いだような気はした。 「なかなかどうして、リューコには素質があるよ」 「わたしは、アントニオの眼のよさに感心してるわ。わたしも眼には自信があったんだけど、拳銃の弾の飛ぶのまで見えないもの」 「俺にも飛んでいるのは見えないさ、でも何かに当たれば当たったときの反応が眼に見えるんだ。学友のなかでも俺がいちばん遠くの看板の字を読めるからね、視力はそうとうなものなんだ」 「わたし、的の中心に照準を合わせて、引き金を引いたとき、手が震えた感覚はなかったんだけど」 「ああ、それはひとつひとつのレボルバにも、それぞれの癖があってね、こころもち的の中心から右左にずらせて狙うとか、時間をかけてレボルバと馴染んでいかなければ掴めないものだし、撃った弾の数に比例して上達してゆくんだ」 「ふうん、馬を乗りこなすのと同じようなものなのね」 「そういうことだ。レボルバも生き物さ。コルトのような由緒ある製品は、誤差が少ないけど、サタデイ・ナイトとか」 「サタディナイトって、ノイチ・デ・サーバド(土曜の夜)ってことぉ」 「うん、北米の俗語だよ。そのサタデイ・ナイトとか、ナイト・ストーカーと言われている密造の粗悪品になると、的から五メートル離れるごとに命中率が一〇%低下するといわれるものが多いんだ。正規につくられたものでも、同じ親から生まれた子どもにも性格の違いがあるように、それはあるんだよね」 「アントニオ、そんなことまでよくわかってるのねえ」 柳子が感心して、アントニオが照れる。 「まあ、こんなことでも、習うより慣れることだよ。銃弾の消費量と射撃の上達は比例するもんだよ」 「ほかに的になるようなものないかしら」 「うん、そうだなあ」 アントニオはそう言いながら、自分の着ていたシャツを脱ぐ。 シャツの下に肌着は着ていなかったから、盛り上がった胸の筋肉が顕わに見えて、柳子が眼を瞠る。そして慌てて眼をそらす。 アントニオの躰は、シャツを着ていても逞しそうだとは思っていたが、シャツを脱ぐと筋肉がもりもりしていて、柳子が眼を瞠るほど逞しかったのだ。 「このシャツを的にするんだ」 「シャツが穴だらけになるじゃないの」 「当たればな」 「まあ、アントニオ、言ったわね、当ててみせるわよ」 「柳子が無数の穴をこのシャツに開けてくれたら、シャツなんぞ惜しくなくなるほど、うれしいよ」 「じゃあ、開けてあげる」 アントニオが、 脱いだシャツを板の的を打ち付けてある釘に引っかけ、的に添わせて被せる。 元の位置に帰って、柳子は新しい弾を込め、両足を広げ、腕を伸ばして、あまり丹念に構えず軽く狙って、五発をつづけて撃った。もう発射音にも、発射したときの軽い衝撃にも慣れていた。 「三発当たったよ」 アントニオが言った通り、的のところにゆくと、シャツに三つ穴が開いていた。 「たいしたものだ」 アントニオの言うのが単なる世辞ではなく、ほんとうに感心しているのがわかったから、柳子はうれしくなる。 「このシャツ、記念にわたしにくれるかしら」 「ああいいよ、やるよ」 柳子は、アントニオが釘から外してくれた彼のシャツを、抱きしめるようにして頬ずり する。つよい汗の臭いと、腋臭の臭いが鼻孔を突いたが、いまは気にならなかった。 柳子の無意識なその仕草を見て、アントニオは性的興奮を覚えていた。 「おお、リューコ、パラベンス」 アントニオは、柳子の射撃の腕前を褒めるのを建前にして、柳子を抱きしめ、額にキスをして、本音の欲情に身を震わせる。 柳子は、はっと危険を感じる。ガイジンがなにかうれしいことがあったり、褒めたりするときに「パラベンス」と言って抱き合うことは、すでに観て知っていたから、アントニオの行為がそれに類するもので、卑猥な意味で抱きついてきたのではないと思ったが、抱き合ったあとに、感情が昂ぶって、はじめの意思とは関係のない行為に発展してゆくような直感が働いたからだった。 「アントニオ、ありがとう、うれしいけど、ちょっとそんなに強くしたら、苦しいわ、わたしの骨は細いのよ、折れてしまうから」 言いながら、柳子はアントニオの抱擁から抜け出る。 離れてからアントニオの顔を見ると、黒い顔が赤らんでいるのがわかった。そして、自分の感情の昂ぶりが恥ずかしかったのか、苦笑したのが、柳子には、子どもがはにかむときの仕草に見えた。 すごくおとなぶっているけれど、彼もまだ若々しい青年なのだ、と柳子はアントニオを見直すとともに、若さのために暴走することだって有り得るのだと、あらためて自重する気持ちになる。 アントニオは、柳子のそんな心配をよそに、まじめな気持ちになって柳子に対する新しい感情を抱きはじめていた。 こんなにさわやかで、勝ち気で、少年っぽいのに理知的で、その上、白人や黒人にはないアジア人特有の淑やかな、控え目な女らしさを感じさせる女性は、日本人にしかいないようだが、その日本人のなかでも少ない存在だろう、と思われた。 彼女自身は、みずからの女らしさに気づかず、男っぽさを意識的に顕わにして見せているけれど、そうすればするほど瑞々しい女らしさがいっそう表出されてしまうのだ。 この稀有な娘を俺の妻にできたら、どんなにか俺の人生が豊かな楽しいものになるだろうか、と考えはじめる。 だからまじめに求婚しなければならない、一時の激情によってこの娘を犯すようなことをしては、俺自身の人生とリューコの人生を狂わせることになるだろうから、とアントニオはみずからに言い聞かせる理性を持っていた。 そんなアントニオのまじめな気持ちが、柳子にも伝わったのだろう、彼の黒い顔を赤らめた表情に暗さがなく、晴れ晴れとした明るさを感じたから、アントニオを瞬間だけでも警戒したことを非礼だと気づいて、柳子はいっそうさわやかな声で、 「オブリガーダ」 と礼を言った。 アントニオも、柳子のさわやかな気分がわかって、大きな男に似つかわしくないはにかみを含んで、 「なんでもないさ、リューコの呑み込みの早いのには感心したよ。この分だったら、もう二、三回練習すれば、的の中心に命中させられるようになるだろう」 と褒める。 「アントニオの教え方が上手だからだと思うわ」 「そう思ってもらえば、俺は満足だよ」 「ねえ、アントニオ、参考のために、あなたの腕前見せてくれないかしら」 「自慢たらしく思われるのが嫌だったから、俺は進んでやらなかったんだけど、一発だけ見せるかな。向こうに赤い色の木があるだろう、あれを撃つから」 広場の反対側の、ここからだと五十メート ルは距離のある雑木林の取っ掛かりに、他の木とははっきり色の違う赤い細い木が立っていた。 柳子がその木を見とめて視線を据えた瞬間に、アントニオは腰の拳銃を抜くと同時に低い位置から、構えることもせずに引き金を引いていた。 同じ三八口径の弾丸が発射されたのに、柳子のレボルバとアントニオのレボルバとの銃身の長さの相違なのだろうか、柳子のほうはパンという乾いた音なのに、アントニオのレボルバから聴こえた音は、ばしっと濡れ雑巾で板を叩いたような反響だった。 「どれ、見に行くか」 「うん」 柳子は、アントニオがゆっくり歩き出すのを尻目に、木のところに駆け寄って、 「すごい、まんなか射抜いてる」 と歓声を上げた。 スイス人耕地で、小森が毒蛇と睨めっこしたときに、一発で蛇を仕留めたエルミーノ監督の射撃の腕前に感心したことがあったのを想い出した。 あのとき監督は、ゆっくり狙いを定めてから引き金を引いたのだ。だから柳子は、早撃ちのアントニオのほうが、腕前が数段上ではないだろうかと思った。 「こんなことはたいして自慢になることじゃないよ、リューコはまじめに的に向かって拳銃を構えて撃つ練習をして欲しいなあ」 アントニオがそう言ったから、柳子は、見かけ以上にアントニオがまじめな青年なのだと認識する。 「そうするわ」 柳子もまじめな顔になって、すなおに言えた。 それから。アントニオのアドバイスを得ながら、何回か練習するうちに、柳子も的の中心近くを射抜けるようになって、アントニオを感心させた。 柳子がアントニオのシャツを持って、意気揚々と帰ってきたのを見て、 「柳ちゃ、そのシャツ、なんだずら」 チヨは、柳子がちゃんとシャツを着ているし、汗臭い感じがするし、隣の黒人青年のシャツではないのか、洗ってやると柳子が言って持ち帰ったのだろうか、と不審を抱きながら訊ねると、柳子は得意満面に、 「ほれお母ちゃ、これ見て、すごいでしょう」 と言って、両手でシャツを広げる。 大きな寸法のシャツだと思って、それが間違いなく隣の青年の着ていたものだと確認させられただけで、なにがすごいのか、寸法のことでも言っているのかと思ったけれど、なんだかおぞましい感じがするだけで、柳子がなにに感心しているのか、まったくわからなかった。 「ほれ、これよ、これ」 柳子は広げたシャツの一方を顎に挟んで、左手でシャツの袖を伸ばし、右手でシャツの背に当たるところを指差す。 孔が三つ開いていた。破れたものではないが、その孔を繕ってやるつもりなのか、とチヨは思った。 「わたしが拳銃で撃って開けた孔よ」 チヨは、柳子の言うことが、すぐには呑み込めなかった。しかし、次の瞬間にはぎょっとなっていた。拳銃でシャツに孔を開けたというのだから、そのシャツを着ていた人はどうなったのかと思ったからだった。 「アントニオさんはどうもなかったずら」 母の言う意味がすぐわかって、 「お母ちゃ」 と柳子のほうがびっくりした顔になって、そしてそのあと、わっ、と笑いを爆発させ、腹を抱えて笑ったあと、 「向こうにあった的が孔だらけで、どれがわたしが撃って命中させたものかわからないから、アントニオが自分のシャツを脱いで的にしてくれたのよ」 と説明する。 するとチヨは、シャツに開いていた孔の説明はわかったけれど、そのとき娘の前でシャツを脱いだだろう黒人青年の姿を想い描いて、ぞっとする。 「あまりアントニオさんと親しくしないほうがいいに、柳ちゃをお嫁にしたいなぞと言い出すような気がするなん、わたしにゃ」 チヨの心配することは、黒人が求婚してきては困るということだけだった。スイス人耕地で抱いた不安が甦ったのだ。 チヨの直感は的外れではなかった。アントニオがその気になっていたのだから。 「そのシャツはわたしが洗ってやるから、柳ちゃは早く自分の躰を洗うといいに」 黒人と接触して帰った娘の躰は、少しでも速く洗浄しなければならない、と思う気持ちが強く働く。チヨには人種差別をしてはいけないという意識などぜんぜんなかった。精神的な根にこびりついている差別意識などに気づかなかっただけなのだ。 事実、黒人青年が着ていたシャツから発散する臭いの質量ともに、日本人のものとは格段に違って、チヨに不快感を与えていたのだから。 柳子は、浴室に入って全裸になりながら、なんだか股に痒みを覚えて指を当てる。異質なものが付着しているのを指先に感じて、剥がそうとしたが簡単に剥がれなかった。覗くと黒い大きな疣がいつのまにか出来ていた。 あれ、こっちにも。黒い大きな疣が、股のうちら側に三つもできていたから、なにかの伝染病に罹ったのかもしれないと考えて、慌て出す。 スイス人耕地に入植した早々に南京虫騒ぎがあったことを想い出しながら、気持ちを落ち着ける。 いやだなあ、こんなものが、こんなところにできて。これを取り除く方法があるのだろうかと思ったが、この痒さは格別だったし、疣がこんなに痒くなるものなのかと、ふしぎに思う。 柳子はそう思ったとたんに、全裸のまま浴室から出ていって、 「お母ちゃ、こんなところに疣が出来て、すごく痒いのよ、これ取れないかしら」 と言いながら、チヨの前に来て股を広げる。 柳子のそんな大胆な行為をなんどか見せられてきたから慌てはしなかったが、田澤の家に行っている夫が帰ってくると、また卑猥な眼で見るのだからと惟って、 「お風呂場に行きなんし、よく見てあげるから」 と柳子を急き立てる。 明るい浴室の壁は、ポルトガルから直輸入したものだという青い釉薬だけで模様を描かれたタイル張り。その白いタイルの床に、柳子が、両足を投げ出して座り、股を広げる。 チヨが屈んで覗き込むと、それは疣ではなく、ダニが食いついているのだ、とすぐにわかった。 「まあ、柳ちゃ、これダニだに。こんねん血を吸って膨らんで」 チヨは、その大きさに仰天した。 柳子もすぐに気づいた。 「ああ、あそこを通ったときに食いつかれたんだ。牧場の向こうの端を通ったとき、アヌーがたくさん牛の背を啄ばんでいたのよ」 そう言いながら、ついでのように、アヌーがここまで飛んできて、わたしに食いついてるダニを啄ばんでくれたら気持ちいいだろうなあ、と牛が心地よさそうな顔をして草を食んでいたことから連想すると、股のうちらがむずむずした。 ダニは血を吸いながら大きくなるので、それと気づくまで時間がかかるのだから、この大きさだったら、行く道で潜り込まれて、帰ってくるまでのあいだに膨らんだものだろう、とチヨは思った。 チヨが爪を立てて摘まんでも、ダニを柳子の肌から簡単には剥がせなかった。 ダニのほうが、がっちり爪を柳子の肌に食い込ませているのだ。 「ちょっと待っとれ」 チヨは、そう言って浴室から出てゆくと、裁縫箱から大き目の針を持ってきて、アルコールで消毒し、それでダニを横から突き刺して血を滴らせ、ゆっくりこさぐようにすると、ダニが力尽きたように起き上がってくる。 柳子は、少し痛いような痒いような気持ちいいような、なんとも言い難い感じが胸の辺りを、きゅうっと締めつけてくるようで、恍惚感を覚える。 ああ、牛たちも、きっとこんな感覚を覚えながら陶然となっていたのではないだろうか、と思いをゆらめかせる。 そして、ぼんやりした気持ちのまま、 「すごうく牛が気持ちよさそうにしてた」 と言う柳子の言い方が、なんだか隠微な感じがして、チヨは呆れ、 「まあ、柳ちゃ」 と顔を赤らめる。 もう屋外に茜色が迫ってきて、そっと室内に忍び込んできそうな時間になっていたから、チヨは、夫が帰って来ないうちにと思って、急いで柳子の股に赤いヨードチンキを塗りはじめる。 ヨードチンキを塗った柳子の股のうちら側が、痩せている躰ぜんたいや、少年っぽい顔のまま歳を重ねてきているのとは関係なく、腰から太股にかけて、女性らしくふっくらとした肉がついてきていて、いっそう隠微な様子に見えたから、チヨは、視線を逸らせてしまう。 いつもは眼に触れることのないところで、女性へのたしかな熟成を示している娘の太股から、チヨは眼を逸らせたけれど、みずからが女性であるという意識が乏しく、男っぽく振る舞うことをいいことのようにしている柳子に、チヨはいっそう危険を感じた。 いくら用心のために拳銃を携帯し、射撃練習をするのだと言っても、その本人が性に頓着しない行動をしていて、いつも性に非常な関心を持っているほとんどの男性を、無意識のうちに挑発していることを忘れていては、かえって危険な状況をみずからがつくっているようなものだから、それをチヨは懼れるのだった。 そんなチヨの危惧をよそに、柳子は、アントニオが大学に行っている留守のときには、ときどきひとりで射撃練習に出かけるようになっていた。 射撃の上達は、弾丸を消費するのに比例する、とアントニオが言ったから。 「ぜったい人に銃口を向けるようなことは、冗談にもせんでくんなんしょ。人目につかんとこで練習しなくちゃいかんけど、人目につかんとこは、それだけ危険も多くなるからな、用心するんだに」 チヨが口やかましく注意をしても、 「危険だから早く射撃の腕を上げなきゃなんないんじゃないの」 と言って、取り合わない柳子だった。 アントニオの口から、 「リューコの射撃の腕前はすごいものだ、下手に手出しすると、大事なところを撃ち落とされるぞ」 と流された噂は、アントニオ自身が教授の巧みさを吹聴したかったからか、牧夫たちを牽制するためだったのか、どうか知らないが、彼らが柳子を見る眼には、いっそう興味をそそられたように、ぎらぎらさせる光があったから、逆効果になったようだった。 その噂は牧場内に留まっていないで、アラモ植民地全域にも流れ、柳子に関心を持っているアラモ町の青年たちのあいだにも広がってゆくのに長い日時を要さなかった。 興味本位な世間の噂にほとんど関心を示さないようにみえた鈴木一誠まで、 「柳ちゃんの腰の拳銃は見せかけではなかったんだね」 と笑いながら言ったから、柳子は、牧夫たちがからかうときには威張って見せても、一誠の前では気恥ずかしい思いをした。 「平和主義者の一誠さんがそう言うと、すごく皮肉に聴こえるわ」 チッ、と舌を鳴らして、一誠は、 「皮肉じゃないよ、護身用に持っている以上、見せかけだけではかえって危険だからね」 と拳銃の携帯を容認するように言っても、本心であろうはずはないのを、柳子はわかっていた。 「そういうふうに理解してもらっているんだったらいいですけど」 とは言ったけれど。 「もちろんそういうふうに理解しているよ、いくら柳ちゃんの負けん気が勁くても、気持ちだけでは身を守れないからね。柳ちゃんの身体的に不利な条件を補うものだと」 「ありがとう、安心しました」 柳子が、拳銃を携帯することを気にしているようだったから、一誠はそう言ったのだけれど、以前、武器を携帯することについて佐藤と議論したとき、「絶対反対だ、武器に頼るものは武器に倒れる」と言っていたのを聴いている柳子だったから、心から賛成してくれているとは考えられなかったのだ。 しかし、一誠が、助け船のように付け加えてくれた「身体的弱点を補うもの」として、拳銃を所持することは黙認してもらうしかないと思う。 柳子が、ちょっと自意識過剰ぎみに銃器の携帯に拘るのは一誠の前に居るときだけで、 一誠の姿のないところでは、そんなことを忘れて、意気揚々と馬に跨り、腰に拳銃を巻いていることによって、暴漢から襲われる恐怖がほとんどなくなり、恐いもの知らずという気概が他人にも見えたから、アントニオの流した噂に尾鰭がついて、内藤柳子という娘は不世出の射撃の名手だってよ、ということがアラモ周辺だけではなく、アリアンサ植民地やチエテ植民地にまで広がって、柳子がミモザに跨って散歩に出かけると、指差して話し合うものもいた。 柳子は面映ゆい感じを受けながら、そんな噂が立っているほうが、暴漢から身を護るのには、腰の拳銃以上の効果があるだろうと思って、噂の効力を大いに活用することにした。 しかし、そんな噂を信じるものばかりとは限らなかった。 あんな子どもがと侮ったのか、噂の真偽のほどを確かめたかったのか、少年に性的興奮を覚える変態者だったのか、ある日、柳子がミモザを乗り回したあと、河原でミモザの体躯を洗ってやっているところに現われた一人の白人が、やにわに柳子の後ろから抱きつき、片手でぎゅっと抱き込んだまま、片手で柳子のズボンのバンドをすばやく解きはじめたから、柳子はがむしゃらに暴れて、大声を立てた。 男の力は鉄の腕にがっちり掴まれたように身動きできなかったし、後ろから抱きつくときに、すでに腰の拳銃は抜き取られて、遠くに放り投げられていたし、柳子のひ弱い抵抗などまったくないに等しいものだった。 骨が軋んで、いまに折れるのではないかと思うほど痛んだ。 抵抗する力がだんだんに弱まってくるし、一旦緩急あればと頼みにしていた拳銃は抜き取られてしまっているし、絶体絶命かと観念しかけたとき、一声高く嘶いたミモザが水飛沫を蹴立ててすっくと立ち上がり、前足を宙に振り立てて、柳子をがっちり掴まえている男の背後に回った。 たとえミモザが、男の背から前足を叩きつけても、それは柳子もいっしょに叩きつけるようなことになって、柳子ひとりを救うことにはならないだろうと判断するものは、この場には居なかった。 柳子はミモザが助けてくれると思ったし、男は馬の前足で背骨を叩き折られるかもしれないと恐怖を覚えたのだろう、柳子を放して、身を避けた。 男がミモザに向かって身構える隙に、柳子は脱兎のごとく走って、男が抜き取って捨てた拳銃を拾い上げる。そして、拳銃を手にするとすぐ、男の足元に向かって発射させていた。パン、と乾いた音がして、男の足もとの 石が跳ね、砂が飛んだ。 「いまのはわざと外したんだからね。こんどは心臓を射抜いてやるから」 喘ぎ喘ぎだったが、柳子が言うと、男は一目散に逃げていった。 しかし、男が逃げて行った直接の原因は、ミモザが鼻を鳴らして、猛然と男に向かって行ったからだった。 柳子は、腰が砕けて、河原にへたへたと座り込みながら、ミモザに向かって無言の礼を言うとともに、腰の拳銃が決して頼りになるものではないことを、大いに反省させられていた。 |
「花の碑」 第十三巻 第六二章 了 |
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