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「花の碑」 第十三巻
第六七章
相変わらずアントニオは柳子に執心していて、この頃は大学の寄宿舎からアラモに帰ってくるたびに、
「リューコ結婚してくれないか」
 と申し入れてくる。
 無碍に断ると暴力を振るってでも実質的に妻にされるような気がして怖いから、
「わたしもアントニオを好きだわ。だけどわたし、誰とも結婚しないで一生独身で、新聞記者になって走り回りたいのよ。だから悪いけど他の人探してくれないかしら」
 とできるだけ刺激を与えないように気遣いながら返事をしても、大学まで行っているアントニオがまったく学問のない荒くれ牧夫みたいに分からず屋で、
「そんなこと信じないよ、俺を嫌って言うんだろ。俺はリューコ以外に結婚したい女はいないんだ。頼むよ結婚してくれよ」
 といまにもぐしゃっと掴まれて、揉みくちゃにされて、座敷牢に入れられて、一生飼い殺しにされるのではないだろうか、などと考えるのは父の講談本の影響だけれど、それほど切羽詰った恐怖を覚えるのは、肇が強引にキスしてきて、舌を噛んでやったから助かったものの、それでも肇ががむしゃらに遣る気になれば強姦されてしまうだろう、とあのあとで考えたほどだったのだから、あれがアントニオだったら、どこを噛んでも防ぎようはなかっただろうと惟う。
 肇はまだ聞き分けがよくて、こちらが誰とも結婚しないで一生独身でいるから、と言うと、じゃあ俺も独身を通して、爺婆になるまで待つよ、と言ったけれど、アントニオにはそんな理性を求めるのは通用しないだろう、と惟う。
 だから近頃は、他人の眼のないところに行ってアントニオと二人きりになるのを避けているのだけれど、他人の眼のあるところでも、アントニオの噎せるような体臭が迫ってくると、この強烈な体臭に覆い被さって来られると、それだけで圧倒され、眩暈を起こし、抵抗する意欲を殺がれてしまうだろうと惟う。いや、そんな体臭の問題ではないのだ。肇とは比べるべきもない体格の相違なのだ。あのがっちりした筋肉質の肇でも、向こうがその気になれば、いくらこちらが抵抗しても、彼が行使しようと惟った欲望を達成されてしまうだろうと恐怖を感じたほどだったのだから、荒くれ男の牧夫と争っても負けないという巨体のアントニオなのだから、抵抗などという抽象的で観念的な語彙などあってないようなもので、骨までしゃぶられてしまうだろうと思うと、怖気づいて身震いが出る。
 とにかくアントニオとのニアミスを回避しなければならないと考えるだけでも煩わしくて、なにかアントニオの結婚の申し込みから逃れる方法はないものかと思案していた。
母が「黒い子」を産んでくれるなと言うからではなく、黒い子も白い子も黄色い子も産む気はないのだから、と言っても人種差別をしていると思われるのは間違いないのだ。
彼は、大学でもその問題で悩んでいる、と言うのだから。
たとえそれが結婚をしないひとつの理由のための表現なのだと理解してくれても、どうして結婚しないのかと問い詰められて、この黒人に納得させられる語彙の持ち合わせはなかった。
邪険に断るのはいままでよくしてくれていた隣人としての誼を断ち切ることにもなるし、それかといって承諾する気は毛頭なかったし、なんだか進退窮まったという状況なのが不本意だった。
日本人の佐藤肇や鈴木一誠という、普通の人よりは理解力のあると思える青年でも、わたしは一生独身でいるつもりなの、と言っても信じようとしないのだから、ましてやガイジンにわからせる困難さは、言葉というもののもつ意味まで問い直したくなるほどだった。
日本語で話して日本語を理解できるものが、こちらの本意を理解しようとしないのだから、それを外国語に翻訳して理解してもらえるはずはないのだ。言葉自体が不完全なのだと思ってしまう。
言葉というものに対する不信感をこんなに痛切に感じたことはかつてなかった。これほど言葉が抽象的なものだったのかという壁に突き当たったのは初めてのことだった。

柳子が毎日そんなことに思い悩んでいるのを視て、龍一とチヨが心配したが、その心配はありきたりな年頃の女の欝だというものなのだから、話し相手にもなれないのだ。
柳子には、ほかにそういうことを親身になって話せる相手もいなかった。たいていは両親と同じ解釈をするし、常識的に解釈しないで、深慮熟考する一誠も、結婚志望者のひとりなんだから、と柳子自身が思考の抜け道を閉ざしてしまう。
しかし、いよいよ追い詰められた苦しさに、はっきりした対策もないままに藁にも縋る思いになったとき、窮すれば通じるというのだろうか、ひとつの光明が射してきたから、これを救いの神というんだなあ、と信仰を持たない柳子が、一応太陽に向かって手を合わせた。原始宗教の源泉には、現代人も自然に本家帰りするのだ。
それは何かが閃いたからだった。これは絶対に成功するだろうという予感があった。
スイス人耕地で熊野を困らせてやろうと企てたコーヒー樹の苗抜き作戦は、結果的に父を困らせることになったけれど、熊野も困らせた効果は幾ばくかはあったのだ。
こんどの悪戯は、そういう損得抜きというよりは、どちらもが得することになるのだから、もしもわたしが仕掛け人だということがばれても、誰も怒るものはないはずだ。めでたし、めでたし、で一件略着するだろうことは間違いなしだ、と北叟笑む。
事の始まりは、田澤甚平の孫の誕生祝いに招待されたときに閃いたことだった。
隣の牧場の牧場主だけではなく、牧夫ぜんぶが家族連れで招待されるという大宴会になったのは、シュラスコ(焼肉)を主体にした宴会で、シュラスコをつくる熟練者が牧夫だし、ということからだったらしい。
アントニオも大学生宿舎からアラモに帰っていて参加するという。
アントニオに熱を上げている牧夫頭の娘ジーナも当然来るのだとわかったときに、これこそ千載一遇のチャンスだ、とまるで神の与えた啓示のように、柳子は小躍りして彼女のアントニオ対策の計画は確定した。
アントニオとジーナを強引にくっつけて、アントニオのわたしへの執着を、ジーナのほうに方向転換させるのだ、と。
シュラスコ用の肉をどっさり抱えてアドルフ一家と牧夫たちが来るなかに、ぴちぴちとした若いジーナも美しい笑顔で挨拶し、愛嬌を振り撒きながらいた。
ああ、あの娘だ。イタリア人特有の腰回りの大きな女丈夫といった感じだけど、なかなかの美人なのだ。アントニオは、こんないい娘が同じ牧場内に住んでいるのに、どうしてわたしのような肉体的に劣る、そして男の子か女の子かわからないような異質な娘のほうに、なんだかだと言い寄ってくるのだろうか、とふしぎな気がする。
物珍しさだけではないのか。そうだとすれば、もしもわたしが普通の女なら、大きな牧場主の大学出の若旦那から結婚を申し込まれたら、と仮定して、貧乏を売物にしているシンデレラのように、一も二もなく承諾し、結婚して、そしてすぐに飽きられて、夫があの美人のイタリア女と浮気して泣かされることになるだろう、と自分勝手な想像でつくった物語のなかで悲哀を託つ。そして、はははあ、とひとりで笑ってしまうのだが、その声は乾涸びていた。
まあ、わたしでなくても、誰か日本人の娘がアントニオから見初められて結婚して、そんな悲劇のヒロインにならないように、やはりわたしの計画を実行に移さなければならないと思う。
鷹彦さんが草葉の陰で、柳ちゃんは相変わらず月下氷人を演じているんだなあ、と笑うだろうなあ、と思って頭を掻きながら、積極的にアントニオとジーナを娶わせる計画を練る。
太陽が西に傾き、茜色が濃くなってゆくなかで、肉を焼く香ばしい匂いが田澤家の庭に満ち溢れ、人々の話し声が混戦するほどの賑わいになっても、アントニオは柳子の傍から離れないで、うるさく話し掛けてくる。
ピンガが男たちのあいだに行き渡って、アントニオの口臭も、動物的なあの匂いを消すほどになってきたのを見計らって、柳子は行動を起こす。
「ねえ、アントニオ、あなた、あなたのところの牧夫頭の娘さん」
「うん、ジーナかい。彼女がどうしたって」
「あの可愛い娘がね、あなたを好き好き好きで夜も眠れないほどだってよ」
「まさか、どうしてそんなことリュウーコが知ってるんだい」
「わたしジーナと仲良しになったんだもの。彼女すごく純情で、正直だし、家事万端は滞りなくこなせるし、そして夫婦にとってそれがもっとも必要な肉体が豊満で、きっと丈夫な子を産むだろうし」
 柳子は頭のなかに下書きしてあった筋書きを、なるたけ不自然にならないように抑揚をつけて言う。
「だからどうしたって」
 アントニオは、柳子がいっしょけんめいになっていても、感情に訴えてくるものを感じないのか、そっけなく先を促す。
「だからそうなのよ、結婚相手に最適だろうと思うし、たとえそうでなくても、男としてなんとかしてあげなくちゃ、あの娘いまに狂って悶え死にするかもしれないわ」
「まさかあ」
「そのまさかが実際に起こったとしたら、男らしく女の愛情を受け入れてやらなかったアントニオは、一生後悔することになるんじゃないだろうかと思って、わたしが橋渡しを買って出たのよ。アントニオは男でしょ」
「ああ。それは間違いなく男だよ」
「それじゃあ、その男っぷりのいいところを見せて欲しいわ」
「娘を相手に男っぷりを見せるなどというのはむつかしいなあ。相手が男なら格闘技で俺の男っぷりを見せられるけど」
「女相手でもできるじゃないの、抱いて、キスして、子を孕ませるのも男なんだもの」
 まあ、わたしとしたことが、よくもこんな三文文士のような筋書きを恥ずかしげもなく、露骨に口にできるものだわ、と自分自身で呆れながら喋っている。
「ああだめだめ、俺はリューコに惚れてるんだから、柳子の胎を膨らませることはできても、ジーナの胎を膨らませることはできないよ」
「わたしに惚れても結婚はできないわよ。立派な子孫を残せないわよ」
「どうしてだ」
「わたしは結婚しないで、一生独身でいるつもりなんだから、いつまで待ってても、アントニオに抱かれることはないもの」
「ほんとにそう思っているのか、俺が黒いからじゃないのか」
「わたしは人種差別などしないわよ。ブラジルにも人種差別があるって言ってたのは、アントニオあんただったけど、もしそれを言うなら日本人のほうがうんと差別されているんだものね」
「だから差別されているもの同士が愛し合ってもいいじゃないか」
「いまは差別の譚をしているんじゃないわ、あなたとジーナの話なのよ。男と女の話なんだから。とにかくジーナが、あなたの男性的な体躯と知性に惹かれて、あなたの夢を見るほど好きになっているんだから、それに応えてやるのが男じゃないかしらって言ってるのよ」
 柳子は、みずからが創作した人情劇を演じさせるために、いっしょけんめい言葉を選んで口説く。
 熱の篭もったその口説きが功を奏したのか、
「そんなこと言っても、俺」
 とアントニオが口を濁したから、ああ、ジーナの肉体を心に描いて迷っている、脈がある、と柳子は思った。
 なにしろジーナは何人もの独身牧夫が眼をつけている美人で、肉体的にも魅力に満ちた娘なんだから。
 牧夫たちは、ジーナが牧夫頭の娘だから手篭めにするわけにもいかず、そして誰が射止めるかと苛立っているはずなのだ。
アントニオにも関心がないはずはないのだ。おかしな日本人の娘が隣に引っ越してきたから、目移りしているだけなのだ、と柳子は客観的に判断して、きっかけさえつくってやればアントニオの関心がジーナのほうに向かうだろうと考えたのだ。
「誰もが涎を流すほどのジーナを誰よりも先に陥落させるのが、男の譽れというものじゃないかしら」
 ここを先途と嗾ける柳子の熱心さに、アントニオが心を動かし始めているのが、感覚的にだけではなく、表情がゆらめいたり、躰がねじれたりする正直さで、視えはじめる。
「アントニオ、ジーナが声をかけてきたら、色よい返事をしてあげてね。あの娘、躰は大きくても、すごく純情なんだから邪険に扱ったりしたらだめよ。結婚するしないはともかくも、女の情の深さを大切にしてあげてよね」
 そう言って柳子が、アントニオの肩をぽんと叩くと、分厚くて硬いアントニオの肩の筋肉が、柳子の手を弾いた。
柳子は、それがアントニオの返事のように思って、ちょっとむつかしいかな、と怯んだ。怯んだけれど、それで計画を中止するような柳子ではなかった。
 大ぜいのひとが行き交うあいだを抜け、談笑の輪をつくっている周囲を迂回してジーナを探し、西洋の剣にそっくりな金物に刺した焼けた焼肉を、配って歩いていた彼女をやっとつかまえ、
「ジーナさん、ちょっと」
 と呼び止める。
「ああ、牧場の隣のひと」
 ジーナの認識は、柳子がアントニオに言った親しさではなく、隣のひとという程度だったけれど、ブラジル人特有の柔らかい社交性で、
「コモヴァイ・ヴォッセ(ご機嫌いかがですか)」
 と挨拶する。
「トード・ボン(お蔭さんで)。わたしリューコ」
「ええ、そうでしたね、セニョリータ・リューコ。父からあなたのことは聴いていました」
「ちょっといいかしら、話したいんだけど」
「ええ、いいですよ」
「アントニオさんがね」
 柳子がアントニオの名を出しただけで、ジーナは顔を染めた。そして彼女の豊かな胸の隆起がいっそう膨らんだように視えた。
「わたし、アントニオと親しくしてるのよね。射撃を教えてもらったり、乗馬を教えてもらったりして」
「ええ、知っていますよ」
 ジーナの表情が揺らめいた。嫉妬しているのだとわかった。
「そういうことで、アントニオは彼自身の心情を正直に訴える相手にわたしを選んだらしいの。あのひと図体に似合わず気が弱いらしくて、ジーナさんに直接愛の告白ができないで、わたしにそれを訴えてきたの」
「えっ」
 ジーナが大きな眼をさらに見開く。すぐには柳子が言った言葉を理解できなかったのだろう、顔を傾げた。
「アントニオが、ジーナを好きなんだけど言えなくて、わたしに告白したのよ」
「まあっ、ほんとですかあ」
 ジーナは半信半疑だった。からかっているのではないかと思ったのだろう。
「ほんとうか嘘か、ジーナさんが直接アントニオのところに行って、アントニオが愛の告白をしてくれるのを待っていたって言ってごらんなさいよ。きっとその場で熱い熱いキスをしてくれるわよ」
 柳子がそう言うと、ジーナは顔を赤く染めていたが、
「ありがとうリューコ、互いの愛の告白が成功したら、アントニオとふたりで、あなたに最大のプレデンティ(贈り物)させてもらうわ」
 とはにかみながらも、うれしそうに、率直に言って柳子の肩を抱き、頬にキスした。
 柳子が予想したように、ジーナはアントニオに心を傾けていたのだ。ふたりを結び合わせるきっかけはできたと惟った。
「あなたのほうからも熱烈に愛の告白をするのよ。ぜったいにアントニオを逃がしてはだめよ。彼がジーナの将来を約束してくれる男性だって、わたしには思えるの」
 柳子は約束のできない未来を祝福して、キスを返した。
「わたし、正直に訊ねるけど、アントニオはリューコを愛していたんじゃなかったんですか」
「愛していたと思うわ。でもその愛は友情というだけのものよ。わたしもアントニオを好きよ。でも結婚相手としてではないわ。ジーナはアントニオの妻になれるもっとも最短距離にいるのよ。心のうちを思いっきり打ち明けたら道は開けると惟うの」
「ありがとう、リューコ。感謝するわ」
「情熱よ。情熱でアントニオの心をしっかり掴むのよ」
「わたし、やってみる」
 ジーナの固い決意が、眸のなかで燃えているのがわかった。気性の激しいというガウショ族の血を受け継いでいるのを、その眸のうちら側で物語っていた。
 ひょっとした思いつきだったが、ふたりの気持ちが的確に動いたのを視て、なんでもやってみるものだなあ、と惟った。
アントニオは、ジーナの情熱によって、否応なく溶解されることだろう、と柳子は確かな予感を得たのだ。
 田澤家の孫の誕生祝いは盛大に行われて、夜遅くまで賑わい、柳子はその賑わいのなかに紛れて、アントニオの視線の届かないところにと、意識して遠ざかっていた。
 ジーナがいそいそとアントニオを探して歩いているのは、視たけれど、そのあとの経過は知らなかった。

アントニオは柳子のところに現れないままサンパウロの寄宿舎に行ったきりになっていたし、ジーナの家は牧場のなかだといっても日本の感覚でいえば隣町ほど遠いところにあったから、会う機会もないままに何ヶ月かが過ぎてから、ジーナがひとりで馬に乗って、柳子を訪ねてくるまでは、その後の経緯はわからなかったのだ。
「あら、ジーナ。元気だった」
「リュウーコありがとう、わたしアントニオと結婚することになったの。これお礼なんだけど」
 ジーナが土産に腸詰をどっさり持って、その後の経緯を伝えに来たときには、もう彼女は妊娠しているのだと言った。
「じゃあ、あの夜に」
 柳子のほうが驚くほどの成果だったのだ。
やっほう、やったあ、と思わず心のなかで凱歌を上げた。
 ジーナが話したところによると、彼女が熱心に愛を告白すると、案ずるより生むが易しで、アントニオはすぐ抱擁して熱い熱いキスをしてくれたと言う。
 やはりアントニオも、以前からジーナを心にとめていたらしいのだ。その上に柳子が新聞記者になり、誰とも結婚しないで一生独身で通すのだという意思表示をしたことが、柳子を諦め、ジーナに鞍替するきっかけを与えたのだろう。
 アントニオが柳子に言い寄っていたので心配していたチヨは、柳子が策略して、そうなるように仕向けたことを知らないから、いくらドイツ人の血が入っているといっても、やはり黒人は信頼できない、イタリア系の娘と日本人の娘の両股をかけていたのだ、と誤解したが、もうジーナが妊娠していると聴いて、柳子が難を逃れたのだと、こちらがお祝いを差し上げなければならないほどだに、と大喜びをした。
 もう双方の両親が、結婚式の日取りを相談していると言う。
 しかしおかしなもので、ジーナがいっそう美しさを増し、幸せ一杯という顔を耀かせているのを視て、柳子は嫉妬を覚えたのだ。それは彼女自身が予期していなかったことだったから、どうしてぇ、わたしが望んで行動した結果じゃないの、と柳子は自分自身の感情のねじれを信じられなかった。
 アントニオとジーナがあまりにも似合いの夫婦に視えたから、わたしの内面に潜んでいた動物的な妬みの感情が芽を吹いたのだろうか、と惟った。
 でもそんな予期していなかった感情がわたしのなかにあったということは、わたしが冷酷な知性だけをひけらかす女ではないということだから、その点では救われる思いもした。
そんなことより何よりも、これでアントニオから煩く言い寄られることはなくなったのだから、という安堵のほうが大きかったのも事実だった。
 そんな事実関係がありながら、アントニオがサンパウロから帰ってきていると聴いても、向こうから何も言ってこないのが不気味だった。あいつ、何を考えているのだろう。やはりわたしが画策したことがわかって怒っているのだろうか。怒るのはお門違いと言うものではないか。みずからがジーナの魅力にまんまと絡め取られて自制心をなくし、妊娠させてしまったのだから、と柳子は視えないアントニオの姿に向かって口を尖らせる。
 それにしてもジーナと結婚するようになったことまで口を拭っているなどとは、あまりにもいままでの友情を蔑ろにするものではないのか、と柳子は憤懣遣る方ない。
彼はいったいジーナとの結婚をどう考えているのだろうか。ジーナの胎が膨れてきたからしようことなしに承諾したのだろうけれど、原因や理由がどうあれ、結婚を承諾した以上、もうわたしのほうに何も言えないことだけは間違いのないことだった。
 それで柳子は素知らぬ顔をして、アントニオのところに挨拶に行った。
「おい、アントニオ。リューコが来ているぞ」
 アドルフが声をかけても、なんだかぐずぐずしているから、
「どうしたのドエンチ(病気)なの」
 と柳子が、彼なら毒を飲んでも死なないだろうと惟って苦笑しながら、居間からアントニオの部屋のほうに行ってドアを叩くと、やっとアントニオが出てきた。
「大学卒業したんだって、おめでとう」
 柳子がジーナとのことは言わずに、大学卒業のことだけに祝福のことばを口にすると、
「まあな」
 と曖昧な返事だったから、
「どうしたの、元気ないじゃないの、アントニオらしくないわねえ」
 とからかうように言うと、
「ああ、リューコにまんまと嵌められて、酷い目にあったよ」
 と言ったから、
「何のことだ、リューコが何をしたんだ」
 とアドルフが怪訝な顔をした。
「俺、リューコと結婚したかったんだけど、ジーナの胎が膨れてきたから観念したよ」
 アントニオはやっとそれを口にして、はにかんだ。
「よくも言うわねえ、ジーナの胎が膨れてくるようなことをしたのは誰よ」
 まだ処女のはずの柳子から、顔を赤らめるようなことを、赤らめもしないで言われて、アントニオのほうが顔を赤らめる。
「はははあ、そのことか。儂もリューコに嫁に来てもらいたかったんだが、まあなんでも思うようにことは運ばんよな。おまえの父がそうだったんだから」
 アドルフがそう言って、炊事場のほうに頸を伸ばして、唇に指を当てた。
 その仕草で、はじめてアドルフとマリアとの過去が明るみに出て、
「ああ、アドルフ、白状したわねぇ」
 と柳子がアドルフに指を刺して、あはは、あはは、と笑った。
 いつまで経っても少年みたいな娘が、男のように笑うから、ふたりの男は呆気に取られてしまうだけ。
「なんだパイ、俺にそんな話しいままでしなかったぜ」
 アントニオもそう言って、あははあははと笑って、一件落着を観た。
「よかったわねえ、アントニオ、おめでとう。ジーナとは似合いの夫婦だわよ。体格といい色合いといい、試験管で調合してみなくてもわかるほどだわ」
「リューコには負けたよ、潔く兜を脱ぐよ」
「偉い、アントニオは男だよ」
「あたりまえだろ、女を孕ませたんだから」
「リューコの言う通りだ、良いも悪いもないさ。できたことに責任を持つだけだ。おまえがサンパウロに弁護士事務所を開けても、孫はここで育てるんだから、牧場の跡取はもう保証されているようなもんだ」
 アドルフがそう言ったから、ブラジル人でも日本人でも言うことは変わらないなあ、と柳子は、父と同じようにアドルフが跡取を意識しているのがおかしかった。
「そうだったの、アントニオ。あなたサンパウロに弁護士事務所を開けるの。じゃあわたしもそのうちサンパウロに出てゆくから、向こうでまたアミーゴになれるわねえ」
「おっ、そうかあ」
 アドルフとアントニオ親子が、同時に同じ感嘆詞を吐いて、アントニオが抱きついてきた。
「ほら、ジーナが来たら誤解されるわよ」
 柳子が、きょろきょろしながら言うと、
「リューコは特別さ。ジーナもやきもちなんど妬くものか。あいつがいちばんリューコに感謝しているんだから」
 と言いながら、いっそう強く抱きしめた。
「結婚式はサンパウロじゃなく、ここでしていってよね、わたし大いに祝福したいから」
 柳子が言うと、
「歩けなくなるほど腹が膨れてからじゃ、ジーナが可哀想だから、急いでしなくちゃ」
 とアドルフが言ったから、
「おやじ、俺のマンマのときは、おやじがぐずぐずしてるまに膨れすぎて結婚式どころじゃなかったんだろう」
 とアントニオが冷やかす。
「おまえ、胎のなかから観えてたのか。その通りだったよ」
 とアドルフが言って、大笑いになった。
 居間の大笑いに釣られて、炊事場から出てきたマリアが、
「どうしたのよ、三人がそんなに大笑いして、何があったのよ」
 ともらい笑いしながら訊ねた。
「なあに、おまえが大きな腹を抱えて結婚式もできなかった話さ」
 アドルフが言って、
「まあ、わたしの話だったの。いやだわねえ」
 とマリアが慌てて炊事場のほうに逃げて行った。
 コールタールのように艶のある真っ黒い黒人でも、顔を赤らめたのがわかって、柳子はいい観察ができたとよろこぶ。

 そんなことがあって、アントニオも柳子への拘りがなくなり、元の元気を取り戻したようだった。
 しかし快活さは取り戻したけれど、柳子を諦め、ジーナに乗り換えたというような気分にはなれないらしく、仕方なくといった感じで、ジーナとの結婚式をすることにしたらしい。
 それは印刷された普通の招待状の横に、アントニオの手書きで「特別招待状」と書かれていたことからも窺がえた。
 その招待状を持っていって、
「これはどういう意味なの」
 と柳子が訊くと、
「意味などないよ、リュウーコは俺の特別に招待するべき人だからさ」
 と言ったけれど、意味などないはずはなかった。
 日本の結婚式は「式」よりも「宴」を重視するところがあって、人と人との「縁」に拘るところがあるが、西洋の結婚式は、まず「式」を大切にする。結婚式と言えども契約という考え方が勁いからだった。
 最初の式は、オフィシャル・セレモニーであって、マリッジセレブレイトの立会いで婚姻届にサインをするのだけれど、それで二人が完全に結婚できたわけではない。市役所の掲示板に誰と誰が結婚するというのを張り出されて、異議を申し立ててくるものがいないのを確認してから、結婚証明書を受け取って教会に赴き、キリスト教会でプライベート・セレモニーによって、司祭からまた参列者に向かって二人が結婚することに異議のあるものがいるかいないかを確かめてから、婚姻の宣誓をして、エンゲージ・リングを左手の薬指に嵌め、はじめて夫婦になれる。
なぜ左手の薬指に夫婦になる男女が金の輪枷を嵌めるかというと、左手の薬指を通っている神経が直線的に心臓に繋がっているから、と思われているかららしい。ということは、互いの心臓に枷を嵌めて、重圧を加え、常に契約違反を行わないように意識させる必要があるからだろう。それをひっくり返して考えると、それほど違反行為が多発するからだといえる。それをもう少し折り曲げて考えると、金の指枷を嵌めても、それは気休めであって、大した役目を果していないということになるのだけれど。
 一応文明社会では、表向きはそういうことになっている。そういう手続きを踏めない文明社会から遠隔地にあるブラジルの東北地方の、貧困だけを抱えていて、教養の持ち合わせがない下層階級のものは、式や宴会を省くだけではなく、婚姻届もしないし、子の出産届もしないものが多い。生まれてきた子も、俺なんぞどうせこの世に用はないんだと思うのだろう、多産だし、自然淘汰もあってだろう、生後何ヶ月もしないうちに土に帰ってゆくものが多いから、出生届などしっかり少年に育ってからでもいいのだ。誰の子かという追及も、そのころには忘れられているだろうから。
 アントニオは経済的にも、教養の面でも恵まれていたから、役所の式と教会の式と披露宴での式と、三回の式を終えてから、宴会を宮廷の園遊会のようなガーデン・パーティをすると言う。
 ご苦労さんなことだ、と柳子は惟った。
「それで、できれば正装して参加してもらえれば。仲人のジンペイ・タザワはハオリ・ハカマで来てくれると言っているんだがね。リューコのファミリアも媒酌人の横に並んで欲しいもので」
 アントニオがそう申し込んできたから、ご苦労さんなことだ、と笑った内藤の家でも大騒ぎさせられる嵌めになった。
 大騒ぎしたのは龍一と柳子で、チヨは中くらいの騒ぎ方で済んだ。というのは、舅から「大会社の派遣社員で出張するのだから、公式の場に出なければならないこともあるだろう。柳子のも誂えて三人分の本式の礼装を持ってゆくように」と言われて晴れ着を持ってきていたからだった。
 龍一は、チヨに向かって、ブラジルに行くから身の回りのものを荷造りしてくれ、と言ったけれど、日常に遣う趣味の茶器などを指示したほかは、彼自身は荷造りを手伝うでもなく、外をほっつき歩いていて、荷のなかに何が入っているのかも知らなかったのだ。
 姑も口は出したけれど手は出さず、そのくせチヨに手を貸した舅に向かって、親切すぎると皮肉を被せた。
 その梱包がスイス人耕地に届けられたときには、必要最小限の荷解きをして、すぐに必要でないものはそのままにしてあったから、さあ、あれが要るとなると、荷物をひっくり返して出さなければならなかったから、居間じゅうに箱詰めしてきた衣装箱の蓋を取り、ぎっしり入れてきたナフタリンの匂いを嗅ぎ、香がまだ残っている畳紙を開き、三人分の衣装を虫干しするのが大変だった。
「まあ、お母ちゃ、こんなものを持ってきていたの」
 柳子が驚いて言ったが、龍一はむつっと苦虫を噛んでいた。
 龍一のは、黒紋付の長羽織に縞平袴。チヨのは黒留袖、帯が唐織、襦袢は白の綸子、帯〆も白の丸ぐけという上品な衣装だった。
 柳子にと、一越の本振袖に襦袢、帯、小物類も揃えてきたのに、
「そんなものわたし着ないわよ」
 と一言の元に刎ねつけられた。
 それはチヨも、予想していたことだったから、大きな落胆にはならなかったが、アントニオと一緒に町に行って、タキシードを新調すると言い出し、困った顔をした。
 もう結婚が決まった黒人だから少しは安心していいのだけれど、それだからこそ、その男とふたりで腕を組んで街の中を歩いてはいけないのではないのか、と気を遣うのだ。
 チヨが心配したとおりに、柳子は、アントニオが買ったばかりの大型車の助手席に得意満面で同乗して、出て行った。
 アントニオがモーニングを新調した店に行って、柳子がタキシードを新調するのを喜んだのは、洋服屋はもちろんだろうが、それ以上に大喜びしたのはアントニオだった。
「リューコには男装がもっとも似合うよ」
 アントニオは、柳子に囁き、洋服屋には、
「こいつはまだ初心だからな、股繰りは適当でいいよ。あまり丁寧に触ると悲鳴を上げるからな」
 と注意を与えた。
 柳子には、アントニオがどうしてそんな注意を洋服屋にするのか、理解できなかった。いままで既製服の少し大き目の、男性用上着やシャツやズボンを買ってきていたから、洋服屋が躰を撫でまわして寸法を取ったり、仮縫いのときに、股間の収まり具合を掌で確かめるなどということを知らなかったのだ。
 アントニオと柳子は、寸法取り、仮縫い、手直しと何度もふたりで町に出て、出てゆくたびに昼食をともにして、ときにはふたりで映画館に入るなどしたときには夕食もともにした。
 アントニオが大喜びした理由が、柳子にもわかった。大っぴらな理由でデートを楽しめるからだ、と。
「これでリューコと結婚できなかったことを諦められるよ。ずっとアミーゴでいてくれよ」
 最後にアミーガ(女友達)ではなくアミーゴ(男友達)と言ったのは、柳子が洋服屋に手伝わせて男物のタキシードを着用したときだったから、日常にもずっと男装で通している相手を、洋服屋は、男同士の友愛だと勘違いしたように感じたかもしれなかった。
「もちろんだよ、アントニオ。きみとの友情は永遠だよ」
 その点ではポルトガル語は気が利いていて、あなたでもきみでもおまえでも「ヴォセ」で済むから、柳子も男っぽくそれに応えた。
 だから洋服屋は、何度も柳子の躰じゅうを撫で回して頸を傾げながらも、柳子が女性であることを最後まで確認できなかったのだ。
 映画館の暗がりのなかで、
「最初で最後のキスさせてくれないか」
 とアントニオは、強引にではなく遠慮がちに申し込んできたから、
「同性愛みたいになるわね」
 とくすっと笑い、
「去るひとへの餞よ」
と柳子は眼を瞑って、唇を突き出した。
 肇が求めてきたときにはあれほど抵抗した柳子が、アントニオに簡単に許したのは、こんな場所で強姦される心配はないだろうと惟ったこともあったが、彼が言うように、これが最初で最後になるだろうと惟ったし、ジーナにまんまと誘惑されてしまった男の弱さに同情して、それを目論んだ元凶としての疚しさもあったのだろう。
 アントニオは昂奮していたけれど、荒々しくはせず、ゆっくり丹念にキスをした。
 長い長いキスに柳子は耐えた。耐えがたかったのは体臭だけで、それに勝る興味と、これでアントニオも満足してジーナと結婚できるだろうと思うある種の未練があって。
 そうだ、そうなのよ、結婚ということがいろいろな行為について回るから、自由に振舞えないのよね。肇とこんなキスをしたら、その次に起こることは目に見えている。それを許すと夫婦にならなければならなくなる。アントニオとはこれが別れの儀式になるのだから、と柳子は自分自身に言い訳をした。
「アントニオ、わかってね。わたしは子を産めない躰なの、だから結婚できないのよ。アントニオの気持ちはうれしかったわ。だからジーナをわたしの身替りだと思って、ずっと愛してやってね」
 嘘を言った柳子の気持ちを、アントニオはそのまま正直に受け取ったのだろう、
「うん、いいよ。そうするよ」
 とすがすがしく返事した。
 こんなに気持ちのいい別れ方をできたのが、柳子にもうれしかった。騙して悪かったわねえ、と心のうちで謝った。どうしても子を産むことにまつわる行為を下等なものと惟うことから抜け出せない柳子だったのだ。

 市役所での結婚届には田澤夫妻が行って、保証人としてサインをしたが、教会での結婚式では、内藤一家がもっとも近しい親戚でもあるような扱いをされた。
アントニオが、これは特別な招待状だよと言った意味を形にして見せたのだ。
教会の最前列中央の座席に「リューコ・ナイトーのファミリアの席」と書いたカードがぶら下げてあったのを見てもそれがわかった。
 ジーナは、それをアントニオとの仲を取り持ってくれた大切な人への礼儀だという解釈をして、悪びれるところはなかったけれど、柳子はそういう意味ではないと思った。
 アントニオは、精神的な妻と、肉体的な妻と、二人の妻を娶ったつもりに違いないと惟った。そしてそれを柳子は許した。
 彼女には以前からそういうことを許せる曖昧さがあったから、アントニオにキスさせたのだし、肇には許したのではなかったけれど、相手が強引にでもキスできる油断を与えていたのだろう。
 龍一とチヨは、教会に行くのにタクシーを呼んでもらって行ったのだが、指定された場所に腰掛ける前に、教会の入り口で参会者のガイジンたちに取り巻かれてしまった。
 羽織袴と留袖という出で立ちは田澤夫婦もそうだったのだが、彼らは早くから祭壇の横に参列していたし、古くてくすんだ色合いだったから目立たなかったのだろう。
龍一の羽織袴が折り目の真新しさと、チヨの黒留袖の模様の艶やかさが際立っていて、日本人の眼も惹いたほどだったから、ガイジンにはいっそう珍しくて、なんだかだと質問されるのだが、少しは通訳が勤まる柳子が、どこに行ったのか傍にいないものだから、言葉のわからない二人は立ち尽くすだけだった。
 教会の祭壇の横に、アントニオと、アドルフ、マリア夫妻と、田澤夫妻が並んで、反対側にジーナの母親と、兄夫婦と、叔父夫婦が並んで、花嫁の到着を待っていた。
 花嫁ジーナは、田澤の家で花嫁衣裳を着てから、父と大型乗用車で教会に来る段取りだという。
 アントニオは、モーニングの三つ揃えに立て衿シャツを着て、白のチーフはスリーピーク挿し、アスコットタイを締め、窮屈そうに何度も頸を捻って、汗をたらたら流していた。
その汗を拭うためにハンカチーフを顔に当てるたびに、両穴本釦の白蝶貝のカフスボタンがきらきら光った。
大型乗用車が到着し、ジーナの父が娘の手を取り、教会の入り口を荘厳な曲に導かれて入ってくる。
子どもが二人、ジーナのウェディングドレスの長い裾の端を持ってついてくる。
通路の両脇にいた参会者たちが立ち上がっていっせいに視線をジーナに集中する。
その人垣のあいだを進んでくるジーナは、レイズベールを降ろしているから顔は視えなかったけれど、上背のある豊かな肉体をゆったりした純白のウェディングドレスが包んでいて、胎が相当に膨らんでいるのが目立たないほどに楚々とした風情に視えた。
白い花を丸く束ねたブーケが、小刻みに震えつづけているのが印象的だった。
祭壇の前まで父親に付き添われてきたジーナを受け取るべく、アントニオが祭壇の横から降りてきて出迎える。
黒いモーニングを着たアントニオの黒い肌と、純白のウェディングドレスに覆われたジーナの白い肌とが接すると、その対照の妙が違和感としてではなく、ブラジルの未来を象徴しているかのように受け取られた。
互いの先祖の、民族の違いなどわからなくなる将来には、きっと世界に平和が遍く広がるだろう、と言った川田鷹彦のことばを信じるしかないいまの光景だ、と柳子は感激した。
ふたりが結婚することに異議の申し立てをするものが居れば市役所に申し出るように、という通告はすでに市役所の掲示板に貼り出されていたのだが、役所での式とは違うのだという権威を示したいのだろう、教会のなかに参列したものに対して、また司祭が、異議を申し立てるものはありませんか、と問い掛ける。異議を申し立てたいものは牧場のなかに大ぜいいただろうけれど、それは正当な言いがかりではなかったから、教会のなかで手を挙げるものはなく、声を発するものも居なかった。
アントニオとジーナが、互いに夫婦になることを宣誓し、永遠の愛を誓って、司祭から祝福の言葉を受け、エンゲージリングを互いが左の薬指に嵌め、アントニオがジーナのレイズベールを上げて、キスする。
参会者が、いっせいに拍手する。
アントニオとジーナが腕を組んで、人垣のあいだを通って教会の外に出て、横づけされていた大型車に乗り込んで、牧場のほうに先に帰ってゆく。
披露宴はアドルフ牧場の片隅に設えられた柴垣のなかで行われるので、教会にきた参会者を街で雇ったタクシーに分乗させて牧場まで列をなして運んでゆくので、しばらくのあいだ教会の前で混乱がつづいた。
しかし、牧夫や牧夫の妻たちが時間を見計らって、ガーデンパーティの用意は万端整っていたから、全員が到着するとすぐ宴会が始まった。
披露宴のキャプテンはアントニオの学友で、キャプテンに選ばれるだけあって要領よく告げる式次第にしたがって、宴会はスムーズに運んだ。
天幕の張られた陽かげのなかから市長と警察署長が述べる祝辞も、おしゃべり好きなものの多いガイジンにしては、珍しく短くすんだ。キャプテンが時間を切っていたからだろう。
ガーデンパーティは、ビュッフェスタイルで、南から流れてきた牧夫が多いせいだろうし、新婦ジーナの父がガウショといって南伯の草原地帯を駆け回ってきた気象の激しい牧夫だから、野趣に富んだ焼肉パーティになるのは当然で、黒い帽子に、白いシャツ、赤いハンカチを首に巻き、革の膝当てをがさがさ音立てて、長い剣に何段にも肉の塊を刺して焼いたものを配って歩くのが、野趣に富んでいて、参会者をよろこばせた。
アントニオとジーナは、アーモンドを砂糖でコーティングしたフランスの菓子ドラジェを配って歩くのに歩き回っていたから、さぞや疲れることだろうと、柳子が気遣うほどだった。
それでもジーナが終始にこにこしていて、幸せを一身に集めているようだったから、アントニオの執心を肩代わりさせた柳子も、こんなうれしいことはないという顔で、田澤の家族の誰彼を捕まえて喋るのに余念がなかった。
ひとりアントニオだけが、教会の式のときから披露宴になっても、ずっと浮かぬ顔をしていた。
なんだろうこの黒熊は、最初で最後のキスをさせてくれたら、気持ちをジーナのほうへ入れ替えるからと言ったから、アントニオが満足するまで、長い長いキスをさせてやったのに、諦めの悪い男だ、と柳子は頬を引っ叩いてやりたい気分になった。
そう思うともう我慢のできない柳子だから、ふたり並んで歩いている新郎新婦の傍に行き、ジーナが参会者に愛想を振り撒いている隙に、アントニオの袖を引っ張り、
「そんな顔をしているときじゃないでしょ。キスさせてやったんだから、潔くしなさいよ。できなければ、わたしはあんたをぶっ叩くからね」
 と低い声で厳しく言った。
 アントニオはびっくりして、周囲に気遣ったあと、しいい、と口に指を当て、
「リューコわかってるよ、そうじゃないんだ、俺、朝から腹具合が悪くて困ってるんだよ」
 と、ほんとうか嘘か腹具合のせいにした。
 まあそれでも、滞りなく披露宴を収めて、新郎新婦二人はアルゼンチンに向かって、新婚旅行に出て行った。
 やれやれ、めでたしめでたしでした、と柳子は肩の荷を下ろした気分になっているところに、アドルフがやってきて、
「あの純白の衣装をリューコに着て欲しかったんだよ」
 といまごろになって愚痴を言った。
 柳子に執心していたのは息子だけではなかったのだ。もう息子の新妻の胎のなかには、孫になるはずの生き物が手足を動かし始めているのに、その新生児の祖父になる男まで、いまからもう嫁いびりをしそうなことを言うから、
「どうしていまさらそんなことを言うのよ」
 と柳子が抗議すると、
「ジーナは美人だけど、頭が薄くてね、この牧場の嫁としては、リューコの勝気で聡明な女性を欲しかったんだよ。生まれてくる子が違うものね」
 と本音を吐いた。そして元気のなさそうな笑い方をした。
「アドルフは何を言ってるんだ」
 龍一が訊ねるから、柳子が通訳してやると、
「あんなにいいお嫁さんはいませんよ。お似合いのご夫婦ですよ」
 と龍一が何かを言いだす前に、チヨが言ったから、柳子と龍一が驚いた。
滅多に自分の意見など言ったことのないチヨだったのだから。
 チヨの言ったことをアドルフに通訳してやると、
「おお、チヨサン、ありがとうね」
 とアドルフは一応の礼は言った。そして、
「マリアは喜んでいるんだがね、白い子が産まれるだろうねえと言ってね」
 とファミリーとしては、それほど問題のなさそうな締めくくりようだった。
どちらの精が勁いだろう。真っ黒の子が産まれるか、白い子が産まれるか、褐色の子が産まれるか、学術的な関心を示して、さあ、この結果はどうなるだろう、と柳子は、まるで犬の子の産まれるのを待っているような気持ちで、この後のことに大いにあたらしい興味をつくって楽しそうだった。
アントニオはサンパウロ市で弁護士事務所を開くと言っていたから、わたしがサンパウロに出て行けば、まだまだ交際はつづくだろう。アントニオとジーナのその後を見届けることもできるだろう、と柳子の興味は尽きない。
チヨももっとも大きかった心配が解消して、アドルフに愛想を振り撒いていた。
龍一は、いやにうれしそうなチヨと柳子を視ながら、なんでこんなに他人の結婚したことを喜んでいるのか、とおかしな顔をしていた。
柳子が画策して大騒ぎを起こした隣の牧場も、広大な地域のどこに牛が放ち飼いされているのかわからない静けさを取り戻して、ときおり遠いところで牛の啼く声が聴こえるだけになった。
「花の碑」 第十三巻 第六七章 了
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