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「花の碑」 第十三巻 第六五章 |
内藤柳子は、女学校に行くようになると、叔父の蔵書の中から、とくに恋愛ものを漁って読むようになったし、クラスメートのなかでも話題になるのは男女関係のことばかりだったのだが、男性が叔父ひとりという、ほかに交際するような年齢の男性も近くにいなかった環境で思春期を迎えたから、ブラジルに来てはじめて、これが初恋というものなのかなあ、とまだあやふやな思いながら、川田鷹彦と交際を深めてきたのに、性的な情感に乏しかったからだろう、相手の男性の、性的焦燥感などには一向に気づかなかった。 そして、十七歳から十八歳になったときになんとなく少女から抜け出して、躰も心も娘に変貌するのは感じながら、鈴木一誠と佐藤肇が、柳子に対して男性の性的な範疇において強い関心を抱きはじめているのにも、心をときめかせるというようなことはなかった。 まして、アントニオとジョゼーが、自分をなかにして、それぞれの心に葛藤を生じはじめているなどとは、夢にも思わなかった。 チヨひとりが、取り越し苦労をして、気を揉んでいた。しかしそれは、娘をあいだにした男の葛藤としてではなく、男と女ぜんたいの性にまつわることとしてだった。 人間の心のゆらめきというものが、国を異にしても、人種が違っても、男女のあいだに起こる感情の動き方はほとんど変わらないものなのだと、飜譯小説を良三から借りて読んできたチヨでも、それは物語であって、自分自身の周辺で起こる切実なことではなかったのが、いまはそれが手を触れられるような、ガイジンの体臭が臭うような間近で得た体験と認識によるもので、心を乱していたのだ。 それとともに、子を産んだことの経験があるだけに、そしていまも、その行為を疎ましいものと思いながらも、妻として拒否できないものとして、男の性器を受け入れている日常性から考えを延長させると、そこには気の狂いそうになる動物的な禍々しい行為がまざまざと脳裡に再現されて、娘であれ自分自身であれ、ガイジンの男性性器を挿入される日があるかも知れないと思うと、もうそれだけで吐き気を催すほどの恐慌状態になってしまうのだ。どうぞそんなことが起こらないようにと祈る気持ちが、日に日に勁くなるばかりだった。 もしも自分自身が襲われて不可抗力にでも夫以外の男の男性性器を挿入されても、決して声を立てず、禍の通り過ぎるのをじっと耐え忍び、夫にはもちろん、娘にも言わず、川に身を沈めて自害すればいいけれど、柳子の上にはそんな禍が起こりませんように、娘がそれをされるのは、正式に結婚した初夜でありますように、と祈るしかなかった。 そんなチヨの、生々しすぎるけれど人間社会ではありがちな、普遍的な憂慮に心を震わせている小心さとは関係なく、もう遠くなってしまった日本の戦争の様子が、忘れてはならないもののように、ブラジルまで伝わってくるのもまた、心にざわめきを起こす要因になっていた。 スイス人耕地にいたあいだは、川田鷹彦が邦字新聞とブラジル新聞を読んでいて、柳子に情勢を伝え、龍一とチヨは柳子を通じて日本の情報を、言葉通り又聞きとして得ていたのだが、それが祖国のことなのに少しも切実さを覚えなかったのは、身内のもので戦場に狩り出されたものが居なかったからかもしれなかった。 柳子がアラモ青年会に入って、やっと無人島から文明社会に戻ってこられた思いがあったのだが、柳子の提案で邦字新聞を購読するようになって、日本語で書かれた新聞を、みずからの眼で読めるようになると、切実に訴えてくるものを感じた龍一だった。 それを柳子が、感覚的にはまだ対岸の火事のような気がすると言ったから、龍一が顔を真っ赤にして、 「対岸の火事とは何事か、日本では畏れ多くも天皇陛下の御心を奉って、国民全部が聖戦のために一致団結、大東亜建設のために御奉公しているというのに」 と、まるで小学校の校長先生が白い手袋をズボンの縫い目に添わせて直立不動の姿勢で、全生徒に向かって訓示を垂れるような、しゃちほこばった口調で言ったから、チヨは眼を白黒させてしまった。そんなことは日本に居るときでもブラジルに来てからも、ついぞなかったのだから、これは邦字新聞を読むようになった悪影響だと惟った。 柳子が、けらけら笑って、龍一をいっそう怒らせた。 まさか父が、それほどまでに真剣に、戦争や天皇陛下に関することを考えていたとは知らなかったから、柳子はそれに関する事柄を食後の茶飲み話にしてはいけなかったのだと認識を新たにさせられた。 人目の届かないところでは、女と反道徳的なことをする龍一が、こと天皇陛下や戦争の話になると、まるで人格が違う人間のようにまじめになるのだから、父とじゃれ合うような議論をするのが好きな柳子でも、戦争と天皇に関する限り冗談にしてしまえなくなってしまう。 そんな父の姿を見て、柳子は、佐藤肇が父とそっくり同じだと思い出していた。 ちょっと噂を小耳に挟んだだけだったから真相はどうなのか知らなかったが、女にはだらしがないという佐藤肇も、彼の父親から徹底的に叩き込まれた軍国主義を遵奉していて、クリスチャンの鈴木一誠と、ことごとに対立するのを、柳子も見てきたから、父と肇の相似性を思うとともに、それだから父には肇が頼もしい青年に視え、婿候補の第一人者に立てているのだと認識せざるを得なかった。 隣のアリアンサ植民地でも、戦争に関しては、概ね龍一と同じ考え方でいるらしい、と一誠が言っていた。それが日本人の一般的な思想的傾向であるようだった。 植民地建設に率先した永田稠がプロテスタントだったからアリアンサと名づけたのだし、天皇を神と考えることはないはずだったが、それはまだ世界がきな臭くなかった時代のことで、世界中が戦争に巻き込まれるようになると、どの民族もみずからの民族意識を掻き起こされるのを否めなかったのだろうし、移民してきたもののなかに、軍国主義に凝り固まった元軍人や、縦社会を生真面目に考える天皇陛下に忠誠を誓う官吏も、移民のなかにいたのだから、とうぜんだっただろう。 ましていまは、初期入植者の流出、他県人の転入などがあって、建設当時の開拓精神がそのまま受け継がれているわけではなかったから、キリストを唯一神とすることを声を大にして主張するわけにはいかなかったし、戦争忌避を公に口にするものはなく、反戦思想を顕わにすることも憚る風潮は、日本国内にいるのと変わらなくなっていたのだ。 しかし、日常生活のなかでは日本にいるのとは違って、しょっちゅう戦争を話題にすることはなく、まして天皇陛下を頭において働いているものもなく、どこの移民社会でもそうであるように、もっとも大きな関心事は、農作物の価格の変動であり、作付けに関する情報だった。 棉がいいらしいと聴けば、棉作に切り替えたり、薄荷の値がどんどん上がっていると聴くと、作付けを変更したりというように、遠い日本の戦争のことよりも、経済に直接繋がる農作物のほうに関心が傾いていて、移民の移動もそれに沿ってなされているようだった。 いまもっとも日本移民たちの関心を惹いているのは、土地が肥えていて、どんな作物にも適しているという北パラナに関する情報で、もっとも日本移民の多いサンパウロ州からパラナ州に向かって、移民の大移動がみられる状況だった。 そういう状況のなかでも、日本の戦況が耳に入ると、そっぽを向くものはなく、日常的には心の底に仕舞ってある民族意識を抽き出してきて、日本の軍隊が世界制覇を成し遂げる日がすぐにでも来そうに、莞爾とした顔を見合わせていた。 一月に入って早々に、戦争の拡大を阻止しようと努力していた第一次近衛内閣が総辞職して、軍部が政治を掌握する平沼騏一郎内閣になり、全アジア掌握の手を広げていたのだが、二月十日に海南島に日本軍が上陸して占領したというニュースが伝わると、アジアを侵食しつつある白人支配から、アジア民族を救って、秩序ある大東亜の建設をするための聖戦なのだ、という軍部の宣伝を信じて疑わない多くの日本人たちは、日本軍の破竹の進撃に、やんやの拍手を贈ったりした。 中国や朝鮮からの政治亡命者を匿う秘密組織のなかにいた川田鷹彦の反戦思想とは違って、クリスチャンとしての平和思想から戦争に反対している鈴木一誠は、鷹彦のように日本が侵略戦争をごり押しに推し進めてアジア全域を支配下に置こうという野望に狂気しているのだ、などとは考えていなかったし、そういうふうに柳子に向かって言ったことなどなかったのだけれど、佐藤肇に言わせると、たとえ消極的であっても日本の国策に協力的ではないものは日本人ではない。鈴木はブラジル産まれの二重国籍者だけれど、精神的にも肉体的にもブラジル人そのものなのだ、と非難していた。 ブラジルで産まれて、ブラジルに住んでい るものは、両親が外国人であっても、全てにおいてブラジル国民なのだと法令によって決め、そのように登録しているブラジル政府にとっては、佐藤が鈴木を非難するように、肉体的にも精神的にもブラジル人でなくては困るから、ジェツリオ大統領が外国語の教育を禁止する所以もそこにあるのだが、ブラジルに移民してきているといっても、アリアンサ植民地に日本から直接入植して永住するつもりでいるもの以外は、ほとんどのものが出稼ぎに来ているという考えが、いつまでも抜けきれなかったから、金輪際自分の子をブラジル人などにする気持ちはなく、日本の法律を遵守して、日本国領事館に出生届を出していた。 親は自分の子を日本人だとしか思っていなくても、両国の政府に出生届を出された子のほうは二重国籍者という狭間に嵌まり込んで苦悩することになるのだが、非情に頑固で融通性のない父親は、子弟のそんな精神的苦悩などに心を配るものはいなかった。 二世がそれを口にすると、いっそう片意地を張って、 「外国人に外国語を教えてはならないなんぞという、わからんことを言う国にいつまでも居れるものか、どうせ日本に帰るのだから、ブラジルの学校になんぞ行かなくてもいい」 と言って、鈴木ら青年たちが、こっそり日本語の読本を教えてくれるのをいいことにして、ブラジル側の正規の学校教育を受けさせない親が大ぜいいた。 そういう家の子弟は、まだ柔軟な精神構造を狭量な民族思想の偏狭な型に嵌め込まれてゆき、彼らにとっては幻でしかない東洋の島国ジャパンを祖国とする、観念的な祖国愛を強要される結果、宗教的な狂信者と同じ精神主義的なヒステリー状態になってゆくのだった。 たとえプロテスタントであり、反戦思想を持っている鈴木一誠でも、日本の教科書による修身教育は、根底にある儒教的道徳観によって作られていて、忠君愛国の帝国主義を国是とする日本精神であっても、それを教えるほかには方法を知らなかった。 キリスト教的寓話などを話すと、それが生徒から親に伝わり、親たちから、西洋の思想を生徒に吹き込む不埒な先生だと排斥されるのは畢竟だった。 日本人の教育熱心は歴史的なもので、明治五年に近代的な教育制度を創始されたのは画期的なものだったが、その基盤となるべき風潮はすでにあったのだ。 ブラジルでひとつの植民地が造成されると、ヨーロッパ人はまずキリスト教会をつくり、それを中心として町づくりを考えるけれど、日本人はまず学校を建てることを考える。 そういう日本人の向学心は、その発端を室町時代にみることができるが、江戸時代には一部の武家社会だけに留まらず、庶民のなかにも浸透していたのだ。 徳川幕府は、武家社会にだけ教育を施すために学問所を設けたり、学者の家塾に通学させたりしていたが、儒学だけではなく、国学のための和学講談所や和漢医学のための医学館、西洋医学のための医学校、西欧近代学や外国語を修めるための学校も設立していた。 そういう向学心は庶民のなかにもあって、四書五経の読み方、文字の手習いのほかに算盤を用いて計数の学習をする手習い所を設けた。それを寺子屋といった。 そういう日本人の学問好きが、明治に入ってからの学校制度の創設に大いに役立ったのだといえるだろう。小学校、中学校、大学校という段階的な教育方針も、学校制度の立案のときに建てられていた。そして教員養成の師範学校の創設も逸早く考えられたことだった。 はじめの学校教育は、文明開化のひとつの標識ということで、その参考を欧米に倣ったのだが、学制頒布から十年を経た頃、東洋の道徳に基づいて教育の本末を正さなければならない、と明治天皇を中心とする権力中枢からの発言によって、教育の根本を改めることになり、仁義忠孝を基本とした徳性を涵養し、その上で知識技芸の教育を行うようにと、教育の基本的思想を確立したのだった。 そういう思想によって、明治以来の学校教育がなされたのだから、教育勅語に書かれていることを日本人の精神として、絶対的支配者である天皇への崇拝と忠誠を根本理念とする皇国史観に疑いを持たないものたちが指導者であり、それを信じた庶民が、日常的な生活の基準にしてきたのだから、ブラジルの日本人社会も、世界制覇を目指す日本政府の軍国思想にどっぷり浸かっていてとうぜんだったのだ。 欧州ではヒトラーが、「ドイツ民族がもっとも優秀な民族なのだ」と、世界制覇を目指して、いよいよナチス党の強化を図っていたが、日本の政府も「日本民族の優秀性」を説いて、アジアだけではなく、世界の盟主たらんとする宣伝に躍起になっていたのだ。 ブラジルの日本人社会でも、領事館を通じて、日本の国策に沿う教育を徹底するように指導者を自認している階層に通達があり、サンパウロ市の教育普及会もその線に沿って、奥地の日本人社会にも巡回指導をしていた。 内藤柳子は、思想的な偏りを持っていたわけではなかったし、東京にいたときに影響された雅子叔母の、婦人解放運動の影響を受けて意識の目醒めはあったが、天皇制に疑義を挟むようなものではなく、修身教科書に書かれていた精神の基本的な在り方を否定するようなことを教わったわけではなかったから、まだ確立していないみずからの精神構造に拘ることはなかった。 ブラジルに来てはじめて、クリスチャンが世界に唯一人イエス・キリストだけを神と考えるがために、天皇を神と崇めることはできないのだということを須磨子から聴き、口外 無用のこととして鷹彦からも天皇は決して神ではなく、生々しい権力闘争を繰り返してきた政治的権力者にすぎないのだ、と聴いて、そういう非国民的思想で生きている日本人もいるんだなあと思ったけれど、それを取り立てて追求したこともなく、深く考え込むこともなかった。 鈴木一誠に対しては、軍人精神などを子どもに教えるのかという疑問を質したことはあったが、柳子自身が、子どもに軍人精神を教えなければならないという義務感を感じない気安さからだろう、教育勅語を訓えることについては、なんら考慮する気持ちなど起ころうはずはなかった。 「茂男くん、あんた教育勅語をぜんぶ暗記してるの」 柳子が受け持っている区域では、一番年長者である五年生の中田茂男に訊ねると、 「うん、はい、知ってます」 と言うから、 「じゃあ、皆に聴こえるように大きな声で暗誦してください」 と促すと、 「大きな声で言うてもいいの」 と茂男から反対に注意されて、 「外に聴こえないくらいの声でね」 と柳子は訂正して、頭を掻いた。 「朕惟うに我が皇祖皇宗國を肇むること宏遠に徳を樹つること深厚なり我が臣民克く忠に克く孝に億兆心を一にして世々厥の美を濟せるは此れ我が國體の精華にして教育の淵源亦實に此に存す爾臣民父母に孝に兄弟に友に夫婦相和し朋友相信じ恭儉己れを持し博愛衆に及ぼし學を修め業を習い以て智能を啓發し徳器を成就し進んで公益を廣め世務を開き常に國憲を重し國法に遵い一旦緩急あれば義勇公に奉じ以て天壌無窮の皇運を扶翼すべし是の如きは獨り朕が忠良の臣民たるのみならず又以て爾祖先の遺風を顯彰するに足らん斯の道は實に我が皇祖皇宗の遺訓にして子孫臣民の倶に遵守すべき所之を古今に通じて謬らず之を中外に施して悖らず朕爾臣民と倶に拳々服膺して咸其徳を一にせんことを庶幾う 明治二十三年十月三十日 御名御璽 」 茂男が律義に丁寧に、そして最後まで息を繋ぐのがわからなかったほど一気に暗誦したから、吹き出しそうになるのを柳子は堪えなければならなかった。 「どういうことを天皇陛下がおっしゃってるのか、茂男くんわかっているの」 「ううん」 実を言うと、柳子にもむつかしい単語の解説はできなかった。それだけではなく暗記していた教育勅語を、茂男のようにすらすら復唱できるほど覚えてはいなかったから、内心忸怩とした思いだった。 その上、自分自身は父母には孝行しているとは思えないし、仲良くする兄弟はいないし、結婚する気がないから一生かかっても夫婦相和することなど決してないのだ、と思っているから、一旦緩急あっても義勇公に奉ずることのできない外国に来てしまっていることと合わせて、わたしはいったいどういうことになるのかしら、どうも一誠さんと同じように肇から非国民だと罵られるひとりみたいだ、と思わないわけにはいかなかった。 茂男が暗誦していることの意味を知らなかったからまだいいようなもので、もしこの子がすらすらと意味まで説明していたら、子どもから訓えられて、顔から火の出る思いをしなければならなかっただろう。 だからといって、これからどうしようという考えも浮かばない。せいぜい、前に並んでいる子どもたちに、 「いま茂男くんが読んだ教育勅語の通り、お父さんやお母さんの言うことをよく聴いて、親孝行をしなければいけませんよ。大きくなって兵隊さんになったら、天皇陛下のために忠義を尽くす人間にならなければいけません」 などと言う通り一遍な言い草も、そう言わなければならないと思うから言っているだけで、わたしの口から言うのは恥ずかしいくらいだと、どうしても空々しくならざるを得なかった。 しかし、子どもたちのほうが、そんなことは知っていることで、いまさら言うこともないのだけれど、この子らが素直に肯くから、たとえ虚しくても、意味もわからないで暗誦しているのは、祖母の般若心経みたいなもので、自己責任のないお題目のように唱えておればいいのだとも思う。 いや、ほんとうにそれでいいのだろうか。そんなに安易に考えたら、死んだ鷹彦さんに申し訳ないだろうなあ。 「道徳律というものは、外部からの強制によって、脅迫的な吹込みを繰り返し行使され、お題目のように唱えているうちに、それが内部的に元々あったもののような錯覚が生じて精神的基盤となって常識化され、一律的な人間形成がなされてしまうのだ」と言った鷹彦さんなら、顳?に青筋立てるだろうなあ、と柳子は、こんどは鷹彦の亡霊に向かって頭を掻きながら、自分が子どもに教育する立場になって、はじめて知った教育というものの恐さもわかった。 いや、わたしや子どもたちだけではないだろう、おとなたちも盲目的に天皇を神と仰ぎ、狂信的に熱烈な軍国思想を持っているだけではないのか、と柳子は思い、思ったことに懼れて辺りの気配を窺がってしまう。 日本では、天皇陛下はもちろんのこと、政府や軍部に対する批判的なことを口にしただけで、憲兵が来て連行されると聴いていたから、わたしのように、どっちつかずのあやふやな精神で、日本語学校の先生はできないなあ、と反省もするのだった。 言論の自由を剥奪されているのは、なにも日本国内だけではなかった。ブラジルの日本人社会のなかにも日本政府の手は伸びていて、虎の威を借る狐的存在の指導者たちが睨みを利かせているだけではなく、全体主義的思想が浸透している日本人たちは、相互監視を当然のことに思っていて、一言でも反体制的な言葉を口にすると、官憲だけではなく、隣人からでも「非国民」だ「国賊」だと罵られる風潮になっていた。 さらにそれに油を注ぐように、新移民たちが伝える日本本国の戦争讃歌の熱い国民意識によって、ブラジルの日系社会もますます熱狂的な軍国思想に凝り固まってゆくばかりだったのだ。 最近アラモ植民地に入ってきた新移民は柳子の家族だけで、ほかにはいなかったが、リンスやアラサツーバなどの大きな組織の青年会には、そうした熱い息吹を持った青年が加わって、弁論大会は熱風が吹き荒れるといった感があった。その影響は直ちに日本人社会に反映し、蔓延し、それまでは農作物の出来具合や価格の変動にだけ気を取られていた旧移民やその子弟が、一攫千金の精神的に怠惰な夢を貪っていたのを揺り起こされた恰好で、戦争への関心に目覚めてくる。 すべての日本人は天皇陛下の赤子であり、国民皆兵なのだから、一旦緩急あれば義勇公に奉じなければならないのだ。死を惜しんではならないという葉隠れ武士の精神を至上とする考え方は、かつて武士ではなかった農民や商人の子孫まで、それを常識として持っていなければならない現実に立ち到る。 そして、兵役免除を申請していた移民たちのなかから、適齢期の息子をわざわざ日本に行かせてまで、兵役に就かせ、戦場に送り出すことを誉れとするものも出始めていた。 戦争讃歌の熱風が渦を巻きはじめた日本人社会のなかでは、鈴木一誠の家族のような、全員が敬虔なプロテスタントで、絶対的平和主義者であるものは、神は唯一超越的絶対者であると信じていても、それを口にすることを憚られるだけではなく、まるで刑罰を受けているもののように、いよいよ蟄居逼塞するように生きて行かなければならなかった。 鈴木一誠は、もともと人間の歴史を研究するのが好きだったばかりではなく、両親や兄姉の生まれ育った日本という国の歴史にも興 味を持っていたから、「古事記」や「日本書紀」に創まる天皇の系図とか、武士社会の成り立ちとか、維新によって成立した明治政府の構成とかについて、近頃の社会風潮に逆らうような気持ちで、いっそう関心を深めて学習するようになっていた。 その学習の方法も、決して書物に書かれているものを鵜呑みにするのではなく、常に批判的に取捨選択する訓練は、父から受けた教育によってなされていた。 「日本ではね、小学生のときから歴代天皇の名を暗記させて、暗誦させるのよ」 柳子は、それを暗誦できるかできないかで、優等生と劣等生に色分けされるくらいなのだと言う。 「神武、綏靖、安寧、懿徳」 などと暗記することに、どれほどの意味が在るのか、柳子自身それを暗記していても、暗記することの価値を考えたことはなかった。 しかし、佐藤肇に言わせると、なんのために暗記するのかと考えることが、すでに不遜だと言う。天皇の名を暗記するという誠実さが天皇への忠誠心になるのだ。二千年におよぶ神代から万世一系の天皇が統治してきた、世界に冠たる歴史を持つ民族なのだから、神武から今上陛下までの名を暗誦するということには、その歴史を知る上に大きな意味があるじゃないか、と言うことだった。 そう言うだけあって、肇は、神武天皇から百二十四代の天皇の名を淀みなく暗誦することができたし、教育勅語のような短いものはもちろんのこと、青年会の誰もが唖然とするほどの記憶力で、明治十五年一月に明治天皇が軍人に賜りたる訓戒だという「陸海軍人に賜りたる勅諭」を、箇条書きの冒頭部分だけではなく、 「我国の軍隊は世々天皇の統率し給ふ所にそある昔神武天皇躬つから……」 という勅諭の冒頭から全文を暗記していたのだ。 佐藤肇の優れた暗記力は先天性のもので、少年のときから暗記マニアだった。東海道線の駅名を東京から京都まで暗誦してみせて鼻を高くしていたし、もっと人を驚かせたのは、「佐藤の姓のはじまりは藤原秀郷から五代目の公清からで、秀郷の流祖は藤成、魚名、房前、中臣鎌足から天児屋根命まで遡っている由緒ある姓なんだ」 と言うくらいだった。 肇の父は、ブラジルに来る前は学校の体育の教師だったが、優秀な警察官のなかから、厳しい軍事教練をさせるために体育教師に抜粋されてなったのだという。 家庭でも厳格な教育をして、 「一つ、軍人は忠節を尽くすを本分とすべし。一つ、軍人は礼儀を正しくすべし」 という勅諭の精神を、日常的に高唱させるような親だったから、それが肇の人格形成に大きな影響を与えたのだ。 しかし、世間は狭いもので、そんな厳格な男が、ブラジルに来て農夫になっている原因を知っているものがいて、女にしくじったのだという噂を流したから、肇が人妻と浮き名を流しているのも父親譲りだよ、と大野が嗤って言うのを、一誠は耳にしていた。 たとえそういう不道徳なことを、軍人精神の衣の下に隠している佐藤肇でも、一誠はそれが人間の偽らざる姿なのだと哀れに見るほどの心の広さを持っていたが、肇のほうは一誠を、 「おまえの、日本人に似た顔の皮を剥いでやりたいよ、中身はガイジンに違いない」 と憎まれ口を言ったりした。 まったく性格の違う鈴木一誠と佐藤肇が、幼いころから、いつも口論しながらもくっついて歩いているのを観て、人はふたりの仲のよさを思ったほどだったが、このアラモ植民地に内藤柳子が移ってきて、青年会に入ってきてから、ふたりの青年のあいだに亀裂が生じているのを誰もが知っていた。 しかし、柳子をなかにして、対抗意識がいっそう強くなったことも、幼いころからの延長のように観て、仲のよすぎるじゃれ合いだと思っていた。 鈴木一誠には、それまで女性関係がなく、兄から性的な欠陥があるのではないかと心配されたほどなのだが、柳子に対する感情のゆらめきを感じたとき、一誠はこの女性が神の引き合わせてくれた生涯の伴侶になる女性に違いないと、一途に思う気持ちが芽生え、日に日に柳子への愛情が成長してきていたことに心の疚しさはなかった。 そして、佐藤肇のほうも、柳子に心惹かれるものを覚えはじめていることには、気づかなかった。 肇のほうには、苦痛があった。年上の人妻と人目を忍ぶ関係をいまもつづけながら、それは性的欲望を満たすためだけの関係であって、男たるもの結婚するまでにこういう経験を積んでのち、娘を娶って家庭を築くのは、日本の伝統的なかたちであり、普通のことだと考えている反面、まだ童貞だという一誠と柳子を争うことには、どうしても引け目を感じた。それは、柳子がまったく穢れのない処女だろう、と思う気持ちからだった。 しかし、柳子が純真だからこそ、妻にしたいと考えるのは、男の感情として正当ではないか、とも思う。 内藤柳子が、柔弱なプロテスタントの家族のなかに入ってゆくのを望むか、厳格な軍人精神を家訓とする家庭の嫁になるのを望むか、彼女の選択に拠るのみだ、と肇は、柳子の意思を確かめる機会が来るのを待つようになっていた。 柳子は、一誠と肇が、自分自身に愛情を持ち始めているのは感じていたし、結婚の相手と考えていることに気づいていても、そんなことを一切抜きにして、同じ三角関係にしても、それを純粋な友情に高めてゆくことによって、ぜんぜん性格の違うふたりの男性が、積極的に仲間意識を強めてくれることを単純に望んでいた。 一誠は、軟らかい人当たりの、それでいて頼れるような厚みを感じさせてくれるのだけれど、落ち着いているというより、少し引っ込み思案なところがあって、亡くなった川田鷹彦に似ていて、柳子に物足らなさを覚えさせていた。 肇は、性質が硬い感じで、いつも何かに突っかかってゆくような男らしさがあり、能動的で積極的な性格を好む柳子には好感を持たせ、気持ちを惹かれていた。 柳子は、佐藤肇が年上の人妻と現在も関係を持っていることは、誰からも聴いていなかったから、知らなかった。 そして、花嫁修業をしている娘たちと違って、誰とも結婚することを前提として交際していなかったから、ふたりの男性に対しても平等の仲間意識を持って接していた。男性のほうも性的な情動を抜きにして接してもらえるものと思っていたから。 一誠に対しては、鷹彦に感じたような兄になってほしいという甘えを持ったし、肇にはほかの誰よりも頼もしい友人と思う気持ちが、柳子の心のなかに、しっかり位置を占めはじめていたのだ。 そんな柳子の思惑に関係なく、一誠と肇は柳子を結婚してもいい女性として接していたから、互いにそれを口にしなくても対抗意識はおのずからあって、牽制し合っていた。 風雲は急だった。それは日本の情勢を喩える言葉ではなく、佐藤肇と鈴木一誠のあいだの比喩でもなく、現実の季候のことだったが、気候の急激な変化が人間心理に及ぼさないといえないのだ。 肇と一誠が、それぞれの畑のなかで、鍬の柄に顎を乗せ、柳子を想って見上げた天空を駆ける早い雲脚が、若い血の猛りを煽り立てた。 肇の腰巾着だと言われている清次などは、庶民的感覚で、先に唾をつけたもんの勝ちですよ、などと言っていた。 「ばか、饅頭の取り合いじゃないぞ、柳子は なあ、唾なんぞつけにいったら、しっぺ返しするような女なんだからな」 肇は、清次を蔑みながら、してしまえば、女は男についてくるものだ、と考えていた。 そして、してしまう機会を待っているような優柔不断ではいけない。積極果敢に行動を起こさなければならない、と思いはじめていた。 |
「花の碑」 第十三巻 第六五章 了 |
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