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南米漂流
     今日のブラジル 写真日記 (Photog...  (最終更新日 : 2020/03/28)
8・9 表現

8・9 表現 (2008/08/10)  やっと仕事が来たと思ったら、一度にボコボコっと入り、健康中心の生活は一挙に崩れてしまった。なかなか難しいものである。健康でなければ生活は大変であるが、お金が無ければ生活できない。
 撮影の仕事となると、納得の行く写真が撮れるまで撮影したくなるから、ついつい頼まれていない日まで行ってしまう。そうすると、タクシー代、食事代がかさんでしまう。つらいところである。今行っている撮影は舞踏とコンテンポラリーダンスのコラボレーションであるが、暗い上に動きが速い。その上、大まかな流れは決まっているものの、踊る度に異なり動きが把握できない。特に今回の日本からの舞台照明の方は、かなり細かく照明を変えているので大変だ。それでもなんとか、ある程度納得いくものが撮れたのどでほっとしている。
 ブラジル人が舞踏を好むせいか、ブラジルには舞踏系の大物ダンサーがよく来る。大野和雄、田中民、古川アンズ、山海塾・・・・。その度に撮影の機会に恵まれてきた。リハーサルから何回もレンズを通して踊りを見ているうちになんとなく解った気持ちになってくるから不思議である。だんだん撮影を重ねているうちに、舞踏のような感覚で即興的に踊るダンスが好きになってきた。
 今回、公演の後の舞台インタビューで司会者が、伊藤キムという舞踏のダンサーに、特異な身体の動きに対してなにか哲学的な研究をしているのか、という質問をした。その質問に対して彼は、「遊んでいるだけです」と答えた。彼は内から出てくるものを身体で表現しているだけだということがわかっていたので、別に彼がふざけて言っているのではないということがよくわかった。絵にしろ、ダンスにしろ、いわゆる感覚的要素がつよい表現作品は、評論家たちが勝手にああこうだといっているだけで、本人は何も考えることなく身体の赴くままに表現しているだけのような気がする。多分、肉体の赴くままに表現し、思考し悩んで、また元に戻って、最終的に、肉体のままに感覚のままに表現するようになるのではないか、その繰り返しによって表現に深みが出てくるような気がする。もっとも天才はひたすら肉体おもむくまま、感性のままなのかもしれないが・・・。 
 自分の感覚の赴くままに踊る、舞踏のそんな点に非常にひかれるし、僕の写真もそうあっていきたい。
 


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