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南米漂流
     今日のブラジル 写真日記 (Photog...  (最終更新日 : 2020/09/22)
8・27 橋本先生の思い出

8・27 橋本先生の思い出 (2008/08/29)  何故か息子の病気のことが気にかかって目がさめた。この「気にかかって」と言う目の覚め方が気にかかった。さっそく電話をすると大分よくなっているというので、少し安心した。ブログを書いたりしているうちに、何故か日本の姉に電話してみようという気になった。先月、姉は入院して退院したばかりだったからだ。
「今日はお母さんの命日でその準備をしていたとこよ。身体は大分よくなったから心配しないで」
 母親の命日とは・・・、完全に忘れていた。もう亡くなってかれこれ20年になると思う。しばらく母に思いを寄せていると、友人から「橋本先生( http://www.100nen.com.br/ja/qq/000017/20030411000093.cfmhttp://www.100nen.com.br/ja/bp/ )がなくなりました」という電話が飛び込んできた。
 倒れて集中管理室に入院し、お医者さんも今度は難しいだろう、といっていることを聞いていたので、お見舞いに行こうと考えていた矢先だった。
母もガンで亡くなったのだが、死ぬ随分前からもう時間の問題だという話を聞かされていたので、気持ちの準備ができていたおかげかさほど哀しくなかった。橋本先生の場合も早いうちから聞かされていたのでそれほど大きな悲しみはなかった。むしろ、長い間ご苦労様でした、という気持ちが強かった。
 橋本先生から、写真を撮ってくれ、という依頼がきて伺ったのは日本から帰って2週間もたっていない頃だった。多分自分の最期の写真をきちんと撮っておきたいと思われたのだろう。わざわざ僕を指名してくれたのは、僕にとって誉れであった。ファインダーの中の先生は随分お歳を取られ、目はうるみ、肌にはりがなかった。どうしても左肩が下がってしまい、緊張のせいか口のあたりがこわばっていたので、何回か直してくれるよう頼んだのだが、どうしても直すことができなかった。途中であきらめそのままの状態で撮った。なんとかそうしたいのだができない、という気持ちが伝わってきただけに撮る方も辛かった。
 橋本先生とお知り合いになって、10年以上になる。日本にいくとき「ブラジルの薬用植物」の校正原稿を手荷物で持っていってくれと頼まれたのが最初だった。校正原稿と言ってもかなりの量があり、こんな重たいものを何故手荷物なのかと、内心不満があった。後でしったのだが、その本は先生の全霊を傾けたもので、吉川栄治賞をとるきっかけにもなったものだ。そのときお礼にといって1万円ぽんと下さってびっくりした覚えがある。先生は生涯清貧の方であたったが、そんなところに先生の格好良さ、ダンディズムを感じた。
 日本では、政治家から始まって芸術家やちょっと偉い人を、先生と呼ぶが僕はどうもこれが嫌いで、学校の先生とお医者さん以外は先生と呼びたくなかった。しかし、橋本先生は、先生と呼びたくなる人で、何の抵抗もなく呼べた。それは、僕のどこかに植物一筋に生きる橋本先生の姿に人生の先生という気持ちがあったからもしれない。
 奥さんが亡くなられたときに、家にお伺いしたことがあった。一人ポツンと書斎で本を読んでいた。「お茶でも飲むかね」といわれ、台所でお茶を飲ませていただいた。葉っぱのなくなった木々の寒々とした風景を窓に見ながら「やっぱり、寂しいね」とぽつりと漏らしたことを未だに忘れられない。
 先生の周囲には不思議にいつも人がいる。生涯お金にはそんなに縁がある人ではなかったが、そうした意味では幸せな方だったと思う。先生の人柄ももちろあるだろうが、植物にかける情熱、エネルギー、あるいは狂気が、人を呼んだのかもしれない。
 本当に長い間ご苦労様でした、心から冥福を祈りたい。

 先日頼まれて写真を撮るために生まれて2ヶ月の子供に会った。そして今日、橋本先生が逝かれた。生と死、大きな大きな流れがあり、一方で些細なことに思い悩んでいる自分がいる現実がある。そんな自分がアホらしくなってくるが、そんなアホらしい自分がまた自分らしいかなと思う。


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