11・19 月日 (2011/11/20)
ふと柱を見ると、汚い字で日付がかかれていた。僕の目の高さより15センチほど高い。僕が旅行中に息子が書き込んだのだろう。 2004年から書き込まれた線は毎年どんどんその幅が広くなっている。以前はうるさいほど、身長を測ってくれと、言っていたのに、僕をおいこしてからは、パタリと何も言わなくなっていた。父の身長をおいこして息子は何か感じるものがあったのかもしれない。 書き始めた2004年には見下ろさなければならない高さなのに、今は見上げなければならない程になっている。子供の成長の、驚くほどの速さを実感するとともに、月日の経つ早さを見せ付けられたようで、自分が年をとるのも当然だな、と納得せずにはいられなかった。 僕が父の身長を追い越したときは別に何も感じなかったが、今僕が感じているような、息子が大きくなったことに対する妙な寂しさと、安堵の入り混じった複雑な気持ちを感じていたのではないだろうか。今はその父もいない。 夜、日本の姉から電話がかかってきた。ずっと入院していた叔母が最終病室に移ったとのことであった。もう、今年一杯は持たないらしい。生命は、老いてかならず死んでいく。それは喜びであり悲しみであり、それが宇宙の真理であり、何者も逃れることはできない。それは誰でも知っている当然のことであるが、身近で見たり、自分自身に感じたりするのは悲しいし、辛い。僕の人生もほぼ半分を終えてしまった。これから、どんどん老いていく自分を感じながら生きていくのは辛いがそれを楽しみ、喜びに変えて、そんな自分自身の気持ちを写真で表現していきたいと思っている。
|