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福博村
     概要  (最終更新日 : 2004/06/25)
スザノ市福博村

スザノ市福博村 (2004/06/25) スザノ市における日系人の概要

スザノ市はサンパウロ市の東方34kmの距離にある、「グランデ・サンパウロ」圏内の近郊ムニシピオである。市の総面積は192000㎡、標高739m、現在人口は約25万人、日系人口はそのうち8~10%だといわれている。
 日本人が最初にスザノ市に入植したのは1921年のことだったが、1930年代以降、奥地日本移民がコロノ(農場契約労働者)から自作農業生産者に転向、サンパウロ市近郊地域に集中的に移動を閉始し、戦後はスザノ市には日本移民が最も多く集中した地域となった。戦後スザノ市の農業生産者の多くは、土地を所有する日本人の小商品生産者で、主な生産物は葉野菜、トマト、ジャガイモ、鶏卵だった。そしてかれら農業生産者の大半は、近郊都市-サンパウロ市、リオ・デ・ジャネイロ市、サントス市、モジ・ダス・クルーゼス市-の市場へ、コチア・南伯中央・モジ・スザノの農業共同組合を経由して、生産物を出荷・販売していた。
 1958年の時点で、スザノ市の日系世帯数は1043世帯、人口6825人(一世:2336人、二世:3570人、三世:860人)となっており、5O年代から日系10家族の相互扶助的な会が組織され始め、1964年には汎スザノ文化体育農事協会が形成され、852世帯が参加した。当協会の最大の行事は日系農家による「農産展」であり、これによって得た収益と、日系企業の協力を受けて、しだいに会館・運動場・学校が整備されていった。なお汎スザノ文化体育農事協会は、1997年、汎スザノ文化日系クラブに名称を変更し、現在は個人会員950名を擁すスザノ市最大の日系クラブとなっている。


福博村の沿革-エスニック集団の組織化

スザノ市南部の農業地域ヴィラ・イペランジャ地区の日系集団地は、「福博村」と呼ばれている。1931年日本人家族二組がこの地区に入植し、地主であるイタリア系移民の子孫から400アルケールの土地を請け負ってトマトを中心とした蔬菜類の生産を始めた。その後、パタタ(じゃがいも)や葉野菜、果樹の栽培もおこなわれるようになったが、それらは小土地所有者にもとづいて家族労働力を主体とした小規模農業経営が主であった。入植4年後の1935年に日本人家族14家族によって「福博日本人会」が創設され、以降、日本の村落的社会関係を基盤としたエスニック集団地-「ムラ」が形成されてゆく。この初期日本人会の構成員は共同で土地開拓、道路建設をおこない、また最初の共同施設として子弟のためのポルトガル語・日本語教育をおこなう学校校舎も建設した。福博村の日本人会は当初から、産業組合的な社会経済的機構というよりも、地域日系人のエスニックな連帯意識を醸成し、日系子弟の日本語・日本文化教育にカを注ぐような文化的な集団であった。
第二次世界大戦を契機に日本人会は一旦解散され活動も停止したが、戦後ふたたび日本人会・日本語学校が再開、青年会メンバーを中心に新しい「ムラ」作り運動が始まり、その運動の一環として1958年には新会館と日本語学校・グルッポ校舎が建設された。戦後青年会の中心的メンバーによって結成された「福博村村会」は現在では福博村に加えて周辺の日系集団地-パルメイラス、チジュコ・プレットも含めた共同体となっている。2001年時点でこの地城には約140戸の日系世帯が居住し、生業に関しては農業と非農業の割合がほぼ6:4、日系農家は蔬菜、果樹、養鶏から園芸用の樹木、薬草まで多様な農産物の生産に従事しており、非農業に関しては、ちくわ・かまぼこ工場の経営者、地域の中央区での商店・雑貨商、薬局、レストラン・バールなどの経営者などがみられ、その経済的階層についても、かなり多様性をみせているという特徴もある。いまも福博村村会はこの地域の多様な社会的・経済的属性を持っ日系人を包摂するエスニック集団として機能しており、lO5名の会員がいる。村会は会員の居住地域ごとに10区に分かれ、地域区分は村会からの連絡単位として機能し、村内居住者の結婚・葬儀は区が単位になって行われる。主要行事としては新年拝賀式、三月の慰霊祭、五月の運動会、敬老会、十年毎の入植記念祭などがあげられる。青年会、婦人会も独自に各種フェスタ・集会を定期的に開いている。


福博村が抱える問題-過疎化と治安問題

 村会の重要な活動の一つとして、1948年からおよそ十年毎に実施されている村勢実態調査があるが、ここでは、その結果を以下にみてみよう。

図表 福博村実態調査-世帯数・人口の推移
調査実施年世帯数人数
1948年1531008
1960年167964
1970年214I512
1981年144886
1991年147686

 先述のように福博村の農業生産は疏菜・果樹から始まり60年代半ばには養鶏に移行、当時は68世帯が養鶏業に携わるプラジル有数の「養鶏村」へと成長した。7O年代には周辺低地に蔬菜栽培農家が集団借地入植し、福博村は最盛期を迎ることとなった。上記図表をみるかぎり、70年代には福博村の世帯数は過去最高の214世帯となっている。しかし80年代からは年々世帯数・人口数ともに減少傾向にあり、いまも着実に「過疎化」が進行している。その要因としては、
① 若い世代の都市への流出
② 近郊農村の産業構造の転換-半農半商型への移行
③ 出稼ぎ現象(福博村では1988年から開始)
④ 日系世帯の少子化や人口の高齢化
などがあげられる。最盛期には160人ほど存在した日本語学校の生徒数も、1999年時点では30名ほどにまで減少している。
 過疎化の問題に加えて福博村が抱えるもう一つの懸念は、「治安間題」である。70年代サンパウロ州水道公社がダム建設の為に福博村の周辺地域を接収したが、この地帯はファベーラ化し、近年村内での強盗事件があいついでいる。防犯対策としては、
① 家屋・自家用車へのサイレンの設置
② 犬の飼育
③ 家屋の周囲に柵を巡らす
などを実施し、また村内に「自警団」を設置、定期的に防犯訓練もおこなっている。なおこの防犯訓練には当地域に居住する非会員の日系人も参加している。
 こうしたさまざまな問題を抱えているが、福博村の現リーダーたちは少なくとも過疎化に関しては必ずしも否定的に捉えているわけではない。サンパウロ市やスザノ市へ独立・転出を遂げた子供世代は、主として週末(週1回)には実家にもどるという生活形態をとっており、福博村は村出身の子供世代の都市生活者にとって定期的に帰還する「シャカラ」(田舎の別宅)地帯として意識されている。したがって福博村リーダーたちは、「ムラ」としての福博村を、村内居住者のみならず農村部から都市部へ流出した日系青年層などとも家族的ネットワークの拡張も含めた共同体の概念としてみなおし、転出者の「ふるさと」としての「ムラ」、村内居住者と転出者との連帯シンボルとなる「ムラ」という方向性のなかに、福博村という日系地域コミュニティの再活性化の契機をうかがっている。近年では薬草の製造・販売、ジャバリのレストランや釣堀経営などによって新しい「村おこし」を試みろ動向もみられる。
 また福博村はブラジル・ゲートポール発祥の地として知られ1992年に記念碑が建立されており、村内にはイベランジャ老人ホームが83年に開園している。こうしたシンボルや施設の存在によって福博村は日系高齢者の「ふるさと」としての「ムラ」のあり方をも対外的に表明しているともいえよう。


主な参考文献

大野盛雄・宮崎信江「大都市周辺農家の成立-サン・パウロ市近郊スザノの事例」
泉靖一編著「移民-ブラジル移民の実態調査」(古今書院、1957年)


「日系社会実態調査報告書」(サンパウロ人文科学研究所、2002年3月)より抜粋


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