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福博村
     座談会  (最終更新日 : 2004/06/28)
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入植50周年記念 (2004/06/28) 特別座談会「わが村の50年を語る」
三代の代表一堂に
一貫し「理想の村」づくり


 五十周年記念行事のひとつとして特別座談会「福博村の五十年を語る」を行った。この半世紀、村は時代の移り変わりとともに先輩から後輩へと次々に受け継がれ、各世代の人々は、それぞれの立場で常に真剣に時の課題に対処、一貫して「理想の村づくり」に励んで来た。遠くは村の神代時代の生き証人たちが、近くはこの村で生まれ、育って成人した明日を担う三世の若者。五十年にわたる各世代を代表する人々が一堂に会し、先輩たちの歩んだ道を聴き、自分たちの立場を語り、後輩たちの進む新しい道を確かめ合う、そこに村の「明日へ」の輝かしい道が開かれてゆく。座談会は祖父や父、孫、兄弟たちの語らう「福博村一家団欒」のなごやかな雰囲気で進み、深夜におよんだ。


特別座談会出席者

日 時:1981年9月29日 午後8時
場 所:スザノ市福博村 杉本 正氏宅
参加者:
《戦前派 一世》
杉本 正、橋詰 勇、中村太一郎、佐藤 新(1938年日語校教師)、井上安信
《戦後派 準二世》
田辺豊太郎、大浦文雄
《戦後・現役組》
渡辺義宗(準二世・福博村会会長)、石橋誠也(二世・福博村会副会長)、清水誠二(戦後一世)、井野一彦(戦後一世)、原 弘(戦後一世)
《青年》
加藤公伸(一世・福博青年会会長)古賀マリオ(三世)、斎藤武彦(三世)
《司会者》
大浦文雄
(敬称略す)


入植50周年記念座談会.jpg
各世代の代表が深夜まで語り合った入植50周年記念座談会の様子。


よき指導者に育まれスポーツにも熱中した時代

初代の日語教師は服部信永先生

大浦:1934年10月20日、村初めての日語校開校、教師、服部先生(原田日記)とあるが、この先生はどんな人だろう。

橋詰:私の兄嫁で、自宅で開校した。渡伯前奈良県での教師経験を生かしていた。その後、村立福博小学校が出来てからそちらで教えていた。

大浦:石川君達は服部先生に習っているだろうか。大内先生は8月に就任して、12月にはもう第一回目の卒業式をやっている。服部先生にも習っているんだ。

田辺:服部先生は福博小学校で確かに教えている。その以前は私塾だ。

橋詰:そういうこと。

田辺:では初代教師ということだ。期間は…

大浦:4月30日に校舎落成。8月に大内先生が就任するまで、約四ヶ月間位で、私塾は約半年間教えていた事になる。

われらが愛する大内先生の為に

大浦:大内先生は変った人だったが、僕は随分可愛がられた。ここで野球の話を聞こう。

田辺:僕がモジから転校して福博小学校に通学していた頃、先生はグローブとキャッチミット、ファーストミットを持っていた。バットは裏山の木で作った手製。僕は十二歳位で球拾い、石川、吉原、佐藤の諸君が活躍、中山捕手はマスクなしでチップの球をくらって、ひっくり返った。無茶な話だ(笑)グローブ不足なので先生が豚皮を集めて来て奥さんが型に切って、七つ分とれた。これが抽籤されて僕に当り、ママイに仕上げてもらって、物凄いグローブが出来上がって、これで試合した。スザノ野球の草創期と思う。

大浦:後に頑固者の先生が村から排斥された。何故だろう。当時、校舎の敷地は坂なので、平らにする為、先生はエンシャドンで起し、生徒はサッコで作ったモッコで土運び。十一、二歳の子供でも家のアジューダがあるので、三十分か一時間位でみな帰ってしまう。先生は一人で懸命にカンポ作りに励んで広い運動場を作った。青年の協力が少しはあったが先生が中心だった。「僕らの為にやってくれた」思い出がある。

田辺:作ったね。サッコ引っぱって。

大浦:そのカンポが野村さんに売られる時、田辺君が猛反対、しかし売られて、鶏舎が建った。

田辺:残念だった。

大浦:こんな先生に37年6月に村から「辞めろ」と迫られた…

井上:事情は知らない。

大浦:当時、M学務委員の息子に友人S君がいた。大内先生は融通性がない。S君は試験の結果、五年生から三年生に落第。パパイのM学務委員は激怒し「けしからん先生」の烙印をおした。これが原因と思う。

橋詰:兄嫁が教師を辞めたのもM氏のせい。

田辺:大内先生は、スパルタ教育だった。世渡り下手で点数水増しなどとんでもない。白黒をはっきりつける。僕個人は大きな影響を受けている。排斥の中、何ヶ月か教えに来た。

大浦:我が愛する先生の為に、はっきりさせておきたい。日本人会の記録に「かかる先生には、退職金を手渡さん」とある。もし先生に正当性があり、日本人会に非があるなら、正しい事は正しいとして、少人数でも堂々と主張することが大事だ。間違いは間違いとして、日本人会ではっきり記録を残すべきだ。これは今日の一つの収穫で、地下の先生は喜んでいると思う。

田辺:先生の退職後日談がある。我々が青年会員だった二十歳頃、先生はアルジャで亡くなった。僕は大浦君、山口君らと計って募金して墓石を作った。

福博日会解散し日語校も閉鎖へ

大浦:次に高拓生出身の小坂井先生が就任した。この先生は画家タイプ。よく教えてくれた。僕は福博小学校第二期卒業生だ。37年に佐藤新先生が就任したが、その動機を…

佐藤:当時、生徒が増え六年生まで一杯で先生も増員された。僕は南拓生仲間三人共同でトマト作りをして失敗し、それぞれ仕事をみつけ、僕は先生になった。

大浦:佐藤、小坂井両先生時代の卒業生が田辺君だ。

田辺:僕の担任は小坂井先生だった。

大浦:佐藤先生らが作った高等科、唯一の卒業生が僕らだ。生徒六人、先生二人の贅沢さだった。小坂井先生は国文、佐藤先生は数学、僕は数学が得意で、よく先生代理をした。本物先生は窓際で読書…「よき時代」だ。だが、それは続かず、九月に突然、警察に佐藤先生が逮捕され、サンパウロに拘置された…

佐藤:ブラジル語学校の教師に恨まれて、当局に密告されたのだ。サンパウロの警察には日本人が大勢拘置されていた。帰化人の岸本昂一氏(曙星学園)もいた。署長が「日本語禁止を何故破ったか…と調べたが、原田さんのもらい下げ手配で釈放された。

大浦:その直後、十月に退職したのは、これが原因で…

佐藤:父兄側からもこれ以上は危ないと注意を受けていた。

大浦:六ヶ月後、渡辺先生夫妻で村内を巡回授業した記録がある。これも1940年9月11日やめになった。その日の原田日記には「歴史ある福博日本人会も今日の臨時総会をもって解散となる。日本語学校も閉校。午後三時、文学博士佐藤氏帰宅さる。見送る。霖雨しきりなり。」とあり劇的な幕切れだった。

佐藤:当時聖市に文教普及会があった。

大浦:35年、校舎落成時に総領事館代表として、文教普及会事務局長、佐藤文学博士が出席閉校時もまた出席した。

二五青年会-昔の青年語り合う

大浦:1933年6月18日、二五青年会(この年の移民二十五周年当日にちなんで命名)結成、古賀茂敏会長、原田さん宅に十三名が集って、結成後相撲を取ったとあるが、当時の青年に聞こう。

杉本:村の相撲は何処よりも早い。原田さんの影響だ。よく胸を借りたが、マワシに手もかからず投げられた。

大浦:青年会発足、相撲の模様は…

中村:東西二組になり対抗試合だった。

杉本:私も一方の組で取った。

中村:大関はわしがやった。(笑)

杉本:しこ名で記録されてある。布袋のマワシで、あの一年位熱中した。

中村:土俵を作って一所懸命に稽古した。

杉本:月明りで、寒中は焚火して頑張った。

中村:原田さんは強かった。

大浦:当時四十四歳、着やせ型で、腹が出てるのが自慢だった。柔道二段の佐藤先生と結びの一番で対決場面もあった。

佐藤:こっちが勝ったよ。(笑)

大浦:原田さんが花をもたせたと思う。(笑)ところで発会式の後飲んだと思うが。

中村:大いに飲んだ。あの頃はビンニョだった。

橋詰:ピンガはやらず、セルベージャは高いので、チントかブランコ、あれは頭に来た。ウイスキーは見た事なかった。(笑)

杉本:中村さんが一番強かった。

橋詰:青年会では日曜毎に共同作業で得た金を貯めて、日語校校舎建設に寄付した。シネマ会をやって、家族券を売り歩いた。

田辺:それは我々の時代まで続いた。

杉本:金の価値があったな。汽車が二百レース、定食一ミリ五百レース。

大浦:日当五ミリレースだった。

橋詰:我々青年時代は寄付もらいせず、こんなふうに資金づくりした。

田辺:二五青年会会報があった筈だか…

杉本:「大地」だ。手書きだった。これで青年達の文芸活動。

大浦:戦後こんなことがあった。詩人古野菊生さんが農業雑誌「大地」を作った。僕の詩も載ったが、昔の二五青年会機関紙「大地」のことを書いたら、古野さんから知らずに諒解なしで「大地」の名を出した事の詫び状が来た。

大浦:35年に夜学開校とあるが…

橋詰:ポ語の夜学。スペイン系のギオマールという女教師が教えた。

杉本:美人だった。習うのは二の次、みんな走って通学した。

橋詰:生徒は十七から二十四歳位、十五名位。

杉本:毎晩着物を変えてくる。楽しみだった。

大浦:当時の青年には珍しかっただろう。

杉本:いい先生だったなあ。(笑)

井上:よく覚えた。それでポ語が上手になった。

大浦:誰が一番可愛いがられた?

杉本・橋詰・中村:(笑って答えず)

杉本:憧れだった。

橋詰:皆、純情だった。

盛んだった演芸会と陸上競技

大浦:35年6月の二周年記念演芸会は…

橋詰:貫一お宮があった。

橋詰:「大地」に書いてある。

田辺:鼠小僧次郎吉。

橋詰:高田の馬場もあった。

大浦:当日の花、三百五十ミル、と記録にある。七十二名分の日当に当る。
橋詰:これは会館建築に寄付した。

大浦:この年7月、モジとの対抗陸上競技大会をやっているが…

橋詰:コクエーラにカミニォンで行った。

杉本:岡田さんや全伯級選手に簡単に一蹴され、惨敗だった。それから奮起してね。

佐藤:僕も選手不足でかり出されたが、パンツはシーツで作ったのを使って、一回走って切れちゃった。(笑)

井上:岡田さん達はスパイクを履いていたが、大半は裸足。(笑)

田辺:二五青年会のマークは…

一同:そんなの何もつけてなかった。(笑)

みんなで守ってきた村、明日の発展の道拓こう

緊張時代から戦後の文化運動へ

大浦:戦中に青年期を過した、田辺君と僕を代表して田辺君から。

田辺:1941年12月8日、太平洋戦争勃発。母国では同年輩者が特攻隊となり国に命を捧げた。我々もじっとしてられない心情にかられ、青年会では日本精神・民族が論じられ、遊びがなく緊張の時代だった。その頃、全伯的に民族運動が起き、青年層をリードした。

大浦:具体的には、産青連中心の全伯指導者養成講習会があった。コチア産組子弟から拡大し、事情逼迫。青年達の燃え上る力を力を結集、はじめて僕はスザノ地方代表として参加。全伯の青年と交流の機会を得た。さすが逸材揃いで、大いに目を見開かされた。その後、平川君、田辺君も参加した。時間的でなく精神的にあそびの入る余猶がなかった。しかし、この緊張青春時代には充実したものがあった。ギラギラしたこの心情は行動に現せない。日語校は禁止、我々は日曜に山の中で生徒を集めて、教えた。そのなかに民族運動的な日本人の誇りを持ち、それが支えになっていた。

田辺:民族運動だったなあ。

大浦:下元健吉伝のなかで「組合運動は民族運動だ」といっている。これが浄化され、産青連運動となり、弓場、今本を動かした。福博にも我々を通じて産青連運動の波が入って来た。アリアンサの弓場さんの新しき村とも交流があった。間もなく終戦。それは発展せず、戦中派は暗いトンネルを抜けるような、しかし負けまいとはじき返すような気持ちで戦前戦後のある期間、我々は後輩たちに我々になかった豊かな環境をつくり出すべく、半田知雄氏、橋本梧郎氏らを招くなどして、盛んな文化運動を起こした。

田辺:戦中派の後半で会の会館を作った。当時、僕が会長、大浦相談役だった。旧会館が老朽化、しかも敷地がせまいので隣接地の寄付を所有者の原田さんに申込み、断られ、児玉さんに相談して快諾を得た。あっさり1アルケールの土地寄付に応じた。ところがその後、原田さんから隣接地寄付の申出があり、児玉さん寄付の「新敷地に会館新築」主張の青年会と「現敷地拡張」組の原田氏側が真向から対立。ついに村会臨時総会、激論の末、原田さんが折れた。

大浦:僕は「青年は経験も財もない。しかし理想と信条がある。それまでも、貴方たちは捨てよというのか…と迫った。原田さんはギリギリ判断して、青年の方に作ろう…とやった。結局、青年は勝ったけど、敗けたという感じがした。見事だった。

田辺:原田さん自身より、とりまきが引っぱったと思う。

大浦:これから戦後派代表、石橋、渡辺両君に青年時代と村会の現役を加味して話してもらおう。

新たな村づくり戦後派と青年会

石橋:日本語不充分な二世の私は、大浦、田辺両先輩たちの指導を受け、青年に混って日本語を覚えた。児玉さんから土地の寄付を受けてから我々の役員時代となり、会館作りで一苦労した。着工は田辺会長で、落成時は私が青年会長だった。当時としては近代的な会館が出来た。

渡辺:我々の青年期は日語もポ語上級教育も不徹底で、大きなハンディがあり、コロニア社会でも知的低水準時代だ。先輩達は立派な思想を、後輩の多くは大学教育を…そういう立場でどうやって活動したか。第一にまじめにやった。会館建設でも真剣に取り組み、現場作業を懸命にやった。

石橋:エンシャドン担いで整地作業、厳しい作業だった。

渡辺:戦後すぐの一時期は草創期より厳しい面があり、戦時中の日本の思想がコロニアに生きていた。

田辺:それは村だけでなく、全伯的傾向だ。

石橋:我々の父もそんな考えで育てられたので、それを受けついで硬い面も持っている。

杉本:あの頃は、青年会全盛時代で、運動会などよくやったと思う。

大浦:今度は、村会代表として、現在の村のあり方、動きにどんな考えを持っているか…バトンタッチも迫っているが…

渡辺:都市化が悪い意味でも進み、昔の村意識が薄れてやりにくい。村会を自分のインテレッセだけに利用、村の為を思わない人が増えてきた。青年会も同じと思う。当村在住者の80パーセントは村会加入者だが、いずれは2、30パーセントの時期がくる。その時は日語学校経営や諸行事実行もむずかしくなると思う。

田辺:五十年祭に招かれて出席して第一の感想は出席の少ないこと。大浦君の講演は立派だった。日本から来た先生の文協講演会にもひけをとらないが聴衆が少ない。村の衰退を感じ、次の六十年祭まで村の形態が存続するか疑問に思った。

大浦:全体の流れはそうだが、あの日は土曜日。これが一つの障害。半日働く人、フェーラにいく人、これでは人は集まらない。外部からも指摘された。日曜ならもっと多く集まる。当夜のバイレに合せて式典を決めたと思う。式典を中心に日を選ぶべきだ。お互いに反省の必要がある。石橋、渡辺世代は知的貧困時代だが、その当時、新しい血が入って来た。戦後移住者の吉富、井野、清水の諸君。教育レベルの高い人々が村に定着して、村の中心になって動き出した。君達への刺激になったと思う。

石橋:広くコロニア社会でも、その影響は大きい。二世にも刺激になり、向上に役だった。

大浦:もしこれがなかったら、福博村はもっと哀れだったと思う。

渡辺:村会でも、産業、事業面でも考え方が斬新だ。

大浦:戦後移住者のエレメントは村にとって大事だ。君達のもっているものを、もっと活かさねばならない。村内で個人事業のみに専念せず、村を支え発展の力になる必要がある。それを二世層とマッチするのが課題だ。原君は北米留学経験者だ。考えを…

原:僕は農村青年指導者として米国へ行ったが、各国代表の一番のテーマは青年会存続問題で、「農村と都会の格差がなくなり存続」と「時代と共に消滅」の二つの意見に別れる。組織運営は変っても絶対会は存続すると思う。

都会をめざして村を去る青年達

大浦:井野君、新しいエレメントとして…

井野:現代は経済優先、物質文明時代と化し、精神面が軽視され、精神的交流が薄らいできた。経済に伴ないこの面の充実を計る必要がある。しかし、二面両立について今のところ具体案はない。

大浦:もっと積極的に考えて慾しい。今は学校や会館などみな揃っていて、共同でやる必要性がなくなり、個人的になり、経済優先が原因とばかりいえない。昔は村で力を合わせないと自分達のレベル維持が出来なかった。より現実を直視して「これで満足か」これから何をすべきかを考えるのが問題だ。

田辺:会館作りがもっと簡単だった。(笑)

渡辺:どうしても必要なものがないから、やる事がない。

石橋:村は皆の力で守って来た。今もそうだ。農村都市化につれて、村中に街灯を、電話架設も新しい仕事だ。これが村づくりの一つだ。

大浦:いいテーマだ。五十年間守ってきた。さらに新しいものを作っていかねばならない。では、現代の青年にきこう。。

加藤:僕達三人は青年会歴十年、最大の悩みは会の存続問題。また大仕事は会館敷地接収問題だ。79年にダム建設の為、運動場が接収され、その補償金を受け取った。このまとまった資金で会館改修、50万クルゼイロスを青年会基金とした。現在、会員六十名、実動三十名前後(女子も含めて)。うち村外加入者もあり、僕もサンパウロ在住。村在住会員は三十名、十年前は学生会と青年会と二つだったが、今は残っている者が二、三人。十年後を考えると、村に残る共同事業がない。去年は、会館改修もあり、一年間何も活動なし。今年十四、五歳の子を新加入させて運動会をやったら、「福博村の運動会は面白い。昔の雰囲気があり、ふるさとに戻ったよう」とほめられた。しかし、これは続かない。今の人は「その時その時だけを楽しむ」風潮をもっている。五十年祝典でも会員の30パーセントが参加したが、ほとんど日語がわからず、その意義を解さない。昔の青年会とは時代が違う。村で何かを…というので、今、村会OBとソフトボール、ほかにフッテボール・デ・サロンをやっているグループもある。会館施設は利用されてないし、何をしても続かない。みな学校に入って村を去る。村に残らない青年を相手に村に残るような活動は無理だ。

大浦:青年会だけでなく、村の問題だ。

加藤:青年に一番早く響く、若人を集結するのはスポーツと娯楽しかない。昔からの会員十五名位、あと四十五名は中学三、四年生を加入させ運動会をやった。興味を持って残ったが、六ヶ月過ぎて飽きがきている。くい留めに懸命だ。僕らも、みな結婚が決まっている。しかし、後継者が出来るまでは引退も出来ない。来年は僕も引退、古賀君一人になる。差し迫った問題だ。皆さんの意見を…

田辺:自動車時代になり青年の行動範囲が拡がり、全スザノ規模でACEAS(汎スザノ文化体育協会)がある。スポーツ文化の多様化に大規模に即応出来、個人の好みを広く受け入れて活動できる機関だ。青年会も村内にとどまらず、広く汎スザノ的青年活動が出来る筈。ACEASは汎スザノで利用すべきもの。それに対応しているかどうか。

大浦:福博村だけで青年会は守れない。他でも同じだ。これらが集まって、新しい型の青年会を作るべきだと思う。

渡辺:ACEASはクルベの性格、青年活動は無理。

大浦:村だけで考えても人がいないのだ。情熱を燃やしたら、必ず新しい道が開けると思う。

古賀:去年、ACEASでバイレをやった時、土居会長、竹内副会長(当時)の呼びかけで、汎スザノ各青年会が集まって共催を決めた。ところが、準備期間中に分裂して、結局、福博、チジュコ、リオアバイショだけで開いた。ものが徹底せず、「自分のものでない」という感じだ。ACEASで良いリーダーを作ってもらいたい。

加藤:地元の心で村が優先されている。

大浦:ただ会館を、村で守るだけでは青年自身の成長に意味はない。

加藤:今まで村の為に役立つ青年会だった。それを捨て、汎スザノ青年社会で新青年会を作る、「理想」は立派だが、それでは福博青年会が消える。今まで青年会を守った人達に「顔」が立たない。

大浦:つぶれそうな顔にこだわっては前進がない。

加藤:歴史ある青年会をなくすのは惜しい。他に道はないものか…。

村の高校生に活動の場与えたい

大浦:心情は分かる。今ここで結論を出す必要はない。しかし、自分の成長を考えることが大事だ。「顔」を考え、先輩に申し訳ないとこだわっていたら、下手したら一緒に死んでしまう。これは村の問題だ。じっとしていたら、そのまま滅びる。近郊農村の宿命だ。どう抜け出すかが問題だ。スザノには次の器、ACEASが出来ている。そこへ繋がるのが道だと思う。しかし、各青年会が地元に固執したら、まとまらない。それではゆきずまる。

古賀:ACEASでもっと青年を集める考えはないか。

大浦:今まで何回もしたが、集まらない。

加藤:それは地元の心が残っているからだ。

大浦:いや、地元にもない。汎スザノにもいかない。地元を守る為に来ないならまだいいが…。

加藤:補償金は会館改修のほかに、日語校や老人クラブにも寄付した。これも村の為だ。

大浦:それは認める。

加藤:僕たちの五十年後、ここに来て「ここが故郷だなあ」と思えたら幸福だ。

大浦:僕は汎スザノを自分の村と思っている。福博と一つだ。青年は村にとじこもっている。

加藤:二十数年村と共に来た。ACEASは遠いものだ。小さい時から会館が第一だった。

大浦:では、それを守れるか。

加藤:当面の問題だ。

大浦:我々は村を愛する、だけでは解決しない。

渡辺:村にジナジオがある。村で勉強している世代を入会させ育成して、村意識をつける。

大浦:青年会の自主性を尊重しながら、村会がある程度リーダーシップをとる必要がある。

加藤:村の高校クラス十六、七歳の人材を会の委員に迎え、トップは僕達年代の者でつとめ、十七、八歳で新役員として新しいリーダーを作り、それがまた後輩を育てる。そして会を守っていくのではないかと思うが…。

大浦:二五青年会の規約に入会資格十二歳以上とあった。十四歳でも不思議はない。役員は十八歳以上だ。

斎藤:どんどん入会してもらう。

大浦:よしやって見よう。

加藤:結論は来年に待つ…。

大浦:オンデ・ノス・バモス…。

(おわり)

なお上記座談会には清水誠一氏、斎藤武彦氏も各世代を代表して参加しました。

青年会.jpg
現青年会幹部:前列の芝生に座っている右から、黒木穣、斎藤武彦、平崎明美、加藤公伸、吉富エリザ、その後が、島田美代子、その左は、古賀マリオ、その後が、上野正人、その右は、西イザウラさんたち。


歴代会長.jpg
福博村の歴代村会会長たち。右から八代目会長の渡辺義宗、四代目会長の大浦文雄、五代目会長の渡辺正治、六代目会長の杉本正、七代目会長の石橋誠也、各氏。


パウリスタ新聞(1981年12月12日)より抜粋


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