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福博村
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都市化進む近郊めぐり「福博村」【パウリスタ新聞80年4月】

都市化進む近郊めぐり「福博村」【パウリスタ新聞80年4月】 (2004/07/05) (一)
 スザノ市から南へ13キロの地点が、ビラ・イペランジア福博村である。
 歴史というものは、常に環境と人によって、つくりだされてゆく、生きた現実である。広い視野と考察によって、過去を見わたし現代を考え、将来を誤りなく歩むためのみちしるべである。そうした処にのみ、栄えるという輝かしい、冠は授けられるのである。
 1930年当時、奥ソロ・アナスタシオでは、市長選挙中で市長派と反対派との激しい選挙戦の最中であった。福博村入植第一号となった原田敬太氏は、そのころ六年契約で、カフェ(コーヒー)園にはいっていた。激しい選挙戦の結果として火災に会いカフェは全焼してしまった。また、そのうえ不景気にみまわれた。
 ちょうどそのころ、友人の三浦鑿(さく)氏(当時の日伯新聞社長)の激励の手紙に刺激され奮起する。「原田敬太は灰になっていない、なにも心配するな、これからがんばればよいではないか…。」という内容の激励の手紙であったと古賀茂敏氏は語る。
 原田敬太氏は、奮起再出発をめざして、土地の物色をはじめた。再入植すべく、バリリのドトール・バフリという大学総長のもっている土地、2500アルケールの土地に入植するつもりでいたが、山がものすごく急な斜面で、どうにも手がつけられる所ではなく、またサント・アナスタシオで思案に暮れていた。
 そのころ三浦社長がサント・アナスタシオを訪ねて、また土地の話が出た。「スザノという所に知人のロベルト・ビアンキ氏が土地をもっているので、一度見て、よければロベルト・ビアンキ氏と契約して、植民地を造るなり、どうかしたらよいだろう。」という話であった。(古賀茂敏氏談)
 そこで原田敬太氏はスザノに出向き、ロベルト・ビアンキ氏の土地を見る。バリリの土地と違って地形はなだらかであった。原田敬太氏は土地をもとめる決心をする。
 三浦社長の紹介でロベルト・ビアンキ氏と会い、土地400アルケールの契約が成立して、スザノにいよいよ移転することになった。
 史は物語る。故原田敬太氏の当時の日誌には、「1931年2月1日、スザノ行き、途中処女林の残っている事に驚く。心機一転痛快だった。午後一時帰り、午睡、三時すぎ蛭田氏(故蛭田徳弥氏=前パウリスタ新聞社社主)と、晩食を共にする。」と書いてある。原始林が所々に残っていて、すばらしい所だと故人は感じたようだ。また、契約が成立した日の日誌には、「スザノの土地の契約ができた日に、蛭田氏と青柳(当時有名な料亭)にいって遊ぶ。」と書いてある。よほど嬉しかったのであろう。
 1931年3月11日、いよいよ移転である。「朝八時着聖。一同と自動車でノルテ駅に出て十時半の汽車で無事乗替え、スザノ駅に十二時半に安着。果樹園に午後一時亦安着。一同と晩食す。安着祝に一杯のピンガだった」と記してある。これが福博村の幕開けであり、入植第一号でもある。
 原田氏とロベルト・ビアンキ氏との商談が成立していたのは、400アルケールを譲りうけ、売り出す事であった。入植第一号として3月11日に入植したのは、原田敬太氏の家族と古賀貞敏氏、古賀茂敏氏の兄弟であった。古賀茂敏氏は独身であったので、古賀貞敏氏の構成家族となっており、実際には二家族の入植であった。
 当時の土地代は、1アルケールあたり、道路沿いの土地で800ミルから900ミル、少し奥に入ってしまうと300ミルでも買い手がなかったという時代であった。俗に「娘3コント」「5コントで首吊った」と言われた頃で、900ミルは大金。もちろん年賦であった。
 その後、11月に第二陣、二年後には十二、三家族が入植した。1933年には、青年会が組織されたくらいだから、相当のピッチで開墾されたわけだ。
 初代青年会長は、古賀茂敏氏。会員は15人、正式名称を二五青年会といった。移民二十五周年を記念してつけられた名前である。このころ青年会は、スポーツを盛んに行い、地方にも遠征、大いに活躍した。青年達は、陸上競技で使用するスパイクの購入費、地方遠征費など青年達が日曜日も休まず共同作業して費用を捻出した。

(二)
 ここで特筆すべきことは、福博村はたいへん教育の進んだ村であるということである。
 入植当初の1934年10月21日にはすでに全日制の日語学校を生徒14人で開校。1935年には、日語学校の校舎を新築し、常勤の先生を雇い、日語教育を行っていた。
 子供達はブラジルの学校にも並行して通っていたが、四年生以上は毎日11kmの道のりを歩いてスザノの町に行かなければならなかった。子供達の帰りが遅いと親が途中まで迎えに出るという、教育においては親子ともども努力の日々であった。
 日語学校の新築と落成式についてはエピソードがある。日語学校は6mx15mの大きさになる予定であったが、実際に建物が完成して村の人々が測ってみると、どうも完全な長方形になっていない。左官を問い詰めてみると、長さを測るメートル尺を忘れ、手の幅で測ったからだろうと言う。なんとも牧歌的なよき時代のお話である。また、その学校の落成式に主賓としてサト文学博士を迎えることになった。当日ちょうど到着の時刻に、向こうから人がやってくるので、村の人々は、サト文学博士が到着されたと思い、一同整列して待った。ところがやって来たのは村の佐竹氏であった。一同整列する中、佐竹氏、少しもひるまず「よおう、御苦労。」とやった。後日、佐竹氏は「いやあ、あの時は気持ちが良かった。」と語ったという。
 福博村の農業は、他の多くの植民地同様、トマト栽培から始まっているが、当村は果樹栽培にはいたらず養鶏に進んでいる。
 1935年に古賀茂敏氏が養鶏を始めた。最初は養鶏というものが分からず、養鶏の本を日本から取り寄せて、300羽から始まった。始めてみたら、その当時は、病気はなし、環境は良い、好条件に恵まれて産卵率は常に98%と高率であった。以降、村の主要産業となってゆく。また同時期に、ユーカリの植林も盛んに行われたようだ。
 1948年、先駆者の原田敬太氏は、福博をありふれた植民地とせず、村会と名づけ、初代村長となる(1948年から1955年まで在職)。
 先駆者の原田敬太氏について少し紹介しておこう。原田氏は三代続いた医師の家に生まれている。親は原田氏が医師になることを望んだが、原田氏は「そのなもの出来るか。」と家を飛び出し、ブラジル移民となった。奥ソロ・サント・アナスタシオ、福博村と移りながら、どの土地でも病人の診察、治療をしていたという。特に福博村に移ってからは回数が多くなった。当時、スザノの町には医者がいなかったし薬局も一軒しかなかったからである。原田氏の活躍が村にとって大きな助けになった。古賀茂敏氏は次のように回想する。「原田さんは、門前の小僧習わぬ経を読むということで、医学の知識があった。病人が出ると夜中でもカンテラを提げて病人の家まで行き診察や治療をしていた。私自身も原田さんに注射を打ってもらったことがある。」原田氏は、このように村民の面倒をよくみた人であった。
 1948年には同村の人口は183家族1008人に膨れ上がり、そして1953年には花卉栽培が始まった。花卉栽培は寺尾氏がグラジオラス(当時はパウマと呼んでいた)のオランダ種を栽培したことがきっかけとなるが、このオランダ種はうまく育たなかった。ところが石橋氏は寺尾氏からこの球根2~3個をもらい、育種、改良する。それが後にブラジル全土で栽培されるようになる「セイヤ種」の始まりであり、福博村のグラジオラス栽培の繁栄の源となる。

(三)
 このグラジオラスのセイヤ種はパウマ・セイヤと呼ばれ大量に市場に出回るようになる。石橋氏は二つか三つの球根を十年の間に300万株までに増やし売上を伸ばすが、やがて世間の趣向はバラやカーネーション、植木へと移ってゆく。
 福博村のその他の農産物としては、1965年頃から蔬菜栽培(特にレタス)が始まる。また、入植以来ジャガイモ栽培一筋、杉本正氏などもいる。
 1970年、近郊一の文化村、福博村は入植四十周年を迎えた。当時のパウリスタ新聞は、福博四十周年記念号で次のように報じている。「植民地四十年といえば、三十歳で入植した人も七十歳。十年ごとの祭りだから四十周年記念祭は一世移民にとって最後のものになろう。それに村の一部は、貯水池になる運命にあり、十年後は「湖底のふるさと」になっているかもしれない。記念碑を建てるのもいいだろうが、後世に残るとは保証できない。そこで大人でも子供でも、十年あるいは二十年、三十年後でも思い出となり心に深く刻みつけられるようなものにしたい。」当時の村長、大浦文雄氏は入植四十周年記念祭をこう定義した。そして9月20日行われた記念祭は、村の先駆者たちの表彰式などが行われ村民の心に残るものとなった。表彰を受けたのは以下の人々であった。
◎豊田三郎さん(84)
開拓の功労者であり、村の長老として村の発展の推進力となった。
◎津田彦作さん(81)
村人の精神教育の貢献者。二十年前に福博寺を建立した篤信家。
◎原田敬太さん(79)
村の創設者。福博というより、スザノの発展は原田さんの力に負うところが大きい。
◎古賀貞敏さん(64)
草分けの一人で、原田敬太さんとともに入植。村の融和と発展の貢献者。
◎大浦 要さん(69)
村会と子弟教育の貢献者
◎池田正苗さん(69)
村の文化向上への貢献者。また池田さんは俳号豊年で知られる。
◎石橋初雄さん(67)
福博の新産業、花卉栽培を起こした人で、石橋花卉園は余りにも有名。俳号初穂でも広く知られる。
◎古賀茂敏さん(64)
貞敏さんの実弟。原田さんの義弟でもある。貞敏氏とともに原田さんを助けて村の発展に尽くした。初代の青年会長で前村長。
◎中村一男さん(64)
村会への献身と子弟教育の貢献者。
◎若松正勝さん(60)
村の発展と子弟教育の貢献者。
※( )は1970年当時の年齢
 表彰された十人を代表して古賀茂敏氏が「私たち三家族がこの福博に足を踏み入れたのは、忘れもしない1930年3月14日、小雨の降りしきる日でした…。」と当時を追想するとともに、皆の協力で村がこれまで発展したことを喜び、今後いつまでも伸長を続けてほしいといった内容の謝辞を述べている。これまで信じられていた、この1930年3月14日入植というのは、後に記憶違いであることが発覚する。
 原田敬太氏に肉親同様の信頼を受けていた大浦文雄氏は、原田氏の生前「大浦君、僕が死んだら一度僕の日誌を見ておいてくれないか。」と言い残されていたので、原田氏の死後、日誌を調べたところ、実際の入植日が1931年3月11日であるという記述を発見する。入植以来、四十周年まで十年ごとに記念行事を行ってきたが、一年ずつ早く実施していたことになる。これは五十周年より修正されることになる。

(四)
 福博村は、1981年入植五十周年を迎える。入植から五十年、村は大きく発展した。以下、村会の調査データを参照してみよう。
まずは、経済面での発展がうかがえるデータである。
テレビの所有台数:1960年15台、1970年131台
ラジオの所有台数:1950年8台、1970年300台
トラクター所有台数:1960年32台、1970年65台
耕運機所有台数:1960年12台、1970年63台
次に就学率。
中学就学者数:1960年76人、1970年151人
高校・大学就学者数:1960年0人、1970年38人
以上、数字から見ても村が経済文化両面で大いに発展してきたことが分かる。 しかしながら、近郊の都市化が進む中で新たな問題が発生してきていることも確かである。
 ひとつは低地にダムが建設されることである。すでに海抜750mまで移転が通告されている。蔬菜栽培31、採卵養鶏4、肉鶏飼育6、花卉栽培3、果樹1、商工業1のそれぞれの業者が移転を余儀なくされることになる。どの業者にとっても頭の痛いことであるが、とりわけ石橋氏の苗木園は80万本以上の苗木を移転しなければならず大きな打撃となる。
 もうひとつは、治安問題。日に日に犯罪件数は増えており、筆者が取材に訪れた前日にも、中国人経営の製菓工場に22口径のピストルを持った強盗が押し入った。現金、車などかなりの被害があった模様である。
 また、この福博村はもとより隣接のパルメイラ区でも街道沿いの土地は住宅用地が多い。これは夏でも涼しい土地を求めてサンチスタ(サントスの住人)が土地を買いあさっているためである。このようなベットタウン化も新たな問題をもたらす要因になるかもしれない。
 都市化の波は誰に止めることは出来ない。変化が問題をもたらすことも歴史の必然である。五十年の歴史を持つ文化村福博は今後さまざまな問題にどのように立ち向かっていくのであろうか。
(K.中野記者)


パウリスタ新聞
1980年3月29日から1980年4月3日まで連載
原題は「変貌する生産地図 都市化進む近郊めぐり 福博村」


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