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福博村の明日へ【サンパウロ新聞99年6月】

福博村の明日へ【サンパウロ新聞99年6月】 (2004/07/05) (一)
 再来年の二〇〇一年に入植七十周年を迎えるスザノ福博村。「村」として今なお活動しているという意味では唯一と言っても過言ではない。六〇年代半ばには「養鶏の村」として全伯にその名を馳せた福博村も、現在では高齢化と少子化さらに出稼ぎによる若い世代の減少と問題が山積みされている。さらに、治安の悪化が深刻化し、村の危機を乗り越えるための防犯対策が叫ばれている。そんな中「村おこし」の必要性から薬草生産による活性化など新たな挑戦が始まった。福博村のこれまでの経緯と現状をリポートする。
 福博村は、一九三一年三月十一日に原田敬太氏がこの地に足を踏み入れたことに端を発しているが、イタリア移民の子孫ロベルト・ビアンキ氏が所有する四百アルケールの土地を村づくりのために請け負ったのが始まりと言われている。
 現在でも福博村の入り口付近の道路を隔てた反対側に当時を偲ぶ教会が建てられているが、そのことを知る人は今やほとんどいないと福博村会の元会長・大浦文雄さんは語る。
 現在の林義宣会長は八六-八七年、九四-九五年、九八-九九年と今回で三回目の会長職を受け持つ。役員構成は八〇パーセントが二世で世代交代は確実に進んでいるが会議の席では今でも全て日本語で行われ、村の日本人意識の強さが表れているようだ。
 林会長の説明によると現在、村には百二十家族が在住。六〇年代半ばには六十八家族が養鶏に携わり、「養鶏の村」の名前は全伯に鳴り響いた。当時は「ニューカッスル」「マレックス病」と呼ばれる病気の蔓延のために、何千羽もの鶏を地中に埋めたこともあり、七〇年代に福博寺に「萬鶏菩薩」が建立され、今でも毎年鶏供養が行われているという。
 現在ではバタタ(じゃがいも)、アルファッセ(レタス)などの野菜類フェイランテ、雑貨屋や苗木販売など農業だけに限らない職業に分散しており、養鶏に従事しているのはわずかに五家族だけだが、元村会長の井野一彦氏のように個人で六十万羽と数の上では全盛時代以上に鶏を育てている人もいる。
 村会の中でも婦人会員の動きが目立っており、現在七十人の会員中、俳句会や短歌会などの文芸面で活躍している人も多い。しかし、一方で青年会員は四十人と少なく、村の後継者問題につながっている。
 時代の変遷によって当然ながら村の状態も変化しているが、今の村での最大の課題は過疎化対策と治安悪化に伴う防犯対策をどのように行っていくかということだ。
 村の中で特に顕著なのが、次代を担う子弟数の減少で、七〇年代最も盛んだった時期に三校に分散し、百六十人前後いた日本語学校の生徒数は、現在は三十人程度に減っている。
 九〇年、日本の入管法改正により合法的に始まった出稼ぎの波は村にも広がった。今では少なくても百人が日本での就労のために村を離れているのが現状だ。若い世代の村離れは確実に過疎化を招いている。
 また、ここ数ヵ月間で治安の悪化も目立っており、五月二十六日には強盗事件によるはじめての負傷者も出した。村では十年前に行った防犯の成果を再び実践すべく村民への徹底した防犯指導に向けて動き始めた。
 林会長は「村の住人の数が減る中で現状維持で行っていくほかないが、以前の村の考え方が残っているうちに、若い世代に協力してもらって、村の活性化を考えていきたい」と話している。

(二)
 福博村と言えば「福博剣道」と言われるほど剣道では有名だ。六三年から六八年までの五年間にわたって全伯大会での有段者・団体の部で連続優勝したことがその名を知らしめ、全国の剣士に「福博倒せ」のスローガンにも結びついている。
 福博村会会長の林義宣さん(六〇、二世)自身も十九歳の時からこの地で剣道を始め、今では七段の腕前で後進の指導にあたっている。
 林さんはソロカバナ線アルバレス・マッシャード生まれ。一九五八年、十九歳の時に福博村に移住して以来、剣道に情熱を傾けてきた。
 林さんが剣道を始めたきっかけは現在スザノ市内の金剛寺の住職で、当時日本語学校の教師をしていた谷口又男師範(八段)に出会ったことによる。 
 七歳の時分から家族を助けるために農業に従事してきた林さんは、その無理がたたって姿勢が異常に悪かったという。
 「剣道をやれば姿勢が良くなる」と谷口師範に言われた林さんは剣道を始めるようになり、元来の負けず嫌いの性格から「勝つことが面白くてたまらないようになりました」(林さん)と言うように腕をメキメキと上げていった。
 谷口師範が始めた福博剣道は、その頃はゼロからのスタート。竹刀、防具がないために谷口師範自ら竹を切って竹刀を作った。
 「初心者が剣道を始めてすぐは防具をつけることは許されません。半年間は毎回素振りの練習ばかりさせられました」
 防具は五八年に日本に一時帰国する人に頼んでようやく剣道部らしくなったようだ。
 試合の前には千本の素振りを欠かさないという林さんは稽古を繰り返すことにより、「人の何倍も練習しないと勝ってはいけない」ということを身体で覚えた。
 その結果として六一年の全伯有段者大会での優勝を皮切りに、六二年連続優勝、六七年四段以上の全伯高段者大会で優勝したほか、七六年と七九年にはそれぞれロンドンと日本で開催された世界大会にブラジル代表として参加したという輝かしい成果を上げた。
 林さんが最も印象に残っている試合として、同じ福博村出身で谷口師範の弟子にあたる秋永正俊五段と六七年の全伯大会で優勝を決める大事な対戦がある。
 「それまでの練習や試合で勝ったり負けたりしていて手の内を知り合った相手なので、とてもやりにくかったですが、身体が自然に動いて勝ったようです。今となってはどうやって勝ったのかは覚えていません」と林さんは当時を振り返る。
 現在、谷口師範の福博剣道の教えは林さんを通じて後輩たちにも伝えられている。林さんには四人の息子たちがいるが、その全てが福博剣道に携わり林さんに負けるとも劣らない好成績を残している。
 現在、福博剣道部は四十人。うち、女性が十二人、非日系が十人前後とここでも時代の波は免れない。好成績を収める福博剣道出身者だが、「続けていても剣道で道場を開くことはできない」と仕事の忙しさで引退していく人も多い。
 「今後、日系人だけでなく、ポルトガル語での指導も必要で、ブラジル人を入れていかないと剣道人口は減っていくばかりです」と林さんは将来を懸念する。
 いかに伝統の剣道部をつないでいくか。村の諸問題が伝統ある剣道部にも響きつつある。

(三)
 福博村で現在、草分け的存在となっている杉本正(すぎもと・まさし)さん(八二、北海道出身)。入植当時のことを知る数少ない一人だ。 
 一九三一年二月十三日に家族とともにブラジルに渡った杉本さんはノロエステ線のカフェランジアを経て、同年十一月十八日に福博村に入植。当時、十五歳の血気盛んな世代だった。
 杉本さんが今も所持している資料によると、福博村の初期にはレンガを買う資金がないとして、そのほとんどの家族は泥壁の家に住み、周りは再生林が広がっていたという。
 一獲千金を夢見た人々はトマト、バタタ(ジャガイモ)を生産し、杉本さん家族も比較的資金がかからなくてすむトマト生産を中心に野菜づくりやえんどうなどの雑作も行った。
 「父親はたまに所用でサンパウロに行く場合は夜中の二時、三時に起きてスザノの駅まで歩いて行っていました。弟たちも学校がスザノにあるので当時は皆、片道八キロある道のりを歩いて通っていました。ブラジル人はすべて裸足で治安が良く、今では考えられない平穏な時代でしたよ」
 入植五年目にして父親の馬治さんが作業中に毒蛇の被害に遭い死去。入植以来初めての犠牲者に葬儀には村人全員が集まった。当時は交通の便も悪く、スザノには医者がいなかった。サンパウロまで医者を呼びに行ったが着いた時には、すでに手遅れの状態だった。
 一家の大黒柱を失い杉本さんは、がむしゃらに働くしかなかった。一緒にブラジルに来た従兄弟は日本に帰ったが、杉本さんは「自分は生涯農業をやっていく」と福博村で骨を埋める決意を固めた。日本で農業の経験はなかったが、「どうしても(農業を)やっていかなければ」という気持ちが技術を向上させた。
 ただ、当時の日系社会ではブラジル時報、日伯新聞、聖州新報などの邦字紙が盛んな時代で、父親が日本から大手新聞を取り寄せていたこともあり、杉本さんにとってはそれほど苦労したという思いもなかったようだ。 今の福博村という名前は、その時代の土地の所有者であったロベルト・ビアンキから植民地づくりを請け負った初代入植者の原田敬太氏が名付けたとされているが、その前身として一九三二年に日本人同士の親睦を目的につくられた「日曜会」と、その翌年の三三年八月二十七日に改称された「恵比寿会」の存在があったという。
 杉本さんの父親・馬治さんは「恵比寿会」の専務理事を担当するなど、少なからず初期の福博村の発展に貢献してきた。 三三年六月十八日、移民二十五周年に合わせて青年会も発足。その年にちなんで「二十五青年会」と名付けられた。
 「かつては我々の親たちが日本で青年会を作っていて、若い世代が自主的に作ったのでなく、親父たちが『おまえら発会しろ』ということで、作られました」
 青年会では「大地」という会報も発行されたがそれらの活動資金を得るために周辺地域の土地の開墾を青年会で請け負ったり、日本から配給される映画の前売り券を配ったりと「苦しいながらも充実した時代だった」と杉本さんは当時を振り返る。
 青年会の創立会員は今となっては杉本さん一人となり、福博村の歴史を知る人もだんだんと少なくなってきた。
 「日本人がスザノに入ったおかげで今のブラジルの農業がある。農業生産の発展が商業にもおよんだ」と強調する杉本さん。だが、一方で現在では日本人が築き上げてきた農業も福博村では成り立ちにくくなっている。 「子供たちが農業をしなければ、最終的にはこの村には年寄りが残るだけ」
 時代の変遷に伴い、日系社会と同様、問題が山積みされている村の現状を杉本さんはじっと見つめている。

(四)
 最近のブラジルの経済不況が影響して各地で日系人が強盗などの被害に遭うケースが多発しているが、福博村も例外ではない。五月だけで六件もの被害が上がっており、同二十六日には死亡には至らなかったものの、村で初めての負傷者を出した。
 記者がスザノを訪問した際、歴代の村会長を務めた七人の代表者が現在の村の治安状況と今後の防犯対策を講じるため、村のこれまでの経緯を熟知する大浦文雄さん(七五、香川県出身)宅に集まった。
 福博村の治安悪化は十年前にも問題になったがこの一、二ヵ月特に目立ってきており、村としても放ってはおられない状況だ。林義宣村会長は「朝のあいさつが強盗に遭わなかったかどうかから始まり、村民がノイローゼ気味になっている」と話しており、事態の深刻さをうかがわせている。 この日の話では被害があった際になぜ、近所隣に連絡がいかなかったのかが問題に挙げられた。 実際の被害の中には畑仕事をしている時にピストルで脅されたり、午前六時から七時ころと大胆にも早朝を狙って賊が家に侵入してくるケースが多いが、近所に知らせる手段はあったはずだというのが、大方の意見だ。 「人質にとらわれた時便所に閉じ込められる場合が多いが、強盗に分からないところに携帯電話を置いておくとか、家に入った際に何らかの形で近所に知らせる方法を考えないと同じことの繰り返しになる」
 福博村では九年前にも日系人宅にピストルを持った賊が侵入したが、事前に取り付けておいたサイレンを鳴らしたところ驚いて逃げた例もある。 その際に防犯対策としてサイレンの設置、各家庭の庭内に犬を放し飼いにすること、家の周囲に柵を張り巡らすことが実行され、大きな効果を上げた。
 しかし、今回被害に遭ったところからは賊が引き上げてからもサイレンが鳴らされないなど、村全体の連絡の徹底ができてないとして、今後の防犯強化を行っていく考えだ。 
 「強盗に人質として囚われた場合、下手に逆らわない方がいいが、日本人は何も抵抗しないのだと感覚が賊の間に芽生えられても困る。賊にやられた際の近所への連絡の徹底と道路を封鎖するなど簡単には侵入されない手段をとる必要がある」 治安の悪化はスザノだけでなく、モジダスクルーゼス管内でも問題化しており、福博村からも代表者二人がモジのピンドラマで開かれた防犯対策講習会に参加。付近を担当する軍警隊にも集まってもらい、解決策を講じたという。
 しかし、「軍警隊でも全面的な協力はすると話しているが、現行犯でないと逮捕できないという規定があり、被害があった後では当てにはできない。また夜警を頼んでもその方の人権費の方がかさむ」と自己防衛する以外に方法はないようだ。 サンパウロに水資源を供給するためのダム建設により、SABESP(聖州水道公社)が福博村周辺の土地を接収したことが、悪い意味でのファベーラ増加につながり、日本人と日系人の日常を脅かす事態にまで発展している。
 「将来のベッドタウンとなろう」と予測されていた村は現在、過疎化、少子化、治安問題と多くの問題を抱えている。だが、それらを解決できるか否かは、村民一人一人の意識にかかっている。

(五)
 福博村はブラジル・ゲートボールの発祥の地としても、その名を知られている。村の会館横に専用のコートが設備され、記念碑に彫られた「ブラジルのゲートボールここに始まる」の文字が目を引く。
 福博村のゲートボールの経緯をまとめた故・黒木松巳氏の資料によると一九七九年一月に老人クラブ福栄会の定期総会においてゲートボール競技の導入が正式に認められている。
 導入のきっかけは黒木氏が前年の七八年十一月に渡伯二十周年記念に訪日し、故郷の宮崎県で墓参・先祖の供養を兼ねて旧友を訪ねた際に、近所の農業協同組合倉庫広場で行われていたゲートボールの試合を観戦して「これはブラジルの老人クラブ活動スポーツとして喜ばれるのでは」と感じたのが始まりだという。 当初、日本から用具一式を持ちかえる予定だったが、荷物が多いためにブラジルで現地調達することを考え、黒木氏はとりあえず宮崎県ゲートボール協会発行の規則書を持ちかえった。
 しかし、ブラジルで用具を揃えるのには苦労を重ねたようだ。
 ボールの製作者が見当たらず、探しまわったところアパレシーダ市でコケシ人形を製作する鎌田茂氏を知り、早速ボールを試作してもらったが、ボールを強く打つと木目に沿って割れてしまうなど、なかなか上手くいかない。
 鎌田氏からの連絡でグワルーリョス市に木製品の専門家を紹介してもらい、当時の古賀茂敏村会長と四回にわたって通いようやくスティック十本とボール十個が出来上がった。
 ブラジル最初の団体競技としてのゲートボールの公式試合開催は、八一年九月十一日でイタペチ老人クラブ「万寿会」からの親善試合の申し込みにより福博村で行われ記念すべき一日となった。 その後、ブラジル全国の高齢者を主な対象にゲートボールの名前が広がり、カラオケや社交ダンスとともに爆発的な人気を誇っているのは言うまでもない。
 しかし、発祥地としての現在の福博村での競技人口はわずかに十人と少ない。ここでも過疎化、少子化の現象が顕著に表れている。
 現在セントラル地域ゲートボール愛好会会長で福博村のゲートボール担当をしている土井博さん(八一、広島県出身)によると、サンパウロの連合本部に登録している会員が五人おり、そのほかにセントラル地域のみに登録している会員が五人いるという。
 毎週月・水・金曜日に専用コートで練習を行っているが、全盛時に比べてその数は減少する一方だ。
 それでも毎年七月には「発祥の地大会」と称してセントラル地域から十六、七チームが参加し、大会も今年で七回目を迎えるという。
 土井さんに今の現状についての気持ちを聞くと「福博での競技者の数が少なくなり寂しい限りですが、ゲートボールは元々年寄りの健康維持のために行っているもので、体が動くまで続けたいと思っています」と案外とさばさばとした答えが返ってきた。
 福博村での競技人口が減っても、発祥地としての名前は残るが、時代の流れが重く福博村にのしかかっている。

(六)
 二〇〇一年、福博村は入植七十周年を迎えるがそれを目指して、この十年間の村の実態調査が行われる。
 調査は入植初期の時代から十年単位で続けられており、その年代の移り変わりが、目で見て分かるようになっている。
 青年会長、村会長を経験し、今でも村のことを熟知する大浦文雄さんは調査を始めたきっかけについて「決して学術的なものではなく、心情的なものが中心だった」とその出発点を強調する。
 第一回の調査を行ったのは一九四八年六月。村の戦前、戦中の移住者にとって日本の敗戦は大きなショックだった。日本には帰れないという現実問題に直面し、「我々の故郷をブラジルで作ろう」という気概が青年たちの心を一つにした。
 青年運動の一環として行った村の植物採集には植物学者の橋本梧郎氏、画家の故・半田知雄氏らも参加し、これが現在の博物研究会の始まりでもあった。
 「とにかく、当時は心の故郷を作ることが原点でした。それまで閉鎖されていた会館を掃除し、周りには花を植えたりと必死でした。その中で我々の運動がどう変わってきたかを知るために調査は継続されてきました」 その時の思いは大浦さん自身「スザノ詩集」の中で綴っている。
 「からだの中から 植民地くささがぬけきり 青い山々や、赤いうねり道や それらの上を去来する白い雲などを見つめる瞳のそこから やわらかな光がきざしてきてー そこから 僕等の夢は芽生えるのだ 僕等の村の自然を愛し 村の人々を愛し はだしで通学する子供らを愛し (いつかはきっと) 骨を埋めて悔いない村に (そして又) 広い世に出てゆく子らの 心のふるさととなる村に 僕等は育ててゆきたいのだ」
 戦後、誰も指導してくれる人もいない中で第一回目の調査は行われた。 「皆と一緒に育ってきた村が簡単に潰されてたまるかという心が強かった。私は日本人としてこの地で果てる思いです」と大浦さんは自分たちの手で作り上げてきた福博村への思いを熱く語る。 第一回目の調査には大浦さんをはじめ、栗原稔昌氏、森部力三氏、森部剛男氏、石橋誠也氏、八巻梅夫氏などが中心となり結果を表す図柄などをすべて手作業で行った。 それが九〇年に行った調査では若い世代が参加し、コンピューターを使用して調査表を製作するまでに至っている。
 入植当時から六〇年代までは日本人の数が激増し、養鶏を主体とする「豊かな村」として、その名を全伯に知らしめた。初代入植者の原田敬太氏の提唱によりユーカリなどの植林も行われ、農業の機械化が若者を村に留めた。出生率もその頃は高く、五八年には年間二十八人の子供が生まれている。
 それが九〇年、日本の入管法改正を契機に日本への出稼ぎが始まり、村の過疎化、少子化が問題化し、出生率も九八年に一人、今年は二人と激減している。さらに高齢化による死亡率の増加、治安の悪化や混血化の問題などが懸念されているが時代の流れには逆らえないのが現状だ。
 そんな中で、大浦さんは村の仲間に呼びかけ、薬草づくりによる村の活性化に向けて動きはじめた。
 九二年三月十九日付けの日伯毎日新聞でのインタビューで大浦さんは、「入植七十周年の際に福博村は存在するか」また「若い人材は存在するか」との問いに、「存在する」ときっぱりと答えている。この記事を見た村の若い世代から「よくぞ言ってくれた」と喜ばれたという。
 二年後の入植七十周年に向けて実態調査のテーマはまだ決まっていないが、「自分たちの現状を把握するためにも調査は続けて行かなければならない」と大浦さんは断言する。
 様々な問題に直面しながらも、福博村は新たな明日に向かって歩き始めた。

(サンパウロ新聞1999年6月・松本浩治記者)


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