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福博村
     文芸  (最終更新日 : 2004/08/25)
掘抜井戸

掘抜井戸 (2004/07/05)
大浦文雄

 毎年六月から十一月頃までの乾燥期には、養鶏場の水が足りなくて、あちこちの池から自動車で運んだものだが、七十年振りといわれた一昨年の大旱魃の時には、毎日二千リットル入りのタンクに、少なくとも六・七台は運ばなければならず、それが八ヶ月も続いたので、いささかうんざりした。
 それでいつかは掘らなくてはなるまいと思っていた掘抜井戸を思い切って掘ることにした。

※ ※ ※

 いよいよ工事をはじめる事に決めると、例によって、いろんな想いが雲のように次々と心に浮かんでくる。
 場所は、養鶏場の中心であり、しかも一番高台になる森の中にしよう。
 或る日、地下深く流れていた水脈が、突然地上に噴き出し、丘の上の澄み透った小さな流れが現出する。
 水槽を満たしたあとの水は、どちらに流そうか。まず、妻が毎日一生懸命に手入れをしている小さな野菜畑に引いていこう。哀楽をあまり面に出さぬ妻も、少女のように手を叩いて喜ぶにちがいない。できれば、父がいつか言っていたように庭に池を作り、鯉や金魚を放して眺めるのも悪くない。
 そういえば、ずっと以前イビラプエーラの日本館を訪れた時、ふっと聞いたあの夕暮の筧の音はよかったな。気づく人もないように、さりげなく庭の片隅に作ってみたい。更にできれば、小さくてもいい、子供たちに真白なタイル張りのプールも何とか……。

※ ※ ※

 眼鏡をかけた長身の、どこかジャニオに似た鋭い感じの請負業者チノコ氏が、ジープでやって来たのは、そんな想いが段々自分の内にふくれあがってきた頃だった。自分はここに掘りたい、と言って、森の中に連れて行くと、彼は、専門家としての冷静な態度で、どういう所に水が出るか決定的なことは言えないが、原則的には、地下水も、表面の窪地のような所に、より可能性がある、と言い、もし望まれるならば、ドイツ人で地下水流の有無を調べる仕事を専門にしている人を紹介してもよい。ただ断っておきたいが、たとえ、その人が指定した場所を掘って水が出なくても、その責任は、自分はとれないが、と言う。その調べる方法は、と聞くと、根本的には、その人間の先天的な能力によるもので、金属性の細い棒を持って、あたりを歩く、地下水の多く流れている上を通ると、体に強いショックを感ずるという。何か莫として頼りないが、人間の特異体質というか、特殊感覚を認める時には、一応そのような反応のある事も肯定したくなるような気持ちになり、調査料二十コントスというのを承知して来てもらうことにした。二日後、チノコ氏は赭顔のズングリした中年のその男を連れて来た。自動車から降り、ぶっきらぼうに挨拶の握手をするとすぐに、その男はU字形に曲げた細い金属の棒を両手の掌に軽くはさんで、足早に森の中を抜けて、あたりを歩き出した。調べてもらいたいのは、この森の中だ、と言おうとする私を押しとめて、先ず、土地内の地下水流を自由に探らせたらよい、とチノコ氏は言う。
 約一時間近く歩きまわった男は、やがて三ヶ所の場所を指定した。予定地の森から百米程下った窪地である。
 深度は、はっきり判らないが、百から百四十米前後、水量は一時間一万リットルは確実だという。指定した場所に杭を打ち、あらためて森まで連れて来て、半ヘクタール程のこのあたりを今一度よく調べてほしいと頼むと、しばらく歩きまわっていたが、水流は小さくて殆んど何の反応もない、ここに掘っても、この養鶏場に必要な水量は絶対に出ない、と言う。
 チノコ氏は、自分の仕事はメートルいくらの請負だから、あなたの希望する所を掘るから明日機械類を運んでくるまでに場所を決定しておいてほしい、と言って帰って行った。更にその時、掘抜井戸といっても、自然に噴出するものは殆んど無く、圧搾空気を送りこんで、水を噴き出させるのだという事も話していった。

※ ※ ※

 翌日、昨日まで描いていた夢を振り切るように、指定された窪地に掘ることと決め、三日かかって、高さ十三米の鉄骨の櫓を組み、いよいよ掘り始めたのは、妻の日記によると、六十三年十二月十八日の朝、その日の中に十八米掘ったと記してある。
 直径十四吋のブロックを、深まるにつれて継ぎ足してゆく心棒の先に取りつけ、それをゆっくり回転させながら掘り下げていく操作を続ける事一ヶ月、深度八十米になって、ようやく岩盤に達した。こんどはブロックの代りに、同じ大きさの二米程の鋼鉄の筒を取りつけ、特製の硬い鉄屑を少しずつ放り込んで岩を切り込み、それを筒の中に挟み込んで引き上げた円筒形の石を、夕べ毎に子供達と見に行く頃になると、またもや、例のくせが頭をもたげてきた。
―森の高台にある水槽からこの井戸まで、一直線の巾広い道をつけよう。養鶏場の心臓部らしく井戸のまわりは高めに土を盛り、青い芝生を植えよう。その中に点々と赤いカンナも、コンプレッソール(圧搾機)とボンバ(ポンプ)の小屋は真白な壁に、赤みの強い瓦がいいな。それから道の両側の並木は何にしようか。紫の花が咲きこぼれるジャカランダ、ミモザもいいが、燃えるような花をつけた、やや武骨なエスパトジアの木振りも好きだ。
 妻はリンゴにしてはと言う。そういえば、いつかカンポス高原で見たリンゴ園を思い出した。紺青に透った空に、くっきりと浮いた赤いリンゴのつややかさ―

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掘抜井戸.jpg
 そうこうしているうちに、地下百米の岩が出た。岩盤になってから二十米、掘り出した石をその都度、水の流れているらしい割目を調べて来たが、これといったものが無いという。ここで一度水量を計ってみようということになり、コンプレッソールを据えつけた。
 六十四年二月四日の朝で、家族総出で、井戸のまわりを取り囲んでいた。空気を送り込み出してから約六分、二吋の鉄管から最初の水が真白く泡立ってとび出した時、みんな思わず歓声を上げた。だが、徐々に水量はおちて、三十分後に計ると、一時間の出水量一千五百リットル。結論として、これでは足りないから、もう一息掘れ、ということになった。百二十米あたりからだんだん岩が硬くなってきた。ひどい時には、一日七十糎しか掘り進められず、チノコ氏は、この岩質では、これ以上掘っても無駄だと言いだした。
 とにかく百三十米まで掘ってみようではないかと、元気づけながら続けて行くうちに、百二十八米の所で、心棒の先が捩じ切れてしまった。万事休す。
 この式の機械では、もうどうすることもできないという。残された仕事は、どれだけ出水量があるか調べるだけとなった。コンプレッソールを取りつけ、スイッチを入れた。三月七日で工事を始めてから丁度八十日目である。水の出口の鉄管の先に掌をあてて待った。期待というよりも、一種の祈りに似た思いの何分間であった。結果は一時間わずか八百リットル、最初調べた所から掘り下げた岩盤の何処かに水の逃げる亀裂があったのだろうという。即日放棄。

※ ※ ※

 それから何日か経た日曜日の午后、村はずれに住む横田さんが、井戸を見せてもらいに来ましたよ、と言って、六キロの道を歩いてやってきた。
―ああ、あれは失敗しましたよ。
―ほう、どうしました。
―水が出ないんです。
 家から現場へ行く途々、経過の説明は省略して、唯、最後の出水量を調べた時、弱々しく間歇的に噴き出す水に掌をあてながら、これ以上は出ないんだと、はっきり自分にいい聞かせた時に、ふとよぎった疲れは、こたえましたよ、と言った。
 何米か黙って歩いて、ま、百米地下の石を掘り出してみた、というだけでも意味があったじゃないですか―。さらりと答えられた。
 機械の取り去られた現場には、陽に乾いて固まった泥土と掘り上げた長短何本かの石が転がっている。
―ほほう、これが百米地下の石ですか。
と、しゃがんでしばらく見入っていたが、欠片を一つ貰っていきますよ、この頃は、からっ風がひどくてね。メーザ(テーブル)の新聞が飛び散って困ります。これは押さえに丁度いい……。

※ ※ ※

 あれから、もう二年近く過ぎようとしている。その後、最初の予定地から五百米以上離れた湿地に新しく九十米の井戸を掘り、毎時五千リットル程の水はコンプレッソールを動かしさえすれば常時溢れ出て、どんな渇水期にも心配はなくなった。
 ただ時に、ふっと気になるのは、青空に浮く雲のように、ひとときに心に去来したさまざまな想いのうすれゆく翳りと、詩人横田恭平氏が持ち帰った石の欠片の行途である。(完)


後書

 この文章は、一九六六年の日本文化協会機関紙「コロニア」に載せたものである。原稿を依頼された時、地方の人間らしく、土に即したものを書こうと考えている中に、土の下の事柄を記したものが出来上がったのであった。そしてこの一文は、私が後にも先にも原稿料というものを貰った唯一の文章である。 スザノからサンパウロに仕事に通っていた田中洋典氏が、その稿料を届けてくれた晩、二人でバールの片隅で何かをつまみながらビールを(田中氏はグァラナだったかも知れぬ)飲んで費ってしまったのだから、わずかなものであったが、忘れられない一つの憶い出となった。
 さて、現在では、あちこちの養鶏場で掘抜井戸は掘られているが、十八年前の当時に於いては、私の所がスザノ地帯で初めてであり、未知のものに挑む気持ちの中には、実利性だけでなく、一つのロマンのようなものがあった。
 今、再録するにあたり、読みかえしてその感を新たにするのである。


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