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(最終更新日 : 2004/02/14)
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文集「お母さんの思い出1」
文集「お母さんの思い出1」 (2003/12/23)
お母さん
まつむら まさゆき
あなたは天国、こちらは地球。
思い出します、お母さん。
優しかった、お母さん。
思いやり深かった、お母さん。
辛抱強かった、お母さん。
美しかった、お母さん。
八十近いこの俺が
もしも、母さん今此処で
あなたの前に、立ったなら、
子供のころ頃にたち返り、
必ず呼ぶよ
「かあちゃん」と。
おおきな声を張り上げて、、、、、。
二〇〇三年一一月七日
お母さんの思い出
あとじ たけお
私は二歳のとき実母を亡くしました。だから、実母の思い出はありません。
父が再婚し、新しいお母さんに育てられて成長しました。お母さんは、我が子のように可愛がって下さいました。私にとっては、この人がお母さんです。
お母さんは体の弱い人でしたが、夜は内職して家族にふそくのないように、働いて下さいました。お母さん!!ありがとうございました。
お母さんは、日本にあこがれ、口ぐせのように、「日本に帰りたい」と言っていました。
お母さんとは、永らく一緒に暮らす事は出来ませんでした。それは、日米戦争が始まるかどうかの時代であり、丁度、日本行きの最後の船があり、お母さんは弟、妹と一緒に日本に帰ることになりました。
お母さん達が日本に着いたと同時に戦争が始まり、世界戦争になったのです。そして、5年間の長い戦争が終わった。しかし、母、弟、妹達からは、何の便りもなく無事で元気でいるのだろうかと、大変心配していました。半年ぐらい過ぎた頃、弟から一通の手紙が届いた。
「母も弟も妹も、みんな元気で無事で居たんだ」と嬉しかった。
しかし、それは、母の死亡通知の手紙であった。悲しい知らせでした。
これだけは、どうにもならない運命。
お母さん達、戦争中は食べ物もなく、苦しい毎日の生活であったことでしょう。しかし、お母さんには日本に帰る望みがかなえられた事だけでも、幸せであったと思います。
私は、何一つ孝行してあげれなかったけれど、、、、、。
母は、空から私たちを見守ってくださる事でしょう。
お母さんの思い出
もりした たえこ
私は、二才の時に母が亡くなりました。
父の姉には、子供が生まれなかったので、叔母の養女として育ったのです。
私の母は、二才の私をおいて天国に召されたのですが、どんなに心残りがあっただろうと思うと私は淋しくなります。
父と母は、あの当時恋愛で、とても、愛し合っていたようです。
ちゃんと結婚して、二人目の子供である私を生んでから肺を患い亡くなりました。
父は、いつも私を可愛がり、私を連れに来ては、家に連れ帰り父の、隣にお布団を敷いて寝かされていたそうです。
私には三つ年上の姉がいますが、今でも東京に元気でいます。私が丁度八十才の時、日本に行って会ってきましたが、お別れの時、アブラッサ(抱擁)して、泣いてくれたました。その時のビデオを見ると懐しく思い出されます。
私は、「妙ぼう。。妙ぼう。。」可愛がられたそうですが、、、、、、。
あまりにも、幼かった私にとっての、母の思い出は、父母と姉と私の四人で、座敷に座る私のおしゃまで、ほほえましく見えだけの、昔の写真でしか、分らないのです。
私は、大正四年六月一日生まれで八十八歳です。我が子たちは、皆早く亡くなりましたので、孫達が八十八歳のお祝いをしてくれました。
大庭の池の小波すばらしく
米寿の余徳(よとく) 憩の園に。
お母さんの思い出
おおぬま そうきち
母の手記の前に、私の生い立ちを少し書きたいと思う。
私の出身は北海道です。ブラジルに移住する前には、道内から出た事はありません。幌加内(ほろかない)にて生まれ育った者です。頭の中には小さい頃、学校に入ったときの事は少ししかのこ残っていないが、その中の一つだけ思い出すのが、小学5年生の頃だと思うのが、家が農業仕事の為に、小さい妹を背負って登校しましたが、でも、先生が早引きをさしてくれて家の手伝いをしたこと事です。
私の母は、北海道生まれで、母の話によると小さい頃には親達と荒山(あらやま)に入って土地を開いたようで、大変苦労をし楽ではなかったらしい。小学校へ入学しても、家が大変らしく学校には仕事の切れた暇な時に、学校へ行っていたようです。それに、父と一緒になってからも、父が鉱山に入り、家にいない為に、大変苦労をしたと聞きました。出面取り(日当取り)とか、水田、畑などを作り、子供を育ててきたようです。まあ、戦前の生活は何とかやらねばならず一生懸命に頑張ってきたのだろうと思います。
そして、ブラジルへ移住する前に父は食道ガンで六十七才で亡くなり子供が、沢山いれば暮らしも良くなく、苦労をしていました。
その頃、ブラジルへの移民の話があり、母に話したところ、母もブラジルへ移住する事に決心をしたのです。モジに入ってみると家は山の中で、近所に人の話では、冷たい人も、暖かい人もいると話してくれました。母は「「これは、えらい所へ来たもんだ。それでも、来た以上は、これから一生懸命やらんと食べていく事が出来ない」と、良く言っていたことを思い出します。
母は、六十才でブラジルに来たので、これから先どれ位やれるかとしんぱい心配していたと思う。母は九十六才で亡くなりましたが、母には大変苦労をかけてしまった。母の苦労には心から感謝しなければならない。
この手記が、ばんぜんとしているかも知れないが、あらためて母のために心から捧げたいと思います。
春の日や のどかに過ごす 部屋の中。
囀(さえず)りや 小鳥は日中鳴きつづり
お母さんの思い出
もりかわ やちよ
私のお母さんは、日本の九州で生まれたのです。
そして、日本で父と結婚し1人の子供を連れてブラジルへ移住してきたのです。ブラジルに来て9人の子供を生みました。私たちは、10人も兄弟がいます。そのうちの10人目が私なのです。10人の子供を育てるのは大変な苦労であったろうと思います。
お母さんは、日本の歌が大好きで、夜中でも大きな声で日本の歌を歌って、大変朗らかな人でした。しかし、皆から馬鹿にされていましたが、それでも辛抱をしていたのです。
私が小さい頃に、日本の昔話の桃太郎や、かぐや姫等のを聞かせてくれました。また、私の分らない世の中の事や、色んな事を聞けば優しく教えてくれたのです。
私にとっては、大事なお母さんでした。
お母さんの思い出
もりい そのこ
私は、3才の時に父親が亡くなり、姉夫婦に育てて頂きました。
母は、洋裁仕立物が大変上手でした。学校の裁縫の時間の宿題で先生に、「何時までにやっていらっしゃい」と言われたとき、手伝って貰おうと頼むと「見てあげるから自分でやりなさい」と言われ、どんどんほどかれ、「初めからやり直し!!」と、びしびしやり直しさせられたものです。
そして、大きな料理屋の娘だけあって、料理は抜群に上手でした。分家した兄達が土曜日というと「家の嫁さんの作った物は口に合わん」と言って、重箱をぶら下げて来たものでした。母がぶつぶつと文句を言っていましたが、それでも、来なければ如何(どう)したかと、心配していました。
とても、朗らかな人で町内でも人気者の母でしたので、あの戦争中の、何にもない時でも、何処からともなく集めてきたものでした。
私が、貯金局に働いている時に、農園があったので、そこの、農園を利よう用して食料の買出しに行ったことです。
大東亜戦争の時、家が丸焼けになり、代々の江戸っこ子で田舎がなく、そこにバラックの家を建て、家族で生活した事でした。
母は、頭痛持ちであったので、毎朝起こされて薬を買いに行かされた事でしたが、この薬が効かなくなり段々と強くなリ、ついに胃を痛めてしまい、とうとう胃がんに冒されてしまったのです。
その時の、母の看病は大変でした。バラック建ての為に雨は漏る、冷たい風は隙間から、遠慮なく入って来るし、本当に可哀想でした。
丁度、その時、内原の満蒙開拓訓練所で土地があるから、そこで、百姓やらないかと言われ「よし!!お母さんを連れて行って早く楽にしてやろうと思い、直ぐ申し込みました。でも、私が一生懸命に訓練をしている時に亡くなってしまったのです。
母が亡くなった時代は葬儀屋さんが順番で、棺桶がまにあわなかった時代であったが、、、お陰様で、母は町内での評判のおばさんだったので、直ぐに葬式をやる事がで出来て、大助かりしたのです。
「地獄の果ても金次第」の諺の世の中だった。
お墓は、東京の郊外にあるので、お母さんの骨壷を首にぶら下げて電車に乗り、又歩いて行った事でした。この時、空襲警報に会い、アメリカの飛行機に、バリバリとやられた時、もう駄目かと思い、怖かった。でも、お陰様で怪我も無く、無事にお墓に納めたことが出来たことを、昨日のように思い出されます。
お母さん。。本当に有り難う。 そのこより。
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