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憩の園
     在園者の創作活動  (最終更新日 : 2004/02/14)
文集「お母さんの思い出2」

文集「お母さんの思い出2」 (2004/01/23) お母さんの思い出 
               やまもと まりこ

「母の想い出」を書くようにと言われて、私は『フッ』と立ち止まった。
八十五年と云う長い人生を生きている私にとって。
初声あげて、三年と七ヵ月と云う母との余りにも短かくも、遥かに遠い。面影さえ定かでない想い出とは。
だが、とても強烈な一場面が瞼に浮かぶ。
私の父は神奈川県厚木市七沢の七沢城の子孫で長男として生まれたが、父の性格は、その様な堅苦しさが嫌いで「代」を弟に任せて、樺太(今のサハリン)移民の世話役をして樺太に居た。
母は五人の男の子を生んだが六人目の妊娠で女児を恵まれるように、お願をかけたという。その六人目が私であった。
三才と七ヵ月になっても、母の懐に抱かれて、お乳を飲みながら眠る習慣の私は、或る日、母がもう床に入っているのを見つけて、走ってその傍に入ろうとしたとき、誰かに後ろから抱きかかえられて別室に連れ去られて、泣きわめき、暴れて母の傍へ行こうとした自分を想いだす。
母の顔には白い布がかかっていたのが、今でも瞼にありありと見える。
それは、母の死であった。
お願をかけまでし、そして、目に入れても痛くないほど、片時も手放さなかったと後に聞かされた。その母が自分の懐を絶対必要とする幼児をおいて、どのような思いで、雪深く凍てつく樺太で永眠したであろうかと。
今、私の胸がきりきり痛む。
               二〇〇三年十一月二六日



お母さんの思い出
               こばやし さだこ

母は三十才の時、四番目の次女として私を生みました。
一番に生まれた長女は八ヵ月の赤ちゃんで亡くなったそうです。
私は、二、三才頃まで体の弱い子であったそうだが、それからは元気に成長したようです。小さい時には、父母はたいそう気を使った事と思います。
二人の兄は元気なワンバク。おもちゃや、分けて貰ったお菓子や、おせんべい等を取られて泣くのは、いつも私。母に告げても「おまえは良い子だ。良い子だから、あげてしまいなさい」と言って兄達を叱らないのです。そして、母は、おまえは女の子だから父母兄弟には口答えは「悪」と決め付け、甘やかさないと言い、完璧を望みました。
父がやさしい分、母は大変厳しくしたようです。
長兄は十七才の頃、ブラジルに熱を上げて父に語り、単独でサンパウロに来ていました。その後、二年ほどして父は一家引き連れ昭和六年八月に、息子を追ってモゲヤナのコーヒー耕地に入植したのです。
母は、あまりの生活の違いに驚き、ショック。
私のサンタクロースの袋の中に、悲しみ。嘆き。の愚痴を、次々押し込まれ私は、せおっていくしかなかった無知な私でした。
母は、大そう辛かったのでしょう。
十九才で嫁ぐ私に、「その後、困ったこと事があって居り場が無い時、その時は家に帰ってきなさい。昔のような事は云わないから、勝手に死なぬよう。生きてこそ人生なのだよ」と語ってくれた。
この時、私の思いと違った母の一面があること事を、初めて知りました。
一人娘の私のことが、どんなにか、いとおしかった事でしょう。
父は八十一才で亡くなりました。七つ違いの母も同じ年まで、生きてくれました。
私は、現在八十五才と七ヵ月ですが、家族の中の誰よりも、長生きしてしまいました。
◎ 思い出は、石畑に泣き、花コーヒー。
(受け持ちコーヒー畑は半分石ころでした)
◎ 幼な時、石に鍬引き、砂ノミに泣き。
(思い出すと涙が流れる)



私のお母さん
               ふくなが しずよ

私は、弟と二人の兄弟です。一人娘であったので小さい時から可愛がられて、とっても、幸せでした。
昭和四年十一月、四歳の時、父、母、弟、叔母さん(母の妹)の四人でブラジルに来たのです。
モジのコーヒー畑に入ったが、思わしくないので、父は、その後日本食のレストランの板前をし、母は洗濯屋で繕い物などをして、働いていました。
しかし、父と母は別々の仕事は、寂しいと言って、一緒に働ける仕事を考え、フェイラ(市場)の店を始めたのです。
母は父を助けて頑張っていましたが、私が二十二才のとき、四十五才で亡くなりました。病気に気がついた時は、もう、手術は出来なく、手遅れであった。母は、亡くなる間際の痛みの苦しさの中で、「後妻を早く貰ってくれるよう、そして、娘を幸せにしてやって!!」と父に言い残した。
毎日、母の看病をしていた私は、母のなくなったその時は、悲しくてたまりませんでした。
母の事を思い出しては、泣いていました。
母が、もっと長生きをしてくれたらよかったのにと、思いだします。
とっても、悲しかった。
あれほど母が望んだのに、父は再婚はしませんでした。



お母さんの思い出
               はたがみ かずえ アリセ

私のお母さんは、養子娘であり、気性がしっかりしていた。
お父さんは大変、優しかった。
幼い私の病気の為、いつも父が病院へ連れて行ってくれた。五才の時、サンタカーザ病院 に、長い間入院した時も父は、よく見舞いに来てくれた。
母は、田舎から病院までは遠く、そして、車酔いが酷く、そのうえ、私の他に五人の子供がいたからでしょう、一度も病院へ来る事は無かった。
病院で、幼い私は看護婦さんたちに、良く可愛がってもらった。
しかし、夜になると、母のことが恋しかった事が思い出されるのです。
お母さんは、「日本へ帰れば、あれも、これも有る」と、いつも口ぐせのように云って居ました。
日本に残した祖母を案じ、日本へ帰りたい気持があったらしいが、その夢は叶わず、母は八十六才でブラジルの土になったのです。



お母さんの思い出
               たかはね ももよ

私が六才の時、父母と姉の四人で岡山からブラジルへ移住してきたのです。移住して少しの間、コーヒー園に入っていたのですたが、父があまり仕事が好きでなかったので、母が働いて、働いて、働き通しの苦労して、私たち姉妹を育て、大きくしてくれたのです。
物心つくようになって、母について、覚えている事は、優しいが大変に、厳しい人であった事です。いま、母のした苦労と比べてみると、私の人生は易しい人生です。
この母ありてこそ、私が生きているのだと心から感謝しております。
母の亡き後、三十数年たった今も一日も母の事は忘れられません。
きっと、霊界から見守ってくださる事と思って居ります。
母を思い出すと涙が出て止まりません。



お母さんの思い出
               もり せい

私の母は京都出身でした。父は京都の隣の滋賀県の農家の出身でした。
京都は美人が多いと言われるが、母はどっちかと云えば普通以下の器量であったが、父は美男子であった。二人がどのように結ばれたかは、聞き忘れた。
父は、若い時から西洋料理店に住み込み、西洋料理の修業をし、私達が幼い頃、カレーライスやオムライスの珍しい頃に、大阪の町に西洋レストランを開いていたが、店は大変繁盛していた。。母はレストランでは料理は作らなかったが、お店に来てくれる、お客さんの接待や、集金に目の回るように働いていた事を思いだします。
弟が3人いた。
私は、一人娘で、船場のいとはんと言われた。
私の時代は、女は家の中で家事ができれば、それでいいと言う、男尊女卑の時代であったが、母も父も教育には理解があり、女の私に女学校へ行かしてくれ、教育を付けてくれたのには、心から感謝している。
母は七十才代の頃、病気で無くなったようだが、記憶は定かではない。
両親に健康な体を貰ったからこそ、私は両親より元気で長生きしている。
「本当にありがたい事です。」


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