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憩の園
     在園者の創作活動  (最終更新日 : 2004/02/14)
文集「お母さんの思い出3」 [画像を表示]

文集「お母さんの思い出3」 (2004/02/14) ★この文集は天国のお母さん達への鎮魂文として心から捧げます。(2004年1月 憩の園 入園者より)



お母さんの想い出話
               やまもと たけこ

私は子供の頃、高知に住んでいた。
父は運送業をしていたが、母は宿屋をしていた。この頃はよい得意さんが沢山おり、父母共に商売は繁盛していた。母さんは忙しいので子供ながら、私はせっせと手伝っていた。
隣の愛媛県から一週間に一夜どまりの、お得意さんがいて、高知に来る時には、沢山の果物やその他の品物を持ってきてくださる方がいました。
たまに、その方のお父さんがお見えになった時は、弟には5銭、私には「この子には50銭やろう」と、小使を頂いた事が有るが、その時は本当に嬉しかった。この嬉しかった事は忘れません。
このように繁盛していた商売も時代の流れで高知に、大きな運送会社が出来た。大きな車で安く荷持つを運ぶので、我が家のような小さい運送屋は、たちまちやっていけなくなった。
その時、米屋さんや酒屋さんが親切に「子供を私の所へ寄越しなさい。手をつけてあげますから、、、、」と云ってくれ、奉公に行き母を助けた。
しかし、父も母も親類を頼って仕事の有る大阪へ行ってしまった。
私は一人、寂しく土佐に残された。
その内、恋人ができた。十八才であった。
義理の父母(舅姑)のところでたいへん大変親切にしてもらっている時、隣の方がブラジルから沢山のお金を持ち帰ったのです。
その方が「お前らア、ブラジルへ行け、ブラジルには白いカラスがいる」と言うと、「そんなら行こう!!おまえも、おれも、行こう」」と言うことになり二部落で六家族がブラジルへ来る事になった。
早速、私たちの結婚披露宴や送別会をしてもらい、二年間過ごした舅、姑達と別れて、ブラジルへ出発する事になった。
ブラジルへ発つ前に、大阪の父母に会いに行った。
ブラジルへ行くなど全く知らない母達は、久しぶりに会う私を名所、名所に連れて行ってくれた。おかあさんは、ブラジルヘ行く事は絶対許さない事を感じていたので「母さん!!私は隣村へ出稼ぎに行きます」と嘘を言った。
母さんは「一生懸命働いて秋には又遊びに来なさい。その時には菊人形を見に行きましょう」と云ってくれた事を今でも忘れません。
ブラジルへ行く事を父にも母にも誰にも告げず、顔で笑って心で泣いて別れを惜しみつつ大阪を後にし、神戸行きの特急列車に乗り込みました。「お母さん、許してください。きっと働いてお金を持ち帰ります」と手を合わせ祈りながら、神戸に到着。
そこでは、義理の父、義理の姉さんのお母さんが旗やジャアラを持って待っていてくれたのです。
それからのブラジルは、口には言い表す事の出来ない苦労の日々が待っていた。
その後の戦争の為に、とうとう母への便りは一度も出来なかった。漸く戦争が終わり、叔父からの便りによれば、母は私の行き先を必死に探し回ったそうである。
今思えば、母に心配させた事を心から申し訳ないと思う。
お母さん!ごめんなさい!!。 許してください。

昭和九年十九才の
    人生の幸か不幸の別れ道



お母さんの思い出
               せいの みさお

父も母も山形県の出身で、結婚は北海道でしたようですから、だから私は北海道の出身です。
私が、一五才くらいの頃、「ブラジルへ行けば金のなる木が有る」と世間で言われた。この話を聞いた私は、お母さんに「ブラジルへ行こう!!ブラジルに行けば暮らしも豊かになるから、、、」と母にブラジルへ来る事を奨めたのです。だが、この話に母は、全く乗り気ではなかったのです。しかし、私達の希望を聞き入れて、母は、仕方なくハワイ丸に乗船する事になったのです。
ブラジルに着き、最初にノロエステに入った。
私はブラジルへ着いた翌日から、朝の日の出から夕方の暗くなるまで母達と一緒にカフェザルの重労働にも精出して働いた。
まだ、遊びたい盛りの一五才の私であったが、母を無理に説得してブラジルに来た以上、母の為にはどんな事でもして、母を助け無ければいけないと思い、歯を食いしばって結婚する迄、がんばり通した。
全ての仕事を先立ってしたのは母であった。人の五倍は働いた。
父は他人の為には自分の身を惜しまず世話をしたが、わが家族の為には全く動かなかった父親であった。
世の人達は、父をノミと例え、母の事をシラミと例えた。父は、いつもぴょん、ぴょんと人の為に走り歩いていた。母は同じところでじーっとして、動かず働いていた事らしい。
母は日本でも苦労をしたが、ブラジルでの苦労は、大変なものであった。
この丈夫な働き者の母も、ちょっとした怪我がもとで、五日目に命をなくした。それは、或る日ウサギが逃げたのを追いかけている時、 クギを踏んでしまった。この傷がもとで破傷風となったのです。
母は未だ働き盛りの五十才であった。子供たちは五人いたので、さぞかし、残念な気持であったろうと思う。
私が結婚する時、「お前は本当に、おらの為に善くしてくれた。遠足に行っても皆に、土産を持って帰ったなナー。そして、嫁に出す迄に男の問題で一度も心配させられなかったなナー」と、しみじみ話し掛けてくれた。この言葉が、嬉しかったのを昨日のように、懐かしく思い出される。
お母さん。有り難う。
お母さん!!。ブラジルでは大変な苦労の日々だったね。
どうぞ、安らかに、、、。



お母さんの想い出
               まつなが まつえ

母は、二十才頃ブラジルに来たのです。
母が来る以前に、ブラジルに来ていたという祖父母を追って、女の友達の家族と一緒に福岡から来たのだと聞いたが、この事は詳しく分らない。
ブラジルに来てから父と結婚をし、私たち十人兄弟を生みましたが、今は、女ばかり八人が残っているだけです。私は三番目です。
父は、母と同じ福岡県で、母よりは少し遅れて来たようです。
ブラジルへ来てから、ファゼンダで働いていたが、父は日本で洋服仕立て職人であったので、百姓をやめ、亡くなるまで背広、洋服、帽子、等、作り続けて居た。仕立ての腕はよかったのか、大変繁盛して仕立てを頼まれた布地がいつも山に積んであった。
母は、ボタンの穴かがり等、父の仕立てを手伝って居た。
父と母とは歳が五十才程離れていたと聞いたが、本当の年は分らなかった。父は小太りでビンガが大好きで、よく飲んでいた。母は痩せぼっちであった。
兄弟も沢山いたので、子守は私達子供の仕事であった。それに、両親は引越しばかりしていたので、学校に行きたかったが、あまり、学校へは行けなかったのは、寂しかった。
父は九十才頃亡くなった。父の死後、母は再婚し、こけし人形を売り歩いて働いていたが、そのマリード(夫)にも死に別れてしまったのです。
母は、老いてから「ボケたらいかん!!足を鍛えてちゃんと歩くように!!」と何時も云っていた。
再婚の相手がなくなってからは、長女(長姉)の家で炊事など手伝いながら一緒に生活していた。その頃から段々痩せるのを心配して病院に行った時は、もう、手遅れの状態であった。
母は、サンパウロの病院で亡くなった時は、七十五才頃であった。私は結婚し子供も居たので死に目には会えなかった。
母には大声で叱られたり、叩かれた事は一度もない。でも、母の言うことを聞かない時には、時々、ひねられて痛かった事が思い出される。
父も母も亡くなってから、夢の中に父母が手をつないで歩いている姿を良く見たが、近頃、全く現れない。
きっと、あの世で仲良く暮らしている事でしょう。



わたしのお母さん
               あべ まさこ

私の母は、男の子五人、女の子二人の子供を生み育てました。
私は、母が二十才の時に山口県で生まれ、母にとって初めての子供でした。
戦前、私が一四才の時にアリゾナ丸で、ブラジルへ来たのです。
母は男性のような丈夫な体格をしていて、毎日牛を使い田畑仕事に精出し、コーヒー、綿、バタータ(じゃがいも)等作りに精出し頑張っていた。しかし、何一つ成功しなかった。
母は、何でもづけづけと、はっきりと、ものを云う人だったので、私といつも口げんかをしていたのを昨日のように思いだす。
長女の私が、年頃になり、お見会いをしても、お見会いの度に父も母も「おまえがよかったら決めなさい。おまえに任す。」と云った。しかし、その当時の私には相手の顔さえ見られなかった年頃なので、どうしたら良いのかわからず、結局かぞえきれないお見合いをしてしまった。今から考えれば、あまり体の丈夫でなかった私を母たちは心配して、手ばなしたくなかったかもしれない。
母はマリンガに近いまちに弟達の家族と一緒にすんでいた。
私が六十三才の時、母の容態がよくないと弟からの連絡で様子を見にいった。まあ、様子も落ちついたので帰ろうとしたとき時、弟が「母の様子がおかしい!!」と、気が付いた。この時が、永遠のお別れのときであった。母が八十六才であった。
私の来るのを待っていたかのように静かに、天国へ旅発って行ったのです。
母と、もっともっと色々の話をしておけばよかったのにと、思うけれど、残念ながらこの夢も今になっては叶わないのです。
あの時の弟も居なくなり、末の妹と二人になってしまった。



お母さんの思い出
               なかはらだ かちよ

思い出は 数かぎりなく
    我が胸に そっと残して
             温めておく。

渡辺マルガリータ碑.jpg


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