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イタケーラ植民地
     概要  (最終更新日 : 2004/12/03)
イタケーラの歴史

イタケーラの歴史 (2004/12/03)
松本 圭一
 イタケーラの地名はツピー語に由来するもので、「平らな石」という意味を持っている。この地名からみても、先住民ツピー族の時代から関係あった土地だということがわかる。ブラジルがポルトガルの植民地となる前からインディオの住んでいた地域であり、この地域に勢力を張っていたインディオの酋長の娘と結婚したポルトガル人ジョンラマリヨは、漂流者で、ブラジルがポルトガル領となる前からこのインディオの中に住んでいた。
 イピランガ博物館の表玄関に入り、数歩進んで後ろを振り返って見ると、確か向かって右側に、長身体躯のポルトガル人と裸で立っているインディオの子供との画が掲げてあるのを見るであろう。これがジョンラマリヨとガヤナゼス族酋長の娘との間に生まれた子である。この子供が成人してこの地方の酋長(チビリサ)となった。
 当時、ゼスイット教派の宣教師により治められていたピラチニンガは、周囲の敵意を抱く他のインディオの襲撃を受けることに悩んでいたが、その烈しい襲撃により破滅に瀕した時に、彼の応援により救われたということは多くの人々の知る処である。このピラチニンガの破滅を救った酋長は少年の成人した姿で、現在のイタケーラ地方として残っている地域は、このインディオの酋長の勢力範囲内の土地であったということも考えてみる必要がある。
 四百年も前の昔のことであるが、この酋長が病気にかかった時に、宣教師のパードレ(神父)がポルトガルより持ってきた薬を贈呈して、その病気が治癒したので、その酋長はその御礼として、イタケーラ地方の土地をこのパードレの属するイグレージャ(教会)に寄贈した。それ以来この地方の土地は、このパードレの属していたイグレージャの属地となった。そのイグレージャがカルモのイグレージャである。

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 中央線の鉄道が開始されてから後、現在のイタケーラ付近に駅が設けられてから、畜牧農会社では、駅の付近の土地を住宅地として売り始めていたが、駅より離れた部分を牧場として利用していた。
 この会社がイグレージャから属地を買い取った頃は、既に幾十年となく前より牧場になっていた土地が大部分であった。最初、イグレージャの属地となってから幾年間は原生林であったのを、幾代目かのパードレの時に山を伐って牧場にしたもので、今より九十年から百年も前のことであったらしい。畜牧農会社で同土地を買い、牧場を経営してみたが、その頃にはもう牧地が古くなっていた時で、牧場経営は有利に経営できなかった。一時はアルゼンチンより牛を輸入したりしてやってみたが、結果は面白くないので放置してあった。
 1923、4年頃に石橋恒四郎氏は、連邦政府の畜産技師としてサンパウロに駐在しており、ソシエダーデ・ルラル・ブラジレイラに出ていた。
 その頃、畜牧農会社の社長ブリット氏から頼まれて、ファゼンダ・カルモに来たことがあってファゼンダの土地を見たが、その時放棄の状態にしてあった土地を、農業地として売り出してはどうかと話した。日本人はこのような土地を買うだろうかとの質問に、分割して売り出せば買う人はあるとのこと。ブリット氏はサンパウロで紡績会社を経営したことがあり、その当時アルゼンチンの大きな都市の附近には、シントロベルデが設けられていることを見て来ていたので、ブラジルにも市街地だけでなく、分割された土地に農業地区というものを設けて、やや単位の大きな地区にして分譲することが必要と考えていた。
 石橋氏に相談して、大体、1アルケールを1ロッテの面積単位とした地区を売り出してみることになった。これをコロニアニッポニカと称して、日本人を目当てに売り出したのが、イタケーラの日本人植民地と呼ばれたものであった。かくしてイタケーラ日本人植民地が始まってから、1965年でちょうど四十年目になる。


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