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イタケーラ植民地
     概要  (最終更新日 : 2004/12/03)
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イタケーラ物語 (2004/12/03)
石橋恒四郎
 光陰矢の如しの古い言葉通り、私が関係したイタケーラ植民地もこの七月で満三十年目の誕生の日を迎えた。現在桃の里として名を知られるようになり、多くの家族が揃って余裕のある生活をされているが、創設当時苦しみを共にした方々は追々と消え行くのだと思うと、当時の思い出やどういう動機で出来るようになったかという由来の端を書くのも、或いは生みの親としての義務かとも思い、考えつくままに記してみたい。
 創立当時元気であった地主のコロネルベント氏已になく、入植者のうちに亡くなった人も少なくない。支配人(地主の娘婿)ジョオネ氏も三十年の年月と共に頭髪も白くなり、そういう私も七十歳を越えた。植民地建設者は誰も彼も物質的に恵まれないようだが、私も御他聞にもれずやはり無一物。
 一九二二年(大正二年)、私は伯国連邦中央政府の農務省畜産課に奉職し、畜産技師としてリオ、マットグロッソ、ゴヤス、三角ミナス等、各州にある農務局直轄の畜産課を歴任して在勤十年であった。
 聖市郊外イタケーラ駅に近い大牧畜会社(Cia Comercial Pastoril e Agricola)から豚に病気発生の報告を受け、すぐに牧場に出張検疫調査し手当てをしてこれを撲減した。此の牧場はイタケーラ町の隣接地で、此の出張が縁となり、会社の事務所が畜産課に近かった関係も重なって社長ベント氏、支配人ジョオネ氏共親しい間柄となった。当会社は牧場は副で、主な事業は、広大千五百アルケーレスの土地(駅の北側)を持ち、市街地を建設してロッテや土地を売り出していた。元来市内生活を好まず郊外に適地あれぱと物色中であった私は、サンパウロ市に近く汽車の便がよく、通勤するにも便利なので、社長に頼み、流水のある土地を求め(米五百レース)シャーカラを経営する事にした。現在も植民地に居られる富田実君が家族共に来てくれて、住宅を建てたり、果樹を植え付けたり忙しくやってくれた。
 私は多忙の為、日曜日だけシャーカラに行くのを楽しみにしていた。こうした或る日、富田さんの奥さんからシャーカラで作ったトマテだと言って見事な柿型のものをもらい、あまりに美しいので翌日会社の事務所に持参、社長や支配人に見せたところ「こんなに優良なトマテがイタケーラに出来るとは」と非常な喜び方であった。なぜ、こんなにも喜んだかというと、今と違って三十年前の当時、トマテといえば柿型のものだけで、それも一流のホテルやレストランで上等のサラダとして使用されるに過ぎず、現在のように一般には消費されていなかった。従って栽培法も至って幼稚なもので、トマテは肥沃地でなければ出来ない上等の野菜とされていた。聖市郊外ではブラス地帯の郊外で、ポルトガル人やイタリヤ人のシャカレイロが作っている位で、量も少なく高価でもあった。このトマテがイタケーラに出来たのを見て、ふと社長が、市街地の奥に会社の所有地五百アルケーレスがある、之を日本人に野菜・果樹の適地として売ったらと考えた。そこで日本人である私を相談相手として、土地販売方法其の他万事の計画を始めた。
 私は官職の傍ら農事通信社を経営。鹿児島高農出身の吉間、本田両君を得て機関雑誌「農家の友」を発行しており、土地販売の宣伝には好都合であったので、膨張の一途をたどる聖市郊外に是非一つ理想的な野菜果樹の植民地を作ってみたいと考えた。
 当時郊外にはコチヤ地帯、モジ地方に日本人農家が集団で居たくらいで、奥地の植民地のように一つのものに管理され、且つ指導されたものはなかった。そこで会社に、土地販売の提議には賛成するが唯ロッテを売るばかりでなく、会社は経営者となり、何処迄も植民者の指導に当たり、共存共営の精神で行くなら、私は官職の傍ら宣伝と経営顧問を引き受げてもよいと申し出た。そして責任上第一に地権について確かめた。そして書類を見ると約百年以前のもので、聖市で有名なサンベント教会に属する修道院用地であったもので、会社の牧場本部として現在使用している建物は、以前修道院の一部である事は兼ねて見て知っていたが、之で地権の方は確実である。
 第一には植民地予定地域の実地調査だ。当時日本人医師として、唯一人の高岡専太郎氏(今の医博)、ブラジル時報社の主筆杉山英雄氏この二人と共に牧場から馬で視察した。その結果清水の流れもあり、地形乾燥で健康地帯、唯奥地の処女林の地味にはとうてい比較にならぬが、施肥すれば果樹・野菜栽培には適地と思う。殊に聖市市場に近い点が最も有利との両氏の意見、茲で会社も植民地としてその名もコロニア・ニッポニカ・デ・イタケーラと一決。愈々、第一区を畧百アルケール、ジャク河の東側を測量技師を入れて一ロッテを一アルケール宛に区劃された。
 そして会社側は、
(一)植民地の中央に教育、体育の使用地として一ロッテを無料で提供する。(二)植民者の住宅建築材料は安価に提供する。
(三)十軒分だけの住宅は模範植民住宅として煉瓦建築とし、会社の方で建て、向う三ヶ年の月賦払いとする。
なども決定し、一九二五年三月十五日発行の「農家の友」誌上で植民地創設を宣言し、希望者の問い合せや視察された人々の中に、特にイグアッペ植民地からが多かった。
 千葉園芸学校出身でイグアッペ植民地の試験場主任の永島兄弟、日本で果樹栽培に卓絶な技術を有する渡辺氏、次いで押本、松林、平野、夏見の諸氏、元陸軍測量部員であった菅谷氏、続いて奥地から大家族の中村氏、リオ市から造船会社に居られた野間技師、土木業者の佐藤氏、日本より来伯後間もない野村農学士、聖市からは聖市最古のホテル経営の上地氏及び黒石、藤田の諸氏、その他各方面からの問い合せ、視察者引きもきらず。それに伴い私の擔当事務が多くなり、とうてい官職の片手間では堪えられなくなったので、他に適任者を入れ私は単に顧問としてもらいたい旨を社長に申し入れたが、社長は、何処までも協力して植民地の発展に盡カしてもらいたい、それに必要な資金は責任を持つとの事。会社側の自分に対する信頼に報ゆるため私も大決心を固め、官職を辞し専心植民事業に打ち込むことにした。元来渡伯したのも故山縣勇三郎氏に伴われて所謂大和民族の発展を計るという故人の意志のもとに来たもので、一生官吏で終る気持ちはなかった。
 そこで、三年勤めた農務局に退職届を出し、雑誌は揮旗農学士に譲り、家族を連れてイタケーラのシャーカラに移り、入植同胞の便宜を計るために駅前に雑貨店を開き、カミニョン(トラック)を購入、植民地内の建築材料、産物の運搬を開始することにした。
 準備も一応整ったので、一九二五年七月十日ブラジル時報に大々的に一頁広告を出した。実際に植民地の建設事業開始の記念日は此の日にすべきと思う。
 丁度時期を得たとでも言うのか聖州各地より続々と申込みあり、その年末迄に入植者及び契約者合わせて三十二名に達し、第一区は畧売却済となり、翌一九二六年一月三日ブラジル時報紙上で、第二区ジャク河の対岸地帯の売り出しを広告した。
 第二区売り出しと同時に入植した主な人々は、小笠原氏、高商出身の高垣、小幡氏、少し遅れて豊吉兄弟、乾、岡上、安田、服部、萬木、柳生、園原、森、大場、重田の諸氏に村田予備大尉等の名を記憶しておる。
 野村農学士は富田実君を支配人とし経営努力中、不幸病を得て帰国され、其の後を全部譲り受け入植されたのが松本農学士。同氏は学究の人で養鶏・果樹の研究家として伯国では其の道の権威である。
 こんな風に入植者に知識層の人々が多かったので世間から、文化植民地などと呼ばれたものであった。植民地を創設し入植し始めて二年近くなって、ここに一大難関にぶつかった。それは経済面での行きづまりである。一般に此の地の地味に対し無智であったのと野菜に経験が乏しく、市場に出して価は安い。従って収入は少ない、貯えの金も追々使い果たして悲鳴を上げるまでになった。そのうち植民地内で最も家族がよく、会社も私も有望視していた中村氏が、野菜ではとうてい儲けるどころではないから他に出たいと申し出た。此の家族に今出られては対世間の信用にもかかわると思い、社長に懇願して特別に出資させ、もう一度大きくトマテをやってみる事にした。處が運よく豊作の上に相場もよく、一躍大金を握り、その後とんとん拍子に都合よくいって、当時中村といえば郊外の野菜王とまで評判されたものであった。
 中村氏はこうして幸運に恵まれたが、一方他の家族の中には儲けるどころでなく、毎月の地代の支払にも差し支える有様で、こんな痩地を売りつけられたと私は随分恨まれたものであった。
 ここに大いに感謝すべきは支配人ジョオネ氏の態度であった。氏は心から同情と理解を以って私と社長の間に入って、毎月植民地の為に、支払延期に次ぐ延期という事に対して、大いに斡旋之努めてくれ、作物の収穫迄何回も待ってくれたものである。此の理解ある温情があって此の植民地の今日ある事を得たと言っても、決して過言ではない。
 入植後一、二年は資金が少なく、早く現金のはいる野菜を専門に進むより外なく、従って果樹を植える者は二、三に過ぎなかった。私はシャーカラに桃・柿・みかん・すもも・リンゴ等種々の果樹を植え、一つの試験場の観があった。亜国から優秀な桃苗を数種、それに農務局からも内国種の優良なるものを入れ、之等の結実したものを示して将来有望の点を実地説明したが、食うのに追われて何年か先を待つ果樹など植える気にならないが、何とか植民者がたって行く道はないかと支配人と私が考え、養鯉に着眼。養魚場を作り、岡田一美氏を奥地から呼び指導させる事にした(之が日本人養鯉の最初である)。同氏が日本で経験があるとの事で、煙草の栽培もやり乾燥室まで建て、政府から補助金を下附された。除虫菊の栽培にも手をつけた。次いで米国で盛んにやっている苺もよいと思い、小笠原氏に奨めて試作させたが、その後養鯉・苺作り共、岡田氏の努力と研究により立派なものが出来、植民地は苺が主作物となり、各人の収入も追々増加し、苦しかった頃の事もそろそろ昔話になりかけた時、養鶏がぼつぼつ盛んになり、苺・野菜の肥料に鶏糞が利用出来て、やっとすべてが軌道に乗って来た観があった。
 果樹栽培というものは何といっても経験も必要であり、且つ収入を得る迄に時日がかかる関係で手を付けずにあったが、ようやく経済的余裕を得ると共に生活にも落ち着きが出来たので、果樹の方に目をつけ始める様になった。果樹が目的で入植した乾氏が種々の苗を植付け、次いで吉岡氏が日本からの桃栽培に対する優れた技術を生かして在来種の改良、種類の選択等撓まざる努カが実を結んで、遂に優良な桃の生産地となり、桃の里と呼ばれ、毎年桃祭りが開催、この種の祭の先鞭をつけるに至った。
 桃の外に日本種の枇杷、柿、李という風に益々秀れた果樹を生産するようになり、昔の苺・養鶏は副となってしまった。私は、植民地創設後三年、畧基礎が出来た時、昔、ゴヤス州の畜産技師として各地を巡視した際肥沃な官有地を見ていた。これ等の土地を利用して植民地を作ることを政府要路の知人と計り、その為にアナポリスに出張する事となり、商店は豊吉氏に譲り植民地の方は菅谷氏に万事を委任し、一先ずイタケーラの仕事から手を引いた。此の菅谷氏は私の後、専心誠意を以て植民地のために大いに努力貢献されたものである。

市場地図.gif
一九二九年頃のイタケーラを中心とした市場

 その後月日は流れて植民地は前記のように発展の一途をたどり、現在の確固たるものとなり、茲三年程前から毎年桃祭りに招かれてすっかり昔の面影のなくなった、よく手入れの行き届いた畑、立派な住宅、私が転々と国内の各地をかげずり歩いて居る時、黙々として一ヶ所に止り、今日を築き上げた人々に対して感嘆の外はない。私は親として産みの苦しみは子供と共に充分味わったが、成長盛りには家を外に他の仕事に一生懸命でかえりみずにいた息子が、三十年を経て帰ってみれば、立派な押しも押されぬ桃太郎と育っていたというわけである。こうなった植民地を眺める度、私は誰から何と思われようと独り心からの喜びを感じ嬉しさに堪えない。
 昨年は待望の電気も引けた。オニブス(バス)も地内を走っている。近くサンパウロ市への直通の道路が開通する計画もあり、地価は日々に高騰しつつある。
 そこで私は高所から方々を眺めながら想うのである。
 そこには美しく手入れされた桃畑は消えて、赤や青のネオンの明滅するシネマ館、何階もの建物の立ち並ぶ市街地、若人の嬉々として学ぶ学校、そして商店、それ等の間を縦横に走る自動車。
 三十年の年月の間に草や木ばかりの広い原っぱが人間の手で開墾され、青々とした野菜畑となり、白い花、赤い実をつけた苺畑となり、細長い鶏舎が立ち並び、群れ遊ぶ白レグホン、やがて縦横にきちんと植え付けられた桃の木、それに、はじめはうす赤く今度は実にかけられた袋で白く、二度の花盛りを年々見るようになった。此の聖市郊外のイタケーラが、聖市の止まる所を知らぬ膨張の波に押されて、之からの三十年間にふと私が想ったような景色に変わらないと誰が言えよう。その頃には私を初め入植当時苦労を共にした人々はもうどこにも居ない。立派な住宅で埋まった市街から誰がこの昔話を想うであろうか。
 こうした前人の苦労を知らず、後から来た人々は自分一人のカで偉くなった気でいる。親の苦労を知らぬ子供と同じようなものだが世の中の変遷というものは、何とはかない夢にも似たものである。
 イタケーラ植民地三十年に当り、追々忘れられていく此の植民地の歴史を述べてみたが、そんな事あったかと一人でも先人の苦労を解ってくれる人があれは嬉しいと思う。
◇一九五五年八月六日


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