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イタケーラ植民地
     概要  (最終更新日 : 2004/12/03)
イタケーラ植民地の歴史の思い出

イタケーラ植民地の歴史の思い出 (2004/12/03)
一九八七年 勝野寿男 談 一九八九年(補足)記録・吉田亘
 イタケーラ日本人植民地としてこのコロニアが誕生して、今年で六十年を迎えた。入植当初故国日本より移住した人々は、そのほとんどが他界されたか老境に入っておられる。今六十周年を迎えて、一九八一年に名称を「イタケーラ日系クラブ」と改称した。我々は先駆者の昔を偲び、我々に残されたこのイタケーラコロニアの今後の人材繁栄を信じ、当地の歴史を後世に遺すべき最後の機会と思い、六十周年記念誌を編纂する事を企画した。
 今日迄の間に特別な記念誌やコロニア歴史のまとまったものは残されておらず、ここ数年来おしよせる近代化の波で、美しかった果樹園(桃、枇杷、ゴヤバ)・野菜畑は中小企業の工場となりつつあり、その工場の間にはさまれて花畑や山林が残るという状況下にある。あと三十年もすれば、先駆者の道路名だけが残され、なぜコロニアイタケーラなのか、なぜエストラーダペッセゴなのかと言われる時代が来るのではないだろうか。
 今我々が知っている事柄を出来るだけ後世に伝えることによって、当地出身者の三世、四世の後輩達に入植初期時代の有様を伝え、その中から、日系人の栄誉と誇りを持ちつつ歴史を見直してもらいたいと思う。
 ただ詳細なる各年代のコロニアの様子が判明せず、又紙数の都合で、おおよそのコロニアの歴史としてのみに止まる事は、残念に思う。
 この本は日本語とポ語文の二ヶ国語となるが、現在の段階でほぼ半数の理解者となると考えられる。三十年後には、日本語を理解する者は何%程度となっているであろうか。


◆入植

 一九二五年七月十日、邦字新聞「ブラジル時報」紙上にて、イタケーラ日本植民地と名付けられた土地が売り出された( Colonia Nipponica em Itaquera )。土地会社は、Comercial Pastoril e Agricola で、当時のサンパウロ市の人口は百二十万人、イタケーラ区の人口、一万人(千二百戸程)。膨張の急激なる事は世界稀に見る処と書かれている。
 聖市の人口膨大に伴い野菜・果実の供給に対して、日本人の野菜・果樹作りの技術を生かした理想的な野菜果樹栽培を目的として、最初の入植者は十四家族。二十六年には四家族。三十年迄に計三十七家族が入植したが、営農がうまくゆかず転出する家族もあったが三年を経て中村袈裟吉は、当時トマテ王と呼ばれ、トラック、トラクター等を購入し、又多くの家族を日本より呼び寄せ(勝野、真鍋次郎、三沢正人)、コロニアの脱耕者に歯止めをかけた成功者であった。


◆植民地の土地は、

一、一アルケールを一区域として、そのすべてに流水と車道が通るように区分された。その為に土地が変形した区割になっている。
二、サンパウロ中心まで二十五キロ、時間で四十五分という近きにあり、子弟の教育には便利である。子孫に美田を残さずと言う格言通り、現在迄最高学府に学んでブラジル社会に貢献する人材が輩出している。
三、土地会社は入植者の為に、半アルケールを文化・体育用地として提供した。現在のイタケーラ日系クラブの用地がそれである。
四、土地の価格は、当時一アルケール六コントス・五年払いであった。
 コロニア創設期を一九二五年~一九三〇年の五年間とするならば、その後は、第二回目のコロニアの分譲がなされた(一九三〇年)時期を第二期といえる。
 海外に雄飛する気骨を持った者は、言語、行動も進取の気概を持ち、お国訛丸出しで切礒琢磨しながら、ピンガを飲みランプの灯りを囲んで議論百出させながら、明日への勇気を培っていたと思う。
 その頃の様子をある長老は、「イガ栗の集団のようであった。」と述べている。
 そのような中から、一九三六年六月十日、日本人会が生まれた。初代会長に笠井長平、二代目岡上与三助。
 青年会は一九二七年、日本人会よりさかのぼること九年前に既に出来ており(初代会長:藤田勝次)、この年の天皇誕生日には村をこぞっての運動会が始まっている。
 日語学校は一九三一年(昭和六年)、岸本昂陽先生がサンパウロで曉星学園を経営するかたわら、イタケーラにも来て下さった。
 一九三二年、押本静男会長の時に会館建設(七X十米のレンガ作り)。その後、藤田勝次が招かれ、日語校の教鞭をとった。自分の日々の生活も思うにまかせず、土地代の支払いにも事欠く時代に、先輩達の子弟に対する教育にかける熱意には、敬意を表する。
 一九三八年、奥地から木下キマ子が招かれポ語の教師となった。先生は笠戸丸移民の二世であるから、その頃では珍しかった。その後、田中・マダレーナ・ノブコ、田中ハルコ、ニッタ姉妹がブラジル公認私立グルッポ・エスコーラの先生として教職についている(一九四二年)。従ってこれ迄は木下先生一人であった。その後、一九四四年に佐藤マリア先生が入って、生徒が増えると共に先生が増えた。
 先生の給料はパルチクラール(私立)であるから日本人会が払ったが、だんだん払う能カがなくなり、州政府と交渉し州立にして貰うことにした。一九四八年五月頃、教室にいきなりブラジル人の先生が入ってきた。そこで初めて、学校が州立になったことを知った。(菅谷マダレーナ先生談)
 しかし州政府は交通費は払わないので、日本人会でタクシー代を払うことにし、何年か経過した。
 一九四一年十二月、第二次世界大戦に突入。日・独・伊は伯国の敵国となり、日本人の集会、旅行は禁止され、日本語の使用も制約をうけた。一九四二年、日本人一世の役員では日本人会の存続は危険だと言うことで、ブラジル生れの岡上幸一を会長とし、松林貴、池田宗五郎、富田金治等が正式の役員となり、ウニオンイタケレンセ(共済会)として日本人会を継続した。
 農業を行うコロニア人にとって、戦争による制約を受けることは死活問題であり、モランゴ(イチゴ)、野菜等をサンパウロ中央メルカード迄運ぷ為に、サウドコンドゥットと言う一ヵ月間の特別交通許可証を得て、峰定美のカミニョン(トラック)で中央メルカード迄運び生計を立てた。
 一九四五年、戦争は終結したが正確な情報が入らず、特に祖国を離れて人一倍大和魂の強い人々は、心情的に日本が勝利国として声を大にして叫びたかったのであるが、自制心強く物事をよく洞察する先輩が多かった当植民地は、割合平穏に日々を過ごすことが出来た。
 後でわかった事であるが、或る奥地の植民地に於ては勝組と負組に分かれた人々が、負組の者は『日本は負けたのだから、静かにわかって貰おう』と思って説得して歩き、勝ったと思っている人はあんまり負けたと言うものだから、終りには負けた事がわかっても意地を張って、村内の対立が仲々解けなかったと言う話を聞いた。 一九四九年十一月、第一回桃祭が開かれ、年々この祭は隆盛となり、イタケーラと言えぱ桃と言われる様になった。
 一九六五年頃から植民地外の桃が増えだし、イタケーラ植民地の桃は老木になり生産が減って、一九六九年第十七回を最後として、桃祭は終わった。
 植民地内の桃が老木になるに及んで、余カのある者は、植民地外で果樹栽培を始めた。
 植民地内には一九三五年頃より始まった養鶏が年々盛んになり、最盛期には二〇万羽の採卵鶏が居たが、一九六〇年代よりフランゴになり、一九七〇年代には年々減って、一九九〇年現在養鶉業の方が多い。
 又一九六〇年代より蘭や観葉植物、七〇年になると菊栽培が増えて現在に至っている。
 当植民地はサンパウロ市に最も近く、日本人特有の熱心な子弟の教育によって農業後継者が居なくなり、老齢者が歯が抜けた様に土地を売って街に出て行った。
 一九七〇年を境としてこの植民地に工場地帯の許可が下り、転売された土地には、中小企業の工場が建てられていった。又隣接地には、コアベⅡと言う人口十万人以上の団地が作られ、隣のグワイヤナーゼスの奥には大きな団地が出来、サンパウロのベッドタウンとなっている。
 カロッサや天秤棒で運んだ道のエストラーダドペッセゴは、今は横切るのにも命懸けの自動車の交通量で、昔ドイスベンダと言われた所には信号機がつくられ、土日曜には緑を求めて遊びに来るサンパウロの車で渋滞する程の賑やかさである。
 一九三〇年、五才で父や兄に手を引かれ、日本から直接移住した私にとって、このイタケーラはふるさとであり、諸先輩が私を育てて下さったことを深く感謝し、コロニアの記録の一片として皆様に知っていただければ幸いと思います。


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