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イタケーラ植民地
     農産物の変遷  (最終更新日 : 2004/12/03)
一九二〇年代~一九三〇年代 [全画像を表示]

一九二〇年代~一九三〇年代 (2004/12/03)
一九二五年(大正十四年)

七月十日入植記念日

〔第一区入植〕渡辺泰一郎、押本瀧輔、松林米冶、平野元義、夏見義平、菅谷威、中村袈裟吉、野間常夫、佐藤善一、野村陸男、富田実、永島、上地、黒石治太郎、藤田勝次で入植者及び契約者計三十二名。


一九二六年(大正十五年)

一月第二区売り出し開始。

 入植者は、小笠原直衛、高垣忠兵衛、小幡、豊吉益次郎兄弟、岡上与三助、安田、服都秀吉、萬木、園原、森、大場、重田、松本、村田の諸氏。

《この頃作られた作物》
 トマト、レポーリョ、コーベフロール、アボブリンヤ。英国向け輸出作物として、ラランジャバイヤを植えたが気候的に酸度が強く又結果せず失敗した。一緒に植えたぺーラ種は酸度が強くても結果したので、しばらく栽培された。
 仕方なく植民者は野菜栽培を主体にしたが、土地は非常に痩薄であったと共に農業経験者が不在の為生活の安定まで行かなかった。石橋恒四郎の記録によると、野菜栽培者より直接消費者に供給する目的にて、フェーラリブレをイタケーラ町に開設。聖市市長より許可され中央線沿線のフェイラの開祖となった。


一九二七年(昭和二年)

 農業に未経験者が多く又土地が痩薄であった為、野菜が思う様に出来ず生活が苦しかった。大家族入植の中村袈裟吉は生活が苦しいので石橋技師に相談したところ、もう一作作ってはどうかとすすめられ、少し多く作ったところ、霜害を逃れトマトが大当たりであった。
 一九八四年十一月十日の日伯毎日新聞「ある移民妻の記(野間道恵)」より、当時の生活について書いてあるので記す。

 何から始めていいやら、手っとり早く出来るアルファッセ、トマテで始めることにして、先ず二万本の苗床を作り、エスタッカ(支柱)とりにかかる。家族の食べる大根やゴボーは可成り出来た。馬や豚がおるのでミーリョを植えたが、これは出来なかった。草も生えん痩せ地といわれたが、とにかく百姓態勢だけはととのうが、何もわからぬ私に、熊本県人でミナスに居て軍隊にもいたことのある年配の人が、リオからキタンダ(野菜果物屋)をやめてきて、農業のあり方を教えてくれた。味噌や漬物も上手に作ってくれるので有難かった。この人には妻も娶ってやった。
 トマトも苗ができたので仮植の床に移して、霜よけのカヤも揃えて、その夜はピンガを飲んで皆ごきげんで休んだのである。ところが、夜半あまり冷えるので、起きて覆いをしてくれと言うのに、昼の疲れで誰も起きてくれない。翌朝起きてみて驚いた。真白な霜。八千本のトマトは青菜に塩、私共も青くなる。狭い植民地のこと、その日のうちに野間のトマトが全滅したことが植民地内に伝わる。
 しかし私共とは反対に、あとからつづいてトマト作りをしてあてた人もあった。農業のベテランで北海道から移住してきた長野県人で、一家七人の皆男の働き手が揃った家族であった。植えたトマトが良くできて聖市の中央市場を赤く染めた時には、伯国人も驚き、オ・エスタード紙は「日本人とはいかなる人間か。コーヒーなど問題ではない。わずかな面積から短期間に二百コントスもあげた。」と言えば農務局からも視察者が来る。事実イタケーラの植民地は野菜作り植民地第一号で、中村さんはロッテリヤに当った様なものであった。土地は十アルケール購入。カミニョンは買う。家も床のある本建築にしてセーラ(蝋)でみがきあげ、窓にはカーテンを引くと言うなどと言う騒ぎに、植民者一同驚いた。
 かくてその頃の二百コントスの大騒ぎがどんなものだったか知れよう。しかも、第一番に計画した私の家には裏目に、中村さんは陽に出て、私の残念無念はたとえようもないし、六十年過ぎた今でも夜半目醒めて想い出すとくやし涙がにじみ出る。だが、いくらくやんでも元にはもどらぬ。誠に誇り高き造船技師の職を捨てさせて、一攫千金の夢を描いて移ってきた責任の一半は私にもあり、この失敗をなんとかして挽回せんものと四ヵ年をこの土地で働いたが、農業に経験のないものには無理な話で、私はついに意気消沈した。

この人は造船技師の夫人で、リオから単身入植した。(途中より引用)

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柳生氏のトマト栽培


一九二八年

モランゴ(苺)作り始まる。

※ 石橋恒四郎の記録より(移民史料館所蔵)
 一九二四年頃「農家の友」誌上にて、北米の邦人間に苺栽培の盛大にて育利なること発表。ペンヤ附近にて自家用苺畑所有者邦人より苺苗数十株貰い受く。同時に仏国種苺苗もスザノ方面より得て、小笠原直衛、岡上与三助両人の研究努カの結果(一九二八年頃)植民地内に広がり一大産業となり、中央線地帯の苺作りの祖となる。
○ この頃の苺はアンデス原産のチリ種。

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岡上氏の苺栽培風景


一九二九年

 乾正衛、桃約四十本植えた。続いて服部秀吉、柳生修平が桃を植えた。これが植民地内の桃栽培の始まり。石橋恒四郎の記録によると、桃栽培は、自分のシャーカラ内に聖州農務課果樹局より優良品種苗輸入栽培。其の中より風味佳良なる果実を生産。当地方に於て桃栽培可能の確信を得、植民者の中に桃栽培を始める者あり。其の後、吉岡省氏の如き専門家の来る(一九三三年)に及んで、今日(一九五五年)の如き主産物となる。


一九三〇年

【この年迄に苺栽培をしていた者】高恒忠兵衛、服部、秀吉、岡上与三助、大場、重田義一、夏見義平、後に井上峰雄、渡辺が仲間に加わった。松本圭一、富田実、養鶏始める。苺作りの傍ら村田、永島も始めた。
 モランゴも生産が増え、市場の値段をコントロールする為にブラジル唯一の加工工場である「コロンボ社」に出荷していたが、交渉を有利にする為に生産者の統一を計る必要から、『イタケーラ産業組合』を創立す。この産業組合は全モランゴ栽培者が集められたので、モランゴ組合の別名があった。その後イタケーラ産業組合は、郊外の鶏卵販売・養鶏飼料供給組合として発達した。
 一九三〇年頃の卵価は、一ダース/一ミルレースまでにならなかった。当時のカマラーダの日当が、一日四~五ミルレース。メルカードヘ一回に三ダースの卵を持って行って、売るのに困った。何故かと言えば、ブラジル人はフランゴを食べたが、卵を食べることを嫌った。理由は、卵まで食べると鶏が増えない。特に鶏舎で飼った卵を嫌った。

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松本圭一氏の養鶏場


一九三二年

 井上峰雄、アスパラガス植付販売。一九五〇年頃迄続いた。一九三五年頃には生産者が増え、「アスパルゴはイタケーラ」と言われた時代もあった。
 バタタ作り始まる。重田、安田、石原が作り始め、後から始めた(一九三七年)池田宗五郎は、コチヤ組合員が種薯の八~十倍収穫していた時、十八倍も穫れた。肥料の配合、消毒の実施が効果をあげた。一九三二年養鯉は、岡田一美が土地会社のファゼンダで始めた。そして、岡上与三助が始め、三~四年後には少人数始めた者もあった。これがブラジル日本人間の養鯉の始まりである。


一九三三年

 従来桃の剪定は適当にやっていたが、日本より桃栽培経験者、吉岡省が来て柳生修平の桃の剪定した。これから正統の剪定法が始まった。


一九三四年

二月
 桃の苗木と共に富有柿、会津実不知、蜂屋柿(ヨラソンデボイ)、栗苗が日本から入り、吉岡省が植えた。日本の桃は一本も育たなかったが、柿と栗は良く育った。一九九五年現在、家の前にある木がその時の富有柿である。
 バタタ(馬鈴薯)作りと共にトマトも栽培技術が向上し、第一が施肥、第二に薬剤撒布其他の管理で従来より品質、収量は格段に進歩した。ブラジルに於ては最初であった。バタタ、トマテによって他の農作物の肥培管理技術も共に向上した。


一九三五年

 李を二、三の者が栽培を始めた。之は桃程の技術が要らない為に一応の結果を見る事ができた。 この年少量の出荷がサンパウロ市場にあった。従って栽培者も増えていった。
 この年、池森敏、安田乙末、吉岡省の三人が合計四百八十本の桃を植えた。その内八十本のマラコトンブランコは、苗木も良く順調に育ち収穫できた。四百本のものは李台であった為、成育が悪く不成功であった。


一九三六年

 吉岡の自家作成の桃の苗木を二百本植付けたものがやっと順調に生育、その生産を見るに至った。これが缶詰用の黄肉種で、後にレイデコンセルバと命名され、その後栽培が増え、全盛期にはブラジル全体で一万トンの収穫を見るに至った。イタケーラでは加工用一八〇〇トン、生食用二五〇〇トンが全盛期の収穫量である。


一九三七年

 七月十日、岡上与三助は、中雛をエメボイ農場より八十羽購入。飼育を始めた。これがブラジルコロニアに於ける本格的養鶏の始まりである。この頃八〇羽あれば、一家族生活し一人の常傭カマラーダ賃と子供を中学校に通わせる学費を賄うことができた。これ以前には永島、富田実、村田が二~三〇羽飼っていたが、これで一家を養うには少な過ぎた。この頃(一九三六年)井口吉三郎夫人来伯。その後養鶏も盛んになった。井口は遠藤野夫雄よりフラン孵卵器製作を習い、又夫人は遠藤より鑑別を習って自家で種卵をとりヒナを販売した。孵卵器の熱源は、電気がなかったので石油を熱源とした。中々孵化しなくて何回も失敗を重ね孵化してもヒナが死んだ事もあった。
 遠藤はブラジルに於ける雌雄鑑別師の元祖である。
 高垣忠兵衛、一九三八年山岸又四郎が初生ビナを五〇羽入れた。

井口夫人談: 遠藤野夫雄はなかなか孵化技術を教えてくれなかった。遠藤は上手に孵化するのに、何故自分がやると失敗するのか分からないので、ある日遠藤に気付かれないように見ていると、人に分からないようにして孵卵器内に水をまいていた。


一九三八年

 服部秀吉、一本の野生のゴヤバを手入れしたところ、よい物が成った。

 一九二九~三〇年、イタリア人やイスパニヤ(スペイン)人等数名の者が葡萄を植えた。その後日本人も葡萄を植え、一九四〇年頃には植民地全体で一〇万本くらいあった。ジュンジアイよりも多くサンパウロ一の葡萄の産地であった。しかし介殼虫が発生するに及んで、一九五〇年頃より止める人が多くなった。イタリア系の葡萄は介殼虫がつかないことを識り、フェラースより八年も前にイタケーラに導入栽培された。しかし、栽培技術も未熟で性質がよくわからず、一九五七年を最後としてイタリア種はなくなった。
 無花果は、一九三六年イタケーラ産業組合が導入、栽培を始め、現在の仕立法を考え出し、一時は聖州第一の産地であった事もある。その後ジュンジアイ方面に産地が移って行った。

 松本家に一本、大きい枇杷の木があった。これから、乾正俊が苗を作って植えた。この頃までに服部秀吉、押本瀧輔がかなり作っていたが、実が小さくて商品にならなかった。


一九三九年~四〇年

 この頃が苺栽培の最盛期。

 イタケーラの栽培者は朝一番の四時三〇分、イタケーラ駅発の汽車に間に合わす為、暗いうちから家を出発。四〇~六〇kgの苺をかついでカンテラの明かりをたよりに、天秤捧で拍子をつけて、走るようにイタケーラ駅に向かって行った。イタケーラ町内のクルバデモルテの坂では、雨が降る度に足がすべって泣かされた。ころんで荷物の大半を泥んこにすることもあった。
 イタケーラ駅に着くと、水谷真三郎が世話役で各自の荷をボルーメで計り駅員に報告し、苺をワゴン車に乗せた。ルーズベルト駅(エスタソンノルテ)に着くと、みんな競争でメルカード迄走る様に荷物をかついで行った。
 メルカード(中央市場)では仲買商人が待っており、荷が多く入ると商人に買いたたかれて泣かされた。
 その頃のイタケーラ植民地では、みんなやっと生活している状態で、この苺を売って明日の米や日用品を買って帰ったのである。
 サンパウロ新聞によれば、サンパウロ青物市場に日本人が現れたのは、実にこのイタケーラコロニアの人達(モランゴ生産者)が最初である。(一九八六年十月九日付サンパウロ新聞)

イタケーラ植民地から始まったもの
 1、アスパラガスの栽培
 2、李
 3、桃
 4、葡萄
 5、養鶏
 6、無花果整枝法の確立
 7、枇杷
 8、バタタ、トマテの栽培技術
 9、養鯉
10、ゴヤバ
11、富有柿
12、聖護院大根


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