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イタケーラ植民地
     農産物の変遷  (最終更新日 : 2004/12/03)
一九四〇年代~一九五〇年代 [全画像を表示]

一九四〇年代~一九五〇年代 (2004/12/03)
一九四二年~四四年

 苺に代わって桃栽培が増えてきた。

 井口吉三郎、養鶏業に本腰を入れ、孵卵器も四〇台になり、飼育羽数は約一〇〇〇羽になった。卵は主にコチヤ組合に出荷。飼料は、フバとファレーロ、ミーリョを買って自家配合をした。植民地内にも中曽根、柳生、木村、宮西、高橋と養鶏が増え、滝田忠、城井松雄は約一〇〇〇羽飼った。この人達は卵をイタケーラ組合に出荷した。


一九四四年

 井口吉三郎は、石油孵卵器では他の業者に後れるので、電気のあるフェラース・デ・バスコンセーロスに移り孵化専門業者になった。


一九四五年

 戦争が終わってから桃栽培面積が大幅に増加(日本敗戦の為永住する気になった為か)。
 藤平正義の義父(在日本)から、枇杷の苗が乾農場に届いた。品種はドボシ、ツクモ、ミズホ種。


一九四九年

《 第一回桃祭開催 》
 目的は、桃の宣伝と共に、州や市の高官を呼んで植民地の要求を認めてもらうことにあった。先ずは道路がよくなり、一九五四年には植民地内全体に電気が入り、しばらくして電話が入った。

桃祭りの始まったいきさつに就いて
 当時コロニアの第一の問題はやはり道路であった。雨が降れば生産物の市場への搬出はまず不可能な状態であった。時々サン・ミゲールまでカミニョンを押し上げに行かねばならなかった。勿論帰りはエンシャーダを担いで歩いて帰ったのである。
 当時、農務局のカーザ・ラボーラの所長であったドットール・リオンシオ氏とは種々の問題でよく話し合っていたのであるが、道路の問題になると、当時の市役所の土木局で吾々の植民地の道路まで視てもらえる状態ではなかった。他方、桃の生産状況は(一九三九年)になって植民地に於ける第二番目に始めた桃栽培者として安田、沢田の両氏が、各々四〇〇本を植付けたのに続いて年々桃栽培をする人が殖え、(一九四七年)の時点では殆どの人が桃の生産を始めた頃である。何としても生産物の運搬の問題を考えねばならない。そのような或る日、リオンシオ氏と話し合っている時、日刊新聞『コレイオ・パウリスタ』の農業担当記者のモンピリー・モンテイロ氏が加わりしばらく話した後、リオンシオ氏の発案として『桃の収穫期間中に何等かの名目の下に、州統領、市長などを始めとして、各界人を集めることが必要であるから「フェスタ・デ・ペセゴ」では、と言うことになり、一九四九年に桃祭を開催することにした。
 その後年を経ずして、レジストロの『お茶祭』が始められ、又、バストスの『卵祭』、モジ・ダス・クルーゼスの『柿祭』の開催と続き、今日ブラジル全国にわたって年間を通してそのような企画が行なわれている。これ皆イタケーラの『桃祭』がきっかけではないであろうか。かくして桃祭の会場までの道路の整備と言うことから始まって植民地内の全域の道路にわたった事は衆知の通りである。
 『桃祭』の目的は前記の通り決してお祭り騒ぎではなかった。桃の宣伝を通して政界の関心を喚起して、先ずその地帯の状況の好転を計り、ひいては市の、州の、国の農業政策の改善にまで及ぼすべく、ドットール・リオンシオ氏の理念に依って計画され、その構想に依るものであったことを記しておく。
 (付記)『桃祭』の発案者であり、又その実施についてもその立場から(カーザ・ラボーラの所長、シンツロン・ベルデの総裁)全面的に協力して頂き、又後程何年間かの州の議員として、又サンパウロ市長ファリーア・リーマ氏の副市長として農業政策面で尽くされたリオンシオ氏は今に健在である事を付記しておく。

 以上に記した様ないきさつで始められた第一回の桃祭の実況であるが、僅か一米に二米角位の場所に別掲の写真のように桃を飾っただけの実に貧弱そのものであった。招待者は州統領代理の武官長、市長代理は州議会議長、農務長官代理は殖産課長、その他州議員、市会議員で、それでもパーティに際しておそらくはブラジルでは初めての『桃のカクテル』によって前記の如くやっと埋め合わせが出来たのであった。今思えば全く冷汗ものである。第一回目の見物人は近隣の人のみで僅かの人数であった。
 第二回目は、日本に於ける「農産物品評会」の方式をリオンシオ氏に説明した結果納得され、各生産者は二箱以上を出品することを義務と決定した。そして各品種毎に五等までを入賞と決定する。
 選考委員としては、農務局の技師と、カンピーナス農事試験場のドットール・オランド氏、ピラシカーバ農大の果樹園芸部の教授の方々など数名が前日に集まり、各品種毎に等級の選定をすることになったのであった。或る年などは夜の十時頃までになった事もあった。又桃祭りを盛大にするために『桃の女王』を参加者の人気投票によって決定して『戴冠式』をやると言うのはモンピリー氏の発案で、この第二回から始めたのであった。この票の売上金はフェスタの費用を随分補ったのであった。又屋外の会場にバラッカを設けて生産者が桃を販売する事にしたのも第二回からであった。かくして今日各所に見られるフェスタの形式はほぼ整ったのであった。
第三回になって、その他に農業関係の商社、すなわち肥料・農機具・種苗などの企業等を勧誘し、料金を定めて展示場を提供する事によってフェスタの費用に当てる事にした。
 毎回多少の趣の変わった催しもあったが、第三回の形式が大体の基準としてその後の桃祭は開催されたのであった。それでも、大統領、農務大臣を招待するまでには至らなかった。でもフェスタ後、サンパウロの農務局を通じて一箱宛の桃は贈ることにしていたが、『イタケーラ植民地』を今少し認識してもらう-と言うことを考え直接渡すことにした。
 ※ 宣伝が行き届いたのか見物人は二回三回と回を重ねる毎に増え、多い時は一万五千人も来て会場周囲の道路は身動きも出来ないこともあった。

 これは表題の枠を外れると思うが付記する。植民地の幹線のエストラーダ・デ・ペセゴばかりで無く植民地全般にわたっての道路の整備、又電力、電話などの文化面でも他の地帯よりも一足早く整備された等初期の目的の通り進んで行った。殊に今日、ブラジル全国的に普及し、一年を通じて何処かで、何かのフェスタが開催されている、これで予期以上の効果が挙がったと言える。
 是れは、ひとえに全植民者が、又その働いていた人達が、良心的の最大の協力の現れでなくて何んであろうか!又、心から農業者の事を思い、我々日本人の判ずる術もないブラジルの社会に適合した『桃祭』の催しを発案され、最後まで人の知らない所で捨て石となって協カして頂いたドットール・アグロノモ・リオンシオ氏の名を挙げておく。
 氏が直接手を掛けられたのは、イタケーラの桃祭りとレジストロの『お茶祭』であり、又、一九五三年に始められたバストスの『卵祭』又その後間もなく始められたモジ・ダス・クルーゼスの『柿祭』にしても農務局に於ける氏の立場上ともに協力されたのである。

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第一回イタケーラ桃祭り女王岡田和子嬢より州統領へ贈り物(一九四九年)

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第二回イタケーラ桃祭り女王(一九五〇年十一月)


一九五四年

※ 一九五三~五四農年に於ける、各果実の生産高は六〇万箱、鶏卵は一、一二五、〇〇〇ダース(百拾貳万五千ダース)

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イタケーラの桃の全盛 吉岡義一農場より吉岡省農場を望む(一九五三年頃)


一九五五年

◇十二月一日付パウリスタ新聞
・桃栽培者一八○家族
・一九五四年の桃の生産高二五万箱
・一九五五年は降霜の為、五万箱。

祝いの色に塗りつぶす 市長さんニコニコ賑わった「第六回桃祭り」
 イタケーラ第六回「桃まつり」は、快晴に恵まれた十一月二十七、二十八日にイタケーラ・コロニア小学校に於いて、農務長官代理ニルソン・デ・アベラール氏、市長ボルフィリオ・ダ・バース氏、農産物振興課長ワルテル・ラザリーニ氏、千葉日本国総領事出席の下に盛大に催された。
 会場の正面には、祭典大アーチが立ち、三方からとりまいた幾つもの模擬店、桃の即売バラッカが客足を呼ぶ、拡声器からは休みなく桃女王の中間発表が流れる。
 はためく幾千の小旗と相まってお祭り気分を誘う。式は午前九時ニルソン・デ・アベラール州農務長官代理の日伯国旗掲揚に始まり、十時にイナグラソンのテープが同氏によって切られた。
 会場はU字型に見事な桃が約三百箱二段に置かれ、日本の味覚をそそる。又同地の特産物の鶏卵、野菜の出品もあり、活花の展示は会場に華やかな雰囲気をただよわせていた。
 会場を一巡した市長ボルフリオ・ダ・バース氏は「年々増産に向かいつつあるのは欣快に堪えない」と喜びの挨拶を行い、校庭に繰り広げられた小学児重の小旗行進を見物後、シュラスコ会場に向かった。
 午後二時、待望の女王選出の開票が行なわれた。本年度晴れの女王に二万四千票を獲得した真鍋マルタ嬢が当選。本年度の桃の出品者は約百五十名、この中「スベル種」にサンロッケ市のココザ氏が三位に入賞、この方面への伯人の進出が人目を引いた。


一九五六年

◇十一月三十日付パウリスタ新聞の調査
予想収穫高
桃 生食用四三、九四七本三三六、八〇〇箱
桃 缶詰用二八、九〇五本一、八〇〇、〇〇〇kg
葡萄四、三八〇本一、六〇〇箱
枇杷(ネスペラ)九四三本四、〇三二箱
八、三七六本一三、九九〇箱
三五八本八二〇kg
レモン二、七一五本四、〇三二袋
ゴヤバ一、九二五本一〇、一五〇箱
ミシリカ六八〇本三〇〇箱
ポンカン九〇〇本七〇〇箱
養鶏一〇二、〇〇〇羽八九一、六一八ダース

第七回桃祭
一九五六年の桃祭では、日曜日に一五〇〇〇人の人達が詰めかけ、一二、〇〇〇箱の桃が売れた。


一九五七年

 花卉園芸が始まった

 蘭栽培は趣味から始まった。以後栽培者が増え販売もしたが、続く人は少なくなり、一九八八年現在残っているのは鈴木ジョルジと谷口清だけである。
 切花栽培は、一九五七年高梨一男が日本からトマテ箱一杯のグラジオラスの球根を持って来て、吉岡省農場で栽培を始めた。その頃、芽野、富田金治、近藤イワオ、吉田官六がグラジオラスとクラボを植え付けた。販売は花束をかついでオニブスに乗り、聖市の花屋を一軒一軒たずねて売って歩いた。其後自動車を買う者ができ量がまとまると、パカエンブ広場にできた花卉市場に売りに行った。そして徐々に裁培者が増えた。


一九五九年頃

 肉用鶏は赤やカリジョウの鑑別雄を3ヶ月飼って売っていたが、三沢正人が白い肉用鶏の飼育を始めた。この肉用種は六〇~六五日で二kgになった。


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