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イタケーラ植民地
     日本人会の歴史  (最終更新日 : 2004/12/03)
一九二〇年代~一九四〇年代 [画像を表示]

一九二〇年代~一九四〇年代 (2004/12/03)
一九二五年

入植者
富田、渡辺、藤田、細中恵三、野村睦男、上地、永島、中村袈裟男、野間、竹中、ペドロ・オリベイラ。
(十一名 十一月六日・ブラジル時報)


一九二六年

入植者十四名


一九三六年

六月十日イタケーラ・コロニア日本人会発足
初代会長 笠井長平
青年会長 波井佳藏

日本人会が出来たいきさつ
コロニア子弟に日本語を教えるべく、乾俊衛、押本瀧輔、井上伸助、坂本、水谷真三郎などが発起人となり、植民地内を手分けして一軒一軒訪ねて歩き日本人会を作った

【イタケーラ産業組合は、近郊産業組合と名称変更】


一九三七年

日本人会会長 岡上与三助

今迄新年祝賀会は青年会が主催していたが、今年から日本人会が主催した。
青年会長 笠井、清水、芽野
(九月)日本語学校教師木下先生、奥地より赴任

【支那事変勃発】


一九三八年

日本人会会長 高垣忠兵衛

十一月十九日 イタケーラコロニア公認私立小学校開校 木下キマコ先生


一九三九年

日本人会会長 高垣忠兵衛

日本語学校(一九三九~四〇年)の先生は、半田巳年治(半田和雄画伯の父)

一九四〇年

日本人会会長 岡上与三助

【女子青年会創立】
初代会長 田中伸子


一九四一年

九月二十四日正式名を「イタケレンセリミターダ」と改称

日本人会会長 佐藤善一

日本語学校の先生 上坊潤夫

【十二月七日、太平洋戦争始まる】


一九四二年

日本人会会長 佐藤善一

〔イタケーラコロニア共済会」と改称。
(中曾根氏の提案、お互いに助け合う会として、時局に合わせた〕
〔太平洋戦争激化し、日本人による団体禁止のウワサあり、二世による会長・役員を選出す〕
二世会長 岡上幸一


一九四三年

共済会会長 水谷真三郎


一九四四年

共済全会長 岡上与三助


一九四五年

共済全会長 岡上与三助

【八月十五日、太平洋戦争終わる】

終戦とイタケーラのコロニアについて
 一九四五年三月七日、生産物の売上の清算をするべくサンパウロに出掛けたのであったが、着いたのが八時頃、しばらく行くと開けていた店を閉めている。行くほどにどの店も閉めている。不審に思いある店で尋ねてみると『今ドイツが降伏したとのラジオニュースが入ったから今日は仕事を休んで祝うのだ』との事であった。勿論その時点では新聞記事に載っているわけでも無かった。ラジオのニュースが入ると、すぐ店を閉め、事務所を閉め高いビルの窓から紙切れが投げられ紙吹雪で街は一面に雪の如く積もって行ったのであった。かくして、政府は市民に休業の指令を出していないにもかかわらず全市は休業して戦勝祝いに入ったのであった。
 ところが、八月十五日午前八時日本の敗戦ニュースが入っても、その気配も無く誰一人騒ぐ者もなく店を閉めるでもなく、全市仕事は続けられて行った。吾々はこのドイツ敗戦の時と日本敗戦の時のブラジル社会の対応の違いを、五十年を経た今日改めて思い返して考えてみるべきであると思う。
 そこでコロニア・イタケーラでは時の共済会の会長岡上与三助氏は同日午後一時植民地の全日本人を集め、朝八時に入った日本敗戦のニュースを伝え、『ブラジルに於ける日本人の立場が、どの様になるか確定するまで軽挙妄動する事なく、平常通りに働くように』と申し合わせ散会したのであった。翌日十六日早朝自分は土地会社の事務所に行き、その後の新聞の報道の説明などを聴き、『会社は植民者の生命財産の安全を全力を挙げて護るから従来通り仕事は続ける様に』との事であった。昨日以来の市内に紙切れ一枚投げる事もなく、又市民は日本人の居る場では殊更日本の敗戦の話には触れないように努めている程であった
 帰途共済会長の岡上氏宅を訪ね土地会社の意向を伝えると、岡上氏は「その事は皆に伝えないほうがよい、植民地内に『日本が勝った』と言うニュースが出始めているから」との事であった。かくして数日も経ないで植民地の日本人の殆どが日本の戦勝を信ずる事になったのであった。そして十月三十日にはイタケーラ植民地の在郷軍人会の発会式が行なわれたのであった。その場所として会館は使用されなかった。又その後しばらくしてから、青年団では九月九日戦勝祝賀会をやった事を聞いた。
 他方、五~六名程の認識派では一九四六年三月二十九日の会合で『何時の日にか祖国に送金の出来る日が来ることを期して』各人毎月自由額の拠金を始めることを決めたのであった。そして会の名称を『報国会』とした。
 一九四九年になって北米を通じて金銭・物資を日本に送られる様に成ったことを受けて、聖市在住の有志が相計り全国に連絡をとり三月二十七日各地の代表が集まり協議の結果、まず会の名称を『救援会』とする事に決定したのであった。そして各地の代表は、その地区の有志から集めた寄付金は聖市の本部へ送り、本部は適宜日本へ送ること等を決定して散会したのであった。
 一九五〇年に至り救援会本部の幹部の方々で種々情勢判断の結果救援会の務めも了えている。多少残っている現金また事務用器材などの処分の段階になって「この全国的に連絡できる組織を解体するのは偲びがたい」との意見もあり、協議の結果名称を「日伯援護協会」と改め伯国の社会福祉の為に尽くす組織と成すことを決定したのであった。それは一九五〇年七月二十九日のことであった。今日ノーボ・ムンドの岡の上に聳える『日伯友好病院』にまで育ってきた組織の産まれた日である。最後に殊更付記すべきことは、全面的に認識派の組織であった救援会と勝組との間には期間中には何等の問題も起こらなかった事である。イタケーラ植民地はサンパウロ市内であるので本部地区として支部は設けなかった。それで報国会は解散することなく活動を続けたのであった。日本へ物資郵送の出来るようになった事を受けて、養鶏家を廻って飼料の空袋などの寄付を受け小包郵便で日本へ送った。又日本側からの要請により小児用の半ズボンを造る布を買いにペルナンブッカーナに行き良く説明すると四〇%の割引で売って貰えたので、その後も何回かにわたって日本へ送って戦災孤児を世話している団体に喜ばれた。かくして報国会も一九五一年十月二十一日を以て解散したのであった。
 又、一九五〇年十月十三日を以て戦時処置の資産凍結令は解除されたのであった。ドイツ国の団体の経営であったドイツ病院は、戦時中は政府に接収されていたが同日付けで返還された。吾々の日本病院は共済会式のブラジル国内団体として経営していたため、戦時中の接収は免れたが、その経営理事会の理事長はブラジル人てなければならない、との事で当時病院に働いていた『フレッタス』と言うブラジル人の医師を理事長として病院の経営を続けてきたのであった。その他、我が植民地では、他地方の如く両者対立して事を構えるなどのことは一度も無かった。これは対立などと言うものではないが、両者の色分けは判然としていた頃であったが、自分は桃の剪定をしていると側を通りかかった人から『まだ桃の剪定をするのですか』と呼び掛けられたので、自分は、昔の日本の百姓は『この秋は雨か嵐か知らねども今日の業に田の草とるなり』と言いました。自分もその意味で今日の務めを果たしています、と答えると、その人は『そうですか』と言って通ってゆかれた。その様な事は永い間に一度だけであった。
 又、『もうすぐ日本から迎えの船が来るから』と言って、土地は売り、荷物の整理をして植民地を出て行かれ、方々を転々とされ最後には姉弟二人ともジャサナンの養老院に入り永眠された永島様姉弟は気の毒であった。
吉岡 省

感謝状.jpg


一九四六年

共済会会長 水谷真三郎

〔社会不安の為、運動会なし〕
〔当地コロニアにも勝組負組の波が押し寄せて来た〕


一九四七年

共済会会長 水谷真三郎


一九四八年

共済会会長 水谷真三郎

【小学校は村立から州立と変わった】


一九四九年

共済会会長 水谷真三郎

〔第一回桃祭〕

共済会は「イタケレンセ・リミターダ」として登録


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