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イタケーラ植民地
     日本人会の歴史  (最終更新日 : 2004/12/03)
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一九五〇年代 (2004/12/03)
一九五〇年

共済会会長 水谷真三郎

〔第二回桃祭〕
桃祭会場を州政府に注文


一九五一年

共済全会長 水谷真三郎

〔第三回桃祭〕
桃祭会場として州政府が会場を建てた。
一九六七年頃に全焼したが、幅十五米、長さ四十米の板壁でできた立派なものであった。


一九五二年

共済会会長 渡井佳藏


一九五三年

共済会会長 石原幸太郎


一九五四年

共済会会長 吉岡義一

【コロニヤ全地域電化成る】

植民地電化のいきさつに就いて
 或る日、山岸又次郎氏と植民地電化の可能性を打診して見ようではないかとライト社の担当課に行き、課長のぺードロ・アマラール氏に面会し種々の質問に答え、種々の条件の説明を受けたのであった。やはり二人で考えた通り我々にとっては高値の花であることを確認したのであった。又我々にそれだけの経済力が有ったにしても、三年にわたって続いている雨の少ない為の電力不足-市内の工場へ一日五時間しか電力の供給がない-と言う現状では我々の小さい農村に配電されるはずもない、しかし勉強にはなった。帰りに受付で課長ぺードロ・アマラール氏の住所を尋ねるのを忘れなかった。会社の重役の住所を教える事を禁じられているのであったが、『後程我々の生産物である柿を届けねばならないから』と説明してやっと教えてもらえた。そして二ヶ月程の後、厳選した良く熟した富有柿を届けておいた。
 そんな或る日、果物店を持っていて実によく自分の桃を売ってくれる人が、『自分の住宅の本通りを電力線が通されて、その本線から四〇m迄は希望者には配電されるとの事であるが、自分の所までは六〇mあるので引いて貰えなかった、お前知人の課長に頼んで貰えないか』との事であった。知人と言われても一回しか会っていないのであるが辞退することは出来ず、或る日アルモッサの休みの時間にぺードロ氏の自宅を訪ねたのであった。目的の友人の問題は、規則に従う以外にない、との返事であった。種々雑談の後ぺードロ氏は改まって『時に、吉岡お前は以前にイタケーラ植民地の電化の事で会社に来たことがあるが、植民地では本当に電力を必要としているのか』と聴かれたので、『勿論必要です』と行き掛かり上答えると『それでは其の事を簡単に手紙に書いて会社へ持って来い』との事であった。『現在の植民地の経済状態では建設費負担は無理だと思うから』と答えたのであったが、彼は『何でも良いから手紙を持って来い、金の問題は其の後の事である』とのことで、なお付け加えて『其の手紙は一日も早く持って来い』との事であったので、帰途山岸氏にその事を伝え、その三日後には件の手紙を持って会社にぺ-ドロ氏を訪ねたのであった。そして今後の連絡の必要があるからとの事で山岸氏の住所を置いて来たのであった。かくして一ヶ月程経た頃、出頭せよとの通知を受けたので行くと、『技師に現地調査させるから技師と話せ』との事であった。それで技師と話し合った結果その五日後の午前九時イタケーラ駅に迎えることを約束して帰った。そして現地調査の結果として『この山の中には配電出来ない』と技師が云った。これが偽らざるその時の心境であった。当日はルイス技師をイタケーラ駅に迎え、仕事は現在のエストラーダ・デ・ペセゴの起点から始まったのであるが、先ず自分のペルアの後輪の左右共に木の小枝を挿し込んで固定なし、それを目印にしてそのローダの回転数を数える事によってその距離を計る、と言うわけであった。ルイス技師と山岸氏が車の窓から身を乗り出してローダの回転数を数えながらそのシチオの入り口を書き入れ、又改めてローダの回転数によって次のシチオ迄の距離を計ってそれを記録する、と言う事を繰り返して夕方になった。その事は後に判ったのであるが、全延長は二十三km強あったのである。最大限に徐行せねばならなかった自分も随分疲れたが、ペルアの窓から身を乗り出してローダの回転数を数えていた会社の技師と山岸氏はそれ以上に重労働であったと思う。
 それから三ヶ月程を経た頃、『出頭せよ』との通知を受け取ったので、又山岸氏と共に会社にぺードロ・アマラール氏を訪ねる。課長室で見せられたのが、先日の現地調査の結果を現した地図であった。説明を受けながらよく観ると、先日歩いた所は十区の端まで全部記入されている、そして全長二十三kmと何百mかであった。一応地図を確認した後、ぺードロ氏はその地図を裏返して、一七八〇,〇〇〇,〇〇と金額の書き入れてある処を示して『これが地図に記入されている場所の工事費の全額である、植民地で電力を必要とするならば今此処で二人で署名して置け』と、なお付け加えて『支払期限は一ヶ月で、期限を過ぎると新しく工事費は計算される、との事であった。又工事費支払い後、九十日以内に工事は始まる、と、-余りにも意外な事ばかりで二人で唖然としていた、と言うのがその時の実態であった。
 冒頭に書いた通り”可能性の打診”程度の考えであったし、深刻な電力不足の現状で、我々の植民地に配電される等の事が常識では考えられる訳もなく、植民者には何も話してないのであった。それでその事情を説明して、植民者と協議の後改めてお願いに来ると話したのであったが、課長は『お前等二人で植民地の電化が必要と考えるならば今此処で署名せよ、明日ではいけない。』と厳命される様な雰囲気であった。その場で山岸氏といろいろ話した結果-例え植民者が不賛成であっても二人の責任において電化を実施する事にしよう、自分のシャーカラを抵当にすれば此の費用位は銀行から融資して貰えるであろうからと署名したのであった。帰途先ず会長を訪ねその事を話し、翌晩植民者全員を集め、先ず無断で事を進めたことに対しての許しを乞い、詳しく説明したのであったが、全員の方々が賛成されたので先ず以て安心した次第であった。次は我々の現状では軽くない工事費の分担の問題であるが、先ず会計主任として前田氏をお願いし、協議を始めたのであるが、あまりにも各人の立地状況が異なるので公平な分担金額の割出しは困難と考えたので自分は私案を出した。『皆様が、今自分の所に電力を入れて貰えるならば最高幾らまで出資出来るかと皆様の意見を集めて総計の不足分は自分が出しますが』との提案に全員賛成された。ところが皆の申出の金額の総計は会社の計算額よりも遥に多く、ほとんどニミルコントスになったのであった。翌日はアドリアーノ氏に話してこれまた賛同を得る。そして日本人以外の植民者のまとめをお願いし、かくて全植民者の誠意の拠金は予想外に集まり、後に完成祝いの経費は言うに及ばず立派な記念碑の設立も出来、それでも未だ残った金額で九谷焼で三五cm位の高さのものを三個日本より送って貰ってライト会社の三人の重役に贈ることが出来た。
 此処になお付記しておかねばならない事であるが-それも何年か後でアマラール氏の話で判った事であるが-植民地の電化工事の契約時点での電線の原料である銅の公定価が一キロ当たり二〇クルゼイロであったが、工事を始めた時点での価格はその三倍の六〇クルゼイロに値上がりしていたとの事であった。顧みれば、あの三ヶ月後の工事費では我々では到底植民地の電化は実現出来なかったのでは-と考えられる。全く天の助けであったと思う。又、ぺードロ氏はその事が判っていて彼の時無理に契約書の署名を迫ったとも考えられる。その後もぺードロ氏は各地の『農村電化』には無条件に協力された。思えば、イタケーラ植民地の電化は彼の手始めでもあったが、『今、此の時を逃がしてイタケーラ植民地の電化は、いつの日にか-』と謂う懸念からの熱意の現れであった、とも思える。やはりその出会いは天の助けと思える。
 或る時、ぺードロ氏が来られて『植民地の電化された地帯を見たい』との事で案内したのであったが、『おお、吉岡お前達はユーカリを育てるのにも夜は電灯で明るくして育てるのか…。』と言われて全く赤面した事もあった。最後に、ぺードロ・アマラール氏は九十二歳の高齢ながら非常に健康で、老人ボケの片鱗もなく娘様夫婦と共に立派に暮らして居られる事を記して結びとする。
吉岡 省


一九五五年

共済会会長 森田久司

【七月十日、イタケーラ植民地三十年祭挙行】
午後三時より記念祝賀会あり。食事はサンドイッチと飲物、簡単なものであった。夜シネマあり。
〔七月三十一日、大霜で作物全滅〕
〔今年は桃祭なし〕

三十周年記念.jpg
イタケーラ植民地三十周年記念(一九五五年七月十日)


一九五六年

共済会会長 渡井光雄

サンパウロ市長、植民地内の幹線道路を「エストラーダ・ダ・ペッセゴ」と命名
〔第七回桃祭〕


一九五七年

共済会会長 川下亀雄

〔第八回桃祭〕
〔エストラーダ・ダ・ペッセゴ、アスファルト工事始まる〕

農務大臣を迎える
 一九五七年四月二十九日時の農務大臣マリオ・メネゲッテ氏を当植民地に迎えた。以前から『サンパウロに行った時に一度イタケーラの植民地に行く』と言う約束があった。四月二十七日、コチア産業組合二十五周年記念祭の会場でお会いしたので、挨拶の後『今度はイタケーラに来て頂けますか』と申し上げるとしばらく考えて居られたが、『今度はプログラムに入れてないので二十九日早朝七時にイタケーラ到着と言うことで良ければ行けるが、お前の方は良いか…』との事で、同行の農務長官ジャイメ・ピント氏も『間違いなく約束の時間までに到着する様に出来る』との事で、すべては決定したのであった。又九時にはサンパウロに帰らねばならないとの事であった、それで帰って山岸又次郎氏と相談したが、最後に『常識では考えられない早い時間であるので来られないかも知れない』と言うことで植民地幹部には報せないと決め、アドリアーノ氏と三人で当日は時間に待つことに決めたのであった。案じた様に約束の七時になっても見えられず、やはり来られないと話していたら八時過ぎに到着されたのであった、但し自分は仕事着にトマンコ(サンダル)を履いていたので大変恐縮したのであった。案内人のドットール・ラウール氏が時間に来なかったので道を間違えて遅れたのである、との農務長官ジャイメ氏の説明であった。富有柿の親木の下での立ち話であったが、総ての事を熟知の農務長官ドットール・ジャイメ氏の説明で、よく納得され『もう時間が無い』と言われるのを、今少しと言うことで十区の山峡の農家のたたずまいをと竹内様の頂上から眺めて貰い次に中丸様の路の縁に建てられていた鶏舎を見て貰ったのであったが、その鶏舎は実にみすぼらしいものであった。掘建小屋は良いとしても又屋根はサッペイであるにしても、柱も細い曲がったものが使ってあった。これはと思ったが、その貧しい鶏舎に育っていた鶏は見事に揃った実に綺麗なものであった。それで自分は即座に覚悟したのであった。農務大臣にしても農務長官にしても鶏舎の貧弱さにふれたら反撃する考えでいたのであった。暫く無言で鶏に見入って居られた。そして鶏や鶏舎の事には一言も触れることなく『時間が無いから帰る』と言われて帰りの挨拶を始められたのであるが、次の言葉を残して行かれたのであった。『イタケーラ植民地の訪間の予定は無かったが、お前の柿にしてもこの鶏舎にしても、これこそが本物であることが理解出来た。昨日はジュンジアイのジュンゲーラ農場の招待で立派な設備の養鶏場を観たが、鶏は此処の様には良く育っていなかった。今後のブラジルの養鶏はこれでなければならないと思う。予定外のイタケーラ植民地の訪問に依って、大統領に対して非常に良い土産が出来た。』と大変な喜び様であった。それで自分は五月中旬になお良く熟した富有柿を持参することを約して別れたのであった。
吉岡 省

農務大臣.jpg
農務大臣マリオ・メネゲッテ氏、吉岡農場訪問。向かって右より二人目、アドリアーノ氏、吉岡氏、左から二人目は山岸氏。(一九五七年)


一九五八年

共済会会長 三沢正人

〔第九回桃祭〕
「ソシエダーデ・シビウ・ウニオン・イタケレンセ」と改称
「日系コロニア五十年祭あり、パカエンブー競技場にて日本より三笠宮殿下御来伯」

【婦人会創立】

精薄児収容施設日伯寺学園治療教育部として発足・設立(九月一日)


一九五九年

共済会会長 三沢正人

〔第十回桃祭〕
「男女青年会」となる。
「子供の園」イタケーラに移転、この時「子供の園」と命名。初代園長、佐々木陽明。


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