一九六〇年代 (2004/12/03)
一九六〇年
共済会会長 渡井光雄
〔第十一回桃祭〕
一九六一年
共済会会長 山岸又四郎
〔第十二回桃祭〕 〔コロニア幹線道が岡上与三助家の前迄、アスファルトになった〕 州立小学校エストラーダ・ダ・ペッセゴ、一二〇〇番に移転
一九六二年
共済会会長 前田戌八郎
〔第十三回桃祭〕
一九六三年
共済会会長 勝野寿男
【ACECI創立】
ACECIについて Associação Cultural Esportiva Colônia de Itaquera
一九六三年十月に始まった。何故できたか、その始まりは、コロニアには青年会、女子会、学生会、卓球部、野球部、柔道部等沢山の部があって、共済会としては何か催し物があってもどの部に話してよいかわからない。又各部が競り合って対立することもある。等問題が少しずつ出て、どうしたらよいか話し合ったところ、この部をまとめ一つにしようではないかとの話が出た。それは丁度、会館建設の定礎式の時であった。 そしてこの会館を設計した時、東西に部屋を作り、各部に一部屋あて与え、それを管理する様にしてあり、植民地の青年男女が気軽に集まれるようにとの願いが隠されていた。この年、会員を募集すると二百数十名の男女が集まった。 一九六三年度、最初の会長は勝野寿男、次に井出敏治、森田勝、前田ジュリオ、井出勇一と十年間続いたが、何故か一九七三年には消滅し、若い青年男女が準備運営をしていた運動会も若い者が出て来なくなって共済会が準傭をする事になった。 |
一九六四年
共済会会長 林 良次
一九六五年
【コロニア入植四〇年祭挙行】
【会館完成】
開植四十周年を祝うイタケーラのコロニア
イタケーラのコロニア四十周年祭は、さる十月三日同祭記念の新館落成式を兼ねて新装の会館内で、地元民の感激の中で厳かにそしてはなやかにおこなわれた。 同祭典にはリオの大使館から田村大使の代理・堀一等書記官、総領事代理の高島領事、サンパウロ市長代理のドトール・ネルソン、田村、平田両連議州議代表、農村協会代表の野村州議そして内山州議をはじめ多くの著名人が出席して、多大な讃辞とこの日の祭日を祝う言葉が贈られた。 式典はまずミサを挙げた後、州警兵の音楽隊による日伯国歌の吹奏の中を、黄緑、日章の両旗と共に州旗の掲揚がおこなわれた。そしてこの後来賓の手から、在植四十年の人々に記念品が贈られた。次いで会館の落成式が行なわれ、聖市長代理と堀一等書記官の手によってテープが切られた。祭典行事はさらに続き、この後シュラスコ会、ショウ、シネマの夕べと、文字通り植民地挙げての入植四十年を祝った。 ・開植以来の存命者 富田実、中村啓哉、中村太郎、中村次郎、菅谷威(イタケーラ町在住)。 ・一九二六年来の人 服部秀吉(イタケーラ町在住)、松本圭一、押本瀧輔、押本静男、松林米治。 ・一九二七年来の人 佐藤善一、夏見万年、岡上与三助。 |
会館建設について
今度落成した新館は、一九六三年着工の運びとなっていたものだが、建設地にちょうど州立小があって、なかなか建設へ踏み出せずちゅうちょしていた。運良く州立小が移転するという事態の好転で、一挙に会館建築に着手できたわけである。新館の概要はつぎのとおり ・予算四千コントス(勤労奉仕) ・建面積一、七〇八平方米(二階建) 大サロン・小サロンがあってそのほか会議室、図書室、役員室、男子青年会室、女子青年会室、食堂などがある。設備の点でも地方の会館では珍しいほど整っている。まず大サロンだが、これは雨天の時室内競技場に、また夜間競技も可能のように照明の設備がととのっている。 ところで当初会館建設予算は四千コントスが予定されていた。しかしその後事態はきわめて有利に運び、コロニアからの寄付は予想以上七千コントスも集まったので、一挙に予算がふくれ上った。むろん経費の節約を図って、建築工事は各戸が交代で勤労奉仕、ブロック作りまでやったほどである。それに仕事中、三沢建設委員長が高台から滑り落ちて大怪我を負うという不幸な事件があって、人々の間にこの犠牲を無にするな、との固い結束ができ上がったことは、会館完成の大きな原動力となったことも事実であった。当時としてのこの大きな会館建設の動機は、三沢正人が先頭に立って、このブラジルに何か物を残そう、と言う考えで、日系人だけでなくブラジル人にも利用してもらうべく、コロニアの若い人達にどんな会館を作ったらよいか色々意見を出してもらい、それをまとめて建築技師・菅谷恒に見せ設計して貰った。会館建設に当って賛否両論があり、共済会役員の三沢正人、茅野一正、乾正俊の三名で各区を廻り、区会を開いてもらって説明して歩いた。 先ず三人が一人一〇〇コントス(中古車一台買えた)づつ寄付、コロニア内の寄付総額は七〇〇〇コントスになった。しかし、設計計画に対して予算が少ないので経費の節約を図る為、各戸が交代で勤労奉仕で作業をした。 ブロックを作る機械を買って各戸より一名、月に三日労力奉仕をし、ブロックを作り、積み上げた。 作業は五人一組にし、常に十五人働く人が居る様にした。五人止めて五人が新しく作業に入り、残った十人が新しく入った五人に仕事を教える方法をとった。 建築材料が着くとノッタ(領収書)には間違いのない様に、五人がアシーナ(署名)をした。その記録は、水谷真三郎が毎日出欠の記録と共に、帳面に記載した。 会館建設に当って特にお世話になった人達は、 一、中曽根アントニオ 労力奉仕で窓枠を作った 一、菅谷恒 会館建築の設計図、各官庁の手続き全部無料でして下さった。 一、服部秀吉 立派な会館を作るに当っては運動場がぜひとも要ると言うことで、道の向こう側を市価の半値で分けて貰った。 一、河村兄弟 現在の会館前は平らではなかったが、この地ならしを、約一ヶ月かかって大きなブルドーザを使い奉仕で行った。 一、現在のグルッポ周辺の土地は共済会のものであったが、これを池森敏に買ってもらって、会館建築の不足分と道向こうの服部秀吉の土地を買う資金とした。 |
イタケーラ開植四十周年・祭典委員会
祭典委員長 | 吉岡 太一 | 副委員長 | 小島 信三、勝野 寿男 | 書記委員 | 柳生 修平 | 外交 | 田中 晤、中村 秀臣 | 会計 | 川口 幸太郎 |
一九六六年
共済会会長 谷口清
〔第十四回桃祭〕
一九六七年
共済会会長 竹内喜太郎
〔第十五回桃祭〕
一九六八年
共済会会長 清水友一
〔第十六回桃祭挙行〕
一九六九年
共済会会長 真鍋次郎
〔第十七回桃祭〕 桃祭に出品する桃は、コロニア外のものが多くなった。これがイタケーラ植民地最後の桃祭となった。
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