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イタケーラ植民地
     日本人会の歴史  (最終更新日 : 2004/12/03)
一九八〇年代 [画像を表示]

一九八〇年代 (2004/12/03)
一九八〇年

共済会会長 森田勝

道にそって会館側にブロックのムーロ(塀)、運動場側に金網のムーロを作る。

日系クラブの創立
 共済会々員が土地を売り植民地外へ去る者が増え、残った人達の負担が多くなり、このままで行くと将来は会館の維持ができなくなると心配する人達が出て来て、クラブ制にする気運が高まってきた。
 そして一月の総会で、共済会の将来をどうするかをはかったところ、クラブ制移行に賛成多数で移行することに決定。クラブ制発足研究委員会を編成。
 委員長に鈴木康夫、副委員長に亀岡俊二を選出。
 先ずはアニャンゲーラ日系クラブ、日本カントリークラブ、モジコスモスクラブ等に委員が数人づつ、クラブ組織についての問題点を聞きに行った。
 臨時総会の決定により、定款作成委員会を作った。
 委員長井出勇一、副委員長に亀岡俊二・森田勝。
 定款は井出勇一が原案を作り三田勝己弁護士に法律に合せて修正して貰った。

***

「何故クラブ組織にしたか」
 最盛期に二〇〇家族以上居た共済会々員は、今年の調査で九六家族に減っていた。これでは、この大きな会館を維持することが困難になり、どうしても会員を増やす必要にせまられた。しかし定款には、植民地内の家族をもって会員となすと書かれているので、土地を売って植民地外へ出た人は、次々と脱会して行った。
 この状態を心配した時の日語校の父兄達が先ず立ち上がり、共済会会長・森田勝、父兄会々長・鈴木康夫を中心に父兄会会員十四名で話し会い、絶対的賛意を得て、クラブ組織の準備にとりかかった。
 先ず、クラブ組織にする為に役員会に計り、臨時総会を開いて決定した。
 理由としては、第一に運営費の行き詰まりであり、会が年々さびれて自然消滅になることを避ける為、定款を改正し植民地内の人達だけでなく、近隣の人達にも土地設備を利用して貰う為、クラブ組織にした方がよいと考えた。
 一九八○年十二月五日に創立総会を開いた。
 この時会員は一四六名に増えていた。定款を承認、カルトリオ(登記所)に登録。正式にクラブとして発足した。設備としては会館、バスケット兼フットボールデサロン(フットサル)が出来るクワドロ(コート)一、道の向こう側に、野球場兼フットボール(サッカー)競技場があった。

 昨年よりコロニア内の街名を、コロニアの功労者名にしようと言う話が持ち上り、勝野寿男委員長を選出。数名の役員の下に次の人達を選んだ。
 一、ジョンスピーレス(呼名はジョネ)・土地会社支配人
 二、ジャイメリベイロライテ・土地会社支配人
 三、石橋恒四郎・植民地創立者、草分け
 四、ウンベルトバッシ
 五、中村啓哉・草分けの一人でトマテ作りの第一人者
 六、松林米治・草分けの一人
 七、高垣忠兵衛・第二代日本人会会長(一九三七年)
 八、服部秀吉・草分けの一人
 九、重田儀一・草分けの一人
 十、中村太郎・草分けの一人
十一、佐藤善一・共済会会長(一九四一~二年)、草分け
十二、笠井長平・共済会初代会長(一九三六年)
十三、岡上与三助・共済会第三代会長(一九三八年)
十四、松本圭一・東京大学卒の農学士、勲五等瑞宝章叙勲
十五、鈴木管男・コロニアのドクター、不便だったコロニアで多くの人を助けた
十六、水谷真三郎・共済会会長を七回歴任
十七、長谷川先生・「子供の園」創立者
十八、唐沢実男・日語教育の先生、婦人部創設者、勲六等単光旭日章叙勲
十九、上坊潤男・日語教育の先生
二十、山岸又四郎・共済会会長(一九六一年)
二一、三沢正人・共済会会長(一九五八~九年)、会館建設委員長
二二、吉岡儀一・共済会会長(一九五四年)、桃の新しい品種作出
二三、森田久司・共済会会長(一九五五年)
二四、菅谷戌・コロニアの測量をした
二五、菅谷恒・会館建設に施工監督をしたエンジネイロ(エンジニア)
二六、清水友一・共済会会長(一九五八年)

功労者の名、ルア(道路)に
 十五日付のサンパウロ市官報で、市内イタケーラコロニア区の二十六の街名に日系人の氏名を命名することを告示した。
 これは、かねてから同地区内の在住者から、ルアA・ルアBという街名にコロニア貢献者の名を命名してその功績を称えたいと、レイナルド・デ・バーロス市長に申請していたもの。(一九八〇年 森田会長の時)


一九八一年

イタケーラ日系クラブ理事長 鈴木康夫

設備としては、野球場内に便所と物置を作った。そして、テニスコート、第一ゲートボール場、プレイクランドを作った。

二月二十六日の総会で名称を「イタケーラ日系クラブ」とする。

日系クラブ役員名
評議員会長森田勝
副会長竹内冠
書記井出勇一
理事会
理事長鈴木康夫
第一副理事長亀岡俊二
第二副理事長真鍋次郎
第一書記池森ミルトン
第二書記福永道治
第一会計尾和ジョン
第二会計重田マリオ
警備乾アルナルド
殖産池田豊三
衛生森田ジョルジ
道路松浦与喜男
老人部真鍋次郎
文化小坂誠
社交柳生リカルド
体育新垣松三
運営三沢ベルトリーノ
運営吉岡パトリシオ
外交井出勇一
学務奥山秀雄
婦人部上村富子
青年部小田セルジオ
監事勝野寿男、谷口清、田中晤


一九八二年

イタケーラ日系クラブ理事長 鈴木康夫


一九八三年

イタケーラ日系クラブ理事長 勝野寿男


一九八四年

イタケーラ日系クラブ理事長 勝野寿男

スザノ農村文化協会の跳ね上げ舞台を参考にし、イッペー材で舞台を作った。舞台作成主任竹内冠。舞台作成に当っては、婦人部の協力大なるものあり。


一九八五年

イタケーラ日系クラブ理事長 鈴木康夫

【入植六〇年祭挙行】

イタケーラ入植六十周年
「田園の面影残そう 先駆者偲び新たな決意」

 入植六十周年を迎えたイタケーラコロニアの日系クラブ(鈴木康夫理事長)は、一日午前九時から同クラブ会館で、記念追悼法要にひきつづいて記念式典、プール定礎式、祝賀昼食会、記念演芸大会を行った。
 かつては桃の里として日本ののどかな田園風景を見せていた同コロニアも、都市化の波や工場進出ですっかり変貌したが、郷土の誇りをもつ地元では六十年の節目を機会に、先駆者の苦労を偲び環境は変化しようともコロニアの伝統をひきつぎ、さらに近郊田園地帯としての面影は我々の手で残していこうと誓い合っていた。
 先没先駆者追悼法要は、佐々木陽明南米浄土宗別院開教総監が導師となり厳修され、読経の中、参列者の焼香が行われた。この後式典にうつり、マリオコーバス市長はじめ野村丈吾下議、井口信フェラース・デ・バスコンセーロス市長、尾身倍一文協会長、生野肇サンパウロ農村協会会長、菊池ルイCAC中央会会長補佐、酒井清南伯農協中央会副理事長ら来賓が顔を揃えたほか、およそ四百人の家族たちが出席した。功労者への感謝状記念品贈呈のあと、コーバス市長からコロニア内の道路の命名式があり、故長谷川良信、三沢正人、山岸又四郎氏ら二十六名の遺族に証書が贈られた。
 来賓祝辞で式典を終わり、プール定礎式に移り、佐々木開教総監導師で行われ、設計の生出克彦技師から計画説明が行われた。
 当日は変貌した我が郷土を空から跳めようと、「ヘリコプター」一機をチャーターし、一回六分の空の旅という珍しい企画が人気を呼び、ヘリは忙しく発着を繰り返していた。記念演芸大会は、地元の有志だけでなくビラカロン、キンゼ・デ・ノーベンブロ、サンミゲール、トレスコロアスなどの近隣の日本人会有志たちが友情出演し、彩りをそえていた。

イタケーラ植民地六十周年祭役員名
実行委員長鈴木康夫
副委員長井出勇一、尾和ジョン、真鍋次郎
総務真鍋次郎
財務亀岡俊二
会計吉岡パトリシオ
接待竹内喜太郎
渉外鈴木康夫
祭典(法要)竹内喜太郎
祭典(合唱)井上昭男
祭典(プール開き)尾和ジョン
祭典(稚児)森田裕子
記念誌吉田亘善
バール新垣松三
会場森田ジョルジ
食事(式)田中千英子、森田勝
警備川口一郎
駐車松本信夫
演芸小坂誠
放送設備新垣ジュベルト
ビデオ鈴木デジオ
写真吉岡パトリシオ
感謝状勝野寿男
記念品井出勇一

六十周年祭.jpg
入植六十周年記念式典開会風景(一九八五年九月一日)


一九八六年

イタケーラ日系クラブ理事長 鈴木康夫

〔プール(二〇米X一五米)完成〕
役員をはじめ会員有志の寄付による


一九八七年

イタケーラ日系クラブ理事長 井出勇一

イタケーラ日系クラブ卓球部は三~四年前より盛んになり、現在では七〇余名の会員を擁する程になった。


一九八八年

イタケーラ日系クラブ理事長 井出勇一

会館屋根改修
〔婦人部、三〇周年祭挙行〕
〔老人部、十五周年祭挙行〕


一九八九年

イタケーラ日系クラブ理事長 小坂誠

ゼラドールの家建築会館横の古い家を崩した(一九三七年頃日語教師の住宅として建てられたもの)。


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