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イタケーラ植民地
     学校について  (最終更新日 : 2004/12/03)
ブラジル学校

ブラジル学校 (2004/12/03)
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一九四六年 菅谷マダレーナ先生と佐藤マリア先生

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一九五八年十二月十八日 (旧性田中)菅谷マダレーナ先生と生徒達

 青年会誌記録によれば…
十一月十八日正十二時集合、明日開校さるる當植民地小学校開校式に対し準備をなす。会館の周囲をカルピ並びに緑門(アーチ)を作成す、夕方五時終了。野球試合を行い一同散会せり。

 一九三八年十一月十九日に奥地より木下・キマコ・アウレッテ先生が赴任、村立小学校が開校された。
 それまでイタケーラ植民地の児童は、イタケーラ町にあるアウバロ・アゼベド小学校へ通い、近い子は四km遠い子は八km以上ある林や野原の中のカロッサ道(馬車道)を歩いて毎日通っていた。或る日、その日は大変暑い日であった。学校を終えて九区方面へ帰っていた児童が日射病で村中農場の横に倒れていた。たまたま通りかかった人が見付け、親に知らせ急いで病院へ連れて行ったので一命は取り止めた。それを聞いた父兄は心配になり、小さい子が何キロメートルも歩いて学校へ行くのは大変だ、せめて低学年の子だけでもいいから近くに学校を建てようではないかと話がまとまり、先ず当時の青年会の会館を借りて授業を始める事にした。
○植民地小学校開校式は、一九三八年十一月十九日。
最初は木下キマコ先生一人。一九四二年に菅谷マダレーナ(当時は田中姓)先生奉職。一九四四年佐藤マリア先生奉職。一九四四~四九年有賀先生奉職。一九四四年頃田中アツコ・マリア先生奉職(マダレーナ先生の妹)。
 イタケーラコロニアの小学校は、最初一年生から始まった。生徒数は約二〇名で殆ど日系人子弟であった。最初小学校は三年迄であった。四年はイタケーラ町の小学校へ行って終了証書を貰った。
 一九四七年頃迄小学校はイタケーラ共済会が運営していたが、共済会では経費捻出困難になり、危うく閉鎖になりかかったことがあった。この時父兄会を作り、経済的によい人や悪い人も居るので一律ではなく出せるだけ出すと言うことで寄付を募ったところ、予想以上の金が集まり、以後の運営は大変楽になった。
 学校の運営困難なる時、時の教師は全員「月給は安いがなんとか生活出来るから、学校だけは閉鎖しないでほしい」と言って父兄を励ました。
 一九四八年五月頃、小学校は私立から州立にかわった。
 或る日いきなりブラジル人の先生が入って来て、今日から州立になったと言ったので驚いた。この時は佐藤マリア先生と菅谷(当時田中)マダレーナ先生が居た。やっと生活している農業者の父兄が先生の月謝を出していたのではいっまでも続かない。その頃の共済会の学務理事が、学校が州立になるべく何回も当局に懇請していたのが受け入れられたわけである。
 一九四九年迄は三年生までで、四年生はイタケーラ町に行った。
 一九五〇年にコロニア小学校四年修了の卒業生が出た。この頃までの学校はイタケーラ町に小学校が一つで、中学校はサンパウロかスザノにあって、イタケーラにはまだなかった。
 小学校児童の服装は裸足で、遠い子は五kmの道を歩いて通った、上衣は白いサッコの布で作ったアベンタール(エプロン)であった。一九五五年頃より少しずつ変わっていった。
 一九六二年、小学校は日系クラブ会館跡よりエストラーダ・ペッセゴ一四〇〇番の現在地に移転。コロニア内の土地にビーラが出来るにつれ、小学校の生徒は増え、日系児童の割合は減っていった。
 現在(一九九三年)は私立学校がコロニアの中心に出来、日系児童はその学校へ行くので、州立学校へ行く日系児童はわずかである。一九九三年現在日系人は約十五名。

 小学校が現在の土地に移転するについては、次に述べる様な隠れたいきさつがある。
 イタケーラ植民地小学校移転について、州の学務局では、新しい学校の設計図を広く募集し、一等にはすばらしい賞品が出る事にした。それには若い学徒から大学を卒業したエンジネイロ(エンジニア)が応募。選考の結果一等になったのは、イタケーラ・コロニア出身の安田行雄であった。
 安田はウスピ(サンパウロ大学)の建築科卒業。我が故郷の学校が出来ると知って、先ず地形を調べ精魂込めて設計図を作った。しかし学校は中々着工されず、(請負業者は地形が設計図通りではないので遅れた)しばらくして着工され建築された学校は、設計図通りではなく、調べてみるといつのまにか設計図はすりかえられていた。


○現在植民地内にある小学校は下記の如し
〈現在イタケーラ植民地には州立校三校と私立校がある〉第一番目、一九四八年に州立になった学校である。
一九七四年迄は小学校四年だけであったが、一九七五年より中学校も入り、義務教育八年がこの学校で勉強できる様になった。一九九三年現在の生徒数は八五〇名。学校名は「EEPG PROFESSORA LIMA DA COSTA COUTO」校。
第二番目の州立校は、アベニーダ・アドリアーノ・ベルトジ一一九五番、ジャルジン・エリアンにある、「EEPG JOSE DE OLIVEIRA ORLANDI」校。一九八〇年創立。創立時は六年生までであったが、後に八年制になった。創立時の生徒数四三八人。一九九三年の生徒数九七三人。
 第三番目はルア・トモイチ・シミズ七五八番、ジャルジン・シベレにある「EEPG PROFESSOR JOAO CASTELLIANO」校。一九八五年創立。学年は創立時より七年生までで、現在(一九九三年)もそうである。創立時の生徒数一四三人。一九九三年現在の生徒数三二六人。
 私立校カルロス・ブルネッテは、ルア・ヒロオカ・ミノボ RUA HIROUOKA MINOBO にある。一九八三年二月十日創立、生徒数は一〇〇〇名であったが、一九九三年現在八〇〇名。

 小学校の卒業者(四年課程)の中には上級学校へ入る者が多数いた。一九五三年にイタケーラに中学校(ジナジオ・エスタドゥアール・イタケーラ、※三年程してエミリア校と名称変更)が出来るまでは、その学生達はスザノ又はサンパウロ、ポアまで通った。朝四時三十分から五時に家を出てイタケーラ駅まで歩いて行き、そこで靴を履き替えて汽車に乗って中学校へ行った。
 イタケーラに州立中学が出来た時にはエストラーダ・ド・ペセゴにオニブス(バス)が通っていたが、始めはオニブスの時間が遅いので皆よく歩いて行ったものである。それからオニブスのお客が増えるにつれてオニブスは朝早くから通りだして、イタケーラの駅まで歩く学生はいなくなった。現在は小学校も中学校も自家用車で送り迎え、高校生も朝はメトロ駅まで送ってもらっている。


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