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イタケーラ植民地
     学校について  (最終更新日 : 2004/12/03)
日語学校

日語学校 (2004/12/03)
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上坊先生と(左)吉岡省、岩田九一(一九五〇年)

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イタケーラ植民地日本語学校(村中農場横、現在の警察署)開校記念写真。笠井先生と生徒達

 一九三二年サンパウロの暁星学園から岸本昂陽先生が日曜学校を開き、週に一回日語を教えた。この当時まだ会館がなかったので、現在のエンバーザの土地に板小屋があってそこで始めた。続いて現在の川下亀雄農場の地主であった藤田勝次先生が、農業のかたわら日語を教えている。
 一九三六年頃、コロニア子弟にもっと日語を教えるべく、乾俊衛、押本龍輔、井上仲助、坂本、水谷真三郎等が発起人となって、植民地内を手分けして一軒一軒訪ねて歩き、一九三六年六月、日本人会を作った。その頃は週一回日語学校を開き、日曜日には当時青年であった清水友一、木村一夫、芽野の三人が教師となり教えた。
 一九三七年末、奥地から来られた木下誠一先生が二年程日語教師をした。それ迄週一回であった日語学校は、木下先生から毎日教えてもらった。スポーツの好きな先生であった。住宅はルア・ヨネジ・マツバヤシにあって教室は会館を借りた。
 一九三九年三月五日、日語学校は、半田巳年次先生を迎えるに当たりこの日に歓迎会を開き、毎日日語を教えて貰える事になった。場所は会館。半田先生はあまり叱ることのない優しい先生であった。この頃半田知雄画伯は街に住み、時々イタケーラヘ来て写生をしていた画を売って歩いたこともあった。ルア・ヨネジ・マツバヤシに面した右側の家に住み、そこでも少数の生徒に日語を教えた。
 一九四一年、上坊濶夫先生がノロエステ線ペナポリスから移り来て会館に住み、日語教師を始めた。先生は岡山医専中退で、一九二二年二十六歳で渡伯。その翌日から日語を教えた。イタケーラでは其の後、土地を購入しそこに土壁の日語教室を父兄の協力で建てて本校とし、呼ばれれば十区の奥やイタケーラ町へと老いの身もいとわず通った。
 一九七一年三月七十三歳で亡くなる迄、一生をブラジルの日語教育の為に尽くした。
 戦時中もサンパウロ、サントスの両市は、外国語教育は許されていた、当然コロニアの日語教育は許されていたが、敵国語として慮しようではないかと会で話し合った。それでも教育熱心な上坊先生は戦争中にもかかわらず少数の生徒を集めて転々と日本語を教えて歩いた。
 少しの期間であったが笠井勉先生、イタケーラ・ミスタ組合が出来る一九五三年以前に村中農場横で日語教師をした。
 一九五九年、子供の園に居た長谷川良昭先生が三沢正人家で日語を教え、六一年良昭先生が帰国された後吉田亘善先生があとを受け継いだ。会館に移る前約二年間吉田先生が光子先生と共に子供の園で日語を教えた。年毎に生徒が増え、一九六七年に会館に移って生徒数は一時百名を越した事もあった。温かい内にも厳しいところがある吉田先生は人気があったが、子供の園の仕事が増え多忙となってきたので止めざるを得なくなり、日伯寺がそのあとを続ける事になった。
 一九六九年、日伯寺にお願いして会館を貸すが口出しをしないとの条件で、日語を責任を持って教えて貰う事にした。最初吉田先生と池口先生が始め、池口先生は帰国され、次に石沢恭二先生が二年契約で入り六年間日語を受け持った。おとなしい真面目な先生であった。次が入江昭造先生で、子供の園の仕事をしながら日語を教えた。先生は拓大出のガッチリした身体の先生で、独身であった。子供の園から歩いて通うのは大変だからと父兄がフスカ(フォルクスワーゲン・ビートル)の古い車を池森ミルトンより分けて貰い、イタケーラ共済会の書記もしてもらった。一九八二年頃、子供の園の仕事が忙しくなって教師を止めた。その後イタケーラ町で先生をしていた岩橋先生に来て貰った。この先生は二年間程であった。
 その後しばらく日語を教える先生が居なくて困っていたが、たまたま森田勝理事がサントアンドレ方面へ行った時、我那覇タツ子先生と逢い、一日隔にイタケ-ラヘ通って教えてもよいとの返事を貰い、父兄会を開き、日語を教えて貰う事にした。先生は日本の師範学校出で日本でも教えていた事があり、渡伯してからでもずっと先生をしていた日語教師のベテランである。記録によると一九八五年八月五日に再開されている。
 日語校を中心として組織されていた聖東連盟には、会は加盟していたが日語校は加盟していなく、この度我那覇先生になってはじめて日語校も加盟した。お話し大会に出たり、ノド自慢に出たり学校は活気があったが、一九八九年先生は持病のゼンソクが出て休み。再び奉職してもらったが、遠い所からオニブス(バス)にゆられて通うのは無理で再び悪くなり、一九九〇年より学校は閉鎖したままになっている。
 我那覇先生が休職中半年間菅沼政子先生が教鞭を取った。しばらく休んでいた日語校も父兄の要請により、一九九三年四月より小坂順子先生が教鞭をとっている。八月現在生徒数二十五名、月・水・金の週三回、一日の授業は三回に分けて教えている。


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