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イタケーラ植民地
     組合について  (最終更新日 : 2004/12/03)
スブルバーナ産業組合とカーザ朝日の創立と解散の過程について

スブルバーナ産業組合とカーザ朝日の創立と解散の過程について (2004/12/03)
吉岡 省
 イタケーラ産業組合の販売係と言うのでは無かったが、元イタケーラ植民地在住の安田友次郎氏がその頃のサンパウロ市中央市場内の商人の悪辣さに我慢出来ず、所有地を弟の乙末氏に譲り『善良な百姓の為に正直に生産物を扱う』と宣言して中央市場に出て委託販売を始めたこともあって、組合員のみでなく殆どの植民者は生産物を安田氏に委託したのであった。又肥料を主体として種々の買物でも相談を受ければ気持ち良く奉仕的に世話をしていたのであった。又イタケーラ外の地方の生産者、殊に大きな生産者、優良生産者は安田氏に出荷する人が多くいたのである。又一九三四年に於いて、領事館勧業部の仲介によって始められた共同販売の組織には、他の日本人業者と共にコチア組合疏菜部に席を置いて協力したのであったが、その組織の運営に重々の不都合があるので、イタケーラ組合員間に組織を脱退すべきと決議されるに至り、安田氏と協議の結果、安田氏はみずほ植民地代表の玉井氏と二人で組織を脱退して、市場内にその場所を整備して、委託販売を始めた時点の一九三六年一月九日組織脱退の宣告をしたのであった。他地方の生産者も次々とコチア組合を止めて安田氏のもとに出荷する様になった。時期的にそのような頃からコロニアでの養鶏が増えてきたのであるが、当然、卵の販売と飼料の配給は安田氏の務めであった。他の地方でも養鶏が始められるに至り、『養鶏を始めるにはイタケーラの組合に入会せねぱ!』と言われるような状態までに成ったのであった。それが一九三七年の頃である。そこで安田氏の発案により『イタケーラ組合の組織を現況に適合した組織に変えては!』との事で、領事館の勧業部の指導の下に数ヶ月を費やしての研鑚の結果、地域はイタケーラ地区内と定められていたのを、全シンツロン・ベルデ地域からコチア郡、ジュケリー郡、モジ郡を除いた地域と定め、名称を『サンパウロ市郊外産業組合』と改定することに決定したのであった。かくして一九三七年七月十八日、臨時総会を開催し総ての事務処理を終え『スブル・バーナ』の俗称で活躍を始めたのであった。そして、その時点で安田氏は組合の販売部主任理事として、初めて組合の組織の中に入ることになったのであった。
 かくしてイタケーラ組合の発展的解消に依って始まったスブルバーナ組合は、当時のサンパウロ市場に於ける養鶏部門の一〇〇%を握っていた事もあって、非常に順調に育って行ったのであったが、一九四〇年に至って会計に五〇コントスの損失が有ることが発表され又理事の中に不正が発覚しそして役員の改選期でもあり、その他種々の問題が現れ、ついに二、三の人を残して殆どの人が脱退したのであった目みずほ植民地では全員脱退したのである。かくしてスブルバーナ組合を脱退した人達が集まり、協議を重ねた結果運営方式は産業組合の様式と成し、組織は株式会社として発足することに決定し、名称を『カーザ朝日』として、ルア・イタプーラ・ミランダの一角に場所を得て運営を始めたのであった。その時点でのサンパウロ州に於ける養鶏家の殆どが、その生産する卵の販売と飼料の購入はカーザ朝日に移った為と、めざましく増えて来る養鶏業者の殆どがカーザ朝日に集まって来るのでイタプーラ・ミランダの本部は狭くなったので、養鶏の飼料の配合貯蔵所と肥料の倉庫の場所をイピランガ地区に設けたのであった。その土地家屋が格安であったので知らずに買い取ったのであったが、二年続いての大洪水のために在庫の飼料、肥料の全部と設備を烏有に帰し、経済的に大打撃を受け遂に解散せざるを得なかったのである。その後のスブルバーナ組合はその経宮陣に人を得ず、又組合員も増える事なく幹部に大きな負担を残して、これも解散せざるを得ない状態となったのである。

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 それら二グループの農業者は各自の立場から、スール・ブラジル組合とコチア組合のどちらかを選択して入会し生産を続けて行ったのである。そして其の直後から養鶏の異常なる発展期に入ったのである。但し『現代養鶏発祥の地』であるイタケーラ植民地では養鶏の全盛期はすでに終わり、その余力で永年作物の桃栽培に移りつつ在った時期である。コチア組合にしても又スール・ブラジル組合にしても、共に組合員の自然増加と言う二つの恵まれたチャンスに依ってその後の発展は約束されたのである。それは四十年代後半期に入ったばかりの頃であるから、『終戦』と言う世紀的の変革期も共に影響したのでも在るのか!とも考えられる。
 これは表題とは外れた問題であるが当事者としての反省である。何故、彼の時スブルバーナ組合の再建を模索し、中央会を『柱』として全国の農業者が一致団結して産業組合の『理念』を再確認して前進する事を考えなかったのか?!五十年前に曲道を正して自然律の示す道を進んでいたなら、今日の数倍の発展が見られたであろう農業者社会の事を偲び、老いたる当事者として慙愧に堪えない。
 若い農業者の人達にその轍を踏まざる事を願って結びとする。


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