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イタケーラ植民地
     対談・随筆など  (最終更新日 : 2004/12/03)
対談:「イタケーラの桃について」

対談:「イタケーラの桃について」 (2004/12/03)
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 イタケーラ植民地が出来たのは一九二五年であるが、一九三〇年には先駆者が少しずつではあったが桃を植えだしていた。その頃桃を栽培していた地帯はどこにも無く桃栽培のハシリであった。一九三三年に日本から桃栽培を目的として渡伯した吉岡省氏が入植するにおよんで技術的に大きく進歩し、販売面でも先駆的役割を果し名実共にブラジルの桃栽培振興への引き金となった。
 記念誌を発行するにあたり「桃」なくしてイタケーラは語れないと言われ、ここに先駆者として存命中の(一九九四年十一月に八十七歳)吉岡省氏に聞いてみた。

小坂:イタケーラで桃栽培を最初に始めたのは誰ですか?

吉岡:栽培の意図はなかったにしても、一九二七~八年頃にレジストロ植民地から入植された平野氏をはじめ押本氏、松林氏などがムダンサ(移転)するに当たり数本宛の桃苗を持ってきて植えていた。又、二、三のブラジル人も数本宛の桃を植えていた。又少し後れて一九三〇年頃になって乾氏が四十本、又柳生氏、服部氏も同じ年代らしい桃を二十本宛程を植えていた。それに植民地の営農指導者の石橋氏が見本的に数種の桃を少し植えておられた。等である。しかし乾氏の四十本にしても成木になるのをのを待たずに枇杷に植え変えられ、柳生氏もその後しばらくは増されず、又服部氏も品種が雑然としていた上に土地が低地で桃の適地では無かったために葡萄に変えられる等の紆余曲折を経て、本格的な栽培に入ったのは、池森氏の五十本、安田乙末氏の二十五本、それに自分の四百八十五本が植付けられた一九三五年がイタケーラ植民地の本格的桃栽培の始まりだと言えるのではなかろうか。

小坂:最初に植えられた種類は、どんな種類でしたか?

吉岡:乾氏の植えて居られたものは、マラッカトン・ブランコ(通称ソルタ・カローサのブランコ)とシャットと呼ばれたもので、日本では『ばん桃』と呼んでいた。柳生氏のものは、当時としては無名のものであったが平野氏から出たものと共に市場では暫くブランコ・ヅールと呼ばれていたが、衆知の通り「桃祭」に際して柳生氏のものを『ペロラ・デ・イタケーラ』と命名され、平野氏から出たものを『沢辺』と命名されたのであった。池森氏、安田氏のものは全部『マラカットン・ブランコ』通称『離核のブランコ」と呼ばれたものであった。当時日本人の苗木商はモシ・ダス・クルーゼスの本田氏一人で、その年の桃苗は池森氏と安田氏の注文だけで一本も余分がないとの事であったので随分探してブラジル人の苗木商から四種類四百八十五本の桃苗を買ったのであったが、それが全部注文しない『シャット』であった事は四年後に判ったのであったが、全くガッカリした。随分横道に入ったが、後進者には『苗木は商人からは買わない様』折に触れ話したのであった。

小坂:一九三三年頃イタケーラ以外で桃を栽培されて居ましたか?

吉岡:モジ・ダス・クルーゼスの振旗農場に四十本の八年生の桃があった。品種は俗名『離核のブランコ』であった。市場には出荷された事は無いとのことであった。又スザノ市郊外で、元降旗農場で働いた事のある吉田兵太郎氏が自分と前後してマラッカトン・ベルメーリョを四5五十本種植えたとの事であったが、その土地が非常に不便な山の中であった事と品種も良くなかったので、育利なバタクの栽培に移り桃は市場に現れる事はなかった。又同じくスザノで、いちご栽培を本業とされて居た農学校を卒えた萩原氏は十本種のマラッカトン・ベルメーリョを植えているとの事であったが、時にいちごを売りに行く汽車で同席して種々桃の話を聴いたのでは、やはり低地であった為本格的な収穫までには行かなかったとの事であった。
これは営利栽培とは異なるにしても、当時サンロッケ市郊外でカンピーナス農事試験場の分場として温帯果樹の試験を行なっていた、たしか一九三〇年の開園であったと思う。桃は十五種三十本ほどのものが植えられていた。
これは、小坂氏の設問から外れるが、十五種の中にイタリア系の品種でキンゼ・デ・マルソ(即ち三月十五日)と言って二月の終わり頃から三月に入って収穫に入る品種があった。自分はそれを労力の配分の上から三〇〇本植えた、それが後のロザード・デ・イタケーラの生まれた片方の母樹である。

小坂:桃がサンパウロ市場に入ったのはいつ頃ですか?

吉岡:前記の様に二本三本の自家用の桃は殆どのシャーカラには植えてあったと考えられる。それをブラジル人の家庭では青いものを採ってペセガーダとして用いていたのであるが、その余りを市場に出したのである。勿論その量はごく僅かであった。
当時のブラジルでは、我々の様な桃は、毎年二月頃になってアルゼンチンから夏の果物として葡萄と梨を主体にしてごく僅かの桃が輸入されていた。船は果物輸送の専用冷蔵船であった。それで吾々の袋を掛けた「桃」が市場に現れブラジル人を驚かせたのは一九四〇年である。これは一九三五年に植えられた池森、安田、吉岡の五百六十五本の五年目の収穫である。当然小粒であったが、アルゼンチンのような桃はブラジルでは出来ないと思っていたのに加えて、その季節が何ヶ月も早いので驚いたのであろう。一九三九年には少しは出荷したのであったが量が少なかったので余り目立たなかったのであろう。
この事も又小坂氏の設問の枠外になるが、昔のブラジル人の殆どは『青いペセガーダ』を知っていた事を考えると、栽培とは言えないまでも一本二本は随分広い範囲に「桃」は育っていたと考えられる。

小坂:サンパウロの桃は何処から来たのですか?

吉岡:ブラジルに於ける温帯果樹研究家の大家である衆知のオルランド博士の北米留学中、カリフォルニア大学で「温帯果樹と気候の関係」を専攻される事二年間、そしてブラジルの気候に適するはずとして撰れたる二十五種の桃を始めとしてアルゼンチンのもの、リオ・グランデのもの、それに日本のもの八種を含め九十種程の中に只の一種も育ったものはなかった。『スーベル』と命名され北米の品種とされている物は一九三四年モジの本田氏の育てた苗木の(即ち池森、安田両氏の苗木と同年のものである)台木、即ち実生から育ったものである。又、ジューヨにしても詳しい事情は聞いていないが、やはりサンパウロ近郊での「実生」から育ったものである事は判明している。以上のような事実を踏まえて考えた時、先ず年代的に日本移民以前のもので有る事は考えられる。それで欧州移民が永い間に何千本かの苗木を持って来た中で自然淘汰されて生き残ったものが現在吾々の目の前に育っていると言うことではなかろうか。
レジストロ植民地の場合にしても、古い人の話を聞くと、彼の青年時代には休日になると何年も古いポーランド人の植民地によく遊びに行ったとの事であったが、桃の季節になるとよくおいしい桃を食べさせてくれ、帰りには家族にと又沢山貰って来た、との事であった。陸の孤島的存在であった彼の地にブラジル国内の他の地方から持ち込んだとは考えられない。おそらくポーランドの母国からのものである可能性が強い。それから三人の人達がレジストロから持ってきた何本かの桃が、全部大同小異ながら同じ系統のものであった事は記録して置くべき事項であると思う。
以上の如く、総ては自分の推察であって確定的の答えが出来ないことを遺憾とします。

小坂:イタケーラ植民地の桃栽培は、どのようにして始まりましたか?

吉岡:冒頭私事に触れるので恐縮ですが、未知の人であったが日伯協会を経て連絡のあった岡田一美氏が託送荷物を受取りに船まで来られ、その誘いを受けてイタケーラまで来たのであったが、イタケーラ駅を出てすぐの所で指頭大の「実」が沢山成っている桃らしい木を目にしたのであるが、想像外の場所であるので「桃」であるとの確信がもてず岡田氏に聞いても桃であるかどうか知らない、との事で、そばに居たブラジル人に聞くと『それはペセゴである』と言われ、辞書に依ってそれは正しく『桃』である事を知りしばらくは言葉も出ないほどの驚きであった。二~三日後には桃の好む土地を探しての果てし無き旅に出るはずの予定を変更して、まず此の地帯を視察してみる事に決め岡田氏に話した。そして知る由もなかった此のイタケーラ植民地を教えられ、翌日は植民地に案内されて乾氏、服部氏の本格的に植えられた桃を目にし、又翌日は石橋氏を訪問して、本数は少ないにしても昨日の乾氏の桃とは対照的に此の土地に適しない品種もある事を知る事が出来た。かくして旬日を経ずして此の地を『墳墓の地』と定め、幾多の紆余曲折はあったにしても一九三五年池森、安田の両氏と共に第一回目の桃を植える事が出来た。一九三七年には自分で育成した苗二百本の黄桃を植えた。その年には池田宗五郎氏に山岸又四郎氏なども何本か宛の黄桃を植えられたと思う。
桃栽培発展の次の段階であるが、一九三八年になると日本から帰伯した安田安兵衛氏、またノロエステの奥地から出て来た愚妻の兄の沢田の家族などから営農の相談を受けたので、両人共に『桃栽培』を主にした営農を奨めたのであった。技術指導と苗木の提供の責任を自分が持つことで両人共に納得した。その時点では加工用の黄桃を五〇%に生食用の沢辺種を五〇%植える事を最も安全な桃栽培である、と言う見通しは確定していたので二人には黄桃二百本に沢辺種二百本と各々四百本ずつを植えさせた。そして、翌年一九三九年から植民地では養鶏の余力を永年作物の桃栽培へと移られる人が現れ始めた。自分のその時点での状況(一九四〇年)は、初期の計画通り年間四十万枚の袋を掛けるだけの本数の植付けは終わった。そこで、今後の植民地の動向も予測して良心的な桃苗を育てることを始めた。
一九四三年は植付け第一回の桃は八年生である。常識的には成木に成ったのである。当然生産量も増え質も良くなった。自分の場合でもその年の収穫は前記の通り植えたはずのないシャット(ばん桃)であったが、味は良く粒も日本のものより大きくて市場の売れ行きも良くて助かった。その頃の或る日、市場の中で知らないブラジル人から『桃の季節が来ましたねえ』と話しかけられ、桃がブラジルの『季節の果物として居ついた』事を知り感無量であったことを思い出す。その頃には植民地の養鶏は最盛期に入りつつあった。それで早く始めた人はその余力を永年作物の桃に回す人が増えてきた。かくして一九四九年の頃には殆どの人が桃を植えるに至り第一回の『桃祭』を開催する事になり、ブラジル人から『桃の里』とまで言われる様な植民地に育った。収穫全盛期に入ると、外の人達から「植民地に入ると路を歩いていても桃の匂いがする」とまで言われたのであった。それ程桃が植えられていたのであった。全盛期の加工用の桃、レイ・デ・コンセルバの工場に渡した植民地の全量は一八五〇トンであった。生食用の桃は二五〇〇トンを超したのではないかと思う。加工用の桃については、サンパウロ州全体の記録が有るのだが、アチバイア地帯にしても、又モジ・ダス・クルーゼス地帯にしてもその全生産量は遂にこの植民地を超す事はなかった。

小坂:最後に、今後桃栽培を志す人にお伝えしたいことは有りますか?

吉岡:此の植民地は土地が古くなったから桃は育たないと言う人に申し上げたい。『土』と共に生きる百姓には『熟田』とか『熟土』と言う言葉はあるが、『古地』と言う言葉は無い。何故今頃になって有機農業か、何故、お祖父様から教えられたように『土』を育ててゃなかったか
自分が現在北米種とブラジル種との交配に依って得た四十八本の九年目の桃の植えてある土地は、既に一九三五年の第一回に桃を植えた場所で今回で既に三回目であるにもかかわらず、その生育状態は非常に良好である。現に池森氏の畑にしても前記の如く一九三五年に桃栽培を始められた土地である、にも拘わらず立派な桃を収穫して居られる。此の現実を前にして、何を以て「イタケーラの土地は古いから桃は出来ない」と言えるか、それは怠け者のたわ言である。

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後継者の若い皆様、先ず『土』を育てる百姓になって下さい。総ての植民者を慈しみ育ててくれたイタケーラの大自然に感謝の祈りを込め今後の皆様にお願いします。


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