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イタケーラ植民地
     対談・随筆など  (最終更新日 : 2004/12/03)
エピソード [画像を表示]

エピソード (2004/12/03)  一九九三年四月、コロニアの歴史について、再び聞くべく古老に集まってもらい、イタケーラ・コロニアの歴史について、思い出して貰った。
 集まった人達は吉岡省、前田戌八郎、渡井佳蔵。夕立の降る日、前田家にて。


◆コロニヤの会館を建てる時、資金面で非常に役に立った、今の州立小学校のある土地二アルケールについて。◆

 この土地は道向こうに学校のある二アルケールと、今サンヨウ工場のある二アルケールの計四アルケールあって、山本という人が持っていたが、この人は日本に住んでいて委任状をサンパウロ在住の平田某に渡して、日本へ帰って行った。
 或る年、山本からこの土地を売りたいとの手紙が届き、平田が仲に入り、今のサンヨウ側の土地は代理人松本圭一に譲与。学校のある土地は売りたいとの話であった。
 その話を聞いた植民地の有志は、力のある人達に話しをして土地代金を集めた。有志の数は十一人。この土地は植民地内の子弟の教育の為に役立たせるのが目的で、発起人はこの十一人に呼びかげた。
 お金を集めて松本圭一に払ったのが、一九五五年九月十八日。
 一九六一年にブラジル学校が移転する時、この土地一万米を学校用に寄付した。一時会館をあの高い所に建てる為に地ならしをしたが、あそこでは土地が狭いとのことで、会館は現在の土地(ルアミサワ二〇〇番)に建てた。一九五四年、六千米はコペラチーバ・ミスタ・デ・イタケーラに売却。その後残りは会館を建てる時、会館建設資金にする為に池森敏に買ってもらった。
 十一人は池森敏に買って貰った金を共済会に寄付をした。寄付金で会館を建て会館の道向一」うの土地代金にした。そして服部秀吉より会鎗の道向こうの土地を分けて貰って、広くした。あの高い所を地ならしをする時、或る人は毎日の様にトラトール(トラクター)の番をしたことを書き残したい。
 当植民地の発展は数多くの献身的な人達によって支えられている。


◆カミニョン(トラック)◆

 一九二七年に中村袈裟吉がトマトで大当たりしてカミニョンを買ったのが始まり。その後、岡上友吉がカミニョンを買って(一九三四年型)専門に野菜を運んだ。その後前田戌八郎が後を継いでいる。
 サルバドールが一台持ってチジョーロ(レンガ)を運ぷかたわら野菜などをメルカード迄運んでいた。
 道路はサンミゲールを通って、リオ街道に出て、メルカードヘ向かったが、メルカードヘ行く迄、シナル(信号)がなかった。アスファルトはサンパウロ市内のパウリスタ通りやサンジョアン通りで、他の主な道は石畳であった。

トラック.jpg


◆イタケーラ植民地は◆

 土地会社カルモの支配人ジョオネ(カルモの地主の娘婿)の温情によって、支えられた。土地代が払えない人も沢山居たが、支払いを幾度も待ってくれた。彼は北米の大学を出た人で、北米に居る時、日本人植民地の成績のよいことに着目。サンパウロには日本人が沢山居るから、日本人植民地を作れば、必ず成功すると信じ、日本人を募集した。我々は植民地の恩人を忘れてはならない。


◆大根がナーボになった理由◆

 一九三〇年頃自家用に作った聖護院大根をメルカードに売りに行った岡上与三助にめずらしがったブラジル人が大きな蕪(ナーボ)だと云って買って行った。その時迄ポ語の名を知らなかった岡上は次からナーボだと云って売った。
それから長い大根もナーボで通用し今日に及んでいる。
大根の本当のポ語名はラバーノである。


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