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イタケーラ植民地
     七十周年記念誌について  (最終更新日 : 2004/12/03)
七十年誌発刊にあたり

七十年誌発刊にあたり (2004/12/03)
吉岡省
 一九三三年九月二十八日、ブラジル上陸の第一歩を予期していなかったイタケーラの地に足を踏み入れてから六十幾年の今日迄、桃に曳かれて当コロニアに在住させて頂いた者として一筆述べさせて頂きます。
 筆を進めるに当たり、先ず編輯当事者としての小坂氏に対して最大の感謝の意を捧げたい思います。計画はされたが出来上がらなかった五十年史、資料の収集は始められたが完成に至らなかった六十年史と、今までに何一つまとまった資料の無い現状下で遂にそれを完成させられた小坂氏の苦心と努力、そして大変な時間を費やしての本誌です。只『有難う』では尽くせないと思います。
 さて、土地会社の当時の支配人であったジョーネ氏は北米で勉学中、都市郊外の各所で日本人の野菜・いちご等の栽培現状をつぶさに視られて、帰国後縁あって膨大なるイタケーラの土地所有者の長女と結婚されたのである。かくしてイタケーラの土地を市街地計画だけで無く適当なる場所に日本人を主体にしての植民地を造って見たいとのかねてからの夢を実現されたのがこの植民地である。これは或る日ジョーネ氏から詳しく聴かされた話である。当植民は会社の宣伝の如く、その子弟を聖市の上級学校に通学させ得る位置に在ったので戦前入植のほとんどの人は子弟の教育を目的に入植されたのであった。
 又当時の人達のほとんどが日本で上級学校出のインテリであったためと思うが、入植翌年には天長節の祝賀式を行なわれ、次年度の昭和二年の四月二十九日には天長節祝賀式の後初めての運動会を催した、との事である。運動会については自分の着伯の一九三三年でも未だ他の日本人集団では始めている所は無かったと思う。
 子弟教育についても、日本語教育は当然として後刻上級学校への進学を考えての私立公認グルーポ・エスコーラを開校したのも日本人集団では初めてであった。
 又農業面でもコチアのバタタ、モジ・ダス・クルーゼスのバタタドーセとレポーリョ以外の野菜、果樹等、又養鶏に至るまでで産業として成立する迄の途を開いたのは此の植民地であった。桃祭りにしても、当時の農務局のカーザ・ラボーラ及びシンツロン・ベルデの責任者であったドットール・リオンシオ氏の発案であったにしても、イタケーラから始まって今日の如く全国的に一年を通して開かれるまでになった。
 又農村電化についても、当時のライト社の理事者幹部の特別の好意であったとしても、ブラジルでの農村電化のきっかけであった。以上のような成果は植民者全員、勿論他国人入植者も含めて事ある毎に誠心誠意一致団結協力して事に当たったからだと思います。
 此のコロニアに産まれ育てられ教育を受け今日に至った若い皆様に対しての老一世のお願いは、「ナタール(故郷)の地を忘れる事なく、皆様の祖国ブラジルの建国の精神を頭に、愛国の『誠』を胸に『一致団結相互協力』の比のコロニアの伝統の『輪』をブラジル全国に広げて、世界平和の盟主国としてのブラジルに育てあげて頂きたい」と、七十年のコロニアの歴史をふまえて、この貴重なる誌上を借りお願い致す次第であります。

 こよなくも 愛ほしむなる ブラジルの
 広がる緑りを こい願いつつ


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