ブラジルに根付く民謡の心 (2005/04/01)
九八年六月十二日から十四日までの三日間にわたってプレジデンテ・プルデンテで行われた「第十一回日本民謡ブラジル文化使節団」の記念公演。同地で初めての公演実現までの背景には、約二十年の歳月と日伯関係者の並み並みならぬ思いと奔走があった。日系社会の日本語教育と同じく、後継者への伝承は難しい現状ではあるがプルデンテでは「日本人の心」としての民謡が少しずつ育ちつつある。ブラジル民謡の発展に尽くす人々の姿を三回にわたって紹介する。
(1)
ブラジル郷土民謡協会のプ・プルデンテ支部長を務める小野忠義さん(七二、熊本県出身)は、サンパウロから約五百km離れた同地より婦人会員五人とともに使節団一行を出迎え、一行が帰国するまでの三日間、公演を成功させるために動き回った。 一九二五年、家族と一緒に三歳で渡伯した小野さんは、プロミッソンに入植。家族の手伝いとして九歳からカフェ栽培地で働いた。 「学校にはほとんど行ってませんよ」と当時を振り返る。プルデンテに移ったのは終戦間もなくのこと。唯一の楽しみは浪花節を聞くことだったという。 そんな中で、小野さんが民謡に興味を示したのは、七七年に藤尾隆造氏率いる初めての民謡使節団がブラジルに来たことを新聞で読んだのがきっかけだった。 その後、プルデンテ民謡協会を八五年に正式に設立。当時二十五人で始めた協会から二年後にはサンパウロ大会の優勝者を出すなど、着々と実力を付けていった。九〇年に日本郷土民謡協会の創立三十周年式典参加のため訪日した小野さんは、ブラジルの地方公演をぜひ実現させたいと藤尾氏に陳情。意気に感じた藤尾氏は、サンパウロだけでの公演ではブラジルにおける民謡普及につながらないとして、快く賛同した。しかし、同年十一月に予定されていた地方公演は、大統領選挙のずれこみなどが原因となって見送られ、結局、今回のプルデンテ公演の実現までに八年の月日を費やした。その間、小野さんたち民謡協会のメンバーは「プルデンテにも日本からの使節団を呼べるぐらいに民謡のレベルをあげなければ」と組織の強化に励んできた。 民謡との出会いから数えると、二十一年目にしてようやく使節団を迎えることができた小野さんは「日本の生の民謡をこの地で聞いてもらうことが何よりの念願でした」と顔をほころばせる。反面、会員の高齢化に伴う会の活性化を今後どのようにしていくかなど課題も大きいと語る。 「五年に一回ぐらい使節団に来てもらえれば、ここでの民謡の熱は甦ります。日本の文化としての民謡を続けることで、ブラジル社会にも貢献できると思います。民謡を通して日本人の心を持ったブラジル人の育成を行うことが、先人に対するご恩返しだと考えます」 民謡に込められた思いが、日本とブラジルの関係をつないでいる。
(2)
「唄うことが何より好きです」--。 こう語るのは、平田仁広さん(二〇、三世)。高齢者会員の多いプルデンテ民謡協会の中でもアイドル的存在となっている。誰にでも気軽に話しかける明るい性格が周りの共感を呼んでいるが、人気がある背景には、民謡の実力にも裏付けされている。 昨年八月の全伯民謡大会で参加二百四十人中、一位となり、ブラジル代表として、同十月東京・日本武道館での舞台を踏んだ。さらに、今年五月にプルデンテで開催されたサンパウロ州大会でグランプリに輝き、十二月に再び日本に行けることを楽しみにしているという。 平田さんはアンシャリーアに生まれ、二歳からプルデンテで移り住んでいる。元々、カラオケが好きだった平田さんはその素質を見出され、十五歳の時に民謡関係者から入会の勧誘を受けた。素直な性格と唄への思い入れが、実力向上の早道となった。また武道館への出場が、好奇心にさらなる拍車をかけた。 「去年、初めて日本に行き、武道館で『箱根馬子唄』を唄った時、たくさんの人から喜んでもらい、その迫力に圧倒されました」と平田さんは数知れない観客の前で唄うことの魅力にとりつかれたようだ。 平田さんが現在聞き覚えている民謡は、約二十曲。その中でも特に「黒田節」の音色が気に入っているという。民謡は日本語の勉強にもなると話す平田さんだが、自分でもブラジル人に教えるなど、同地での普及の一環も担っている。 カラオケと民謡の違いについて平田さんは「声の出し方が全然違う。民謡は自分たちの祖先の唄でもあり、日本とブラジルの文化をつなぐ意味でも一生懸命続けていきたい」と語り、プルデンテの若手民謡歌手第一人者としての意気込みを見せる。 六月十二日から三日間にわたってプルデンテで開催された第十一回日本民謡ブラジル文化使節団の記念公演への応援のため、サンパウロから駆け付けた斎藤マリコさん(二一、三世)も平田さんと同じくこれからのブラジル民謡界を担っていく一人だ。 斎藤さんはサンパウロ大学の日本文化学科の四年生。民謡も唄うが尺八を十二歳の時から始め、今ではブラジル郷土民謡協会の一員として年に数回、「鳴り物」の応援のため地方を周っているという。 平田さんとは、幼い頃からの付き合い。二人は年齢が近いこともあって仲が良く、練習でも息はぴったりと合っている。記念公演では、使節団に混じって尺八の共演を行い、会場からも暖かい声援がおくられた。 日本文化に興味があるという斎藤さんは「近い将来、日本に留学し、民謡を通して日本文化をもっと学びたい」と目を輝かせる。 伝統文化である民謡を引き継ぐうえで、協会側の二人に対する期待も大きい。「宝」ともいえる若手を育てていくことが協会の願いでもある。
(3)
昨年、日本郷土民謡協会から公認民謡教師の免除が降りたという山本愛子さん(七八、二世)。小野忠義ブラジル郷土民謡協会プ・プルデンテ支部長とともに同地の普及に尽くしてきた。今回の使節団訪問の際には、団員の宿泊のため自宅を開放。あえて、裏方役に徹してきた。 山本さんは戦前移住者の多いアルバレス・マッシャードで七人姉妹の長女として、一九二〇年に生まれた。父親の唄好きの影響を受けて、五歳くらいから民謡を始め、子供ながらに日本に対する憧憬を強めていった。しかし、現実は厳しく幼い妹たちの面倒やカフェ、ミーリョ、綿栽培などの手伝いに明け暮れた。そんな折り、太平洋戦争が勃発。とても日本に帰れるどころではなかった。 「父が私を立派な民謡歌手にすると、一時期日本に帰るという決心もしたそうですが、結局は実現しませんでした」(山本さん) 七〇年代初期、農業をやめてサンパウロに出てきた山本さんは、ビラ・マリアーナ地区で美容師として働いた。その際、日本から来ていた民謡の師匠、故・三好美和さんに付いて改めて民謡を勉強。それが高じて、サンパウロで民謡協会も発足させた。その後、プルデンテに移った山本さんは同地での民謡大会で優勝したり、サンパ ウロ大会でのソロカバナ地域代表として入賞するなど着々と実力を上げていった。 九一年七月、サンパウロ大会で優勝した山本さんを初めて見た民謡使節団の藤尾隆造氏は、「日本の大会にぜひ来てみてください」と激励。同年十月、山本さんが心に想い続けてきた日本行きが実現した。武道館の舞台に立った山本さんは、「正調刈干し切り唄」を熱唱、人生最良の日を味わった。 九一年の民謡指導免除に続き、昨年念願の公認教師免除を取得した山本さんは現在、プルデンテで週一回、約二十人ほどの会員を相手に教えている。その中で一番の悩みは、実際に三味線、尺八を吹ける人材がいないこと。年二回ほどサンパウロの郷土民謡協会から「鳴り物」を持参してもらっての稽古も行っているが、普段はカラオケが主体だという。 今回、日本からの民謡使節団を迎えるにあたって、特別にブラジル郷土民謡協会から斎藤ミエ副会長、北原民江指導員、斎藤マリコさん三人に来てもらい、生演奏による稽古も行われた。そして山本さんたちの一番の願いは、「日本の先生方に私たちの民謡を実際に見聞きしてもらうこと」だった。 今回、初めてのプルデンテでの民謡記念公演開催が実現したことについて山本さんは「今が一番幸せです。民謡を続けてやってきたおかげだと思います。道が開けたのは藤尾さんに会えたことが何より大きく、この気持ちを忘れず、今後も交流を行っていきたいと思います」と語り、喜びを隠さない。 後継者育成の問題などこれからの課題も多いが「一生、民謡で生きていく」という山本さんの言葉が次世代にも少しずつだが、伝わりつつある。(一九九八年七月サンパウロ新聞掲載)
|