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マツモトコージ苑
     1998年  (最終更新日 : 2005/06/20)
ペレイラ・バレット(チエテ移住地)の今 [全画像を表示]

ペレイラ・バレット(チエテ移住地)の今 (2005/04/06)  一九九八年、入植七十周年を迎えたチエテ移住地。現在ペレイラ・バレットに名を変えた同地には今も約四百家族の日系人が在住しているが、コーヒーや綿で栄えたころの面影はない。加えてイーリャ・ソルテイロ、トレス・イルモンなどのダム建設により、水没したノーボ・オリエンテ橋やイタプーラの滝に昔の思いを寄せる人も少なくない。現在、肥沃だった土地は痩せ、牧畜が中心となっているが、新たな転換も迫られている。今もなお、移住地への思いを持ち続ける人々を三回にわたって紹介する。

(1)

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現在のチエテ河
 一九三四年、八歳で家族とともに渡伯した馬生巌(ばしょう・いわお)さん(七二、岡山県出身)は、入植以来ずっとこの地を見続けてきた。現在も二十五頭の乳牛を一人で飼っているためか、顔は日に焼けて黒い。深い皺(しわ)が年輪となって刻まれている。
 ブラジル拓殖組合(ブラ拓)のコーヒーの担当者としてチエテに入ったという馬生さんの父親は、翌三十五年、価格が伸び悩んでいたコーヒーに見切りをつけ、綿栽培への転換を支配人に陳情。移住地での綿作りのきっかけになるとともに、ブラ拓が立ち直る要因ともなった。移住地で生産された綿は、アンドラジーナ、ミランドポリス、バル・パライゾなどの工場で原綿にされ、海外へと輸出。文字通り「金のなる木」としてもてはやされた。
 終戦後、景気が落ち始めてから七十年初期まで綿栽培を続けた馬生さんは、害虫の消毒剤の研究に励んだこともあって「綿作りには楽しみがありましたよ」と当時を振り返る。
 ブラジルの有識関係者と面識があったことに加えて、ダム建設に伴う掘り割り工事のためCESP(サンパウロ州電力公社)が馬生さんの土地の一部を買い上げたことが移住地に残る大きな原因となったようだ。金融機関からの融資も労せず受けることができた馬生さんはその後、連作の利かない綿栽培から牧畜に変更。残った三十四アルケールの土地に乳牛や豚を飼うとともに、とうもろこしなどの雑作を行ってきた。
 現在も牧畜に携わる馬生さんは乳牛の品種改良などにより、生産の効率化も行っているが、「今後、牧畜だけに頼るのも難しくなってきた」と時代の流れを実感しているようだ。
 一九七二年に帰化した馬生さんは自らの経験から、ブラジル社会との接触が大切だと強調する。「ペレイラ・バレットからもようやく日系の市長が出るようになった。一世が少なくなる中で、これから次世代が伸びていくには、ブラジルの政治に携わっていかないと希望は薄い。私たちが日本から来てブラジルにお世話になったように今度はブラジルにお返しをする必要がある」
 ダムの完成により、ノーボ・オリエンテの橋が沈んだ現在、四キロにおよぶ新大橋ができたことにより、交通の便は確かに良くなった。「生活は今の方が少し楽になった」と笑う馬生さんだが、子供には一切、お金を残さないと語る。
 「財産は自分で作るもの」
 未だ現役の馬生さんは、自分の哲学を今も貫き通している。 

(2)

 現在、サンパウロ市内のビラ・アントニエッタ地区に在住する加藤イツ子さん(七〇、鹿児島県出身)。七歳から十七歳までの多感な時をチエテ移住地で暮らした。一世の減少が顕著な同地で、「各地から人を呼んで盛大に行う入植祭は、今回で終わってしまうのでは」と懸念してチエテ郷土会(矢野久会長)が用意したバスに乗り込んだ。
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ダムができる前のチエテ周辺の風景

 一九三五年、加藤さんが入植した当時、コーヒー栽培から綿作へと切り替えられた直後で、コーヒーの木を燃やす光景があちらこちらで見られたという。移住地の中心地ウニオン地区に入った加藤さん家族だが、土地の疲弊が激しくなるとともにマラリア、アメーバ赤痢などの病気も蔓延しだした。三年後に奥地のラゼアードに移ったが、間もなく母親が亡くなり、父親も病気で畑仕事ができなくなった。原始林が生い茂るラゼアードでは綿栽培に必要な日光が思うように当たらず、借金もかさむなど長女だった加藤さんに更に追い打ちをかけた。
 「ブラジルには道にお金が落ちていると聞いて妹たちと本気で信じていました。それがここに来てみるとまったく条件違いもいいところ。ただ、私たちの中にも日本政府の宣伝に乗って、ブラジルで一旗上げて帰るという欲があったのも確かですね」
 農業ができないと悟った加藤さんはその後、妹たちとともにブラ拓が経営していた製糸工場で働いた。第二次大戦中、日本の敗戦色が濃くなる中、皮肉にもブラジルからアメリカに輸出していた生糸の景気が良く、加藤さんたちの生活も少しは潤った。しかし、終戦により工場は閉鎖。再び苦しい状況が続いた。
 チエテの生活に見切りを付けた加藤さんの家族は、サン・カルロスに移住。トマト栽培などを行なったが暮らし向きは良くはならない。意を決した加藤さんは単身サンパウロに出て、美容師として働くこと七年。独立して自分の店を持ち、家族を呼び寄せた。 
 その間に結婚もした加藤さんだが、夫が「勝ち組」だったことで苦労も絶えなかった。警察から家宅捜査をされた上、最愛の夫は牢獄に八年間入れられた。
 「毎日、デマが流れましたよ。単に勝った負けたの抗争だけではなく、同じ日本の同胞でありながら警察に密告し、裏でお金をもらっている人もいました。ブラジル上層部とつながりのあった人は、ヤミで土地を売ったりと混乱を利用して儲けていました。その被害で自殺者も出るなど狂気の時代でしたね」
 祖父が、西郷隆盛の家来、父親が海軍の軍人だった影響もあり、加藤さん自身日本が戦争に負けるとは思ってもみなかったという。
 「父は『日本が負けるはずがない。神がついている。もし、負けたら生きている価値はない』とよく言っていました。今から考えれば技術力、戦闘力でとてもアメリカには対抗できないとすぐに分かりますが、当時、そんなことは考えもしませんでした」
 五年ごとにペレイラ・バレットに足を運んでいる加藤さんは、今なお移住地での暮らしが脳裏をよぎることが多い。
 「忘れたくても忘れられません。もうほとんど知り合いもいなくなったけれど、ここに帰ってくるのは、当時のことをいつまでも覚えておきたいためです。昔のことを考えると、日本人移民は身体こそ小さいけれど、よく頑張ってきたと思います。チエテの街は日本人無くしては成り立たなかったでしょう」
 現在では、ブラ拓の製糸工場があった場所も、ダム建設に伴う増水で水没し、見ることはできない。しかし、加藤さんの心の中には、今も当時の移住地の生活が深く刻まれている。

(3)

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建設中のノーボ・オリエンテ橋(畠山岩男さん撮影)
 「ダムは自分にとっては要らないもの。土地の肥沃な良い部分が水に浸かり仕事もなくなった」
 こう語るのは、チエテ移住地のノーボ・オリエンテで生まれ育った畠山信一さん(六三、二世)。父親はモジアナ線に入りコーヒー栽培をしていたが、洪水で土地が浸かったために、この地に移住した。
 十人兄弟の長男として生まれた畠山さんは、弟たちの面倒をみる傍ら、生活のための労働力として両親を助けなければならなかった。綿栽培をはじめ、養鶏など当時、誰もがそうしたように身を粉にして働いた。 その後も農業以外に「ありとあらゆる仕事をしてきた」という畠山さんは、今でもガソリン・ポストで働いている。年金生活者になるまであと二年。「まだ、気をぬけない」と寂しそうに笑う。
 畠山さんがブラジル学校に通ったのは小学四年生まで。戦時色が濃くなるとともにブラジル人の態度もあからさまに変わった。
 「とにかく、いじめられたね。試験の時には隣のブラジル人にカンニングされるなど、しょっちゅうだった。それでも夜に隠れて日本語は勉強したよ」
 今でも流暢な日本語を話す畠山さんはブラジル国籍でありながら、敵国のレッテルを張られ続けた。
 
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現在は水面下に沈んだノーボ・オリエンテ橋(畠山岩男さん撮影)
そうした中、畠山さんの興味を引いたのは、叔父の畠山岩男さん(八四、長崎県出身)が撮り続けた移住地の写真だった。父親の弟にあたる岩男さんは今は寝たきりの生活で、畠山さん夫婦が面倒をみているが、移住地で写真館を経営していた。ダムの完成により、今は水面下に沈んだノーボ・オリエンテ橋やイタプーラの滝などのほか、当時の移民祭の賑わいなど克明に記録されている。
 中でも特に思い入れが深いのがノーボ・オリエンテ橋の写真。当時、ブラ拓(ブラジル拓殖組合)を通じて日本政府が七百コントを援助、聖州政府側三百コントを合わせた一千コントスの総工費で建設された巨大なアーチ型の橋は一九三五年、畠山さんが生まれた年に完成した。
 「母は橋の落成式にどうしても行きたかったらしいが、私の出産のために行けなかった」
 それらの思いが畠山さんにはある。八年前にすでに橋は沈んだが、「形だけでも残したい」と徐々に水かさが増える思い出の場所に何度も出かけた末に、百分の一サイズの橋の模型を作り上げた。
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橋の模型を手にする畠山信一さん
 「引越しの度にボロボロになったけれどね」と橋の模型を手にする畠山さんは、照れながらも満足気な表情を見せる。
 現在、畠山さんの家族は元のブラ拓が所持していた土地を借りて住んでおり、家から約五十メートルの距離にダムで増水した川が見える。川幅は約一キロ。周辺の住民が釣りをしたり、牛馬が草を食むなどのんびりした光景が広がる。しかし、畠山さんにとっては思い出の土地を奪われた場所でしかない。
 「以前は、この川幅は一メートルに過ぎなかった。ダムができたために米や野菜ができる良い土地は、みんな水に浸かった。日本に行って帰ってきても(ペレイラ・バレットに)仕事が無いのが悲しい。ここでは裕福な生活はないね」
 未だトレス・イルモンのダムからの電力は発電されていない。土地が無くなった事実が重くのしかかる。
(一九九八年八月サンパウロ新聞掲載)


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