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マツモトコージ苑
     1998年  (最終更新日 : 2005/06/20)
移りゆく日本人町アサイ [全画像を表示]

移りゆく日本人町アサイ (2005/04/06)  一九三二年、ブラジル拓殖組合によって開拓されたトレス・バラス移住地。現在は市街地化され、「アサイ」と名称を変えてから久しい。肥沃な土地を利用し、入植当初はコーヒー生産に沸いた。その後に綿栽培へと切り替えられたが、今では大豆、小麦の生産が主流となっている。市内にある中央区を中心に、十六の地区に日系人八百家族が住んでいるが、日本への出稼ぎなどによる減少で農業を継承する家庭は今や希少となっている。そうした中で、パラナ州の日系人としての誇りは今なお高い。アサイの現在を追ってみた。

(1)

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婦人の集いでは顔のマッサージ講習も
 九八年九月二十六日にアサイ市内のサーマ会館で開催された、パラナ州全体では初めての「婦人の集い」。予想を上回る七百人が参加した。その中の三分の二は農村婦人で、日頃は男性に交じって農業生産活動に従事する忙しい生活の影響からか、少しでも社会の知識を得たいとする集いへの関心の高さがうかがわれた。
 現在、アサイ市内に在住する渡辺ときさん(七五、福島県出身)は、渡伯した翌年の一九三五年に十一歳でトレス・バラス移住地のセブロン地区に入植。三年目にして土地を買い、十年目にしてようやくレンガ作りの家を建てることができたという。
 「当時は山の中には道なんかはなく、大木が転がっていて、歩くだけで大変でした。日本人の家族は、私たちのセッソン(地区)には五十家族くらいしかおらず、その頃はカフェの栽培を行っていましたが、大霜にやられたりと苦労しましたよ」(渡辺さん)
 アサイに来て良かったと語るのは、パラナ州ジャカレジンニョで生まれたという川端はるこさん(七八)。二世だが、今でも日本語の方が分かりやすいという。当時の日本語教育が現在の川端さんを支えているようだ。しかし、一九四一年の日米開戦とともに、日本語は敵国語として禁止された。
 「買い物するにも言葉が分からないので、おおごとだったですよ。ブラジル人が遠慮なく家に入り込んでは、ラジオやら蓄音機やらみんな盗られました」(川端さん)
 終戦の年にトレス・バラス移住地に入った川端さんは、「演芸大会や歌謡大会が行える日本人の多い土地に来て心が和みました」と遠い日の思いを振り返る。女八人、男一人の姉弟の長女として、少女時代から農業を手伝わないと生活できない環境の中で育ってきた川端さんにとって、今回の集いへの参加は、この上ない喜びだったようだ。
 嶋田敏子パラナ日伯文化連合会婦人部長は、婦人の集いの成功の意義を強調する。
 「今までの農村婦人には、畑仕事などを手伝わなければならなかったために、催しがあっても出席できない状態が続いてきました。その意味で出席者の三分の二が農村婦人だということは、大成功だと思います。集いを行うことで、ほかの地域の人たちと会うことの大切さを知ってもらいたかった」と嶋田部長は今後も継続していく意志を示している。
 これまで移住地を支えてきた婦人たちの貢献が改めて知らされた。
 
(2)

 「いやぁ、生まれ故郷というのは、いいもんですね」―。
 こう語るのは現在、アサイ市のカビウナ地区で小麦、大豆、イタリアぶどうの農業生産を続ける熊田照彦さん(六八、福島県出身)。六年前、五十五年ぶりに日本の土を踏んだ。
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熊田照彦さん  
 熊田さんは一九三七年、七歳の時に家族七人と一緒に渡伯。パウリスタ線のサン・マルチンニョ・プラド、バウルーを経て三年目に当時のアサヒランジアの服部農場に入植。六年間、コーヒー栽培に従事した。
 「一番つらかった」という終戦直後の時代。熊田さんが十六歳になった一九四六年、ロンドリーナの警察署まで外国人登録をするために出向いた際、担当官から「日本で生まれたのか」と問われ、「そうだ」と応えると、「キンタ・コルナ(スパイ)」だと言われた。
 「その時は意味が分かりませんでしたが、後にそのことを知った時は何とも言えない気分になりました。ブラジルで人種差別が無いというのは表面だけで、実際にはあったのです」
 勝ち負け抗争にも巻き込まれた。父親が日本で警察官をしていたこともあり、戦争に負けたとの情報を逸早くつかんでいたために、敵国アメリカに物資を送っていたとのデマが飛んだ。
 「弟がサンパウロの歯科大学を卒業した時にも『百姓をやっていて、どこにそんな金があるのか』と疑いの目で見られました」
 そんな時代も五〇年代になってから落ち着き、日本人も移住地内で大手を振って歩けるようになった。
 熊田さんは、これまでの鬱積(うっせき)した思いを跳ね除けるかのように、柔道、剣道などの武道のほか、歌唱、ダンス、果ては料理にまでのめり込んだ。精神修養を目的にする「修養団」に入ったことがさらに熊田さんの心を熱くした。
 質素倹約、一日一杯のご飯という食事を自ら課し、日本語学校の講師として訓話を述べたりもした。また、働くだけが脳ではないとの考えから農村文化を主体にした娯楽の楽しみも伝えた。
 「苦しみの中にも楽しみがあり、もっとも充実した時代でした」
 この時期に現在の昌子夫人とも結ばれた。子宝にも恵まれ、安定した生活を過ごしてきた。
 しかし、コーヒーから綿、さらに小麦・大豆へと永年作物が変わる中で、八〇年代半ばから大型機械の導入と農作物の値段低下により、小農では経営していけない状況が目立ってきた。それに加えてブラジルのインフレ、日本のバブル景気が反映し、日本への就労者が増え始めた。
 「初期の出稼ぎ者は、村の人間から一種の軽蔑の眼差しで見られましたが、日本での高収入がクチコミで伝えられると、徐々にそのことが当たり前のようになりました。しかし、今では日本から帰ってきても農業に戻れるのはごく一部で、ほかに仕事もなく再び日本に行く人も多いのです」
 現在、熊田家では息子二人が農業を継ぎ、長女と三女は昌子夫人の故郷でもある福島県二葉郡の日本人男性と結婚した。
 熊田さんは現在のカビウナ地区での生活を考えた上で、娘たちを日本人と結婚させたことに満足しているようだ。
 「このままでいけば、日本人は減少せざるを得ません。ブラジル人との同化を考えると、別れて生活はしていても娘たちに日本人と一緒になってもらって良かったと思っています」 
 熊田さんの心の中には終戦直後に受けたブラジル人からの扱いが、今も根強く残っているのかもしれない。

(3)

 日本への就労者が増えたと言えど、今なおアサイを支える主な産業は農業が大半を占めている。しかし、今年八月半ばから九月にかけて行われた小麦の収穫では季節外れの大雨の影響で、豊作にもかかわらず、その半分しか売り物にならなかったという。 
 一九三二年、開拓が着手された当初、トレスバラス移住地は中央区を含めた十七の地区に分割され、それぞれ、パルミタル、セボロンやパイネーラなどの植物の名称が付けられた。各地区とも千百アルケール(一アルケールは二・四ヘクタール)ずつの耕地に分けられ、ひと家族に百アルケールが分配された。
 当時は日本人も二千五百家族と現在の三倍を上回り、「日本人町」としての隆盛も高かった。
 入植当初から移住地では、コーヒー栽培が主力で、五〇年代初頭には全盛を迎えた。当時の移住地の写真を見ると、あたり一面にコーヒー畑が広がっていることからも、その繁栄がうかがえる。 
 五三年の大霜により、大被害を受けたが、永年作物が綿に変えられるまでの七五年頃までは、コーヒー栽培が続けられてきた。その頃はすでにコチア産業組合のアサイ支部が創設されており、全伯でも上位を占める生産高を誇ってきた。
 しかし、九四年九月末にコチア産業組合中央会が解散して以来、現在は「インテグラーダ産業組合」と名称を変えて活動を続けている。コチアの解散は生産者に物質的、精神的打撃を与えた。
 アサイでは、通常、組合員が農産物の中から一%の強制積み立てを行うところを二%積み立て、当時の最新設備のサイロを購入した。それが、中央会倒産のために借金の抵当になっている。自分たちのサイロだったにもかかわらず、現在はそれを借りている状態が続いている。
 組合員の一人で、コチア隆盛の時代に中央会の理事も務めたという吉田パウロさん(五三、二世)は「皆で苦労して購入したサイロをもう一度買わなければならないとは情けない」と語るが、今でも組合組織の重要性を強調する。
 「コチアが解散したのは、決して中央会だけの責任ではない。農業融資の枠が少ないうえに、それ以上の高金利。今のブラジルに農業政策はない」(吉田さん)
 さらに吉田さんは、「二世だったらもっと思い切った措置もできたのでは」とコチアの経営権が円滑に二世にバトンタッチできなかったことにも触れる。
 一方で自身が二世ながら、「経営が二世主体になってから、正直さに欠けることもあった」と、組合には所属せずに牧畜業などを行う平野稔さん(六六)のような声もある。
 一世の生産者にとってコチアは、これまで絶対的存在として信じて疑わなかったために、解散後の反動は大きい。前出の熊田照彦さんは、「組合が信じられなくなりました」と今年初めて、組合以外にも生産物を出荷した。
 「一つの時代が終わった」とつぶやく吉田さんだが、厳しい現状の中、「次世代にも農業を続けてほしい」と希望する。
  団結力の強いアサイの日系社会の中でも、新たな転換期を迎えつつある。

(4)

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山梨県出身の小山田夫妻
 「『喧嘩ばかりしている』と友達に話すと、『できるうちが華だよ』と言われました」と笑うのは、アサイ市内で家具店を経営する小山田実さん(八五)と多美江さん(八三)の夫婦。
 親がいとこ同士で、「またいとこ」の関係になる二人は、ともに山梨県富士吉田市の出身者だ。明るい気質が、年齢を感じさせない。
 実さんは現在、約五十年にわたって続けてきた家具業を三男に任せ、悠々自適の生活を送っているが、元はやはり農業生産を行ってきた。
 実さんが渡伯したのは一九二八年、十五歳の時だった。同じ富士吉田の知り合い十一人で構成家族を作り、「神奈川丸」という貨物船で横浜港を出港した。
 当初、アララクアラ線のドゥワルチーナに入植するはずだったが、入耕する一週間前に売却された。そのため、サンパウロ郊外で野菜作りの手伝いを半年ほどしたあと、マリリアの下江耕地に入り、六年間の契約でコーヒー生産に携わった。
 「五年働いたら高校ぐらい入れる金が作れると思ってブラジルに来て、実際、大学でも行けるくらいの金は充分稼げました」
 同じ構成家族でブラジルに来て、一緒に下江耕地に入植し、「兄弟そのものだった」(実さん)という渡辺五郎さん(故人)が契約終了後に胃を壊して帰国。実さんも日本に帰ることを決めていたが、その前年の一九三四年に花嫁移民として多美江さんが来たために、最終的にブラジルに留まる決意をした。
 日本に帰国した渡辺さんは、軍部に徴兵、サイパン島に派兵された。部隊は全滅したが、何とか命拾いし、その後ブラジルの実さんたちに会うために二度来伯したが、昨年亡くなった。
 多美江さんがブラジルに行く話しは、本人の意思に関係なく、双方の親同士ですでに決められていた。幼い頃一緒に遊んだこともあるという記憶をたどって、サントス港迎えに行った実るさんはデッキに顔を見せた多美江さんを見て、人目でそれと分かったという。
 これまでのコーヒー生産の自身から「土地なんかどこに行ってもすぐに買える」(実さん)との判断から、一九三五年にトレス・バラス移住地のヒゲラ地区に入植した小山田さん夫婦は、ここでもコーヒー栽培を八年間続けた。しかし、借金は返せず、農業を続けても見込みはないと思い切って町に出る決意をする。
 「長女をお腹に入れたまま、原始林の中に入っていく生活に、日本で聞いていた話しと全然違うと、夜になると星や月を見ながらよく泣きました」と多美江さんは移住地での思いを振り返る。
 「ただ、その時代は皆同じような苦労をしていました。私と一緒に花嫁移民として来た中には、ノイローゼになり、日本に帰る途中に海に飛び込んで自殺した人もいました」(多美江さん)
 町に出た実さんは、農産物の仲買人の下働きや大工などの仕事を転々とした後に、一九五一年から家具店を始めた。仕事の丁寧さと信用が受け、各移住地の日本語学校の建設にも携わった。
 実さんが建てた日本語学校の中で、フィゲーラ地区の会館だけが、現在も唯一残っている。
 「お金はないけど、やりたいことはやってきましたよ。別に今のアサイの状況にどうこう言うことは何もないですよ。今の人たちがいいようにやってくれれば、それで良いです」と豪快に笑う実さん。一つの時代を生き抜いてきた自信が、現在も老夫婦の絆を結んでいる。
(一九九八年十月、十一月サンパウロ新聞掲載)


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