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マツモトコージ苑
     2000年  (最終更新日 : 2005/12/10)
イジン伝①(日系左翼活動家) [全画像を表示]

イジン伝①(日系左翼活動家) (2005/07/06)  激動の二十世紀も残すところ、あと三か月を切ってしまった。この二十世紀に日本移民は笠戸丸以来、日系社会を形成してさまざまな分野で特色を発揮し、ブラジルの発展にいささかなりとも寄与してきたが、いわゆる成功者ばかりでなく、日常生活の中でも多くの彩りを添えたユニークな人物が大勢いた。これが偉人なのか、普通の人とは異なるイジンなのかは読者の判断に任せたいが、一味違った日系人群像を紹介してみたい。(前説=笹井宏次朗氏) 


 一九六四年、ブラジルは軍事政権の確立により、左翼グループ、右翼グループへの弾圧が厳しくなった時代がある。その頃、左翼運動に情熱と命を懸けた日系人たちも少なからずいた。中林順さん(五四、二世)と天野隆雄さん(五三、二世)は違う組織に所属しながらも、今でも当時を振り返りながら一年に一回は旧交を温めている。彼らは何を考え、ブラジルの明日に何を求めたのか。また、今のブラジルをどう見ているのか。彼らの体験をもとに当時を振り返る。(通訳協力=深沢正雪氏)

(1) 

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現在の中林さん
 中林さんは一九四六年第二次対戦が終戦した間もない頃、サンパウロから三百キロ近く離れたビラッキ市(聖州)で生まれた。
 父親は日伯毎日新聞の創設者、中林敏彦氏として有名だが、「父親からは特別、どうこう言われた記憶はない」(中林さん)という。
 「日本語学校にも行ったが、一年ともたなかったし、家庭教師を付けられたけれど、勉強は好きではなかった」
 野球やサッカーで遊ぶごく普通の少年時代を過ごした。
 一方、聖州ピラジュイ市で生を受けた天野さんは十三歳ですでに、「ジュベントス・デ・コムニスタ」という共産党の下部組織に属していた。
 祖父が神道の神主だったこともあり、各地方での法要の際に鞄持ちとして手伝わされた経験が、貧困問題などの社会問題にのめり込むきっかけとなったようだ。
 一九四八年、天野さん家族がサンパウロに出てきた当時、日本語は敵性語として禁止され、天野さんの父親は日本語の書籍を所有していただけで刑務所に入れられた。
 サンパウロで洗濯業協会に属していた父親は、天野さんの左翼活動については知っていたものの、何も言いはしなかった。
 中林さんが左翼活動を始めたのは六六年、マッケンジー大学の社会学部に入学してからだ。六四年に軍事政権となり左翼グループへの弾圧が厳しくなる中で、民主運動はさらに激しさを増した。
 ブラジルの全学連とも言えるUNE(ウニオン・ナショナル・エストダンテ)に所属していた「中林さんだったが、その頃は現大統領フェルナンド・エンリケ・カルドーゾや現・保険大臣のジョゼ・セーラなども運動に加わっていたという。
 左翼活動を初めて一年と立たない内にリーダー的存在となった中林さんは当時のDOPS(政治社会警察)のブラックリストに載り、六八年に海外に亡命するまでに三回捕まっている。
 一回目は六七年当時、左翼勢力とともに活動の激しかったマッケンジー大学内の右翼勢力との衝突により逮捕。
 二回目は学生運動で物足りなさを感じていた中林さんが、六八年に左翼武装組織のALN(国民自由活動)に加入。キューバでの軍事訓練を行うために、出発するその前日に左翼運動家と一緒にいるところを取り押さえられた。
 三回目はイビウナで約八百人が集まったUNEの学生集会の場で捕まり、二ヵ月間刑務所で暮らした。
 天野さんは当時、国家解放同盟という組織に属しており、中林さんとは別に行動していたが、お互い日系の左翼活動家として意識はしていたようだ。その二人が海外に亡命せざるを得ない状況の中で、亡命先のチリで運命的な出会いをすることになる。

(2)

 六八年当時、左翼組織の中でも内部紛争により大きくは二つの組織に分かれていた。
 ALN(国民自由活動)とPCB(ブラジル共産党)だが、中林さんはより軍部に反対感情を抱くALNに属した。
 キューバに軍事訓練に行く前日に逮捕された中林さんだが、ほかに三人が一緒に行くことになっていたという。
 「その頃は、より過激な武装闘争を選びたかった」(中林さん)
 ALNに日系人は珍しかったが、中林さんはここでも中心的な存在だった。
 中林さんの当時のあだ名は、ブラジル発見者と同じ「カブラル」。誰もが極秘に行動を義務づけられたため、本名で呼び合うことはめったになかった。
 六九年、ブラジル国内での活動が制限されだす中、身の危険を感じた中林さんは友人と一緒に海外に亡命。ウルグアイを経由してチリに流れた。
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天野さん
 その頃、天野さんは同九月にDOPSに逮捕され、七一年一月までの一年四ヵ月間を刑務所で過ごした。その間に父親が亡くなり、死に目に逢うこともできなかった。
 軍部の足をくらませるために乗用車を盗んでは、プレートを張り替えるのが天野さんが与えられた仕事だった。
 逮捕された時はアラメダ・サントスで二時間前に他の左翼グループが捕まっていたが、張り込んでいた軍警隊に同じような形で網を張られた。
 軍警隊に見つかった天野さんは足を撃たれ、弾が貫通。そのまま逃げようとしたが成すすべもなかった。
 活動の資金を得るために左翼グループ四十人で五つの銀行を襲撃する予定だったが、逮捕されたために、計画は失敗に終わった。 
 天野さんは刑務所での出来事について多くは語らないが、当時の政治犯がそうだったように、相当にひどい扱いを受けたようだ。
 七〇年十二月、元軍部だったカルロス・ラマルカ率いるVPR(人民革命前戦)グループがエンリコ・ブッシェル・スイス大使を拉致。同グループは政治犯七十人のチリへの解放を求めた。その中に天野さんも含まれていた。
 チリに渡った天野さんは同じく同地に亡命していた中林さんと出会い、ブラジルでの左翼活動についての情報交換を飽くことなく続けたという。
 チリを経て天野さんは七一年六月には単独でキューバに渡った。ブラジルに戻りたかったが、軍部の圧力で帰ることもできず、旧ソビエトへと向かった。
 七五年から一年半、ソビエトで共産党のインターナショナルスクールで英語、スペイン語などを勉強。七八年からハンガリーでソビエトのプロパガンダ組織の世界青年民衆連合(WFDY)に属した。
 亡命を繰り返していた天野さんは七九年にブラジルの大統領令(アネスチア)が発令されてからフランスのパリでパスポートを取得。念願のブラジルに八年ぶりに帰国した。
 その間、偽物のパスポートと、偽名の「アントニオ山本」を使用していた。家族とのやりとりはポルトガル在住の友人を通じて行なわざるを得なかった。
 「ブラジルを出てからは天野隆雄という名前は一度も使っていない」
 軍部の圧力に屈しなかった日系人は、ブラジルで再び左翼活動への道を踏みしめた。

(3)

 亡命先のチリ南部のコンセプション大学で社会学を学んでいた中林さんは一方で、左翼グループの一つMIR(左派革命運動)に属し、ブラジルに戻る方策を常に考えていたという。
 七四年にドイツの西ベルリン(当時)に移動。その後四年半を同地で過ごす。
 チリの左翼活動家の支援策を考えていた中林さんは、「ブラジル国内で行なってきた武力闘争の考えとは違っていきつつある自分があった」と振り返る。
 亡命の際、各地で援護してもらった左翼活動家たちの恩恵に報いるためにも、それをチリの左翼活動家を支援することが中林さんにとっての活動だった。
 ブラジルのことが常に気にかかっていた中林さんは「海外にいる時は自分の家であっても、他人の家に住んでいる気持ちがいつもあった」と言いブラジルへの思いが相当に強かったのは事実だ。
 ドイツでも社会学のマスターコースを取得。「ブラジルで何をするかも分からなかったけれど」と笑みを浮かべる中林さんだが、左翼活動とともに純粋に社会学を知識として身につけたかった姿がそこにはあった。
 八五年、フィゲレード大統領時代に軍事政権が終焉を迎えたが、七八年のアネスチアで待望のブラジルへの帰国を果たしていた中林さんは、様々な左翼グループとの話し合いの機会を得た。それが、現在のPT(労働者党)の始まりだったという。
 PTは八二年に結成されたが、その基礎、過程となる運動の展開を行なってきたのが中林さんたちだった。
 当時、サンパウロ市に隣接するABC地区で大きな決起大会が開催された時、現在のカルドーゾも参加していたという。
 しかし、時代の流れとともに左翼運動の主旨も中林さんが左翼運動を始めた六〇年代後半とは変わってきていた。
 「強調したいのは、私達が行なってきた左翼運動のイデオロギー(思想)は民主主義を理想とした。当時の運動は今から考えれば間違っていたこともあるかもしれない。しかし、その頃はそれが間違いなどとは思ってもみなかった。自分の思っていたソシアリズモ(社会主義思想)と違っていたことが今になって分かる。ただ『自由』というものでなく、一人の人間として人間性というものをもっと深く追求していきたい」
 ソビエトの崩壊やベルリンの壁が打ち壊された中で中林さんは、現在も続いているキューバの社会主義政策を「革命のプロセス(過程)において人間的なものがある」と話す。
 MST(土地無し農民運動)や教育問題、失業率の増加など現在のブラジルが直面する諸問題について中林さんは、インフレの終息など良い点もあるが、二つの大きな問題があると指摘する。
 それは国内問題と社会問題だ。
 石油、鉄鋼、通信など外資導入による国営企業の民営化を中林さんは、ある面で危惧している。
 「国の柱だったものがどんどん失われている。今まではお金がなくてもブラジルの考えを守っていた。しかし、民営化により便利にはなったが、国の骨格をなしてきた国営企業の民営化により、世界的な考えが取り入れられ、国自身の考えで動くことができなくなりつつある。そのことが、失業問題、教育問題などの大きな社会問題につながっているのでは」
 天野さんは「以前の左翼運動ではなく、新しい運動の進め方を考えるべき。それが何かは分からないが」と時代の流れの中で従来の考え方、やり方では通用しないことを示唆する。
 現在、天野さんはある団体のシンジカットに属しているが、以前のような左翼運動には参加していない。
 また、中林さんも「左翼に好意を寄せるフリーランサー」だと笑う。
 一年に一回は顔をあわすという二人だが、青春時代に命を省みず行なってきた左翼運動への思いは、今なお強い。(この項おわり・2000年10月サンパウロ新聞掲載)


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