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マツモトコージ苑
     2000年  (最終更新日 : 2005/12/10)
イジン伝②(ボリビア沖縄移民) [全画像を表示]

イジン伝②(ボリビア沖縄移民) (2005/08/07)  歴史的な背景から海外に散らばる沖縄県人は、世界的なネットワークをもつ華僑にちなんで「琉僑」とも呼ばれるほど、その結束力は固い。戦後アメリカ軍による土地接収で日本国籍を失い、一九五四年、当事の琉球政府の計画移民としてボリビアに渡った沖縄移民たち。二〇〇〇年五月末、日本で公開された外務省の公文書にも移住地「オキナワ」のことが記載されている。泥水を吸い、奇病に悩まされた人々が選んだ道は希望ある土地への移転だった。戦後の第一次ボリビア移民で、現在サンパウロに在住する長嶺明広さん(六八)に当時の話を聞いた。

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現在の長嶺さん
 貧しい家庭に育った長嶺さんの父親は戦前、景気のよかった麻栽培を行なうため、出稼ぎとして十九歳でフィリピンに渡った。一九三二年、フィリピンで生まれた長嶺さんは日本の敗戦による強制送還で十三歳の時に現在の那覇市にあたる小禄村字当間(おろくそん・あざ・とうま)に家族とともに移住。
 地元の那覇高校を卒業後、米国留学のための英語学校を経て米系資本の石油会社に勤めていたが、労働組織を結成し、反米運動を行なっていたことから会社を解雇された。 
 米軍の土地接収などで「狭い沖縄に嫌気がさしていた」との気持ちを抱いていた長嶺さん家族にボリビア行きの話が舞い込んだのは、その後すぐだった。
 ボリビア農業移民の募集には、四百人の枠内にその十倍の四千人が応募したと言われる。それだけ当時の沖縄は米軍に支配され、ウチナーンチュは米軍に反感を持っていたと言える。また経済的に苦しかったのも事実だ。長嶺さんの父親は米軍の基地内で仕事を行なっていたが、後に独立して自動車整備の仕事に就いたが、思わしくなかった。
 一九五四年、長嶺さんが二十二歳の時、両親、弟、妹の家族五人でのボリビア行きが決まり、同六月十八日、オランダ船の「チサダネ号」で那覇港を後にした。
 「那覇を出る時には二度と沖縄には帰れないと覚悟しました」
 香港、シンガポール、アフリカを経てサントス港に到着したのは八月六日。そこから汽車でボリビアへ。途中のカンポ・グランデで県人同胞の歓迎を受けた。
 「あの時は独身だったこともあり、二世の女性が可愛らしく見えましたよ」
 最終駅のパイロン駅に着いたのが皮肉にも日本の終戦記念日の八月十五日。その日が沖縄ボリビア移民の入植記念日となった。
 新転地の「ウルマ移住地」に着いたものの柱が立ててあるだけの家に住まざるを得ず、壁も無ければ、屋根も無かった。
 「大変なところに連れてこられた」と思いはしたが、帰りたくとも帰る場所の無い長嶺さん家族だった。
 その後、原因不明の「ウルマ病」発生し、十五人の貴い命が奪われることになる。

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開拓当時の風景 (当時の写真はすべて長嶺氏提供)
 ウルマ移住地での生活は、まず水を確保することから始まった。
 ボリビア人を使って井戸を作っても、塩分が多いために飲めばたちまち下痢になった。ジャングルの中に出来た水溜まりから水を汲み、ドラム缶に詰めた水を牛車で往復二、三キロを運んだ。
 水が無くなると、リオ・グランデ河まで水を汲みに行った。
 「泥水に卵の白身を入れて、砂が沈殿した上澄み水を沸かして飲んでいました」
 同時に食糧の確保として米作りやマンジョッカ芋の栽培に携わったりと文句を言っている暇はなかった。
 「ヤマ(原始林)を切り開くのに、共同作業は不可欠でしたが、気ごころが知れた同じ当間出身者といつも行動が一緒でした。私達はフィリピンでも山奥の生活を強いられてきたので、何とかついていけました」
 原因不明の「ウルマ病」が発生したのは、その頃だった。何故か体力のある者から発病し、十五人の貴い命が犠牲になった。
 リオ・グランデ河の氾濫により、ウルマ移住地を出ざるを得なかった。
 ウルマ移住地から約百三十キロ離れたパロメティアに移ったのはボリビアに来て一年後。ウルマ移住地にはトラックなど大型車が入れないため、リオ・グランデまで五、六キロの道のりを牛車で運び、そこから古いトラックに乗り換えて家財道具を運んだ。
 その頃、長嶺さんは沖縄から置き時計や蓄音機も持ってきており、楽しみが無い暮らしの中で唯一の娯楽だったようだ。
 パロメティアに移ったものの、私有地だったことや氾濫による土地の浸水で、新たに移住地を求めたのが、現在の「オキナワ移住地」だ。 
 「入植した当時は太陽が見えないくらいのジャングルでした」
 新しい移住地に移ってからも水害による被害は度々あったものの、生活は落ち着いていった。
 一家族に付き百町歩の土地が配分され、米、とうもろこしなどの生産物を植えたが、農作物には適さなかった。
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1961年、コロニア・オキナワの青年活動

 長嶺さん家族も家族を総動員しても一ヵ月で五町歩くらいしか土地を開けず、結局、十五町歩ほどの土地は原始林が残ったままだったという。
 六〇年代後半に琉球政府のボリビア移住地の駐在事務所ができ、長嶺さんは約五年の農業経験を踏まえて同駐在所に勤務した。 
 駐在所の仕事は移住地の営農指導やボリビア人との通訳も行なった。フィリピンに住んでいたこともある長嶺さんはスペイン語にも興味があり、独学で勉強した。
 しかし、当時、脱耕者も多く、長嶺さんも独立し、サンタクルースに出て旅行会社を始めた。
 二十八歳で結婚した長嶺さんは、ブラジルへの転住を決意する。   
 
(3)

 長嶺さんがサンタクルースに出てきた理由は、土地が農業に適していないこともあったが、六五年頃から父親が喘息(ぜんそく)で身体を悪くしその静養のためでもあった。
 結婚してすぐにサンタクルースに出てきた長嶺さんはその後、旅行業を興し、十年間携わった。その前から弟や同じ出身の当間の人々は新天地を求めてブラジルへ移り住んでいた。弟たちのつてを頼ってブラジルに下見に行った長嶺さんは「少しでも良い場所に住みたい」と六九年、ブラジルへの移住を決意する。
 当初、リオに住むことも考えたが、結局、沖縄県出身者の多いビラ・カロン区に住むことになった。
 サンパウロに来た当初は金物屋を始めた。
 「当時は金物屋をやる人はほとんどいませんでした」
 その後、生活を支えるために「使ったこともない」ミシンを使い、縫製業にも半年間携わった。
 「まだ子供が小学生で小さかったこともあり、とにかく何でもしないとという気持ちで一杯でした」
 現在も次男とともに経営している「ブラジル沖縄旅行社」は八七年に創設。ブラジルに来てから始めた金物屋は今でも長男がサン・マテウス地区で営業を続けている。
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1994年、コロニア・オキナワ40周年に夫妻で参加
 「当間の仲間やボリビアの一次移民もほとんど亡くなりました」と長嶺さんはブラジルに移住した今でもボリビアの「オキナワ移住地」を思う気持ちは強い。
 七二年に沖縄が日本本土に返還された際、長嶺さんは感無量の思いだったという。
 「父も沖縄に行きたいという気持ちがあったと思いますが、結局は叶いませんでした」
 一九七九年にはコロニア・オキナワの二十五周年祭がきっかけとなり、在伯ボリビア親睦会が結成された。
 ちょうどブラジルへの転住者も生活に余裕ができた頃だった。
 苦労を共にした仲間への協力が、この機会に転住者の集まりとして親睦会を結成しようという動きにつながった。その親睦会も創立二十一年を迎え、現在十一代目の会長に平良義昭氏が就任している。
 「集まると思い出話になりますね」という長嶺さんにとって、ボリビアは第二の故郷でもある。
 「ブラジルにいてもボリビアのことは常に気になります」
 今まで転住を繰り返してブラジルでの生活に落ち着いた長嶺さん。県系人を思いやる心は歴史的背景に裏付けされているが、国境を越えた結びつきが「琉僑」の名を知らしめている。(この項おわり・2000年10月サンパウロ新聞掲載)


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