イジン伝③(弓場農場) (2005/08/17)
「新しい文化の創造へ」を合い言葉に、一九三五年に創設された弓場農場(弓場哲彦農場主)。一時は南米一の養鶏場と言われたが、倒産による立ち退きなど紆余曲折を経てきた。集団生活の集大成とも言える弓場バレエは日本でも有名になり、現在も「祈ること」「土に触れること」「芸術すること」を理想として活動が続けられている。時代の流れにより転換期を迎えつつある弓場農場だが、この場所が何処よりも好きで自分の思う道を貫き通している人々がいる。
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農場創設者の故・弓場勇氏の末弟である基(もとい)さんの息子にあたる弓場建作さん(四八、二世)は現在アメリカのバージニア州に在住し、工芸品を製作する傍ら、子供たちにバイオリンなどの楽器を作ったりもしている。 今年六月、フェスタジュニーナ(七月祭)などの行事に参加するため、約一年半ぶりに弓場の土を踏んだ。 建作さんがアメリカに住みだしたのは九三年から。故・弓場勇氏と懇意の関係にあった浄土真宗の大谷暢慶(ちょうけい)氏の誘いにより弓場農場を出たことが大きな要因となった。 元来、風来坊だったという建作さんは少年時代からブラジル国内を歩きまわった。 そうした中で特に影響を受けたのが、日本の彫刻家で弓場に住むことになった故・小原久雄さんだったという。 「弓場さん(勇氏)の影響は確かに受けましたが、ぼくたちにとっては観念的なものが多いというのが正直なところでした。小原さんからは技術的な意味で物を作る楽しさを学んだ気がします」 弓場農場には約二十年前に建作さんが中心になって造りあげた陶芸窯があるが、今では誰も使ってはいない。 今年六月中旬までは建作さんの妹の光枝さんが窯で作品づくりを行なっていたが、日本で本格的に陶芸を勉強したいと弓場を後にした。 窯の横には四畳半ほどの空間がある。建作さんに聞くと「造りかけの茶室」との答えが返ってきた。 「大谷師匠から『茶室を造ることで、いかにも悟りを開いたようなふりをしても仕方がない。精神的なものは習ってできるものではない』と戒められました」と建作さんは建てかけの茶室を見て苦笑いする。 建作さんがアメリカに住むことになった一つのきっかけに、日系アメリカ三世のジャネットさん(四二)と結婚したことがある。 日本文学を研究し、博士号を取得するために八九年から一年間日本にいたジャネットさんは、仏門の修行で訪日していた建作さんと出会った。 建作さんはインド、ネパール、中国などを歩き現在はアメリカに住んでいるが、「どこにいても弓場に対する気持ちは変わらない」と言い切る。 「弓場が一番という訳ではないのですが、将来的に養老院として住めれば良いのでは」と冗談めかして言う建作さん。 弓場から離れて見ている分、ヤマに対する気持ちは強い。 (2)
外から弓場農場を見る建作さんとは逆に、旅行者として弓場農場に立ち寄り、その虜となったのが辻義基さん(四九、兵庫県出身)。 辻さんは大阪電気通信大学の電子物性工学科を卒業。中学生時代から旅行が好きで、暇を見つけては自転車で日帰り旅行などを繰り返していたという。 それが高じて大学時代には西日本を自転車で一周。また、日本海側を通って北海道にも行った。 社会人になり超音波を使用した検査技師となったが、海外に行きたいとの思いが断ち切れず、自転車でユーラシア大陸を横断する冒険旅行を計画した。 そのためのトレーニングと資金を稼ぐために会社を辞め、氷を販売するアルバイトに精を出しながら学生時代に周った逆のコースで西日本を一周するなど体力を整えた。 アルバイトで貯めた金で当時の最新式の十段変則自転車を購入。自転車は当時十万円。その時の辻さんの給料が七万五千円だったことから、その高かさが伺える。 自転車を分解し飛行機に積み込んだ辻さんは、七五年二月に日本を出発。当時はベトナム戦争も終盤に入っていたが、アジア諸国は戦乱のため入国することができず、インドのデリーが冒険旅行の最初の出発点となった。 海外旅行が日本で自由化されたのは七〇年からで、一ドルが二百八十円の時代。しかも自転車で海外を周る冒険旅行は当時珍しく、マスコミにも何度か取り上げられた。 印象的な国について辻さんはトルコを挙げる。 「世界で一番、親日的な国と違うかな。とにかくこちらが日本人と分かると、レストランに行って飲め、食えの歓迎をそこらじゅうで受けた」 ロシアと仲違いを続けてきたトルコにとって、日露戦争で当時の大国ロシアを相手に小さな島国「ニッポン」が勝利したことが、トルコ人の間に印象が強かったようだ。 特に危険な目に遭ったことはなかったと話す辻さんだが、未知の世界での単独行は緊張の連続だった。イランではふとした油断からカメラを盗まれたが、レストランの店主が取り戻してきてくれたという。 インド、パキスタンを経てユーラシア大陸を西に進路をとった辻さんはヨーロッパは周らず、エジプトからアフリカ大陸を南下。目標は最南端のケープタウンだったが、金銭的な余裕のなさと兄の結婚式が目前に控えていたこともあり、一年二ヵ月におよぶ旅行を中断し、タンザニアから日本に一時帰国した。 辻さんは、今度は北米から南米を同じく自転車で縦断する計画をたて、二年間、再び氷屋で金を貯めた。 七八年三月に飛行機でアメリカのロスアンジェルスに飛んだ辻さんは、分解した自転車を組み立て、二回目の海外旅行に挑んでいった。
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七八年三月、再び自転車で世界を周る旅に出発した辻さんは、ロスアンジェルスから北米大陸を南下し、南米に進路をとるルートを選んだ。これを成功させれば、ほぼ世界を一周することになる。 メキシコ、エルサルバドルなど順調に進んできた辻さんだが、当時ニカラグアでは空軍がゲリラに爆撃を加えたことがきっかけで内戦が行なわれており、エルサルバドルで足止めを食っていた。 日本大使館での情報では「危険だから通らない方が良い」と言われた辻さんは、自転車ではなくバスに飛び乗り、一気にニカラグアを駆け抜けた。 コスタ・リカに入った翌日にニカラグアの国境が封鎖。「運が良かった」と辻さんは、当時を振り返りながら苦笑する。 中米を経て、無事に南米を通過してきた辻さんは、グァテマラの日本人旅行者の溜まり場となっているホテルで初めてブラジルで集団生活を行なっている「弓場農場」のことを聞かされたが、その頃はまだ行くつもりもなかったという。 パラグアイからフォス・ド・イグアスーに入って強烈な下痢に襲われたことが、弓場に行くきっかけを作った。 「サンパウロに直行するつもりやったけど、急ぐ旅でもなかったんで、一、二週間滞在するつもりが、気がついたら半年たっていた」 現在でも来る者拒まずの弓場の姿勢だが、辻さんは積極的に労働力を提供した。 辻さんにとっては「自分の仕事さえしていれば金の心配をしなくてもいい」ことに魅力を感じ始め、しだいに日本で住む気持ちも薄れてきたようだ。と同時に辻さんには一つの目標があった。それは「三十歳になったら旅行をやめること」だった。 弓場で住むことを真剣に考えだした辻さんは最も手っ取り早い方法として、弓場家の親族と結婚することを思いついた。その思いを現在の妻・潤子さんに伝えたのは弓場農場を出る三時間前だったという。 永住権取得のために一時帰国した辻さんは、和歌山県田辺市の農協で梅の出荷を手伝った。 正式に弓場農場に移住するために戻った辻さんは、一年間は養鶏を行なった。かつて養鶏で栄えた弓場だが、営農作物づくりとしてシイタケ栽培に着手した。 しかし、何の知識もない中で独学で栽培を始めたが上手くいかず、ブラジリアの日本人から講習を受けたりと知識を付けるためには悪戦苦闘した。 「シイタケの菌を買うと高いので、自分で作るしかないと思い日本から本を取り寄せてやったが失敗の繰り返しで初めはどうにもならんかった」 菌づくりに三、四年の年月を費やしたが、それからは軌道に乗るようなった。 弓場農場の運営自体も現在、決してうまくいっているとは言えない状態にきている。運営資金を稼ぐために日本に出稼ぎに行っている関係者がいるのも事実だ。 しかし、辻さんは「自分の仕事を責任をもって黙々と行うこと」を重視し、現実を踏まえながらも「普段の生活が楽しくて仕方がない」と目を細める。 妥協ではなく、常に前進することを辻さんは考えている。(おわり・2000年10月サンパウロ新聞掲載)
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