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マツモトコージ苑
     2000年  (最終更新日 : 2005/12/10)
セラードに懸ける男たち(前篇)

セラードに懸ける男たち(前篇) (2005/11/13)  「営農資金があれば、さらに広大な土地を開墾できるのに」―。バイア州西部の街、バレイラスに入った日系人たちの合い言葉だ。一千ヘクタール以上の土地を開墾し、豊富な農作物は果てしなく続いている。しかし、現状は外資系商社に販売ルートを握られ、高利な農業融資に頼らざるを得ない。広い土地に憧れて入植した人々の多くは未だ、借金の渦に飲み込まれたままだ。「このまま魅力ある場所を離れる訳にはいかない」とセラードに魅せられた男たちの熱い闘争は続く。

(1)

 首都ブラジリアから北東に六百キロ。延々と平原地帯が広がる。その中心地となるのがバレイラスだ。
 ゴヤスとバイアの州境から約二百キロにわたって広がるメストレ台地には大豆をはじめ、トウモロコシ、綿花、コーヒーなどが国道を隔てて地平線のかなたまで続いている。
 四月のこの時期は、大豆の収穫時期にあたり、生産物を満載に積んだ大型トレーラーが、国道を行き来する。州境から最初に見えてくる街「ミモーゾ・ド・オエステ」までは八十四キロの直線が続く。居眠り運転防止のため、すれ違いざま対向車がパッシングしていく。
 セラード開発は七〇年代初頭、日本のオイルショックによる食料輸入危機を危惧した当時の田中角栄首相とブラジルのサルネイ大統領との合意でスタート。
 以来、ミナス州のパラカツ、サン・ゴタルドなど第一次計画から始まったセラード開発計画は今年四月から第四次計画が始まった。これまで、日本とブラジルの国際的プロジェクトとして六億ドルが投資されてきたが、加工から輸出までを米系企業が独占しているのが現状だ。
 バレイラスには八〇年代半ばに、コチア青年グループ、プロデセール(日伯農業開発計画)Ⅱ、COACERAL(中央ブラジル・セラード農業組合)などを通じてそれぞれ日本人一世、日系人が入植。
 しかし、八〇年代後半のサルネイ大統領が行なった外資凍結策により、世界銀行からの融資がストップ。新貨幣政策の価値修正による大幅なハイパーインフレが大打撃を与えた。日系人たちが営農資金として銀行などから借り入れた借金は、雪だるま式に膨れ上がった。
 また、九四年カルドーゾ大統領の対ドル為替政策であるレアルプランはアジアで端を発した経済危機の影響により、レアルの価値が下降。商社側からドル建てで借り受けている日系人は、借金に利子が上乗せされ、さらに大きな打撃を受けた。
 苦難に耐え切れずセラードを出た日系人は数知れず、日本に出稼ぎに行った人々も少なくない。
 現在残っている人々は各日系農協および個人によって状況は違う。が、自己資金を持てず、銀行や商社からの高利息支払いのために農作業を続けている人々が大半を占めているのは、動かしがたい事実だ。
 「営農資金があれば・・・」
 未開墾地は、いまだ大きく広がっている。

(2)

 バレイラスに事務所を置き、バイア州への西からの入り口となる「ミモーゾ・ド・オエステ」に大型サイロ、倉庫などの設備を持つCOPROESTE(バイア西部農業組合)。
 九四年九月末に解散したコチア産業組合のあとを継ぐ形で、コチアの単協「コチア・ノルデステ」時代を経て、九六年に正式に発足した。
 組合長の小山正さん(四五、二世)はパラナ州アサイ生まれ。セラードの広大な大地には二十歳の時から憧れていたという。
 「アサイは土地代も高く、安く広いところに行きたかった。バイアに良い場所があると聞いて、ここに来ました」(小山さん)
 現在、耕地面積だけで千八百ヘクタールを保持する小山さんだが、バレイラスに来た八四年には土地を作るだけでほとんど作物は出来なかったという。
 翌八五年にはコチア農業組合が同地に支部を開いたために、収穫した生産物を安定した値段で引き取ってくれるようになった。
 コチアの支部設置は、小山さんたちにとっても都合が良かった。肥料や農薬が共同で購入できるうえ、銀行融資の問題なども組合が仲介してくれた。作物も比較的高い値段で買ってくれることから生産物の九〇%は組合に入れていたようだ。
 「国際市場にもよりますが、コチア時代は大豆は一俵(六十キロ)悪い時で六ドル、良い時で十三ドルで買ってくれました」(小山さん)
 八六年にCEVAL(亜系)、八九年にCARGIL(米系)と相次いで大手穀物商社が入るようなったことと並行して、順調に行っていたコチア産業組合中央会運営の雲行きが怪しくなった。
 九二年頃には実質的にコチア中央会の経営がストップ。商社側ではコチアが所有していた設備に目を付けだした。
 COPROESTEは現在、旧コチアの設備を借りている状態で、二〇〇二年まではその権利があるという。しかし、清算作業いかんによっては競売が行なわれる可能性もある。
 組合が使用している設備は、ミモーゾ・ド・オエステにあるものだけで三万六千トンのサイロ、種作りの倉庫六千トン、三つの大型倉庫一万六千トン分の合計五万八千トンの容量を持つ。また、ミモーゾから南に七十キロ離れた「ローダ・ベーリャ地区」には二万四千トンの容量を持つ倉庫もある。
 現在はCARGILの持ち物となったが、ミモーゾから北に約百キロ地点に広がる「オーロ・ベルデ地区」には三万六千トンの生産物倉庫もあった。
 組合が使用しているこれらの設備の総評価額は約三百六十万レアル。競売で同額の場合、落札は組合側に優先権がある。しかし、穀物商社や銀行など旧コチアの施設に目を付けている側が、評価額以上の値を付けた場合は、組合の手を離れかねない。
 新たに同じ規模の設備を造るとなると、ミモーゾにある設備だけで、六百万レアルはかかるという。
 「金の問題よりも場所の問題が大きい」
 組合の農業技師を務める渋谷ヨシトさん(五〇、二世)は、国道沿いに位置するインフラ的な問題や、サイロから倉庫まで全てが整っている現在の旧コチア設備の重要性を強調する。
 組合ではコチア側と二〇〇四年まで、さらに借り受け期限を二年延期してもらう話し合いを行なっているが、現在のところ、結果は出ていない。

(3)

 コチア産業組合の実質的な崩壊により、それまで種の買い付けや肥料から、農業融資の斡旋まで組合に頼っていた人々はたちまち行き詰まった。
 そこに目を付けたのがカーギル、セバルの大手穀物メジャーと、バンコ・ド・ブラジル(伯銀)などの政府系の銀行だった。
 広大な面積を開墾するには大型の機械や多量の種子、肥料が必要とされる。自己資金を持っていない人々にとっては、作付け時期の問題から商社や銀行などが行う高金利の融資に頼らざるを得ない。
 COPROESTEの小山組合長によると、個人が自己資金で大豆を一ヘクタール生産するのにかかる費用は 、一俵が十五レアルで販売されるとして、二十八俵から三十俵。つまり、約四百五十レアルで元が取れるという。 
 それが、伯銀の融資では利子と手数料などを含めて、三十六俵から三十八俵。それも最高三百ヘクタールまでしか受けられない。穀物メジャー側から青田売買の形で融資を受けた場合、生産コストは元を取るのに四十二俵分かかる。
 昨年度の組合員の平均収量は一ヘクタールあたり四十一俵。メジャー側から借り受けた場合、一俵分の赤字となる。一個人で数千ヘクタールにも及ぶ面積を開墾するため、借金は大幅に膨れ上がることになる。
 九八年四月には、オーロ・ベルデ地区の三万六千トンの容量を持つ生産物倉庫が、当時の東北伯地方の債権銀行に「乗っ取られた」という。
 たまたま、オーロ・ベルデ地区の設備だけが登記漏れで、旧コチア施設清算の対象になっていなかったため、圧力がかけられた。現在では結果的に穀物メジャーの名義となっているようだ。
 「突然、ピストルを持った武装グループが押しかけ、有無を言わせなかったようです」(小山組合長)
 バレイラスは十一月から三月までの雨期と、四月から十月までの乾期にはっきりと分かれている。大豆の植え付け時期は、雨期に入る十月から十二月半ばまでに行わないと翌年四月の収穫時期に品質の良いものは出来ない。
 政府系銀行や種子、肥料などの販売も行う穀物メジャーでは、十二月半ばと植え付けぎりぎりになってから融資を行なう場合が多い。
 「大豆の種子を買う時も、こちらがこの時期に植えなければならないと知っていて、値段を釣り上げるなど足元を見られることもしばしばです」(渋谷農業技師)
 現在、COPROESTEの組合員は八十人。その内、自己資金で農場を運営しているのは、小山組合長を含めて五人と少ない。
 小山組合長は、自分が開墾できる範囲内で少しずつ耕地面積を増やしてきた。現在は一ヘクタールあたり、昨年が五十三俵、今年が五十七俵と収量を上げてきた。
 収穫された大豆は組合を通じてセバルの精油工場へと出荷される。が、運送経費も個人で年間四万レアルとバカにならない。
 「自己資金で回転できれば、在庫管理や自分の好きな時期に生産物を販売することもできます。ただ、ほとんどの組合員はカーギルなどからの借金に頼っており、自分が生きていくだけの収入しか得られず、繰り返していくだけの状態が続いています」と小山組合長は現状を憂いている。

(4)

 ミモーゾ・ド・オエステから東に八十三キロ。小山組合長をはじめとするCOPROESTE組合員の農場がある。
 パラナ州アサイ出身の広沢エジソンさん(三七、三世)は、八四年に入植した叔父の藤田テツオさんの借金返済を援護するため、八六年に同地に来た。
 藤田さんはブラジル人を支配人に置き、農場経営を任せたが、当時のコチア組合からの借金だけが増えた。
 広沢さんは九四年から組合と交渉し、一年に二万俵の返済を約束。八年払いの話を実現させている。
 広沢さんの植え付け面積は大豆が二千五百ヘクタール、とうもろこしが四百七十ヘクタール。大豆の一ヘクタールあたりの平均収穫量は六十三俵と大きい。
 大豆の植え付け時期を見越して、七月から八月に穀物メジャーから高利の作付け資金や肥料代を借りているが、二〇〇二年までのコチアへの借金が返済できれば、作付け資金以外は二十万レアルが入ってくるという。
 叔父の苦い経験を踏まえて、広沢さんは平日は農場に単独で泊り込み、一日九十キロから百二十キロの距離を見て回るという。
 愛用のバイクに跨って大豆の収穫状況を見てまわる姿は、さながら、現代のカウボーイといった様相だ。
 六年前の借金返済開始時には「自分の心の中には、(借金を)払えるという気持ちはあった」と強気な広沢さんだが、収穫を見守る目は鋭く厳しい。
 収穫というこの時期は生産者にとっては最も心踊る時であるとともに、最も神経を集中させる重要な時でもある。
 大型収穫機械が大豆の実を刈っていく光景は豪快そのものだが、収穫の遅れは致命傷になるという。
 「場合によりますが、収穫の遅れは大型コンバイン一台分(約十七万レアル)の損失になると言われます」(渋谷農業技師)
 同じく、アサイ出身の佐藤セルジオさん(四二、三世)は、パラナ州でコチア組合に所属していた経緯がある。八四年一月に今の農場に入った。
 耕地面積は大豆ととうもろこしを併せて二千三百ヘクタール。消毒や土壌開発のための緑肥散布はセスナ機で行うという大規模農業だが、伯銀に五年払いで五十万レアルの借金があるという。
 今年植え付けのために使用した費用は、伯銀から二十万レアルとセバルから利子率が月一・二五%の複利で二十五万ドルを借り入れた。
 「借金は大きいね」と苦笑する佐藤さんだが、あと五年で返済を終えることを考えると気持ちも幾分か楽なようだ。
 アサイにいる父親が資金援助をしてくれたこともある。四年前には植え付け資金をつくるため、家族が日本に出稼ぎにも行った。
 「今までの厳しい時代を耐え抜いてきたことを思うと、すぐには故郷へは帰れない。今は以前のくやしさをバネにしている」と話す佐藤さん。一方で「父母がいる間に帰りたい」とも漏らす。
 苦しさを乗り越えてきた人々が、今のバレイラスを支えている。

(5)

 日伯両政府の出資金を比較的効率よく回せたプロデセールⅡ(日伯農業開発第二次計画)耕地に対して、一本の道を隔てて明暗を分けたのが、コチア青年団地だった。
 八四年、コチア産業組合中央会は、当時の井上ゼルバジオ会長を先頭にセラードの広い土地に憧れたコチア青年たちを募って視察を行なった。
 パラナ州カストロでバタタ(ジャガイモ)作りをしていた菅原正芳さん(六〇、岩手県出身)もその一人。
 菅原さんはコチア青年の第二次十二回隊として、一九六一年に渡伯。パラナ州カストロの山本辰雄農場に入った。九年後、独立してバタタ作りを続けてきたが、過渡期に入っていた中で、「雑作をやってみたいという気持ちが強かった」ことからバレイラス行きの考えを固めた。
 「(コチア農業団地の)最初の宣伝は良かったのですが、現地に行ってみると全然違いました」
 当初、コチア農業団地の宣伝は一ロッテにつき八百ヘクタールで、営農資金も出資されるはずだった。しかし、コチア側が日本政府から出た資金を流用。現場は区画整理が出来ていない状態で、菅原さんは一年目は、CODEVASF(サンフランシスコ河流域開発公社)の狭い入植地に住まわざるを得なかった。
 「ショックでしたね。一ヵ月ほどして『本当に植民地が出来るんですか』とサンパウロの中央会まで確かめにいきましたよ」 
 一年間待たされたあげく、ようやく入れた土地は宣伝の半分の四百ヘクタール。土地購入資金は出資されたが、土地の区画や道路設備にかかった費用を分担金として、逆に二万ドルをコチア側から要求された。
 「かえって個人で入った方が良かった」
 しかし、菅原さんはすでに資金もなく、他に頼るところもなかった。
 コチア青年団地の入植には他に土地を持っている者は除外されるため、菅原さんはパラナの土地を売り払い、日本の兄からも借金をしていた。
 CODEVASFにいた分、農業団地への入植が一番遅れた菅原さんは一年目、五十ヘクタールを開き、陸稲を植えた。土地ができていないため、一年目からは大豆はできない。
 景気の良い者はパラナから大型トラクターを持ってきたが、菅原さんにはそんな余裕もない。区分けされた場所は木が少ないこともあって、広大な土地を家族と一緒に鍬をもって人力で開いた。
 「収入がないのに子供が五人もいたし、とにかく、金を使わない方法を考えました」
 にもかかわらず、コチア本部からは一年間で百五十ヘクタールの開墾命令が出された。公募には「セラード開発には、最初の三年は経済生産にはならない」とあったにもかかわらずだ。
 「当時のコチア中央会開発委員長から、百五十ヘクタール開けないなら今すぐ出て行けと言われました。でも、我々は見知らぬ土地に来て開墾資金も出ないまま、一年で百五十ヘクタールも開墾するのは無理だと訴えました」 
 中央会と支部に連絡の行き違いがあったのも事実だが、当時の中央会幹部が井上会長の指示を仰がずにコチア青年団地の入植者を追い出しにかかったのも否めない。
 夢を描いて入植したコチア青年の苦難が始まった。(つづく・二〇〇〇年4月サンパウロ新聞掲載)


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