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マツモトコージ苑
     2001年  (最終更新日 : 2006/07/05)
鳥取村(第2アリアンサ) [全画像を表示]

鳥取村(第2アリアンサ) (2005/08/29)  一九二六年、鳥取海外協会が第一アリアンサの隣接地に二千アルケールの土地を購入してできた第二アリアンサ鳥取村。現在、同村には約三十五家族が在住しているが、鳥取県出身およびその子弟はわずかに三家族にすぎない。しかし、在住者が「鳥取村人」との強い意識を持ち、村を支えているのは確かだ。去る七月二十一日(二〇〇一年)に行われた入植七十五周年式典では、そのことが改めて再確認された。母県鳥取からは現在、五代にわたって日本語教師が派遣され、同移住地の教育に力が注がれている。今なお同地に住み続ける数少ない鳥取県人に話しを聞いた。

(1)

 七十五周年記念式典で祭典委員長を務めた前田撲(まえだ・すなお)さん(八一)は、今や同村で残り少ない鳥取県人一世となっている。
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残り少ない鳥取県人の一人、前田さん
 一九二六年、前田さんは十二歳の時、家族の呼び寄せで渡伯。発足してすぐの第二アリアンサ村に入植した。
 「第二アリアンサ四十五年史」によると、翌二七年の第一回入植者は信濃(長野)扱い十一家族九十二人、鳥取扱い五家族二十六人、熊本扱い十二家族五十七人となっており、総数二十八家族百七十五人がいたという。
 「その頃は鳥取県出身者と長野県出身者の対立もあり、長野県人の前を通るとよく、いじめられました」(前田さん)というように、当時は各人の県人意識が強かったことがうかがえる。
 戦前移住者の気持ちとして前田さん家族も「十年ブラジルで働いたらすぐに日本に帰る」という心構えでいたが、戦後の勝ち負け抗争が前田さん家族の帰国を阻んだ一つの理由だった。
 さらに「金に余裕のある人は早々と村を出て行ったが、わしらは動こうにも金がなかった。今から思えば出なくて良かった」と前田さん。
 入植当初、村は五つの区に分かれており、どの区にも日本語学校があった。「あの頃もっと勉強しておけば良かった」と笑う前田さんだが、当時は「農作業への労働力を提供すれば勉強はしなくても良い」との思いが強かった。
 鳥取村と言われながら鳥取県人が村から離れたことを前田さんは「ヤマ(原始林)の中にいては充分な教育が出来なかったことが大きいのでは」と語る。
 現在では県人の少ない同村にも県から五人目となる日本語教師が派遣されており、そのつながりは継続されている。
 今後の村について前田さんは「今の家長たちが頑張っている限りは大丈夫。しかし、次世代になるとどうなるか分からない」と首を振る。
 村の鳥取県出身者は九七年に加藤静雄さんが亡くなり、わずか三家族になってしまった。だが、前田さんはそのことについて今はあまり気にしていない。
 「村に住んでいる人たちから何年か前に『どこそこの県出身だとは言わないでくれ。自分達は鳥取村の人間だ』と言われた。村の人は皆、鳥取県に感謝の気持ちがある」
 鳥取県と村とのつながり。それが鳥取村の人々の気持ちを支えている。

(2)

 「同(ソロカバ)駅を離れる事三キロの地点にさしかかった際、俄然前方より驀進(ばくしん)して来たサンパウロ急行列車とあわやと云う間もなく正面衝突、現場は一瞬にして修羅の巷と化した」―。
 第二アリアンサのトラベッサ一区に入植した故・中尾喜代治さん(鳥取市出身)は、第二アリアンサ四十五年史の中でこう記している。
 一九二七年五月二十四日、サントス港に入港した第二アリアンサ入植者百七十五人は、当時の信濃協会理事だった輪湖俊午郎氏が鉄道側と交渉して特別列車を仕立てたため、サンパウロ移民収容所に入ることなく、直接現地入りすることになった。しかし、このことが皮肉にも五人の死者、重軽傷二十数名を出す大事故につながった。
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仲睦まじい中尾夫妻
 中尾さんの息子で鳥取村で生まれた秀隆さん(七〇、二世)は、父・喜代治さんたちから列車事故の話を後になって聞いた。
 秀隆さんによると、この事故で祖父・ていじさんと母のていさんが負傷し、ソロカバの病院で約四ヵ月間の入院生活を余儀なくされたという。
 「本当は第二アリアンサに第一号で入植するはずでした。その頃はブラジルに来てまもなく言葉も通じないし、父達は苦労したようです」
 しかし、列車事故の被害のなかった人々にとっても入植後は黄熱病のまんえんの影響を受け、一日に三人以上が亡くなることもあったという。秀隆さんは「当時ミランドポリスには病院はなく、患者をアラサツーバに運ばなければなりませんでしたが、間に合わず死ぬ人も多かったのです」と語る。
 カフェの生産が隆盛の時代だったが、三〇年の大霜で「根まで引っこ抜けるほど真っ黒に焼かれました」(秀隆さん)というほどの大被害を受けた。
 入植者のほとんどは一儲けしたら日本に帰国することを信じて疑わなかったが、帰国する資金すらなかった。どん底の生活の中で、アリアンサから移転する人も後を絶えなかった。
 四九年、「土地を肥やすために鶏ふんが必要」と兄の喜博さんが村では初めて養鶏を行い、少しずつ軌道に乗り始めた。
 当時は千羽飼育できれば大きな家族が食べていけた時代。その後、兄の後を継いで着実に養鶏の数を増やした秀隆さんは九〇年代初頭には三万羽を飼うまでに至った。
 「二年に一回は車を買い換えることが出来るほどになりました」と秀隆さんは笑うが、その陰にはいつも愛妻の幸子さん(六五、二世)の支えがあった。「夜昼なしに働いてきましたが、家族の協力なくしてやってはこれなかった」と秀隆さんは本音を漏らす。
 現在は養鶏仕事も息子の隆幸さん(三八、三世)にそのほとんどを任せ、村でも中心的な存在としてはたらいている秀隆さん。
 今後の移住地について「子供たちの時代がどうなるか心配だが、住民が今まで通りの県とのつながりをもってしていけば何とかやっていける」と強調した。(おわり・2001年8月9日、10日、サンパウロ新聞掲載)


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