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マツモトコージ苑
     2001年  (最終更新日 : 2006/07/05)
沖縄そば [全画像を表示]

沖縄そば (2005/10/04)  南マット・グロッソ州の州都カンポグランデ。沖縄県系人が多い同市の中心地では、毎週水曜日と土曜日に沖縄そばのフェイラ(青空市場)が出店する。フェイラといっても屋台といった方が自然で、客はほとんどがブラジル人だが、所狭しと並んだ屋台に群がる人々の熱気はどこかアジア的でさえある。ウチナーンチュにとってこの屋台群は一つのコミュニケーションの場であり、今や沖縄伝統の「すば(そば)」づくりは日系二世、三世のほか非日系にも引き継がれている。ブラジル国内でも珍しいカンポグランデの屋台群をレポートする。

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ブラジルのネエちゃんたちも沖縄そばに喰らいつく
 午後七時。家族連れやカップルのブラジル人客の姿が目立つ。節電(注:この年、ブラジルでは政府により全国的な大型節電が実施された)の影響からか小型蛍光灯も多いが、黄色味を帯びた裸電球の明かりが、日本の屋台の雰囲気をかもし出し、そばをゆでる湯気に混じって人々の熱気が伝わってくる。
 ここカンポグランデには沖縄県系人が多い。記念誌などの資料によると過酷な労働で非業の死をとげたノロエステ鉄道に従事した県系人やペルーからアンデス山脈を越え再移住してきた沖縄県人たちが、気候も母県に似たこの地に集まったとされている。
 二〇〇〇年まで沖縄県人会のカンポグランデ支部長をつとめた具志堅弘さん(六七)にフェイラを案内してもらう。「FEIRA・CENTRAL」の名前通り、場所は市内中央に位置している。
 フェイラは現在、水曜日と土曜日のみ開店し、他の地域でも沖縄そばのフェイラが立ち並ぶが、夜を徹して出店しているのはここだけだという。
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フェイラに連なる屋台群
 具志堅さんの説明によれば、沖縄の方言では「そば」は「すば」と発音するという。具志堅さん自身、八八年から九五年までの七年間にわたって沖縄そばの屋台を行っていたが、現在は豆腐づくりに従事。夫人のサエコさん(六三)が土曜日のフェイラが立つこの場所で販売している。
 同地には数年前からフェイラ専用の屋根が設置されるようになったが、「以前は一軒一軒バラッカ(バラック)を建てる必要があったために体力的にも大変でした」と具志堅さん。
 それに加えて出汁(だし)、麺づくりなど下準備の手間の多さ。九五年の第二回ウチナーンチュ大会に参加した帰国後に「体力的な限界を感じた」という具志堅さんは、店を日系二世に譲った。
 現在フェイラを出している沖縄そばの店は全部で約三十軒。道沿いに一直線に店が続いている。それに並行して野菜類、日本食品、飴、ボーロ(ケーキ)などの出店(でみせ)が並び、明かりを灯している。
 今では唯一とも言える日本人一世の勝連(かつれん)隆子さん(五九)は、この道二十六年のベテラン。母親の勝連勝子さんは屋台群の草分け的存在で、出稼ぎを目的に十年前から日本に在住している。今では隆子さんの長男・源河(げんか)明さん(三五、二世)夫妻が中心となって店を切り盛りし、その伝統の味は親子三代にわたって受け継がれている。
 
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人気の高い沖縄そば
 沖縄そばの伝統の味を知る残り少ない一世となった勝連さんによると、フェイラは約三十年前は中央市場(メルカド・ムニンシパル)が主流となっていたらしく、その頃はまだ沖縄そばはなかったという。
 フェイラを訪問した翌日の日曜日、中央市場を覗いてみた。
 市場の中は野菜、果物類のほか、穀物、日用品に混じってパステルなど軽食を出す店が軒を並べている。
 四十年にわたって中央市場で野菜などの販売を行っているという福地章仁さん(六一、二世)は、「二、三十年前はここにいる九〇%近くが日系人でしたが、今は少なくなる一方です」と嘆く。沖縄そばのフェイラの人気が、中央市場での日系人の比率を少なくしているようにも見える。
 しかし、具志堅サエコさんは「作り方が同じでも場所によってそばの味は違い、同じフェイラでも店ごとに固定客がつき、他の店では食べない人も多いのです」と屋台群の生存競争の激しさをしみじみと振り返る。勝連さんの叔母にあたるサエコさんだが、フェイラをやっていた頃は、別々の店でしのぎを削っていたとも。具志堅さんたちが六年前に日系人に譲った店はすでに無く、体力以外に味、経営面での手腕も問われる。
 「今でも何年かぶりに昔のブラジル人のお客に会うと、『どこに店を出しているんだ』と聞かれることがあります」とサエコさんは苦笑する。
 一九五八年に渡伯した夫の具志堅弘さんはフェイラを出店する前は肉の加工業など二十三年間にわたって携わってきた。しかし、スーパーマーケットの大型店などが進出し始め、普通の個人商店では割に合わなくなってきたという。
 「私たちが始めた当時は小さなフェイラで、ブラジル人の客もそばにしょう油を入れて麺だけを食べていました」と具志堅さん。今ではブラジル人もそばの味を覚え、麺とスープをすする姿があちこちで見られる。そば以外にも焼きそば、焼き飯やシュラスコなども販売していることが、一般のブラジル人客が集まる一因にもなっているようだ。
 「ここに来るのは知り合いに会うため」
 フェイラに来ると何十年も会っていなかった知り合いに会うこともあるという。沖縄県系人のコミュニケーションの場が今やブラジル人にも深く愛されるようになった。
 今や屋台の経営は沖縄県系の二世、三世が九〇%を占め、非日系人の従業員も数多く携わっている。
 「フェイラは増えることはあっても、なくなることはないと思います」と現役の勝連さんは力強く語る。
 翌朝同じフェイラの場所を訪れると屋台群はすでになくなっており、設置された屋根組みだけが残されている。前夜の活気とは対照的な静けさが辺りを包んでいた。
 カンポグランデのウチナーンチュたちの「ゆいまーる」(結びつき)の気持ちがフェイラを支えている。(おわり・2001年9月サンパウロ新聞掲載))
 


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松本浩治 :  
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