視覚障害を乗り越えて 柔道が取り持つ日伯の輪 (2005/10/12)
「きっかけは日本の盲人会連合が、日本選手団の出場辞退を連絡してきたことでした」―。十月十二日、リオデジャネイロ市内体育館で開催された視覚障害者柔道世界選手大会に日本代表として出場した稲葉統也(もとなり)さん(三五)は、ブラジルに来た理由をこう語る。一通の電子メールが地球の反対側の人々を動かし、柔道が取り持つ縁で様々な人々がサポートした。情報が入りにくいという不安な環境の中、個人で出場エントリーした稲葉さんはブラジルで何をどう感じたのか。大会とそれまでの経緯を振り返る。
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日本からの一通の電子メールが、県連事務所に舞い込んだ。 「こういう人がいるよ」と同事務局から言われて見てみると、海外日系人協会を通じて転送されたメールだった。 内容は、十月十日から同十四日までサンパウロで開催される「視覚障害者柔道世界選手権大会」に個人で出場することになったため、サポートしてもらいたいというもの。記者と同じ三十五歳という年齢に興味がひかれ、静岡県浜松市にいる稲葉さんに連絡を取った。 当初、会場や選手団が宿泊するホテルなど詳細事項が何も決まっておらず、ブラジル側でのどんな詳細な情報でも知りたがっていた稲葉さんからの返答は早かった。まさに藁(わら)をもすがる思いで情報を待っていたに違いない。 稲葉さんが初めに受けていた情報は、大会がサンパウロで開催するというものだった。しかし、主催者側のABDC(ブラジル盲人運動協会)の話では、会場がリオデジャネイロに変更になったという。 稲葉さんからの要望は、大会に関するできる限りの情報提供とトレーニングのための伴走者の協力だった。 リオでの開催は決まったものの、主催者側からは大会の三週間前になっても詳細事項が入ってこない。周辺からは「大会は開催されない気配が濃厚」との噂さえ流れ始めた。 あいまいな情報しか伝わらない中、記者自身、リオに直接的な知り合いがいないため、まずサンパウロに来たらどうかと稲葉さんを誘った。サンパウロなら空港までの出迎えができることと自分個人で責任が持てると思ったからだ。 その後、様々な情報を探っていると稲葉さんが日本で連絡を取っていた日系旅行会社のサンパウロ本社から、「稲葉さんは主催者の指示に従って直接リオ入りした方が良い」との忠告があった。 この間、主催者側のABDC、県連、旅行社や稲葉さん本人とのやりとりでいくつもの団体や個人が絡んだために、情報が入れ違いになり錯綜(さくそう)した状況も起こった。各人がそれぞれに稲葉さんのサポートを確実にしたいという親切心が、逆に裏目に出るという皮肉な事態にさえ陥った。 結局、稲葉さん本人の「せっかくブラジルに行くのだからサンパウロも寄ってみたい」との判断で、十月九日来聖することになった。 稲葉さんが日本の成田空港を出発したのは、まさにアメリカがアフガニスタンに空爆を開始した十月八日。「支度を終えて、さあ出発という時に空爆が始まってしまいました。ぎりぎりまで家で待機して中止の電話を待つほどでした」と稲葉さんはその時の不安感を後に記している。
(2)
稲葉さんの視力が急激に低下したのは五年前。「網膜色素変性症」という遺伝やストレスが要因と推測されてはいるが、未だ発病した原因は不明の難病だ。今では光の明暗が何となく分かる程度の視力しか彼にはない。人生の脂が乗り始めた三十歳になってから視力を失ったことは、本人にとっても周辺にとっても大きなショックだった。 視力を失った当初は何もやる気にならず、暗く家の中で落ち込んでばかりいたという。稲葉さんには夫人と三人の子供たちがいる。 「子供たちは傍にずっといてくれて、困っていると声をかけてくれる。ごはんの時にはお箸(はし)を取ってくれることから始まり、今日のおかずや位置などを説明してくれながら食べる。自分が落ち込むと周辺の人まで暗くさせてしまう」と気付いた時、稲葉さんは明るさを取り戻していった。 柔道に再び出会ったのはその直後だった。 中学時代、稲葉さんは柔道部に所属。静岡県内でもスパルタ教育で名高い学校で三年間を過ごした。高校には柔道での指定校推薦まで受けられるところだったが、一方的に「やらされる」柔道に辟易(へきえき)し、中学卒業以降は柔道から遠ざかっていた。 「目が見えなくてもやれるスポーツとして再び柔道を選びましたが、中学時代にあれだけ嫌だった柔道が初めて楽しいと感じました」 九九年一月、タイのバンコクで開催された「北大西洋アジア柔道選手権大会」に出場。稲葉さんにとっては初めての国際大会でガチガチに緊張しながらも、マイナス九〇キロ級で三位入賞を果たし、自信がついた。 昨年十月にはオーストラリア・シドニーでのパラリンピック(障害者オリンピック)に日本チームの一員として出場。同じチームの人間とのふれあいに、試合の勝ち負け以上に大きなものを得た。 こうした中で、〇一年四月にブラジルでの「視覚障害者柔道世界選手権大会」が開催されるという情報を聞いた。当然、日本チームとして参加すると思っていただけに、日本盲人会連合からの一方的な通達に耳を疑った。 それは『日本チームが大会への出場を辞退した』というものだったからだ。最近、特に体力的な限界を感じつつあっただけに「ひょとしたらこの大会が選手としては最後になるかもしれない」とひそかに思っていた稲葉さん。それだけに、通達の内容に大きなショックを受けた。 稲葉さんは他の選手に出場を呼びかけた。が、皆それぞれに仕事の都合や金銭的な問題で出場できないという。日本チームとしての後押しがなければ金銭的援助もない。結局は、稲葉さん個人での出場エントリーをする決意を固めた。
(3)
稲葉さんは個人でのエントリーをすることになったが、主催者側と日本側との連絡が思うように取れず、壁にぶつかることの連続だった。ところが、ここで、目が不自由になってから始めたパソコンが大いに役立った。 日本チームが参加できないため「日本盲人会連合会には頼れない」と考え、個人的に連合会関係者の一人にブラジルとのコンタクトを取ってもらうようメールで依頼。その結果、日系人協会を通じて一通のメールが県連事務所に舞い込んだのだった。 そのメールを受けた県連では柔道関係にも強い日系旅行社に主催者側との連絡を取ってもらったところ、試合会場はサンパウロでなはくリオで開催されることになり、稲葉さんにその旨を報告した。 稲葉さんは慌てて航空チケットをリオ行きに変更したが、いつまでたっても主催者側から試合会場や宿泊先ホテルなどの細かい情報が入らない。結局、初めてのブラジル訪問のため、サンパウロにも立ち寄ることを決めた。サンパウロでは旅行社の出迎えをはじめ、静岡県人会役員たちの歓迎会など、もてなしを受けた。 ブラジル初訪問者の身を案じた記者は、あてにならない主催者側とは別にリオで稲葉さんを世話してくれる日本人を探した。そうしたところ、リオ連邦大学に留学している佐藤康志さん(三七)を知り合いに紹介してもらった。 稲葉さんは十月十日に飛行機でリオに移動。主催者側の事前説明では日本語の分かる関係者をリオのガレオン空港に迎えにやらせるとのことだった。ところが、出迎えたのは全く日本語を解しないブラジル人。目の不自由な稲葉さんに対して、「INABA」という紙を手に持ちながら待っていたという。リオへ行く前日の電話連絡で稲葉さんは「万が一に」と佐藤さんにも出迎えを頼んでいたことがやはり正解だった。 大会二日前にリオに着いた稲葉さんは、佐藤さんの自転車での伴走でフラメンゴ海岸を三十分ほど走ってウエイトを調整。そこに稲葉さんのことを知ったリオ在住の二世・川田ジョージさんが「(グラジャウ・テニスクラブ内にある)自分の道場で練習したら良い」と気前よく声をかけてくれた。 前の晩にサンパウロを出発し、試合のある十二日の早朝にリオ入りした記者は、とりあえず稲葉さんたち選手団が宿泊するホテルに直行。ホテルで待ち合わせた佐藤さんにリオでの状況を聞きながら、稲葉さんに再会した。 マイナス七三キロ級に出場する稲葉さんは軽量の結果、六九キロ。「体重を落としすぎた」と苦笑する。その後は今までの減量苦で楽しみにしていた食事。前の晩に日本食レストランで作ってもらったおにぎりをはじめインスタント味噌汁や豆腐にむしゃぶりついた。 会場はリオ西部にあるカンポ・グランデ区のミエシモ・ダ・シルバ体育館。稲葉さんは選手団と一緒に専用バスで会場入りするという。 「会場はリオ市内だろう」と安直に考えていた記者は、会場が市内から車で一時間もかかると聞いてたじろいだ。選手団の専用バスは人数制限があるため、便乗させてもらえる可能性は少ない。思案していると、佐藤さんの知り合いの日系人・イトウさんが仕事のついでに体育館まで乗せてくれるという。「渡りに舟」とばかりに好意に甘えさせてもらった。
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試合会場はブラジルでは珍しく、空調設備の利いた完成十年ほどの真新しい体育館だった。 開会式を前に会場を見回していると日系人らしき人が立っている。近づいて声をかけると、リオ州日伯文化体育連盟の鹿田明義理事長だった。前日に稲葉さんが出場することを知って急きょ会場に駆けつけたという。また稲葉さんに自分の道場での練習を促した日系二世の川田さんも会場入り。 そしてもう一人。柔道着を着た日本人の姿があった。つぶれた耳、丸太のような腕、鋭い眼光を放った表情は柔道経験の豊富さを物語っている。鹿田さんに聞けば新日鉄南米事務所長の浅賀健一さんだという。 浅賀さんは新日鉄本社で柔道部部長も務めたことがあり、当時は同社にいたオリンピック候補、世界選手権候補選手の指導も行ってきた。今でもブラジルで仕事の合間に後進の面倒を見ている。 試合前日に行われたリオ商工会議所主催の定例昼食会で鹿田さんに稲葉さんのことを聞かされ、「それでは監督役が必要でしょう」と代理監督を気軽に引き受けた。 稲葉さんにとって、浅賀さんや川田さんの存在は大きかった。当初は他の国の選手のように対戦相手の得意技や試合についてアドバイスを受ける人もいなければ、試合前の準備運動の一つで柔道の技を練習する「打ち込み」を行う相手もいないと思っていた。柔道経験者のみが知る温かい協力だった。 異国での孤独の闘いだと思っていた稲葉さんに思わぬブラジルでの仲間が自然と広がった。 開会式後の試合、マイナス七三キロ級の稲葉さんは、アルゼンチンのラミレス・ファビアン選手と対戦。二階級落とした選手の動きの速さに戸惑った。有効を先取されたあと、審判の「待て」との声で手を離した瞬間、ラミレス選手に支え釣り込み足で投げられた。慌てて技を返そうとしたが一本負け。落ちた瞬間に腰をひねり、激痛が走った。 「何か勝つことに執着できなくなった」「燃えてこない」という言葉を吐いた稲葉さんは、この時「引退」の二文字を考えたという。 続く敗者復活戦。キューバのエレス・モレノ・ペドロ選手とあたり、またも劣勢となったが、稲葉さんの起死回生の一本背負いが勝負を決めた。 次勝てば三位入賞の望みもつながった。しかし、結局は三位決定戦でカナダのモルテウ・ピエール選手に判定負け。五位入賞にとどまった。 稲葉さんは一回戦で敗れた時から、心の中にあったもやもやとした気持ちに整理がつき、後の試合は「楽しむ」ことに集中したという。 「競技としての柔道よりは楽しみながら長く続けていく柔道に変わっていくかもしれませんが、これからも柔道を末永く続けていこうと誓うことが出来た大会でした」と稲葉さんはこの大会を振り返った。 柔道を通じて日本をはじめブラジルとの人々と知り合えた稲葉さんは、「一番の素晴らしさは自分自身が大きく変われたことだ」と話す。 視覚障害を患い自分との孤独な闘いと思われた日々だが、実際には「目が見えている時以上のものを得た」とにこやかに語ってくれた。柔道を通じた人の輪が、日本とブラジルの人の輪をも広げていった。 (おわり、2001年11月サンパウロ新聞掲載)
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