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マツモトコージ苑
     2001年  (最終更新日 : 2006/07/05)
ビリグイの日系社会 [全画像を表示]

ビリグイの日系社会 (2006/03/07)  一九五八年に創立したビリグイ日伯協会(長谷川峯夫会長)。戦前には平野植民地などとともに日本人移住地が形成され、「数年で故郷に錦を飾りたい」との意思を持った典型的な戦前一世たちが存在した。戦後の勝ち負け抗争の嵐が吹き荒れた面影はなく、今や当時のことを知る人も少ない。近年では出稼ぎの波に飲まれ、二世中心の体制が続く中、日本文化の伝承が重要視されている。同地の日系人たちに話を聞いた。

(1)

 ビリグイ日伯協会は、戦後すぐの一九四八年ビリグイ協和会として設立。五三年に協和日本人会として名前を変え、五八年には現在の日伯協会として正式に発足して以来、五十年以上の時を刻んできた。
 戦前は、笠戸丸移民以降の移住者が移住地を形成し、ニッポランジア(現・ビラッキ)と呼ばれるほど日本人の数は多かった。しかし、戦後になって勝ち負け抗争が激しくなり、同胞同士が殺しあう惨劇が繰り広げられた。
 戦後の混乱が収まり、カフェ、綿生産で沸いた同地域は六〇年代から靴の生産工場が立ち並び、今では南米一と言われる子供用靴生産はブラジルでも有名になった。その影響により、八〇年代に三万人だった人口は今や三倍以上の十万人に膨れ上がった。
 ビリグイに在住する日系人数は二百五十家族。汎ノロエステ連合会(五十嵐二郎会長)の第二地区の本部として、周辺にある日系十団体とのつながりも強い。
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松崎前会長(左)と長谷川会長
 松崎貞夫前会長によると、人の流れが多いために協会への勧誘により、最近は少しずつ会員数も増えているという。
 「家にいることが少ない。親睦を目的とした会としては有難いほどに協力しあっている」と笑う長谷川会長の言葉通り、年間の行事が多く、陸上、野球、ゲートボールなどのスポーツ活動のほか、歌謡、社交ダンス、ヤキソバ会など数多い。そのため、先ごろ同地で開催された巡回活性化懇談会のまとめでは、各行事がかち合わないように調整すべきとの意見も出された。 
 しかし、九〇年代初頭からの出稼ぎの波はビリグイにも押し寄せ、「今や家族の誰かが日本で働いている」状態が続いている。その影響で働き盛りの三、四十歳代が少なく、会の役員は六十代が目立っている。
 さらに「一番の重荷は日本語学校」(長谷川会長)と話すように若い子弟の日本語に対する興味が薄れてきている。
 ただ、役員会、日本語学校の父兄会は意識して日本語主体で行われている。日本語の分からない二世から「自分が分からなかった日本語を子供には話してほしい」との声もある。
 昨年八月、日伯協会を通じて日本政府の草の根無償資金贈与によりビリグイ市立病院に医療機器が提供された。ブラジル社会への地域活性化により、同地の日系人への評価がさらに高まったのは確かだ。
 「あと十年たったら会はどうなるのか」と心配する声はあるが、「単なるクラブにするつもりはない」(松崎前会長)と日伯協会の存在を重視する。
 「世代が変わって会の形が変わるかもしれないが、日系人としての意識は伝えていきたい」と長谷川会長は日系人の誇りを強調した。

(2)

 ビリグイの旧セントロ地区のバスターミナル前でBAR(飲食店)を経営する宮崎妙子さん(八〇、二世)。 
 「日本語もポルトゲスもどっちも使えない」と笑う宮崎さんだが、BAR経営はビリグイの日系人で一番古く、すでに四十五年以上にもなる。
 長年、主人の繁男さんと二人三脚の生活を送ってきたが、二十年前に繁男さんが亡くなってからは弟の松尾マキハルさん(六三、二世)と一緒に働いている。
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弟とバールを経営する宮崎さん
 宮崎さんの父母は佐賀県出身。戦前、モジアナ線に入った。三年後に生まれた宮崎さんは十一人兄妹の三番目だが、長女として兄弟の面倒をみることが多かった。
 プロミッソン、ビラッキを経てビリグイの奥地の日本人移住地「ジャンガーダ植民地」で青春時代を過ごしたが、当時、誰もが家族の働き手として農業に携わってきた。
 「家の中ではブラジル語を使ってはいけない」というのが、いつもの父親の口癖だった。しかし戦後、日本語が敵性語になると、逆に隠れて勉強しなければならなかった。
 二十五歳で繁男さんと結婚した宮崎さんは五人の子供に恵まれ、九年後には「子供たちに学問をさせたい」と家族でビリグイの町に移り住んだ。
 「BARの仕事も一生懸命やりましたが、町の暮らしは百姓をやっていた時分に比べると大分と楽でした」
 当時、日系人でBARを営む人はおらず、最も人の集まるバスターミナルに店を構えた宮崎さん夫婦に周りの日本人たちの目は冷たかった。
 「そんなことをしているとマランドロ(怠け者)になってしまうよ」と忠告された。しかし、人の行き来の激しい場所での商売は栄え、逆にビリグイでBARを経営する日本人も増えだした。
 「父親は三年したら日本に帰るつもりだったけれど、結局、日本に帰れたのは五十年後でした」
 当時、周辺でも日本に帰ることができる人は少なかった。日本に帰れただけでも幸せな方だったが、宮崎さんの父親は念願の日本行きを果たしたあと、家族の生活するブラジルに戻り、すぐに息を引き取った。
 今では宮崎さんの子供達も成長し、サンパウロへと移り変わったが、年に数回は故郷に帰って来るのが宮崎さんにとって大きな楽しみだ。
 最近は少し耳が遠くなったという宮崎さんだが身体はいたって健康で、「家におっても何もすることがない。働けるまで働きたい」と元気な姿を見せる。
 「外人(ブラジル人)ばかりの客だけど、ママイ(お母さん)と言われて知り合いも多いです。こうして皆と話をできるのが楽しい」
 店の中央には今もBARを始めた当時からの頑丈な机が置いてある。今日も宮崎さんとともに客を迎え、時を刻みつづけている。(2001年4月サンパウロ新聞掲載)


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松本浩治 :  
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