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マツモトコージ苑
     2001年  (最終更新日 : 2006/07/05)
家族の肖像1(陶工技術団) [全画像を表示]

家族の肖像1(陶工技術団) (2006/04/02) (連載:神戸移民斡旋所船出の写真ー戦後移民48年目の家族の肖像①)

【前説】

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この飯沼写真館が移民たちの写真を撮った
 二〇〇一年四月から五月にかけてサンパウロ、ベレン、ロンドリーナで開催した写真展「二〇世紀の残像―戦後移住者船出の瞬間」(サンパウロ新聞社、ニッケイ新聞社共催)は大きな反響を呼び、展示された写真の約三十%が特定された。これら神戸移住斡旋所で撮影された写真のガラス乾板の所在が明らかになったのは、昨年八月だった。
 神戸港移民乗船碑建立の募金活動を続けている最中に、神戸市に所有者から寄贈の申し込みがあった。神戸移住斡旋所の保存問題や乗船碑建立などで連絡を取り合っていた神戸市国際部の楠本利夫部長から「貴重な移住者の写真が手に入ったんだけど、見に来ないか」と連絡をもらったのは、まだ残暑の厳しい八月末のことだった。
 寄贈されたガラス乾板は保存状態の悪いものも合わせて約一千枚。紙焼きにできるものがどれぐらいあるのか、その費用が多額になるという説明とともに写真に写っている人たちの氏名も、何年に写した写真かも特定できないでいるという。ともかく写真を見ないと話にならないと思い、神戸に飛んだ。
 試し焼きされた十枚程度の写真が机の上に並べられていた。これから出発するのだろうか、神戸移住斡旋所の屋上で写した集合写真や同斡旋所の玄関横で一張羅の洋服に身を包んで写した家族の写真、岸壁から離れていく移住船の出港風景など昭和三十年代初めに撮影したと思われる写真が目に飛び込んできた。
 「貴重な写真やねえ。何とか、ならへんやろか」と腕を組む楠本部長。写真を見た途端、「ブラジルで写真展を開けば写真の特定はできる」とブラジルでの写真展開催を申し出た。
 二十七年ほど前になるが、弊紙では日本の地方紙の協力を得て、日本からブラジルに移住した人で音信が途絶えている人たちを紙上で探す「尋ね人企画シリーズ」を数年間にわたり実施したことがある。そのときは、約九百件の尋ね人捜査の依頼があり、その判明率は八十七%に達した。このことが頭をかすめた。
 「かなりの確率で写真は特定できる」。
 そして、もうひとつ、写真に写っている移住者を見て、この人たちがブラジルで歩んだ道と「今」を知りたいと思った。四十年以上も前の写真だと思うと、この中の何人が存命で、広大なブラジルの大地のどこに生活しているのか、写真に写ったこの家族は今、写真を撮ると何人の家族にふえているのだろうかなどイメージが膨らんでくる。
 日本で撮った最後の写真であると同時にブラジルでの生活の第一歩の写真でもあるこの写真は、移住者のすべてを物語るくらい意味のある写真に違いない。移住者が箪笥の奥にしまい込んだ古ぼけたアルバムの一ページを飾って今は誰も見る人もない写真が公の場所に甦った。
 サンパウロ展の会場になった文協貴賓室で展示準備をしながら、この写真の持ち主の来場を願わざるを得なかった。開場とともに次々に写真が特定できた。展示した写真と同じ写真を手に握り締め、「これが私です」と涙ぐむ婦人。手にした写真は黄ばみ流れた歴史の長さを感じさせた。
 最終的にこれらの写真のほとんどが昭和二十八年(一九五三)から昭和二十九年(一九五四)頃に移住した人たちだと判明した。戦後移住再開直後に辻枠移民としてアマゾン各地に移住した人や松原移民としてドラードスに入植した人、呼び寄せ移住の人たちなど様々だが、展示された四十八年前の一枚の写真から浮かび上がったそれぞれの家族の肖像を追いかけてみることにした。
【東京支社・鈴木雅夫】

(以下、松本浩治担当)           

(1)

 「日本の陶器技術を世界に広めるため初の”技術移民”として多治見焼で名高い岐阜県多治見市の陶工水野要三氏(三四)一家五名をはじめ三家族二十名が二十九日午後一時神戸出航の大阪商船貨客船さんとす丸(八二八〇総トン)で晴れの壮途に就くため、二十八日午後三時同船に乗込んだ」
 一九五三年五月二十九日付けの神戸新聞は、当時の模様をこう伝えている。
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1953年5月29日出発の「さんとす丸」乗船者
 セピア色になり、破れた見出しの部分を自分で書き足したこの新聞の切れはしを今も大切に保存しているのは、初めて日本陶工技術団の一員としてブラジルに渡った小島康一さん(六七)。
 現在、華道家元池坊橘支部マウアー支所長も務める小島さんは、写真展のサンパウロ会場となった文協貴賓室で開催前日の生け花の飾りつけの準備をしている時、見覚えのある懐かしい写真の中に若き頃の自分の姿を見つけた。
 「飾りつけも一段落して、何気なく写真を見ていたのですが、それが自分であることにすぐ気がつきました」
 陶工団一行は、一九五三年五月二十九日、戦後移民二回目となった「さんとす丸」で神戸港を出発。太平洋周りで四十五日かかり、パナマ運河、ベネズエラ、リオデジャネイロなどを経て、同年の七月十二日にサントス港に到着した。
 小島さんたちは日本を出る二日前に地元・多治見を発ち、その日に神戸着。翌日に船中で一泊し、その二日後にはブラジルに向かうという慌しさだった。
 「神戸の町をぶらぶらと歩いたりもしたけれど、ほとんど何も覚えていません。移住斡旋(あっせん)所の前の坂がすごく急で、港が見えていたのが印象に残っているだけ」
 他の戦後移民が後に、収容所では一、二週間滞在したのに対して、陶工団は戦後すぐの技術移民ということもあって、収容所ではたった一日しか過ごしていない。
 同船者には沖縄移民や再渡航者、戦時中に日本に渡っていた二世など約五十人がいた。人数が少ないこともあり、和気あいあいとした雰囲気だった。
 同じマウアー市内に在住し、陶工団の中でも小島さんとは一番付き合いの深い奥谷澄男さん(六七)によると、船内では有り余る時間を使用して仮装大会、演芸会や運動会などをして楽しんだという。しかし、小島さんは特に船酔いがひどく「いつも奥谷に飯を持ってきてもらっていました」と、当時を振り返る。唯一、言葉だけは同船した二世から波の荒くない日に甲板のベンチなどで片言のポ語を習った。
 父親が岐阜県の陶磁器試験場で働いていたこともあり、多治見という環境で育った小島さんは、十七歳の時に自然と陶器の世界に入っていった。
 ブラジル行きが決まった時、「後から家族を呼びよせる」との気持ちを持っていた小島さんは、不安よりも期待の方が大きかったという。
 「外国に行って自分の陶工としての腕を試してみたい」
 小島さんは、日本の陶器の技術をブラジルで広めるとの大きな希望を持って海を渡っていった。

(2)

 陶工技術団の団長として三家族二十人を引っ張った水野要三氏(故人)は岐阜県内で経営していた工場を売り、「ブラジルに日本の技術を広める」という大義名分で小島さんら若い陶工を説き伏せた。
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多治見駅前で行われた陶工団の大々的な見送り
 当時は戦後、日本の景気もまだ上向きになる前の厳しい時代。将来的に家族でブラジルに渡ろうという考えもあり、その先遣隊的役割の小島さんは躊躇(ちゅうちょ)することなく陶工団の一員に加わった。その際「一人や二人の陶工では仕方がない」として、小島さんの親友でもある奥谷さんら周辺の町から若手の職人たちが集められた。
 ブラジルでは当時、陶器の技術を広めてもらおうと食料品を扱っていた戦前移民一世の故・土井万七氏がサン・カエターノ市郊外に陶磁器製造工場を建設。その工場内に独身寮があり、小島さんら陶工団六人の独身者たちは渡伯したその日からそこに入寮した。
 陶器工場は、当時で資本金約二億円をつぎ込んで完成させたもの。サン・カエターノの工場では陶器機械の据え付け、窯の試し焼きなどやるべきことはいくらでもあった。
 当初、独身者は工場に住み込むことができたが、後に家賃を払わなければならなくなり、小島さんは工場近くにバラック小屋を建て、五年間はそこから工場に通う日々が続いた。
 その頃、ブラジルの陶器技術は日本に比べると低く、数少ない陶器製作は主にドイツ系移民たちが担っていた。日本からの陶工団が行けば、必ず陶器は広く普及されると言われていた。事実、小島さんら陶工によって日本の陶器は広くブラジルに伝えられた。しかし、当時マウアー市にあったドイツ系陶器製造会社が同じ製品を半値にして販売し始めたことから、サン・カエターノ工場の経営は思わしくなくなった。
 「一時は陶工を辞めてコーヒー栽培をやってみようとも考えました」
 この頃はコーヒー生産が全盛の時代で、儲けを支配人と使用人とで半々にする「メイア」という方式が主流だった。小島さんは実際、パラナ州のクリチーバやロンドリーナなど農園の様子を見に行ったこともあったという。
 しかし、志半ばにして陶工を辞める訳にはいかなかった。後に来る小島さんの家族もそうだったが、陶工団がブラジルに出発する際に、ブラジルでの活躍を願う陶工関係者から地元・多治見駅で大々的な見送りを受けていたからだ。
 戦中は在郷軍人で何事に対しても厳しかったという父親の重男さん(九〇年に八四歳で死去)の影響を最も受けた小島さんは、「ブラジルで陶器をやる以上、石にかじりついても頑張らねばならない」という父の言葉を思い出していた。後から来る家族のためにも陶器づくりを続ける必要があった。
 小島さんは五八年から現在のマウアー市に移った。翌五九年には期待していた家族がブラジル入り。六〇年に五年間働いた工場を退職し、その退職金を元手にマウアーに六千平米の土地を購入。新しい陶器製造所を造った。
 独立したことにより、小島さんにとって本当の意味でのブラジルでの陶器づくりの真価が問われることになった。

(3)

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陶器をつくり続ける小島さん
 独立して工場を建てたものの電気がなかった。そのため、大切な窯づくりをはじめ何もかもが機械には頼れず、自分たちの手で行わざるを得なかった。
 陶器の原料となる土を絞る工程では専用の機械が使用できないために、手作りの天秤の片側に石を乗せ、テコの原理を応用して作業を行った。
 「工場をつくるのに、えらい苦労をしたもんですよ。とにかく何としてでもやっていかなければならなかった」
 ドイツ系の陶器工場が同じ製品の値段を下げてきてなかなか太刀打ちできなかったが、「外人と同じ物は作るまい」と小島さんは日本食器など独自の陶器づくりに力を入れだした。小島さんをはじめ、父の重男さん、母・せうさん、長兄の温義さん(いずれも故人)、次兄の政将さん(六一)と、家族全員が陶器製造に関わった。 
 特に重男さんは日本でも多治見の陶器試験場で働いており、その時に昭和天皇ご夫妻が視察されたこともあるなど、陶器に関しては常に手作りで職人としての気概を強く持っていた。
 陶器が最もブラジルで持てはやされたのが、六〇年代から七〇年代にかけてだという。コーヒーカップや皿などをかたどったミニチュアの飾り物が爆発的に売れ、「作っても作っても間に合わない」(小島さん)といった状況だった。そうした中でも重男さんは手作りの陶芸品の制作にこだわり続けた。
 日本陶器づくりとしての小島さんの名前も上がり、「全盛の時には日本食レストランの陶器のほとんどを手掛けた」というほど日本陶器は愛用された。しかし、自分たちで工場を建てた当初の苦しい時代に、ある日本人が食器用の陶器をすべて買ってくれたために生活をつなぐことができたことを、小島さんは今も忘れてはいない。
 家族総動員で陶器工場を支えたおかげで現在がある小島さん。だが、十五年前になくなった、母・せうさんのことを思うと悔いが残ると本音を漏らす。 
 「その頃は余裕がなく、金が少しでも残れば、工場の資金に回していました。今から思えば、人間は働くばかりでなく、たまには外に出て遊ぶこともしなければいけなかったと思います」
 七〇年代頃から陶器に代わってガラス食器、プラスチック食器が出るようになると、陶器は下火になりだした。また、九〇年代になると安い輸入製品が進出し、陶器づくりはさらに厳しくなった。
 全盛時代四十人いた従業員も今では十人ほどと少ない。しかし、小島さんは「安くしたからといって売れるものではないんですよ。日本食器に関してはまだ他人には負けません」と鋭い目を向ける。
 「自分の作った品物を遠い場所でたまに見かけることもあるのですが、やはり嬉しく思いますね」こんな一つ一つのことが今の小島さんを支えてもいる。
 今では原料の選択、土づくり、薬づくり、絵の具、絵描き、陶器づくりとすべての工程を行っているのは、小島さんの家族だけ。だが、先駆者たちの業績の一つとして陶器の絵画技術を広めた渡辺司毛広さん(七一)など、その分野ごとの功績は大きい。
 小島さんの長男・誠さん(三七)、次男・恵二さん(二八)は現在、どちらもコンピューター技師の仕事に携わっており、「これからはよっぽど儲かる仕事でないと後を継いではくれないでしょう」と小島さんは話す。しかし、家族全員でつくり上げた工場を一代で潰したくないとの思いも当然ながら強い。
 「陶器の町に生まれ、陶器で死んでいく」
 小島さんの言葉が陶工としての思いを物語っている。

(4)

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同じ陶工仲間の奥谷さん
 小島さんの陶工仲間で、最も付き合いの深いのが奥谷澄男さん(六七)。現在では陶工としてではなく、ポップコーン(ピポッカ)工場をマウアーから南に約八キロ離れたリオ・グランデ・ダ・セーラに所有し、すでに息子に引継ぎ、年金生活を送っている。
 年齢が小島さんと同じで、住んでいるのもマウアー同士ということから、今でも何かあれば互いに連絡を取り合っている。
 岐阜県可児(かに)市の御嵩(みたけ)出身である奥谷さんは、十五歳で陶工として多治見に出て陶器試験場で技術を身につけた。御嵩は亜炭(褐炭の一種)の町で、陶工を志す者はほかに誰もいなかった。小島さんの父・重男さんが陶器試験場での師匠でもあり、小島さんともその時から顔なじみだった。
 十九歳でブラジル行きを自ら志願した時、親はただ「行って来い」とだけ言ったという。
 多治見に出た当初、奥谷さんは「何回、御嵩に帰ろうと思ったことか」とホームシックになった経験があったことを明かす。「そんなことが何回かあったから、多治見ではすでに故郷離れができましたよ。だから故郷のことよりもブラジルに来て毎日が楽しかったという印象の方が残っている」と述懐する。まだ若かった奥谷さんは恐いもの知らずで、陶器作りの仕事を終えると、ほぼ毎日のようにサンパウロへと遊びに出かけたという。
 来伯して二年目の五五年、奥谷さんは工場経営者と考えや意見が合わず、会社を辞める決意を固めた。ちょうどその時、陶工団の一員として一緒に来伯した小木久夫(昨年十二月に八六歳で死去)夫妻の夫人・妙子さん(七八)も工場を辞めた。小木夫妻は奥谷さんにとって実の親のように面倒を見てくれた家族のような存在。久夫さんは工場が閉鎖される最後まで働き続けたが、奥谷さんは妙子さんとともに新しい仕事へと移って行った。
 「(陶器作りには)未練もなかった」という奥谷さんは、妙子さんと二人でキタンダ(八百屋)を始めた。資本も少なくてすみ、何より手っ取り早かったからだ。
 「(陶器)工場を行うには人が必要だった。この時にブラジルでは雇われたらダメだと思った」
 キタンダを七年間行った後、奥谷さんは小木さんの娘の孝子さん(五七)と結婚。いつまでもキタンダをやってはいられない、とマウアーの現在の家の横に土地を買い、食料品店を始めた。さらに六九年に従来の食料品からスーペルメルカードに移行。当時この形態は少なかったが、消費者には品物を自分の手に直接取って見られる方式が受けたようだ。
 「運が良かっただけですよ」
 奥谷さんはそう言って笑うが、常に時代の先を見つづけ、転換期を逃さなかった。
 八九年、いつまでも利幅の薄いスーペルメルカドに頼ってはいけない、とブラジル人に店舗を貸し、自らはポップコーンの工場を借りた。
 「未知の世界に飛び込むのには勇気が要り、不安でした」と語る奥谷さんだが、その頃すでに大型スーパー店がマウアーにも進出し、「俺達の力では太刀打ちできない状況だった」という。
 大学に行きながら工場を手伝ってくれた息子の誠司さん(三四)が後に奥谷さんにとって最大の協力者となる。

(5)

 現在、奥谷さんが始めたポップコーン会社は息子・誠司さんの手によって着実に大きくなっている。始めた頃は数人だった従業員も今では二十人に増えた。
 数年前に経営を任せた奥谷さんは「今では仕事に行っても行かなくても息子がやってくれる。少し経営面で協力するくらいですよ」と照れくさそうに笑う。
 ポップコーンの製造技術は、ブラジルには四十年ほど前に日本人が導入したと言われている。
 奥谷さんは当初、従来の機械を使用して製造を行っていた。ところが、大学に通う誠司さんがセンサーなど次々と機械に取り付けはじめ、最終的にはメーカーにはない独自のポップコーン製造機械を作りだすようになった。
 最新の機械は今年五月に導入し、製造過程の機械だけで、すでに十台は取り付けたという。
 「この業界は競争が激しいために、他といかに違うことをするかが大きい」と奥谷さんは語る。
 そのため、製造過程は企業秘密で「外部から訪問者が来ても工場内部は見せない」と奥谷さんは口では笑いながらも、その目は鋭い。
 「もう陶器に対する思いは何もない。陶器は小島に任せている」
 奥谷さんは自分が歩んできた人生を振り返って何の悔いもないという。そこには同じ陶工の仲間との絆がある。たとえ現在の進む道は違っても、一緒にブラジルに来たことが奥谷さんにとって大きな支えになっている。
 「日本を出る時からブラジルの土になる気持ちでやってきた。ブラジルで農業はやってこなかったが、日本人として我々以前に来ていた先輩移民の信用があったからここまで来れた」とも。
 昨年十二月に亡くなった義父の久夫さんは、サン・カエターノの工場が閉鎖されるまで残った一人だが、その後、奥谷さんが始めた食料品店の手伝いを行ってもきた。陶器の原型士としての誇りを持つ久夫さんの作品は、今も奥谷さんの家の二階の作業場にガラス張りで大切に保管されている。
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故・久夫さんの作品群と家族たち
 「作業場には絶対に誰も入れなかった」という久夫さんの妻・妙子さんは「岐阜では日本でも最高の原型士と言われ、『何故ブラジルになんかに行くのか』と周りからはよく言われていました。外国に行くのが好きで、ブラジルに来ることになりました」と当時を振り返る。
 他の陶工の仲間たちとはしばらく会っていないという小島さんたちは二〇〇三年、渡伯五十周年を記念して皆で集まろうと企画している。
 当時来た二十人の中で、今ではすでに四人が亡くなっている。ブラジルに渡ったそれぞれが、今では別の道を歩いてはいるが、陶工団としての思いが小島さん、奥谷さんたちを突き動かしている。
 「ブラジルに来て良かったですよ」
 多治見の陶器技術の先駆者たちは、同じ思いを噛みしめた。
(この項おわり・サンパウロ新聞2001年6月掲載)


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