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マツモトコージ苑
     2001年  (最終更新日 : 2006/07/05)
家族の肖像2(松原移民) [全画像を表示]

家族の肖像2(松原移民) (2006/04/16) (1)

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1953年12月「あふりか丸」の渡航者
 新聞の前宣伝で自分たちの姿を見つけ、サンパウロの写真展会場に足を運んだという太田鶴子さん(七〇)、百合子さん(五九)の姉妹。大伸ばしになった写真を前に「懐かしい」という言葉を繰り返しながら当時のことを思い出していた。
 一九五三年、戦後四回目の松原契約移民として、パラグアイ国境に近いマット・グロッソ州ドラードスに入植した。
 三重県出身だった父親の俊雄さん(故人)は、九歳で家族とともに北海道に移住。鶴子さんたちの後の母親となる、同地出身のスギさんと知り合った。
 旭川に近い納内(おさむない)で生まれた鶴子さんは、家族とともに幼少の頃から米作りを行うなど、農業に携わってきた。
 戦後、日本の経済がまだ右肩上がりになる前は暮らしも苦しく、俊雄さんや兄の栄一さん(九六年に六十九歳で死去)たちは先行きの見通しもつかなかったという。
 そうした時、戦前にブラジルに渡った北海道からの移民が日本を訪問した際に、ブラジルの良さを説き移民の世話を行うという話があった。ブラジルに行くことを決意した父たちはその話を聞いて、北海道庁に出かけ、渡伯の手続きを行った。
 鶴子さんは当時、夫の一郎さん(故人)と結婚したばかりの二十三歳。「今さらブラジルの未開地の原始林に入ってどうするか」と海を渡ることを渋った。
 「私だけ残る」と意地を張った鶴子さんに兄の栄一さんたちが家族会議を開き、「残していくか」と判断したが、父の俊雄さんが「子供は絶対に日本に残していけない」と許さなかった。
 結局、納内からは太田さんたち二家族十一人が初めてブラジルに行くことになった。納内の駅前で地元の学校の校長が見送りのあいさつををしてくれたことを鶴子さんは今でも覚えている。
 五三年十二月七日に札幌を出発した太田さんの家族は同九日、神戸の移民斡旋所に着き、二週間を過ごした。
 北海道からは移民団十二家族が一緒になり、当時斡旋所の前で撮影した写真にも「北海道ブラジル移民団」の幟(のぼり)の文字が見える。
 斡旋所では身体検査、パスポートの取得、買物など準備を進めていたが、特に鶴子さんが印象に残っているのが六甲山に登ったことだという。
 「夕方の夜景を見て海を見下ろした時、『この港から出発するんだなあ』という思いとともに『もう二度と日本には帰ってこれないかもしれない』と感慨深くなりました」
 「行くと決めたからには頑張らないかん」と決めた鶴子さんだったが、太田さんたち家族を待っていたのは、受け入れ態勢もできていない移住地だった。ブラジルの赤い土と原始林の広がりが家族の開拓心を叩きのめした。

(2)

 太田さん家族が神戸を出発したのは、一九五三年十二月二十三日。「あふりか丸」での航海で翌年二月十八日にサントス港に到着した。
 航海中、特に太平洋上は波が荒く、甲板に波が被さることもしょっちゅうだった。そのため移民たちはベッドで寝ていることが多く、何日かはご飯を食べることも、ままならなかったようだ。
 「船がひっくり返るかと思いました」と当時十一歳だった妹の百合子さんは語る。
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パントゥーラで陸稲栽培する太田一家
 サントスからドラードスまでは汽車で一週間。車内は「日本の汽車の三等車よりも悪かった」(百合子さん)というほどで、夜は座ったままか床に荷物を置き寝転がるしかなかった。ドラードス付近の名も分からない駅に着いた際、これから入る移住地の関係者がトラックで迎えにきていた。休む間もなく、幌なしのトラックに乗ること数時間。「強い日差しで顔などはヒリヒリに焼けていました」
 自分たちがこれからの生活を営む移住地には、すでに入植していた和歌山県人たちの姿があった。後に分かったことだが、移住地はすでに受け入れ態勢ができる状態ではなかった。
 土地が分割されるまでの間、木造の学校にとりあえず寝泊りすることになったが、便所もなく、ただ板が敷いてあるだけのものだった。
 「便所は学校の周辺に穴を掘り、水も近くのブラジル人からもらい受けバケツにかついで取りに行く生活」が続いたという。
 「ハエも多いし、とにかくひどかったねえ」と鶴子さん、百合子さんは口を揃える。
 風呂も土管のふたを開けたものを洗浄し、周りにダンボール箱で囲った簡素なもの。ダンボールの天井に見える耿々(こうこう)と光る星を見て鶴子さんは「この星も日本で見る星も同じだろうか」とブラジルに来たことを早くも後悔したという。
 とりあえずの仮住まいの学校での生活も八ヵ月が過ぎたが、いつまで待っても土地をくれるという雰囲気はなかった。
 鶴子さんはすでに入植して三ヵ月目にして移住地の生活に嫌気がさし、パラナ州アサイ市に住んでいた叔母のところを経て、早々とサンパウロに出ていた。
 百合子さんたち残った家族は、仕方がないので日本で売った土地の資金で周辺のブラジル人から土地を買った。ブラジル人が持っていたボロ小屋をコッケイロの木で継ぎ足したが、隙間だらけだった。
 そのうちに原始林を切り倒して本格的な住居をつくり、どうにか人並みの暮らしができそうだった。
 すでに移住地に入って四年が経過していたが、またも試練が太田さん家族を襲った。購入した土地には四年ものの小さなコーヒーの木が育ちつつあったが、その年の大霜でコーヒーは全滅した。移住地からの撤退を余儀なくされた。

(3)

 百合子さんたちはコーヒーの全滅で移住地を離れざるを得なくなり、日本人の世話でドラードスからさらに奥地のパントゥーラに移った。
 百合子さんは兄の栄一さんたちとともに必死の思いで陸稲(おかぼ)作りに専念した。その甲斐が文字通り実り、豊作となった。少しずつ生活にも余裕ができだした。
 「十二アルケール(二八・八町歩)の土地にある原始林を少しずつ切って耕地を増やしましたが、陸稲は自分の背ぐらいの高さにも伸びました」と百合子さんは苦しかった時代を振り返る。
 一方の鶴子さんは、サンパウロ市内で日本食レストランなどを転々とし、七九年にブラジル人との共同経営で自分のレストランを持つに至った。
 しかし、その店は二年で閉鎖。理由は強盗だった。二年間で三回の被害に遭い、三回目の強盗は鶴子さんの夫に拳銃を突きつけ、現金を奪って逃走した。夫も持っていた拳銃で対抗し、犯人は逮捕され留置場に入れられたが、鶴子さんたちは強盗の仕返しを恐れて、泣く泣く閉店した。
 妹の百合子さんは、パントゥーラに入った二年後に父親の「もう年頃になったんだから洋裁でも習わないといけない」という言葉により農地を離れた。パラナ州ロンドリーナに在住していた叔母のところの世話になり、ある日本人の家に住み込みながら洋裁を二年間習った。
 「父は私の将来のことを考えてくれたようですが、兄たちは農地から人手が足りなくなることを心配し、私たちの家にいた隣の男の人と結婚してほしかったようです」
 その後、姉の鶴子さんを頼ってサンパウロに出た百合子さんは、美容院に住み込みながらその技術を学び、自らも三年間美容院の店を開けた。
 結婚とともに店も閉め家族との生活を送って来たが、大黒柱の夫を五年前に亡くした。今は長男の利一さん(三二、二世)が頼りだ。
 利一さんは九〇年から五年間、日本で出稼ぎを行っていたが、父親の死をきっかけにブラジルに戻り、百合子さんとともに暮らしている。
 また、鶴子さんも二度目の夫も亡くし、当初二家族十一人で来た中で、すでに六人が亡くなっており、女ばかりが残ったという。
 鶴子さんの一人息子・武志さん(四二、二世)も十二年前に日本に出稼ぎに行き、この三年は戻っていない。しかし、電話などでの連絡は欠かさず、三年前にカラオケ・レストランで働くのをやめた鶴子さんは、週末は武志さんのアパートの掃除を行うなど積極的に身体を動かすように努めている。また、百合子さん宅にも週一回顔を出し、ブラジルに一緒に来た家族との絆を深めている。
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現在の太田鶴子さん(左)と百合子さん姉妹
 初めの入植地ドラードスには現在も六十歳を過ぎた、いとこの太田イサオさんが農業を営んでいるという。
 「この歳になったら健康で一日一日を暮らせたらそれでいいです」と微笑む鶴子さん。
 今は静かな余生を送っている。(この項おわり・2001年6月、7月サンパウロ新聞掲載)


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