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マツモトコージ苑
     2001年  (最終更新日 : 2006/07/05)
家族の肖像3 辻移民(戦後アマゾン移民)の西尾さん [全画像を表示]

家族の肖像3 辻移民(戦後アマゾン移民)の西尾さん (2006/06/11) (1)

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写真中央に西尾さんの叔母の姿が
 同じ移民でも当然ながら皆、バラバラの境遇を経ている。
 辻小太郎移民(戦後アマゾン移民)として、マナカプルー移住地のベラ・ビスタ植民地に入植した西尾八州子さん(六五、北海道出身)。
 一九五四年七月三十一日に神戸を出発し、同八月二十七日にベレンに着いたという。船は「ぶらじる丸」で処女航海だった。
 八州子さんの父・正雄さんは鳥取県出身で、富山県出身の夫人・かほるさんと結婚後、富山の北海道開拓団の一員として極寒の地に渡った。
 しかし、戦後になり「土地が狭いことから分家させられない」状況だった。そうした時、道庁から南米への移住の話を聞いた叔父の茂古沼専一さん、邦一さん兄弟はブラジル行きに大きな夢を抱いた。
 叔父たちのブラジルへの思いが日増しに高まる中で、十五歳以上の労働力がないと審査で引っかかる可能性があるため、当時十八歳だった八州子さんに白羽の矢が向けられた。八州子さんさえ「ブラジルに行く」と返事すれば構成家族は成り立ち、すでに一回目の応募には外れていただけに、叔父たちの八州子さんへの期待は大きかったようだ。
 当時、帯広市内に住んでいた八州子さんは十八歳。父を早くに亡くしたこともあり、母と姉との三人暮らしが長く、事あるごとに叔父たちの世話になっていたという。
 「日頃のご恩返しができるものならという家族の気持ちもありましたが、まさか本当にブラジルに行くとは思ってもいませんでした」
 元々、八州子さんは中学を卒業したら父の兄から「高校に行きたければ行けばよい」と言われていた。しかし、母のかほるさんは「手に職があれば生きていける」と八州子さんには和裁、刺繍などを行う技芸学校へ通わせた。
 「母の望みで自分の意志を持てずに技芸学校に行きましたが、嫌々ながら行っていたのが正直なところです」
 叔父兄弟の二家族と一緒に北海道から神戸まで行った八州子さんは、収容所での二週間での生活が行われるにつれ初めて「大変なことになってしまった」と後悔した。
 夜になると収容所の前の夜汽車を眺めては、「あの汽車に乗って帰りたい」と思い続けたという。
 ブラジルに行く船の中でも船酔いがひどく、約一ヵ月間食事は「おかゆ」と梅干だけでほとんど寝てるだけの生活だった。
 八州子さんたちが行くことになったマナカプルー移住地は当時、ベラ・ビスタ植民地とアグア・フリオ植民地の二つに分かれており、ベレン到着後すぐに陸に下りることなくマナウス行きの船に乗り換え、さらにマナウスから船で四時間かかる同植民地にようやく着いたという。
 しかし、自分たちがこらから住む場所は小石が多い土地で「こんなところで何ができるか」と親戚たちも呆然となった。八州子さんたちは、入植後一年二ヵ月で夜逃げを余儀なくされることになる。

(2)

 ベラ・ビスタ植民地には、八州子さんたちが第三回目の入植となった。到着した時は椰子の葉で囲った隙間だらけの家が二軒あるだけだったが、それでも無いよりは格段にましだった。
 八州子さんたちは運良くくじ引きに当たり、椰子の家に住むことに。小石が散在する土地で嫌気をさしながらも、食べていくためには作物を植えなければならず、米、マッジョッカ、グァラナなどを植えた。
 しかし、恐ろしいのは畑仕事を終え夕方になる頃だった。熱帯の湿気の多い土地柄から毎日、蚊の大群に悩まされ、「身体中隙間もないほどにかまれた」(八州子さん)という。
 日本から持っていった蚊帳(かや)が非常に役に立ったが、食事も蚊帳の中ですまさなければならないほどだった。
 「特に夜にトイレに行くのは死に物狂いでした」
 植民地は結局、第四回目の入植で最後となり、すでに準備する家すらも建っていない状況だったという。
 原始林を伐採し、州から配給されたグァラナの木に毎日水をかける生活が続いた。植民地に将来性もなくこのまま居残っても仕方がないとベラ・ビスタの四家族、アグア・フリアの一家族の計五家族が一緒になり、五五年十一月トメアスーに移住した。ほとんど夜逃げの状態だった。
 当時、トメアスーはピメンタ(胡椒)景気で賑わい、木村総一郎というトメアスー組合長が経営する農場で八州子さん家族は働いた。
 二年後、八州子さんは組合で働く西尾氏の長男だった一夫さんと結婚したが、一年後には体重が十キロも減った。
 結婚して数年は景気も良く、労働者も使用するなどしていたが、六〇年代後半、ピメンタに病気が出回り、西尾さんのところも全滅した。その後すぐに金銭につながる養鶏やマラクジャを栽培したりしたが、労働者を雇う余裕もなく、除草、伐採、肥料やりなど自分たちでやるしかなかった。
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ベレン市内で美容院を経営する西尾さん母子
 二人の息子をもうけていた八州子さんだが、六四年、長男が白血病を患い、五歳で亡くなった。当時次男の西尾ジョージさん(三八)は一歳だったが、「もし次男がいなければ日本に帰るところでした」と八州子さんは本音を漏らす。
 後に八州子さんの母の妹が遅れてブラジルに移住。ベレンに住んでいたこともあり、ジョージさんが十一歳になった時に学校に通わせるためにも叔母のところにジョージさんを預けた。
 その後、九一年に八州子さんもベレンに出てきて、今ではジョージさんが経営する美容院の助手として、これまでで一番落ち着いた時を過ごしている。
 ジョージさんは地元の大学に行きながら銀行に八年勤めていたが、八九年から九四年までの五年間、日本で出稼ぎを行い、九五年にサンパウロで美容師の資格を取得。同年七月から勝手知ったるベレンで自分の店を持つに至った。
 八州子さんはこれまでに四回日本に帰国しているが、今でも日本に帰って暮らしたいという望郷の念は強い。
 「フィルムみたいに戻せるなら、ブラジルに行く前の時代に戻りたい」
 八州子さんは家族のことを考えながらも現状を見つめつつ、こぼれる涙をそっと拭った。(この項おわり・2001年7月サンパウロ新聞掲載)


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