家族の肖像4 滝田さん (2006/07/05)
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北伯(伯はブラジルの意)ベレンから約二百五十キロ、トメアスー移住地に入植した滝田さん家族。 一九五五年九月二十七日に神戸を出航、同十月三十日に滝田操さん(八二、福島県出身)はベレンに到着した。夫の余慶さん(故人)は当初、レントゲン技師としてブラジルに渡ったが、結局レントゲン機械は到着せず、トメアスーで写真館を開いた。 滝田さん家族がブラジルに行くきっかけになったのは、余慶さんが交通事故に遭ったことだという。 オートバイに乗っていた余慶さんは、東京発仙台行きのトラックに跳ね飛ばされたが、運良く軽症ですみ、一命を取り留めた。 当時財産も何もなかったという操さんは「こんな事で主人に死なれたら家族をとても食べさせていけない」と不安感が大きくのしかかった。 そうした時、近所に住む日本人がブラジルに行くというので一緒に行くことを決めた。 「トメアスーで胡椒を作れば土地はタダでもらえるし、金も貯まる」 この言葉が操さんたち家族にとってはとても魅力だった。 構成家族が必要だったが、一緒に構成家族を組んだ日本人は健康診断で引っかかり、結局ブラジルに行くことはできなかった。当時、六歳を筆頭に三歳と一歳の三人の子供がいた操さんは神戸の移民斡旋所に行っても気が気でなかった。 ベレンで開催された写真展で自分の姿を他人に指摘されても、それが自分だとは思えなかった。 「収容所でのことはまったく覚えていません。ブラジルに行けなければどうしようかと、そればかり考えていました」 幸い、構成家族にトメアスー産業組合の専務理事をしている知り合いがいたことから、トメアスー在住の阿部昇さんという日本人がパトロンとして「うちで引き取る」と言ってくれた。 やっとのことでブラジル行きが決まり、ベレンからトメアスーに入ったが、余慶さんのレントゲンの機械がいつまでたっても到着しない。操さんは阿部さんのもとで三年間の耕作義務を果たし、その間、余慶さんはトメアスーの中心地クアトロ・ボッカスで写真店を経営した。 元々余慶さんは東京で写真の技術を習得しており、戦後復員してからは新聞社で写真を扱ったり生活共同組合で映画の上映係りも行うなど、当時から映像関係には興味を示していた。 また、戦時中は衛生兵として戦地を駆け回り、シベリアに抑留された経験も持つという。 レントゲン機械が到着しなかったことが、逆に滝田さん家族の生活を変えた。操さんは農業を続けながらも、次第に夫の写真の手伝いも行わざるを得なくなった。 「ピメンタ(胡椒)をつくるだけでなく、写真という副収入があったことが生活を支えました」と操さんは亡き夫に写真技術があったことに感謝する。
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トメアスーでレントゲンの機械が入るまでの間、夫の余慶さんは、移住地で催し事があると写真を撮り、それを販売していた。日本から写真の引き伸ばし機や修正の道具を持って来ていたことが、農業とともに滝田一家の生活を支えた。 「日曜日に写真を撮りに行って、週日の夜に写真を焼いてはそれを売っていました」と操さん。 結局レントゲン機械はトメアスーに到着せず、移住して十年たった時、余慶さんは思い切って写真館を建て、移住地内で写真同好会もつくった。 当時、ピメンタ景気で移住地内には金持ちも多く、写真の技術を教える余慶さんは重宝がられたようだ。 しかし、滝田さん家族の生活は苦しく、当時は電気もない生活。写真の密着作業には日中は太陽光を利用し、夜は電球の変わりにランプの光を使ったという。 「今でも息子たちからは親父やお袋のような知恵はないと言われます」と操さんは、まんざらでもない様子。 操さんはピメンタ作りに精を出していたが、家族を支えるために夫の手伝いも欠かさなかった。「夜になって写真を切ったり干したりすることもやりました」 三年の農場での義務を果たして独立した操さんだが、構成家族がなかったためにパトロンからの恩恵をあえて断った。トメアスーでは当時、独立する際には千本ほどの胡椒をパトロンから分けられるのが普通だった。操さんはブラジルで受け入れてくれた阿部さんへの恩返しのつもりだった。自分で八百本の胡椒を植えていた操さんは「写真での副収入があったから耐えることができました」と話す。 男手がなかったために操さんは、カマラーダ(雇われ労働者)と同じ労働をこなした。そのため何度か死にかけたこともあった。 ある日、トラクターのハンドルとブレーキが利かなくなり、谷底に落ちそうになった。トラクターの後方に乗っていた労働者の一人が慌てて飛び降りたためにトラクターと牽引車がかみ合う形となり、落ちる寸前にかろうじて止まったという。「その時は何にも考えていませんでしたが、今でもその時のことは夢で見ます」 今ではブラジルに子供たちを連れてきたことが間違ってなかったと思う操さんだが、当初は「こんなところに子供たちを連れてきても教育はできない」と随分と悩んだという。 「子供が土に絵を書いているのを見ると、クレヨンも買ってやれない自分の情けなさに涙がこぼれましたよ」 しかし、移住地は当時日本人ばかりで日本語だけで事足りる時代。家の中では自然と言葉も日本語になった。 「子供が大きくなるにつれ、日本の親戚のもとに子供達を預けて教育してもらおうと考えたこともありましたが、今では逆に小さい頃にブラジルに連れてきたことが、かって子供の教育に良かったと思っています」 子供たちの成長が操さんにとって一番の嬉しさだった。
(3) 子供たちも大きくなると、やはり勉学を行うためにはベレンに出る必要があった。一九六五年に長女の俊子さん(五一)が高校に通うため、十六歳でベレンに出た。その頃は農場のパトロンだった阿部さんがベレンにいたため、俊子さんはそこで下宿した。 その後、成長に伴い長男の勝仁さん(四九)、次女のいつ子さん(四六)が続けてベレンに出ることになった。姉弟三人が共同で部屋を借りるようになると、俊子さんがベレンでの母親の役割を果たした。 操さんは当時、ピメンタ作りのことで頭がいっぱいだったこともあり、子供たちは学校が休みになると父母を訪ねてトメアスーに帰った。 「今でも子供たちは『あの頃はトメアスーにはテレビもラジオもなかった。お母さんと話するためには農場に行くしかなかった』と話します」 母と三人の姉弟たちはそれぞれの寂しさを紛らわすために、ベレンとトメアスーで文通することになった。ポ語の苦手な操さんはローマ字で、子供たちは日本語で手紙をつづり、お互いに字の間違いなどを添削しあった。 そんなやりとりが結局は家族のコミュニケーションにつながり、教育へとつながった。 七三年、転機が訪れた。操さんが植えていたピメンタに病気がつき、一晩で全滅。当時、二十町歩の土地に一万本のピメンタを植えていた操さんは体力の衰えを感じはじめていた頃だった。 「耕地は二十町歩あっても、その半分も使っていませんでした。他の人は労働者を使って十万本植えるのが普通でした」 ピメンタへの思いが人一倍あった操さんだが、トメアスー全体の胡椒栽培はその頃にはすでに全盛期を過ぎ、右下がりの時期を迎えていた。 夫とともに子供達のいるベレンに出てきた時、今度は余慶さんに運気が周ってきた。 白黒写真からカラー写真に移行しだした時期で、余慶さんもカラー写真技術を身に付けたいと考えていた。そうした時、日本の富士フィルムに技術研修生の受入れがあり、早速、応募。富士フィルムから採用するとの通知が来て、余慶さんは五十六歳で初めて帰国した。 「喜びましたよ。家のことは心配しないで行っておいでよと主人を送りました」(操さん) 研修先の技術者は、余慶さんがブラジルに渡る前に写真技術を学んだ師匠と偶然同じ人に習ったことが分かり、意気投合した。そのためカラー写真技術もその技術者から多くを学び取った。 研修を終えてベレンに帰った余慶さんは早速、日本の技術を駆使し、ベレンでは初めてのカラー写真の取り扱いに店は連日、多くの注文で賑わった。 「月曜日には一日に三百本ほどのフィルム現像の注文がありました。その頃は今と違って一枚一枚手で焼いていましたから、夜中の三時くらいまで働きました」 ベレンで初めてのカラー写真技術が、滝田さん家族の生活を大きく変えた。
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カラー写真技術の導入でベレンでは一世を風靡(ふうび)した滝田さん家族だが、操さんは子供たちが写真館を引き継ぐとは思っていなかったという。 「写真は、爺(じい)と婆(ばあ)の隠居仕事で良いと、いつも思っていました。子供たちには写真屋を継がせたくはありませんでした」 大学を卒業し、偉くなって欲しいというのが操さんの希望だった。実際、長女の俊子さんは医学関係の大学、長男の勝仁さんは現在ロボット工学博士としてマナウスに在住している。また、次女のいつ子さんも大学で化学学科を卒業し、操さんの念願は成就している。 ところが、次女のいつ子さんが九三年から写真館を引き継いだ。化学学科だったこともあり、現像液など薬品関係には強かった。 そのこともあったが、子供の頃から父母の写真に携わる姿を見て、自然と写真が好きになったという。 九六年に自動式のミニラボ機械を購入したいつ子さんだが、それまでは写真だけでなくBAR店や服飾品の店なども同時並行して営業していたという。 操さんはいつ子さんの姿を見て「やはり若いですよ。私らは思い切って(写真の)機械をよう入れんかったですよ。自分の子供ながら偉いと思いますね」と目を細める。 操さんは農業の生活に終止符を打ったあと、ベレンで七三年から八九年までの十六年間を写真業に費やした。 「写真をやめたくはなかったですが、子供たちが集まって話し合い『もういい加減自分の好きなことをしたらいい』と言ってくれました。年寄りが頑張り過ぎると若い者が伸びない。残念でしたけど、やめることにしました。もしあの時やめていなかったら今でも仕事していますよ」と操さんは苦笑する。 いつ子さんが現在の写真店を経営していて思うことは、店に来る客への対応だ。 「学生の頃から父母の仕事を見ていましたが、お客を大切にすることには特に気を遣っていました。そのことを今の従業員も知っていてブラジル人であっても日本的に振舞ってくれることが嬉しい」といつ子さんは父母の姿を手本としている。 ベレンで開催された戦後移住者の写真展で母に抱かれた自分の姿を見つけたいつ子さんは「思いがけない写真でした」と感激する。 「神戸での事はほとんど覚えていませんが、母の横顔が姪(めい)っ子の顔にそっくりなので、間違いないと確信しました」(いつ子さん) 父親の余慶さんが死ぬ前に「まだ親戚もいるし余生を日本で生活した方が良いのでは」と提案したいつ子さんたちだったが、父は「家族がここにいるのに、日本には帰りたくない」と語ったという。 「自分の子供には、将来、日本のことを見てきてほしい」と語るいつ子さん。 神戸を発つ前に撮った一枚の写真が、時を経てそれぞれの家族の人生をたどらせた。(おわり・2001年7月サンパウロ新聞掲載)
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