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マツモトコージ苑
     2003年  (最終更新日 : 2007/02/18)
58年目の戦後(特攻隊たちの回想) [全画像を表示]

58年目の戦後(特攻隊たちの回想) (2007/02/18)  二〇〇三年八月十五日、戦後五十八年目の終戦記念日を迎えた。第二次世界大戦中各地で戦闘を行い、生き残った日本人たちは現代日本の発展に何を思い、何を感じているのだろうか。当時、「御国のために」と自らの命を顧みなかった人たちの中には日本の敗戦後に海を渡り、様々な思いでブラジルに移住した人も少なくない。しかし、今や日系社会では戦争体験者が年々少なくなる中、次世代への語り継ぎが困難になっているのが現状だ。ここでは特別攻撃隊として数奇な運命をたどった聖州ジャカレイに在住する二人の日本人の軌跡を追う。

(1)

 ジャカレイの旧街道付近に在住する江口重豊さん(七五、鹿児島県出身)は、一九四四年二月に志願して十六歳で長崎県佐世保の海兵団に入団。二ヵ月間の基礎訓練の後大隅半島にある鹿屋(かのや)の航空隊に入隊した。
 「当時は周りに志願兵希望者が多く、『御国のためになれれば』というご時勢。何の疑いもなしに入りました」
 鹿屋で七、八ヵ月間、飛行訓練などを行なったあと、江口さんら「戦闘二〇五空部隊」の隊員六人は台湾への派兵を命じられた。
 四四年十一月、沖縄を経由する航路で台湾に向けて出発。駆逐艦で宮古島あたりを南下していた途中、自軍が敵軍潜水艦に向けて爆雷攻撃を行なった。その衝撃で搭乗していた艦内部の鉄の錆(さび)がバラバラと落ちてきたという。
 「いくら兵隊と言えど、当時は私も十六、七歳の少年。やはり生きた心地がしなかったですよ」と江口さんは、その時の爆撃の凄まじさを今も覚えている。
 ようやく台湾南部の「台南」に着いたが、自分たちが合流するはずの部隊はすでにフィリピンへと向っていた。仕方なく「台中」に駐屯していた盾(たて)部隊に合流。江口さんはそこで「攻撃四〇一部隊」として、人間爆弾「桜花(おうか)」での特別攻撃準備の指令を受けた。
桜花.jpg
人間爆弾「桜花」
 江口さんの説明では部隊では当時、「桜花」は俗称として「マルダイ」と呼ばれたという。マルダイは五百キロの爆弾の中に人間が乗り込み、運搬用の飛行機(母機)から切り離された際にはある程度の操縦ができ、敵機に向けて突進することが義務付けられていた。
 「爆弾そのものに羽が付いていて、前方の先端部に風車状のものがあった。風によって自然と爆弾の信管が抜け、飛行機から離れると安全装置が外れるような仕組みになっていた」と江口さん。数回の擬似訓練から桜花の機能を叩き込まれ「爆弾の中に入れば絶対に逃れられないこと」を熟知していた。また、念入りに自爆用の手榴弾も手渡されていたという。
 「命が惜しいとか、そういことは自分の頭では考えもしない年齢だったんでしょうね」
 江口さんは当時の思いを振り返り、そう語る。

(2)

 終戦二年前の四三年当時、太平洋上で展開されていた日本軍の戦局は厳しく、翌四四年十月のフィリピン・レイテ沖での戦いを機に本格的な特攻作戦が展開された。しかし、若き少年兵たちの母国を愛する純粋な突撃行動とは裏腹に、敵軍に大きな打撃を与えるほどの効果は悲しくも一部を除いては、あまりなかったようだ。
 江口さんたちも出動を待ってはいたが、敗戦色が濃くなりだした当時、戦闘機をはじめ「桜花」の母機そのものの絶対数が足らず、動くに動けなかったという。「桜花」で敵軍突撃する日が一ヵ月前に決まっていたが、一九四五年八月十五日の終戦により、結局、人間爆弾に搭乗して出撃する機会はなかった。
 終戦後、台中の基地で俘虜(ふりょ)となり、敵軍の監視がついた。基地からの外出は禁止されたが、生活そのものは悪いものではなかった。防空壕の中には補給していたパイナップルや桃の缶詰があり、食糧にも困らなかった。半年間の俘虜生活では、終戦後二ヵ月ほど経った頃、地元台中の民間人から竹やりで襲われそうにもなったが、翌四六年のはじめには駆逐艦に乗り、鹿児島の土を踏むことができた。
 実家に無事戻った際、畑仕事をしていた母親の驚きようは、江口さんがかつて見たことがないほどのものだった。十六歳で志願して航空隊に入隊した時、母親は涙一つ見せずに堂々と見送ってくれたからだ。
 「兄が軍属として満州に行っていたこともあり、その時母親はもう覚悟を決めていたんだろうね」と江口さん。家族の大切さを改めて悟った。
 その頃、父親は戦前移民としてブラジルに滞在していた。江口さん自身も元々は戦前移民として家族・兄弟とともに連れられ、五歳から七歳までの幼年期をバストスなどで過ごした。綿の豊作で比較的経済的に余裕のあった江口さんの父親は子供たちの教育問題を懸念し、母親と三男の重彦さん(二〇〇〇年にスザノで死去)、四男の江口さんを日本に返していた。
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「桜花」での特別攻撃準備指令を受けた江口さん
 幼年期のブラジルでの記憶はほとんどないという江口さんだが、復員後間もなく楽器のギターに興味を持ち、四七年に帰国した父親を迎えるために鹿児島から横浜港まで出向いた。父親の手には江口さんが事前に連絡、希望していた念願のブラジル製ギターがあった。ブラジルで父親と別れて実に十年以上の月日が流れていた。
 「九州で一番上手いという人にギターを習い、『流し』もやったことがある」と江口さんは、今でもギターの弦を嬉しそうにつまびく。
 終戦後の日本で建設会社や鉄鋼会社に勤務した経験のある江口さんは、三男の兄に誘われて母親たちと一緒に五八年、ブラジルに再渡航した。サンタ・イザベルなどでトマトやスイカなどの生産を行なったあと、八〇年代後半からは数回にわたって日本に出稼ぎに行くなど、現在の日本も見聞きしてきた。
 今はジャカレイで趣味の釣り、山歩きや時々はカラオケの伴奏としてギターを弾くという生活を過ごしている江口さん。戦争時代の記憶は今も脳裏に深く刻まれている。

(3)

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爆弾を搭載し、敵艦隊に突撃する「震洋艇」
 特攻隊の中でも、木製の小型艇に爆弾を積み込み、敵艦隊に突撃するという「震洋(しんよう)特別攻撃隊」がある。同攻撃隊の一員として、海南島で米軍攻撃の機会をうかがいながらも出撃命令が出ず、その思いを果たせなかった経験を持つ吉田官六さん(七六、福島県伊達郡出身)。
 一九四三年十月、旧制中学四年生(十六歳)だった吉田さんは、海軍飛行予科練習生(予科練)に志願して入隊。甲十三期生として、三重海軍航空隊の奈良分遣隊に派遣され、数十人に一人の採用というエリート集団の狭き門を突破した。
 その年の二月、南太平洋のガダルカナル島からは日本軍が撤退。同五月にはアッツ島の日本軍が全滅、玉砕するなど戦局は逼迫(ひっぱく)した状況を迎えていた。
 「今でも思い出すのは『このまま行けば、日本は負ける』と子供ながらに感じていた」という吉田さんは、少年航空兵としての生き方を自ら選んだ。
 同分遣隊では当時、海軍が買い上げたとされる奈良県天理市にあった天理教の施設を使用。海軍航空兵の基礎訓練として体操、水泳をはじめ、柔道、剣道、銃剣術、短艇漕ぎ、通信技術のほかグライダー飛行など「成兵」となるための徹底的な教育が行われた。
 その頃、太平洋で繰り広げられていた戦いで日本軍はしだいに追い詰められる形となり、戦闘航空機そのものが激減、戦地に赴くどころの話ではなかったという。
 当時、甲十三期生だけで二万人、奈良分遣隊には一万人の隊員が訓練を行なっていた。ある日、窓に暗幕がかけられた体育館に各分隊ごとに集められた。丸秘事項として「帝国海軍が新兵器を造った」との訓示を受けたあと、特攻隊として希望する者は、配布された紙に名前と三重丸を書くことを促された。
 この特攻作戦を志願した隊員たちの中には、熱望するあまり自分の指を噛み切り、血書で提出する人も少なくなかったという。当時、分隊長の世話役を務めていた吉田さんは分隊長室に入る機会が多く、志願者の名簿の中に血書が多数あったことを確認している。
 結局、二万人の中から五百人が特別攻撃隊として選ばれた。吉田さん自身も志願したが、合格できなかった。特攻隊に選ばれなかった隊員たちは「自分たちも戦地に行かせてほしい」と夜な夜な分隊長室に赴き直訴。その訴えは一週間にもわたったという。
 当時、約一年間の予科訓練を終えて卒業、本科練習生へと進んでいた吉田さんは、四四年十二月に実施された特攻隊の二次募集に合格し、長崎県大村湾にある小さな漁港「小串(おぐし)」にある臨時魚雷艇訓練所へと派遣された。
 そこで初めて新兵器と言われていた「震洋艇」と対面したが、「これを見た時は本当にがっかりした」と吉田さんは正直な気持ちを話す。同艇はベニヤ板を張り合わせた合板でできており、航空機で特攻すると信じて疑わなかった隊員たちにとっては大きなショックだった。日本軍の戦局の危うさを若き戦闘隊員たちも肌で感じたようだ。

(4)

 震洋艇は敵艦二百メートル手前で舵を固定し、隊員は爆発前に水中に飛び降りることが可能だと理屈的には言われていたが、「いざ戦場になるととてもそんなことはできない。助からないのは必至」というのが戦闘隊員たちの一致した気持ちだった。
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震洋特別攻撃隊員だった吉田さん
 小串に来て以来、毎晩のように震洋艇による突撃訓練を行なっていた吉田さんたちは、特別攻撃隊の一員として海南島への派遣命令を受けた。一個艇隊に十二名ほど、四つの艇隊に約五十人が福岡県の小倉港から出陣。吉田さんは第四艇隊に所属していた。
 輸送船三杯、航空母艦三杯から成る船団は、敵軍潜水艦からの魚雷を避けるために朝鮮半島を接岸航行。常に浅い場所を探しては測量兵が銛(もり)を投げて水深を測るなど、慎重を重ねて進行していった。が、遼東半島の旅順から黄海をまっすぐに横断している時、突然魚雷攻撃を受けた。夜中のことだった。魚雷が自軍船底をかすり、その振動で飛び起きた。「本艦はやられた」との声に船内はパニック状態に陥ったが、難を逃れた。吉田さんがあとから聞いた話では、船団に十五本の魚雷攻撃があったという。
 四五年二月にようやくの思いで海南島に到着した吉田さんたちは、同島にある日本軍の基地内で出撃命令を待った。
 「アメリカ軍が来れば、自分たちが先陣切って戦わなければならないという思いで、毎日、いつ死ぬか分からないという覚悟を決めていた」と吉田さん。言葉には出さないが、死を待つという当時の気持ちは精神的にかなり追いつめられたものがあったに違いない。
 実際、四四年四月の沖縄戦が始まる前には、実戦への待機命令が出され緊張は一気に高まったこともあった。
 結局、出撃命令が出ることはなく、海南島基地内で終戦を迎えた。「重大な決意のもとに第一線に行ったが、米軍侵攻の矢面に立てず、戦果を果たすことができなかった」という吉田さんは、当時の無念の思いから「本来ならこういう話は、表立ってしたくはなかった」としみじみ語る。一方で、これまで自分の心の中にだけに閉じ込めてきた戦争体験を「もう少し次世代に伝える必要があったのかもしれない」とも。
 一九五四年三月、戦後十年が経たない頃に知人の影響を受け、渡伯。「せっかく戦争から帰ってきたのに、なぜブラジルに行くのか」と日本に残った母親には泣きつかれたという。
 実家がリンゴ農園だったこともあり農業は苦ではなく、ブラジルに来てからも花卉・果樹生産を行い、現在では畜産も手がけている。
 戦後五十八年が経過した現代の日本について吉田さんは、「戦後、得たものも多いだろうが、帰属意識や国家意識など失ったものも多いと思う」と語る。
 「経済大国にはなったが、アメリカに押し付けられた今の教育で果たしてこの先どうなるのか」と日本の将来を憂う毎日が続く。
 戦争当時の自分たちの決死の思いとはあまりにもかけ離れた現代日本への反発感が、吉田さんの心を今も支配している。(おわり・2003年8月サンパウロ新聞掲載)

注:「震洋艇」「桜花」の写真は、「鳥飼行博研究室」から引用させていただきました。
http://www.geocities.jp/torikai007/1945/kaiten.html


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