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マツモトコージ苑
     2003年  (最終更新日 : 2026/04/30)
松原安太郎移民(前篇)

松原安太郎移民(前篇) (2026/04/24)  第2次世界大戦後、日本の国策による第一回の移民として、南マット・グロッソ州に入植した松原移民。和歌山県出身の戦前移民でサンパウロ州マリリア市に在住していた故・松原安太郎氏が当時のゼツリオ・ヴァルガス大統領から受け入れた枠により実現、計六十数家族が一九五三年、三次に分かれて海を渡った。しかし、整っていると聞いていた希望の地は苛酷な道づくりから始まり、血と汗と涙で開いたカフェ(コーヒー)農園は、度重なる大霜の被害に遭遇。全滅に近い状況に追い込まれた。「テルセイロ・リンニャ(第三線)」と呼ばれる移住地には現在、数家族しか残っていないが、移住地を出た人々、残った人々はそれぞれの道を歩みながらも、松原移民であることに誇りを持っている。松原移民たちがたどってきた道のりを紹介する。

(1)

 松原移住地は南マット・グロッソ州ドゥラードス市から東に約七十五キロの地点にある。当時の入植者、その家族が残っているのは(2003年)現在、わずかに三家族。カフェ農園は今やミーリョ(とうもろこし)、大豆畑や牧草地へと変わり、当時の面影はないに等しく、時代の流れを感じさせる。
 南マ州日伯文化連合会創立二十五周年記念誌『躍進への道』には「松原植民地を語る時、第一に記さなければならないことは、当時のゼツリオ・ヴァルガス大統領と植民地生みの親である松原安太郎氏との友好関係である」との記述がある。移住地の名前は、同氏の貢献を称えて命名されたものだ。
 同記念誌によると、ヴァルガス大統領当選の背景には松原氏の多大なる経済的援助があり、南伯(ブラジル南部)に移民導入を計画していた松原氏に日本移民四千家族の導入権利を同大統領が付与。一九五二年の講和条約により、第二次大戦前後は途絶えていた日伯関係も緩和された。当時の日本は大陸から軍人の復員や経済難など混乱状況にあり、それらの対策に困っていた政府は松原氏が持ち込んだブラジルへの移民再開の話に飛びつき募集を実施。松原氏の母県でもある和歌山県がいち早く動き出した。当時、入植したのは和歌山県五十六家族、岡山県五家族、広島県三家族、栃木県一家族と現地から四家族の計六十九家族だったという。
 一方、ブラジルにいる戦前移民の耳にも公式には十三年ぶりとなる戦後移民が来る情報が入り、狂喜した。戦時中、ブラジル国内で敵国扱いされてきた戦前の日本人移民にとって新移民再開の話は大きな励みとなり、松原移民たちがサントスからノロエステ線を鉄道で上がってきた際の各地での歓迎ぶりが、その喜びの大きさを表している。
 新移民歓迎と日系人同士の親睦をはかるため、一九五三年にはドゥラードス日本人会が発足し、初代会長に西村嘉平次氏が就任。松原移民の渡伯が同地域の日系人のまとまりを高めたと言える。
 しかし、移住地に入植するためには、同地への道そのものを切り拓かなければならなかった。「入植地は整地されている」と日本では聞かされていたが、実際には原始林の大木が無造作に切り倒されているだけ。女性や子供たちをドゥラードスにあった病院内の簡易収容所に残し、十五歳以上の男性には開拓の義務が背負わされた。一ロッテ(ロッチアメント)三十ヘクタールに区分けされた土地は、くじ引きで決められたが、この時のくじ引きがその後の命運を分けたと言っても過言ではない。
 六〇年代、七〇年代に大霜が移住地を容赦なく襲い、手塩にかけて育てたカフェはほぼ全滅の状態だった。移住地から入植者が自然と減り、生活のためにドゥラードスやサンパウロなど都市部に行かざるを得ない人がほとんどだった。しかし、松原移民の人々は言う。「自分たちは移住地を出て辛い思いをしたが、そのことがバネになって今の生活があるのだ」と。  誰もが、忘れたくても忘れられない思い出がある。

(2)

 (2003年)現在、ドゥラードス市内でメルセアリア(食料品雑貨店)を経営する岩畑公男(まさお)さん(六九、和歌山県田辺市出身)。一九五三年七月八日、第一次船(オランダ船・ルイス号)でサントス港に到着した。
 渡伯を決めたのは父親だったが、「自分の考えはなく、すべては父親に任せていた」という。当時、岩畑さんは十九歳。和歌山では米、麦作をはじめ、みかん作りなど農業をやっていたこともあり、移住地での生活には不安感は抱いていなかったようだ。しかし、カフェづくりはやったことがない。「何とかなるやろ」―。そういう気持ちだった。
 ドゥラードスから西に約八十キロ離れたイタウン駅に着いた第一次船約二十家族の一団は同地の簡易収容所に入り、十五歳以上の男性はすべて道づくり作業に従事した。ある程度、原始林の大木は事前に切り倒されていたが、そのことが余計に道づくりを手間取らせたようだ。倒れた大木を避けて道なき道を開くために約二ヵ月半の時間を要している。現場にはところどころ測量をしたと見られる杭が立てられていたが、原始林は色濃く残っている。その間、男性たちは茅(ちがや)や椰子の葉などで屋根を葺(ふ)いた「サッペ小屋」をつくり、密林に寝泊りしなければならなかった。
 移住地は現在、「テルセイロ・リンニャ」と言われているが、その由来は幹線道路から数えて三つ目の道にあることからきているようだ。移住地の土地は各家族に一ロッテ三十ヘクタールずつがくじ引きで分けられ、その区画は間口二百五十メートル、奥行き千二百五十メートルと均一で、移住地は碁盤の目のようになっていた。
 入植したものの、基本的な日用品の配給以外は食糧も足りない。一年目はとりあえず、陸稲、フェジョン、ミーリョなど食糧用作物を植え、カフェを植えだしたのは翌五四年に入ってから。岩畑さん家族は一アルケール(約二・四ヘクタール)に千八百本、二アルケール分のカフェを植えた。
 カフェ栽培も皆やったことがない。当時は種から植えて、一年間で伸びた苗はわずかに十五センチほど。スコップで土中に二、三十センチほどの深さの穴を掘り、その上に木蓋(ふた)を乗せるというやり方だった。一年かけてやっと生長した苗も霜害に遭うこともあったが、土中にあるものは生長の遅さが幸いして逆に難を逃れた。
 そうした中、困ったのは水がなかったことだ。井戸を掘るブラジル人の業者に頼んでも言葉の問題などで、なかなか来てはくれない。岩畑さんは、移住地から二キロ離れた川に水を汲みに行くことが日課だった。一樽十八リットルの水を両側に天秤棒で担ぎ、それを何度も往復する。「和歌山でもやっていたから、苦とは思いませんでした」と、岩畑さんは淡々と語るが、その酷さは想像に難くない。
 入植して四年目の五六年、カフェの初めての収穫だが獲れたカフェはわずかばかり。本格的な収穫は翌五七年から。実がなりすぎて木が枯れたようになり、岩畑さん家族は、木を回復させるために二年間、生産活動を休んだという。
 「金の成る木」と言われたカフェをあてにしてブラジルまで来たが、霜害などで思ったような生産ができない。合間に牛や豚を飼い、生活を支えるだけで一日一日が過ぎていった。
 ドゥラードスに出るきっかけになったのは、子供たちの教育面を心配したからだ。七六年頃、父親が孫を連れてドゥラードス市に移転。八一年には岩畑さんも移住地を出て同市内にメルセアリアを開店した。創業費用は移住地の土地を売却してまかなった。
 岩畑さんに移住地での思いを聞いたところ「(何と言っていいのか)分からんね」との返事だった。「(移住地にいた頃は)明けても暮れても仕事だけだった。今がブラジルに来て一番落ち着いた。今は百姓はやりたくないね」との言葉が当時の苦労を物語っている。

(3)

 今回の取材で、松原移住地内に現在も住んでいる那須勝さん(六一、和歌山県出身(2010年7月に68歳で死去))に話を聞くことができた。
 五三年七月八日、第一次船で渡伯。父母に連れられてブラジルに来た時は十一歳。当時の記憶はほとんどないという。
 移民たちの多くが霜害にやられ移住地を出て行く中で、那須さん家族の畑は幸運にも霜にはやられなかった。カフェからミーリョや大豆の雑作に変わった今日も移住地内での生産活動を続けており、計九十ヘクタールの土地を所有している。
 「気が付いたらここにいたという感じです。出て行った人とは話が違うかもしれませんが、移住地として、ここは恵まれた土地でした」と那須さんは語る。
 那須さん家族の土地は傾斜が東向きになっており、霜害の被害を受けにくかったという。当然、最初の入植地をくじ引きで決める時は、そんなことは分からない。しかし後になり、その差は明白となった。
 当時、植えていたカフェは二ロッテ(六十ヘクタール)に二万本。かなり多い本数だ。那須さん自身は車酔いしやすく、入植してからも五年間は移住地を出たことはなかったという。「その頃はカフェを植えることしか頭になかったですよ。五年後に(移住地から約三十キロ離れた)ファッチマ・ド・スールへと初めて出た時は、(入植当時と)かなり変わったと驚きました」とその頃の同地域の発展ぶりを覚えてはいる。
 那須さん自身、入植してから一番困ったことはブラジル人学校に通うことだった。言葉が分からず、文字通り「閉口」した。その反動もあり、「子供たちには、どんなことがあっても日本語を学ばせたい」と那須さんは夫人とともに自宅や会館などで日本語を教え続けてきた。「今は分からなくても、後になって『父親があの時、こういうことを言っていたな』と分かってくれれば、それでいいですよ」とブラジルで生まれた二世であっても日本語能力の必要性を強調する。
 移住地には現在も当時の会館が建っているが、今は廃屋となり、誰も使用していないという。入植三周年には盛大な祝賀パーティーも催され、当時の州知事だった「ジョン・ポンセ」氏も出席。その名前が移住地の名前になっていた頃もあったという。また、入植五年を記念して五八年には同会館で第一回家族慰安演芸会も開催されるなど、松原移民にとっては思い出深い場所でもある。
 今や那須さん家族を含め、わずかに三家族となった移住地。広々とした畑だけが広がっている。日本人会もあったが、ほとんど資料も残っていない状況だ。
 カフェが生産されている頃は様々な催しも多く厳しい生産活動の中で、野球、マージャン大会や青年活動など数多く行われたようだ。今でも週に一回は野球の練習をやっているという那須さん。「この頃は人が少なくなったけど、以前はマージャンばっかりやってました。野球、サッカー、マージャンと趣味が多すぎて」と苦笑する。
 現在の土地を子供たちに引き継いでもらうかについて那須さんは、「子供たちが自分で決めるでしょう」と話す。
 息子の一男さん(二九)は昨年ミナス州の大学を卒業し、現在はドゥラードスから約四百キロ離れたパラナ州ウベラタンという街の企業で働く。娘のえみさん(一七)はドゥラードスに在住しており、来年は大学受験を控えている。
 那須さん夫妻の家の離れには、一男さんたちのためと思われる建てかけの部屋があったが、現在工事は中断しているようだ。
 言葉にこそ出さないが父親として、「一緒に住みたい」との息子たちへの思いが表れていた。

(4)

 松原移住地から南西に三十キロ離れたファッチマ・ド・スールの日本人会で今も日本語学校の校長を務めているという柳生豊彦さん(七七、和歌山県御坊市出身)。
 父親を早くに亡くしたため柳生さんが家長となり、母親、夫人のキヌエさん(七五)、いとことともに当時生後六ヵ月だった一人娘のみきよさん(五〇)で構成家族をつくり、戦後の混乱の中、新天地を求めてブラジル・サントス港に着いたのは、やはり五三年の七月八日。家長の中でも若い方だった。
 日本にいた時には、「移住地は家族ごとに整地もできている、家も建っている、カフェの苗も揃っていると聞いてきた」が、実際に来てみて驚いたのは、うっそうとした原始林に覆われていたことだ。現実と事前の話とのあまりの格差に大きなショックを受けた。渡伯は自分自身の判断だったが、キヌエさんたちからは当初、ブラジルという見知らぬ土地に行くことに反対されていた。
 「十年すれば一旗挙げて帰ろうと思っていましたが、まさか五十年もブラジルにいることになろうとは思いもしませんでした」と柳生さんは移住地での生活の厳しさを振り返る。
 特に家長として、移住地に入るための道づくりは率先して実行しなければならない。一日のうちに大木を三本切るのが精一杯という状況が一ヵ月も続き、道づくり全体で実に二ヵ月半の月日を費やしている。
 「パラグアイ人やブラジル人を先に原始林の中に入れて自分たちは木の周りをぐるぐる周るばっかり。『大きい木ぃやなあ。大したもんやなあ』言うだけで最初は手をつけるどころやありませんでした」
 道づくりでは戻ることもできず、留まることもできず。少しずつでも進まざるを得なかった。
 当時、松原移民で来た人々は満州など大陸から復員し、戦争を体験した人が多かった。戦争での辛い思いを経験していたためにブラジルでの出来事を苦労とは思わない不屈の精神があったことも事実だ。
 しかし、家長会議などでは、「戦争帰りで気の荒い人も多く、たまにはケンカや小競り合いもありましたよ。普段は何の娯楽もなく、仕事が仕事だけに集まってはピンガを飲むことが楽しみでした」と柳生さん。普段はそれぞれが誰の助けを借りる訳でもなく、移住地での生活を過ごさなければならない。班ごとに集まり順番で班長を交代するなど、皆で集まって言い合うことが良い意味の気分転換でもあったようだ。
 入植して六年目の五八年。「カフェ、カフェ言うて生活してきて、真っ白に雪降ったみたいなカフェの花が一面に咲いた時は、そらぁ嬉しかった。プーンとしたいい匂いは何とも言えませんでした」と柳生さんは、顔をほころばせながらその時のことを思い出す。
 移住地を出るきっかけとなったのは、やはり子供の教育問題だ。娘のみきよさんが十二歳になった時、一人ドゥラードスへとやらせた。一九八三年、柳生さん夫妻も移住地を出て現在のファッチマ・ド・スールに移転。入植当初には日本での教師の経験を生かして、はじめの二、三年は日本語教師をやったという柳生さんだが、その後は生活に余裕もなく、とても人に教えるどころではなかったという。
 移住地を出てからは、日本語を教える余裕もでき、現在も十四人の生徒に教えている。うち三人は日本に行くために日本語を習っている。残りの十一人は七歳から十三歳までの子供たち。ポルトガル語が中心で柳生さんのいう言葉を「なかなか理解してくれない」が、日本語に対する興味は示してくれているという。
 「今はもう、儲けようなどという思いはありません」という柳生さんだが、「この年になってもう、日本語学校も引いたらいいと思う反面、自分の命ある限り日本文化と日本の精神を教えていきたいという思いもあります」と語る。
 「今から思えば、ブラジルに来て良かった」
 自分の使命として、日本語教師の仕事を柳生さんは今も続けている。

(5)

 兄の構成家族として、第一次船(五三年七月)で渡伯した三栗(みくり)国雄さん(七六、和歌山県田辺市出身)は現在ドゥラードス市内に在住している。
 大工だった兄の保男さん(八三)は家長として夫人と国雄さん、そして二人の子供と一緒に海を渡ったが、ブラジルに着いてすぐに一人の子供が病気にかかり、入植どころの話ではなかったという。
 保男さんはドゥラードスで子供の入院費用を捻出するために家具づくりを行うしか手だてがなかった。国雄さんは当時、二十六歳の働き盛り。兄夫婦とは別に単身で移住地までの道づくりのためにヤマ(原始林)に入った。
 「あの時は本当に大変でした。甥っ子の病気は良くならず、サンパウロに連れて行くにも費用がない。兄はブラジルに来てから苦労の連続でした」と国雄さんは、当時のことを今も鮮明に覚えている。
 結局、保男さんの息子は治療のかいなく息を引き取り、保男さんはその後、松原移住地に五年ほどいたが、ドゥラードスやビセンチーナに移転。その後、夫人が亡くなり現在は南マット・グロッソ州の州都カンポ・グランデでひっそりと暮らしているという。
 一方、独身だった国雄さんは移住地内で隣に住んでいた千鶴さん(七五)と結婚した。千鶴さんは戦前にサンパウロ州カフェランジアで生まれたブラジルへの再渡航者だ。国雄さんは兄・保男さんが持っていた土地の三分の一と千鶴さん家族の土地三分の一の計二十ヘクタールを借りていた。
 その後、保男さんが移住地を出て、千鶴さん家族からも「土地を買ってくれ」と言われ、二ロッテ(六十ヘクタール)の土地を所有することになったが、その土地は移住地でも一番奥の「コルモ・フンド」と言われる川沿いで、「大きな雨が降れば、土が皆流された」という悪条件の場所。それでも入植五年目以降からは念願のカフェもできだし、二ロッテに二万本を植えるなど、生活は安定したかに見えた。
 生活を一変させたのは霜害のせいだった。七二年の霜では何とか耐えきれたものの、七五年の大霜でカフェは根こそぎ焼かれた。ここまでカフェを育てるのに全精力を注ぎ込んできたが一瞬にして全滅。「これが、ほんまの地獄やと思った」と国雄さん。それでもまだカフェの芽が出ると信じたが、再び復活することはなかった。諦めきれないのは当然だった。その頃、金になる生産物はカフェしかない。
 「(カフェに)頼るしかなかった」
 大霜の被害に遭う前の七二年には子供の教育のためにドゥラードスに出ていた国雄さんは、平日は移住地、週末は街に帰るという生活を続けていた。しかし、その頃、銀行の融資を受けていたために借金返済の義務がある。カフェの国際相場も良くなく、値段は上がらない。
 「移住地にいても仕方がない」――。土地を叩き売って街で金を稼ぐしかなかった。
 ブラジルに来る前に国雄さんは、戦前に綿作りでブラジルに行った経験のある近所の人から「ブラジルになんか行くところやないですよ」と言われたことがあるという。しかし、当時の日本もまだ敗戦の影響ですさみ、「ブラジルに行けば何とかなるやろ」という気持ちが、国雄さんには強かった。戦時中は「同じ徴兵で引っ張られるなら」と志願して兵隊に。和歌山と奈良の県境にいたが終戦。日本での生活には限界を感じていたことも大きかった。
 国雄さんに当時の移住地の模様を聞いたが、特に嫌がるわけでもなく淡々と話してくれた。
 「その時の苦労があったから今がある。人間は苦労するものですよ」
 忘れられない移住地での思いが、国雄さんを支えている。

(6)

 ドゥラードス市内の自宅を訪問した際、両腕を真っ白にしながら餅(もち)づくりに従事していた奥田義夫さん(七五、和歌山県田辺市出身)の姿があった。突然の訪問にもかかわらず愛想の良い丁寧な応対で、いかにも実直そうな人柄だ。
 奥田さんは同市内で餅をはじめ、豆腐、揚げ類など日本食品の製造販売業を営んでいる。現在は三男の悦三(えつみ)さん(四四)がその後を継いでいるが、奥田さんも現役で餅などを作っている。
 七人兄弟の末っ子だった奥田さんは、松原移民の第一次船代表責任者の故・納谷三郎さんとともに田辺市で四年ほど「芋飴(いもあめ)」づくりを行なっていた。日本は終戦から八年経っていたものの、五〇年の朝鮮動乱のあと、経済状態も悪く思うように生活が成り立たない。
 五三年三月頃、当時「西牟(にしむろ)と言われた町役場で、納谷さんが条件の良い話を持ち帰ってきた。「ブラジルへの移民を募集している。ここで芋飴作ってるよりよっぽどええ」―。奥田さんは、一攫千金の夢を求めてブラジルに行くことを決意。その頃、仲人を通じて貞子夫人(七三)と知り合い、同年四月八日に結婚した。約一ヵ月後の五月十三日には第一次船の二十一家族とともに神戸港を出航するという何とも慌しい日々だった。
 ブラジルに行くためには一家族に三人の働き手が必要条件だったため、いとこの野久保耕治さんに構成家族になってもらった。しかし、船の中で不幸に見舞われた。身ごもっていた貞子さんが流産。サントス港に着いたと同時にサンタ・カーザ病院に入院。奥田さん夫妻は他の家族と一緒にドゥラードスまで行くことができず、松原安太郎氏がサンパウロ州マリリア市に持っていた農場に二十日ほど世話になった。
 他の家族に遅れること約一ヵ月。奥田さん夫妻はマリリアから「ティコティコ(小型セスナ機)」でドゥラードス入り。ちょうど、その頃は松原移民第二次船の二十家族も到着しており、道づくりに一緒に参加した。
 ようやくのことで移住地に入植。しかし、奥田さんは新天地での思いもかけない苦労の連続で、精神的にかなり参っていた。農業の経験もなく、戸惑うことばかり。貞子さんも身体が本調子ではなく、医者通いの日々が続いたという。
 身体の弱い夫人と小さな子供を抱えて奥田さんは六三年、移住地の土地を売り、約百キロ離れたポンタ・ポランの兵舎の前で飲食店(BAR)を開けた。しかし、失敗して金は「スッカラカン」の状態。当時、すでに子供は五人に増えていた。
 「どうにもこうにも、しょうがない」
 奥田さんは日本にいる父親に送金を頼んだ。「三年すれば故郷に錦を飾る」との思いで日本を出てきた奥田さんにとっては、断腸の思いだったに違いない。しかし、生活は苦しさを増すばかり。送金してもらわざるを得なかった。当時は送金してもらってもサンパウロの伯銀(ブラジル銀行)でなければ受け取れない。サンパウロに行く旅費までも借金した。
 送金を受け取り、六五年、ようやくのことでドゥラードスに戻った奥田さんは、日本食品の店を開けた。同地でちょうど豆腐づくりをしていた日本人が辞め、その人に大豆を引く臼(うす)を分けてもらい、「後は無い」と必死の思いで見よう見真似ながら豆腐づくりを覚えた。日々のコツコツとした積み重ねが、生活を少しずつ安定させていった。
 「自分の人生は成功できず諦めた。しかし、子供たちには徹底して勉強させたかった」
 現在、子供たちのうち一人はクリチーバ工科大学を出て建築家に、もう一人はカンポ・グランデの大学を出てドゥラードスで歯科医を行なっているという。三男の悦三さんも昨年から家業の日本食品店を継いだ。
 子供たちは、親たちの苦労した姿を見続けてきた。「子供たちも悪い方に進まず、素直に育ってくれた。これまでの事を考えたら、何があっても恐いことはありません」と奥田さん。「ようやく落ち着きました」と和やかな表情を見せた。(つづく)


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