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松原安太郎移民(後篇) (2026/04/30)
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松原移民の中でも珍しい経歴を持って過ごしてきた人がいる。森下安雄さん(七二、和歌山県海草郡下津町出身)は、大阪市内布施(ふせ)にある近畿大学を卒業してすぐの五三年、父母と兄弟四人の六人家族で第二次船のチチャレンカ号で渡伯。現在住んでいるグロリア・デ・ドゥラードス(松原移住地から東に五キロ)で市長、副市長を歴任した経験を持っている。また、同地で種牛の人工授精を始めた元祖として今でも牧畜業を営むなど、常に先を見越した人生を歩んできた。 「ブラジルに来るまではカネッタ(ペン)よりも重いものを持ったことがなかった」と笑う森下さんだが、松原移住地では「エンシャーダ(鍬)を引き」カフェを育てあげてきた。カフェは比較的よくできたが「これでは先がない」とカミヨン(大型車)を購入。六一年に八年間過ごした移住地を出て、グロリアで砂糖や米などを販売する食料雑貨店を開けた。これが当たった。 その店に一ヵ月に一度必ず来るブラジル人客の存在を森下さんはいつも気にしていた。読み書きはできないというが、身なりは整っている。「何(の職業)をしているのか」と問うと、「牛飼い」だという。 「ブラジルで成功するには牛飼いだ」と悟った森下さんは六四年頃からグロリア周辺地域に牛を飼い始め、当初は三十頭ほどと少しずつ数を増やしていった。しかし、「(大卒の自分が)読み書きもできないブラジル人と利益が一緒では割に合わない」―。考えた末、牛の人工受精を思いつき実行に移していった。良い種牛を買い求めては人口受精により、牛の品質を高める。ドゥラードスやカンポグランデの品評会でも好評を得て、少しずつ大牧場主の仲間入りをしていった。 そうした中、すでに移住地時代に日本に帰ることは考えずに帰化していた森下さんは七二年、グロリア副市長に立候補し当選。言葉のハンディはあったものの七六年までの五年間を務めあげた。また、八〇年半ばにも副市長を務め、当時の市長が一年半で途中退任したために繰り上がり、約二年半、市長にもなった。戦後移住者で市長になることは珍しい事例で、周辺の日系人からも大きな支持を得た。 森下さんは先を見越したアイデアもさることながら、高校時代に相撲をやっていた時の体力を生かし、今でも周りから「あいつには、とてもついていけない」と言わせるほどのタフさを誇っている。 「同じ移住者の中には戦前ブラジルに来た親戚がいる家族も多かった。自分たちにとっては、それらの人に頼るところがなかったことが逆に幸いした」と森下さん。日本では「棄民」とまで呼ばれたが、自らの知恵と体力を頼りに大農場主にまで成り上がった。 今でも思い出すのは、移住地時代のことはもとより、チチャレンカ号での移動中のことだ。五三年七月に休戦となった朝鮮戦争で韓国側についたアメリカ同盟軍の白人帰還兵が同じ貨物船に乗っており、片言の英語で会話をするなど親しくなった。同船の航路はアフリカ周り。南アフリカ共和国ダーバンで一時下船した際、白人兵と飲み屋に立ち寄ったが森下さんにはコップが渡されなかった。明らかに人種差別だった。 「いつか見とけよ」――。 ブラジル上陸する前から築かれた反骨精神が、森下さんを現在までのし上げてきた。
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松原移民第二次渡航者の代表責任者でもあり、故・松原安太郎氏から移住地入植のための世話役を任された経験を持つ谷口文太郎さん(九二、和歌山県日高郡南部川町出身)。今や当時の松原氏を知る唯一の存在とも言え、移住地の実質的な責任者だった。現在は、ドゥラードスから北西に約二百五十キロ離れたドイス・イルモンエス・ド・ブリチに夫人のなみえさん(八九)、長男の広治さん(六六)夫妻と一緒に住んでいる。 文太郎さんは戦中、志願して二年八ヵ月間を兵隊として過ごした。戦後四十五年十月半ばに故郷の清川村(現:南部川村)に帰った文太郎さんは農協の食糧配給担当などに配属された。また、五〇年頃から三年間は同村の村長にも任命され、そのことがブラジルに行かざるを得ない結果となった。 戦後初めてのブラジル移住の話を他県に先駆けて受け入れた和歌山県では、松原安太郎氏が当時の小野真次県知事を通じて募集を呼びかけた。松原氏の出身は文太郎さんと同じ日高郡の隣村。同地でブラジルへの移民再開の話を松原氏がしたことから、白羽の矢が文太郎さんにあてられた。 その頃の文太郎さんは三十九歳と県内に約三百あった市町村の中でも最も若い村長。小野県知事の命令により、移民募集の話を三百市町村に声をかけ、自らもブラジルに行かざるを得なくなっていた。 「僕の人生は、この時に棒に振ったみたいなもの。まさか、ブラジルに行くとは夢にも思わんかった。けど、頼まれた以上は『嫌』とは言えんかった」と文太郎さん。村長自ら移民としてブラジルに行かなければならない事態に腹をくくった。 移民枠は当初百五十家族分あったが、外務省の選考などにより、集まったのは六十数家族。後に和歌山県だけでなく、岡山県、広島県、栃木県からも数家族ずつが選考された。 六十数家族がブラジルに移民するとなれば、渡航費だけで一家族五十万円、合計約三千万円が最低必要だった。しかし、当時の和歌山県にそれだけの予算はない。 文太郎さんは五二年十月、二回にわたって外務省と大蔵省に陳情するために東京へ。当時の徳川頼貞参議院議員、早川崇衆議院議員が話を聞いてくれた。結局、外務省が移民の渡航費を肩代わりすることで話がまとまり小野県知事が一時的に移民の渡航費用を立て替えたという。当初の話では移民たちは分割して、これらの費用を後払いすることになっていたらしいが、渡航費どころか自分たちの生活もままならなかったことは、後に移住地で辛酸をなめたことからも分かる。 また、移住地は最終的に南マット・グロッソに決まったが、文太郎さんが松原氏から聞いていた話では、その他に五ヵ所くらい入植地の候補があったという。現在のマット・グロッソ州のパンタナールもその一候補に上がっていたようだ。 松原氏から「お前の好きなようにせえ」と絶対的な信用を置かれていた文太郎さんによると、移住地の最終的な選定は松原氏との話し合いなどの結果、主に文太郎さんに任されたという。 当時の文太郎さんに、移住地が現在のようになるとは、知る由もない。夫人のなみえさんは「(文太郎さんから)『戦争のない国に行こう』と言われ騙されたようなもんです。でも、今から思えば来て良かった」と目の病気を患いながらも家族に囲まれながら、ゆったりとした余生を過している。
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一九五三年、第二次船で八月八日にサントス港に着いた谷口さん家族だったが、日本を出航する前にはひと悶着(もんちゃく)あった。 長男の広治さんは当時一六歳。「せめて高校を卒業してからブラジルに行きたい」と、渡伯直前に父親に不満をぶちまけた。が、構成家族には最低三人の働き手が要る。最終的には従わざるを得なかった。 また、文太郎さんは「何でわざわざ村長自らがブラジルに行くのか」と陰口を叩かれたこともあったという。移民への募集では、農業を経験したことのない人々が殺到したが、外務省が行なった選考で落とされる人が続出。ブラジルに行けなかった人からの妬みとも言える。 谷口さん家族は当初、第一次船に乗る予定だったが、「少しでも早くブラジルに行きたい」という人を優先した。 当時、谷口さん家族がブラジルにいくために用意した金は三十六万円。そのうちの十三万六千円は、村人たちが餞別として与えてくれたものだった。神戸を出航する日には村人総出で涙を流して見送ってくれたという。 五十三日間の船旅では二十五家族を文太郎さんがその代表責任者として引き連れた。しかし、移民は船底での生活で、インド洋付近では「机があちこちにひっくり返るほど」(文太郎さん)の大揺れ。船酔いで寝込む人も多かったようだ。 サントスからはノロエステ鉄道でカンポグランデを経由。終着点のイタウン駅までは五日間を要した。汽車が駅に着くたびに戦前日本人移民の人々が心を尽くした歓迎をしてくれ、ミカンや袋に入ったパンなどを差し入れてくれた。松原移民にとっては、先輩移民たちがいてくれたことが大きな励みにもなっていた。 八月十三日午後八時頃ようやくイタウン駅に着いた第二次船の一行は、トラック三台ほどに分乗し、そこから約九十キロ離れた現在の共栄植民地あたり(当時、同移住地はまだなかった)の学校に収容された。一行はドゥラードス日本人会初代会長の西村嘉平次氏の自宅に迎えられ、そこで待っていた松原氏の出迎えを受け、握り飯やシュシュの漬物などをご馳走になったという。次男の史郎さん(六三)は「あの時の握り飯の味は今でも忘れられない」と振り返る。 松原氏は一人一人に「挨拶せえ」と言ったというが、皆さすがに疲れている。時間も午後十一時近くで子供たちの中には眠っている者もいる。文太郎さんは「代表者だけの挨拶で済ませてくれ」と松原氏に説得した。 イタウン駅からトラックに揺られてきた人々の顔は皆、埃まみれになっている。白いのは歯だけ。長男の広治さんは、「いや、えらいところに来てもうた」と心底思ったという。 収容所に着いたその日に青年団を設立し、すでに道づくりのために原始林に入っている第一次船の人々に翌日から合流することに。十五歳以上の男子は収容所から現在のファッチマ・ド・スール手前までの約二十キロの道のりをオニブスで行き、その後の十五キロは徒歩で現場まで行かなければならない。その間のファッチマの手前にはドゥラードス川が流れており、当時は橋が架けられていなかった。川べりには現地人が住むサッペ小屋が三軒ほどしかなく、いかにもみすぼらしい場所だったことを広治さんと史郎さんの兄弟は覚えている。 川を渡るためにはドラム缶をつなぎとめ、バルサと呼ばれる筏(いかだ)をつくらなければならなかった。
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第二次船の男子たちはようやくのことでドゥラードス川を渡り、現在のビセンチーナ付近のアグア・リンパと言われる道づくりを行なっていた場所に合流。すでに夕方近くになっていた。 文太郎さんたちは、その日は原始林の中に日本から持ってきていたテントを張った。翌日からは夜露をしのげるほどの「サッペ小屋」づくりを行い、それまではテント生活が三、四日間続いた。 道づくりは、ところどころ原始林の大木が倒されていたが、それにまともに携わっていたらいつまでたっても終らない。大木をできる限り避け、連邦政府が立てていた杭に沿い、先に進めそうなところを選んで伐採を続行。また、夜間も昼に切り倒した木々を寄せ集めて火を点け、その灯りを頼りに未開の地を切り拓いたという。 移住地までの約十五キロの道のりを拓くのに、結局、二ヵ月半の歳月を要した。「トラベッサ・デ・オンサ」と呼ばれたこの道は今でも土道のままで残されている。 九月下旬にようやく道づくりが終わり、十月一日に待望の入植。それぞれの簡易収容所で暮していた女性と子供たちが入植する際、松原氏が提供してくれた六トンの五三年型シボレー車が移住地間を往復。移民たちの荷物を運ぶなど活躍したという。 移住地内ではどの区域に住むかは、それぞれの家長がくじ引きで決めたが、その選び方がユニークだ。文太郎さんの提案により飴玉の紙包みの中に入植地の番号を入れ、抽選のような形で行なった。誰もが最初は土地の状態など分からない。公平さを保つことが目的だった。ただ、同じ村出身者が近くに住むという配慮は、なされたようだ。 入植してすぐに松原移民たちは食料確保のために陸稲、フェイジョン、ミーリョや野菜などのほか、豚や鶏などの家畜を飼った。実際にカフェを植えたのは、翌五四年から。この年には青年会もできた。会の主な活動は道直し作業。谷口家次男の史郎さんによると、道付近には湿地帯も多く、「鉄よりも強い木」と称されるペローバの木材を道に敷き詰めたりしたという。また、会の資金稼ぎとして棉摘みや稲刈りなどの共同作業を行い、その費用で日曜日などはピクニックに行った楽しい思い出もある。 その頃、月に一回あった家長会議では、カフェの栽培や日常の生活についての話し合いが多く、移民たちは移住地での不安な気持を励ましあっていたようだ。 五六年八月には移住地の三周年の入植祭が華やかに行われた。この式典を前に文太郎さんには一つの野心があった。 「これを機会に、移住地の道を整備させたれ」―。 「(式典のために)サンパウロから領事が来る」ことを州政府に働きかけ、道路整備の必要性をジョン・ポンセ州知事に陳情。州知事を通じて連邦政府が整備を実現させた。州知事の名前はこの式典によって一時は移住地の名前になるほどだった。 また、文太郎さんは式典では「松原の移民たちに一切の金銭的な負担をさせてはならん」とし、式典の寄付集めにサンパウロへ。文協会長だった故・山本喜誉司氏や東山農場からも寄付をもらい受け、当時の金で総額百万円が集まったという。文太郎さんの苦肉の策が三周年記念式典を実現させたとも言える。 話は前後するが、五四年八月、移住地で初めてのカフェの植付けを二ヵ月前に控えて、ブラジル国内では衝撃的な出来事が発生。当時大統領だったゼツリオ・ヴァルガス氏が自殺。伯ブラジル国民は騒然となった。 松原氏は親友だった大統領を失ったことや移住地への経済的な工面などがうまくいかないことなどもあり、翌五五年の終わり頃には日本の故郷に帰ることになった。松原移民にとっても大きな影響を受けた。 移住地への配給資金などは当時、松原氏が出していたが、氏の帰国でそれができなくなった。文太郎さんは金策に走り回った。その頃、リオにあった日本大使館を訪問した文太郎さんは、農業担当官の大谷晃氏に依頼。やっとのことで移住地に来てもらい、六十家族分の食料代を二年間にわたって立て替えてもらったという。 移民たちはそれぞれ、わずかながらも営農資金を持って来ていたが、カフェ栽培の準備などで使い果たしていた。 松原氏は和歌山県に戻ったままブラジルには帰らず、その後、故郷で生涯を終えたという。
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松原移住地でカフェを植えだしたのは五四年十月。カンピーナス農事試験場に事前に伝書を書き、アダマンチーナ在住の日本人が責任を持ってカフェの種を取り寄せておいてくれるという。 移住地に持ち込まれたカフェの種は「ムンド・ノーボ」と言い、全部で三十三俵あったものを一家族で半俵ずつ分けた。当時は苗からではなく、コーバと呼ばれる十五センチ四方の穴を掘り、種を中に直接蒔(ま)き、その上に木のフタをしたという。 「唯一、金のなる木」として期待されたカフェだったが、翌五五年七月の降霜でコーバから出ていた苗が被害を受けた。「辛抱して、続けよう」と励ましあったが、五七年、五九年にも続けて霜害に。その後も「三年に一回くらいの割合」(広治さん)で降霜にやられた。 「これだけやってカフェができんなら、他に移るしかない」―。 長男の広治さんは七一年、三男の正志さん(五六)とともに霜害の少ないドイス・イルモンエスに移転した。が、文太郎さんは、責任者として移住地に残った。 その十数年前にはドゥラードスでは産業組合設立の気運が高まり、松原移住地で六〇年、日本政府機関の援助により、カフェ精選出荷組合(松原組合)を設立。初代組合長に文太郎さんが就任した。また、六四年には松原組合を発展的解消した南マット・グロッソ産業組合が誕生した。同組合はコチア産業組合の単協的役割を果たし、松原移住地だけでなく、ドゥラードス周辺地域をはじめ、ドイス・イルモンエス、カンポグランデ、コルンバなど南マ州全域を網羅した。同組合の初代理事長には故・尾崎恒三氏が就任。ちなみに、同氏は広治さんの夫人・史子さん(六五)の父親でもある。 これらの組合設立の背景には、コチア産業組合中央会の協力的配慮があり、七一年には南マット・グロッソ産業組合の支所がドイス・イルモンエスにできた。広治さんたちがドイス・イルモンエスに移った当初は、カフェを生産しても販売ルートがなかった。当時、カンポグランデに商人がいたが、移住地の人々は、その人の言い値で買い叩かれていたこともあり、支所ができたことにより広治さんたちは大きな恩恵を受けたという。同組合はその後、コチア産業組合の支所となり、九四年の中央会解散以降、九五年から現在のコパ・セントロ農協(城田芳久組合長)として継続されている。 組合支所ができたことでドイス・イルモンエスの移住地の人々は活気づいた。カフェを苗から植えていた同地では、七〇年代の最盛期には、五十八家族で約百六十万本のカフェの木があったという。 しかし、八二年の降霜とともにカフェの国際相場も暴落。それまで皮付きのカフェ一俵と大豆三俵が同じ値段だったのが一対一と対等の値段にまで下がった。それ以後はミーリョ、大豆や綿などの雑作に切り替えざるを得なかった。 七七年には文太郎さんも松原移住地を離れ、広治さん夫妻たちとともに暮し始めた。その頃の松原移住地には、わずかに十数家族が残っていただけだったという。 現在も広治さんは自分の土地で四万本のカフェを植えており、食用の鶏も飼育している。 「戦前移民でコロノ生活をした人からは、『あんたらは、まだ土地があっただけ良かった。幸福移民』と言われましたよ」と広治さん。「結局、松原でカフェを収穫できたのは、わずかだったですが、移住地を出たことで、それをバネに飛躍できたと思います」とも。 文太郎さんは今も好きなピンガを飲み、タバコを吸いながらも矍鑠(かくしゃく)としている。「百姓、好きですねん」と笑いながら、マラクジャなどを自分で植えている。文太郎さんの脳裏には今も松原での思い出が、くっきりと焼き付いている。 なお、今回の松原移民取材にあたっては、谷口文太郎さんの次男・史郎さん夫妻の多大なる協力を得た。(おわり)
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