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マツモトコージ苑
     2002年  (最終更新日 : 2006/10/26)
県連ふるさと巡り南二州の移住地探訪1 [全画像を表示]

県連ふるさと巡り南二州の移住地探訪1 (2006/08/15)  今回で十五回目を迎えた県連(中沢宏一会長)主催「移民のふるさと巡り」の一行八十三人が、ブラジル南部のサンタ・カタリーナ、リオ・グランデ・ド・スールの二州を〇二年四月三日から同九日までの一週間にわたって訪問。戦後の比較的新しい日系移住地などを訪問した一行は、普段はなかなか会うことのできない人々との交流により、同じ移民としての結びつきを深め合った。訪問先での出来事を紹介する。

(1)

 ふるさと巡りは日本移民八十周年を記念して開始され、〇一年は日本とパラグアイ移住地を訪問。普通の旅行では味わえない「ふるさと巡り」の人気は年々増しているようだ。
 初日の三日、大型バス二台に分かれて乗り込んだ一行は、午後四時にリベルダーデ広場を出発。最初の訪問地、サンタ・カタリーナ(SC)州クリチバーノスにあるラーモス移住地を目指した。
 同乗者は数回にわたってふるさと巡り旅行に参加している人も多く、サンパウロをはじめ遠くはミナス・ジェライス州からバスを乗り継いで来た夫婦連れもいるなど多種多様な人々が一緒になった。
 記者と隣席になったのは、ラーモス移住地出身の本多あやさん(二五、三世)。移住地までを一行とともに同乗することになった。昨年十二月に五年ぶりに日本から帰伯し、四月半ばには再び日本に行くという。ラーモスへの大切な道先案内人でもあるとの添乗員の米田芙美子さんの説明。バス内では、寝る間までの時間を利用して、カラオケ大会が始まった。
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ラーモス移住地内の文協に到着した一行
 レジストロ、クリチーバなどを経由してSC州のクリチバーノスには翌四日の午前五時に到着。外に出ると冷気で肌寒く南部に来たと実感する。
 予定より一時間早い到着に、乗り換え用のバスはまだ来ていない。移住地までは十八キロ。上り下りのある細い地道が続くため、一行を乗せてきた大型バスでは入り込めない。
 まだ暗闇が続く十字路で待つこと約一時間、「エスコーラ(スクール・バス)」と横面に書いたバス二台がようやく到着した。
 昨夜からの雨で道はあまり良くないらしく、バスはうなりを立てて移住地へと向った。
 目的のラーモス移住地に着いたのは午前七時過ぎ。同日伯文化協会の尾中弘孝会長(五一、奈良県出身)や日本梨生産者協会会長の小川和己さん(七三、長崎県出身)らが出迎えてくれた。婦人部が用意してくれた朝食を食べながら、移住地の人々との話に花が咲く。サンパウロから同乗した本多さんも婦人部に交じって早速、手伝いを行なっていた。
 今回、中沢県連会長が諸事情により参加できないため、その代役として団長をつとめた西谷博・元県連会長。小川さんが移住地での梨づくりのために持ち込んだ「二十世紀」は西谷会長の母県、鳥取県産でもあることから、入植当時の苦労話などに聞き入り、自然と話も盛り上がった。

(2)

 日本梨生産者協会代表の小川さんの説明によれば、ラーモス移住地は一九六四年四月に開設。七〇年頃から本格的に梨生産を行うようになり、現在の銘柄は「豊水」「幸水」がメインで、ここ五年間でようやく市場にも出回ることできるだけの品物が出来上がるようになったという。
 SC州農務局の発表では今年の日本梨の生産量は約五百トン。「正確にはそんなには出てないのですが」と小川さんは苦笑しながらも、今年二月に収穫を終えて在庫品もほとんどがなくなったことへの安堵感と大きな喜びを示す。
 移住地内の日本人家族数は約三十家族。そのほとんどが日本梨をはじめネクタリーナ(油桃)、リンゴなどの温帯果樹やニンニク、トマト、ピーマン、菊、カーネーションづくりに携わる。
 文協会長をつとめ、果樹専業農場を持つ尾中さんは「生産の波はありますが最終的には生産者の努力しだい。特殊なものを作っていけば、まだまだブラジルで農業を広める可能性はありますよ。この地から農業のパイオニアとして活躍していきたい」と力強く語る。
 現在、月に一回、生産者が集まって勉強会を行い、外部への視察にも行くという。日本梨の主な出荷先はサンパウロで、高級品が出回る。ちなみに、二級品は現地で消費されている。
 「サンパウロの日本人やブラジル人には甘味のある『豊水』に人気がありますが、ブルメナウなどドイツ系の多い町では酸味のある『二十世紀』が好まれます」(尾中さん)
 朝食を終えたふるさと巡り一行は、関係者の案内で移住地内を見せてもらうため、バスで移動。農作物用の人工湖を越えてすぐに、移住地の日本人墓地がある。原爆被爆者でもある小川さんの家族の墓をはじめ、十数個の墓が建ち並ぶ。
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移住地内の日本人墓地で慰霊
 全員で墓前に向って合掌したあと、西谷団長があいさつし、同じ移民としてブラジルに来た先駆者への感謝と移民同士の交流の必要性を説いた。
 場所を「平和の鐘」公園に移し、高台にある公園までの坂道を「ハァハァ、フーフー」言いながら全員で登った。平和を象徴する鶴を形どったモニュメントの高さは二十五㍍。モニュメントを背景に全員で記念撮影を行なった。
 公園では被爆者の小川さんが公園建設の経緯を説明。SC州でも学校教育の中に平和教育に力を入れ、公園建設に惜しみない援助をしてくれているという。
 公園南東側に県連関係者が持参した楠(くすのき)の苗を植樹した。小川さんは「長崎に落とされた原爆で、唯一生き残ったのが楠。その楠の苗を皆さんが持ってきてくれたことが何より嬉しい」と述べ、「早く成長しますように」との思いを込め訪問者が少しずつ土をかぶせた。
 今年十月下旬か十一月上旬には長崎県人会創立四十周年記念式典に合わせて、母県から金子源二郎県知事の来伯の決定しており、公園の落成式が行われる。
 「平和の鐘を移住地から鳴り響かせたい」との小川さんたちの思いが叶うことになる。

(3)

 現在、ラーモス移住地の一番の問題は道路事情だが、今年十月の州知事選挙で現在のエスペリジョン・アミン州知事が再選を果たせば、世銀からの融資を受け、州内全体で五百キロにおよぶ道にアスファルトが引かれるという。親日派で日本梨を州の産物として大きな期待をかけるアミン州知事は、クリチバーノスから移住地までの道のりもアスファルトを敷く構想を持っているようだ。
 そこで実現化がほど近くなったのが五年ほど前からの懸案事項として打ち出されていた「日本村施設プラン」だ。移住地内に日本文化施設を建設し陶芸や日本式の畳を用いた旅館設備などを造ることで、移住地内に外からの観光客を呼び、「村おこし」としての活性化を図るという。
 また、村おこしによって移住地の日系子弟を現地に定着させることも大きな目的だ。ラーモス文協の山本和憲副会長の愛娘・織絵さん(二二、二世)は、この構想実現のために愛知県瀬戸市で三年間にわたって陶芸の修行を行なった。
 「日系とブラジル人との単なる友情だけでなくそれぞれの移民が持つ様々な文化に触れ、ブラジルの良さ、日本の良さを日系人として理解したい」と織絵さんは日本村実現によるブラジル人との交流を強く希望。今から自分自身で陶器を焼く「薪窯(まきがま)」を造る考えを示している。
 サンパウロから同席した本多あやさんが、実はこの日本村構想ために四月半ばから再び日本に行くことを記者はラーモス移住地に来て知った。「将来はラーモスに旅館を建て、そこで日本食を出したい」と、あやさん。父親で移住地では唯一のコチア青年でもある本多文男さん(六五、茨城県出身)は、「この土地に『日本人ここにあり』ということを位置付けたい」と親子揃ってその意志は固い。
 婦人部の手作りの昼食が振る舞われた後、移住地側から、にんにく生産に貢献した長南俊(ちょうなん・たかし)さん、文協内にある桜公園の造成に携わる滝沢正吉さん(八四)、前出の本多文男さんの三名が紹介された。
 特に桜公園は万博基金の助成を受け、十五年程前から造成をはじめ、今のところ完全ではないにしろ、桜以外につつじ、シャクナゲ、イッペーが季節ごとに咲き誇る。それぞれの季節に合わせたイベントが開催され、毎年内外から数多くの人が訪れるという。
 滝沢さんは「六年後の移民百周年には公園を完成させ、ブラジル一の桜を見てもらいたい。それまであと五、六年は充分に働ける」と元気な姿を見せる。
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「私の町ラーモス」を歌う移住地の人々
 「平和の鐘」公園落成もまた、日本村プラン、桜公園造成とともに移住地の活性化として、重要な役割を果たすことになる。
 移住地での短い時間を過ごした訪問団一行は、「ふるさと」の歌を合唱し、この日のために準備をしてくれたラーモスの人々への感謝に応えた。 移住地側からは「築かんいざ」(近磯和・作詞作曲)「私の町ラーモス」(本多清香作詞、神津善行作曲、山口洋子補詩)がお返しとして歌われお互いに次の再会を誓いあった。

 「私の町はラーモス 小さいけれど 一つ大きな物がある それは何でしょう それは何でしょう 抱え切れない 愛と夢」

 一行はラーモスの人々に別れを告げ、サン・ジョアキンへと向った。

(4)

 四月四日、ラーモス移住地での交流を終えた一行は、サン・ジョアキン市へ向けて出発。
 バスの車窓からは、ゴツゴツした岩が出ている丘陵が続き、ところどころパラナ松が生い茂っているのが見える。通り過ぎる小さな町では、各家庭の門構えや塀の低さがこの地域の治安の良さを物語っているようだ。
 市内ホテルにチェックインしたあと、午後八時からサン・ジョアキン文化体育協会(葛山善徳会長)の人々約二十人との夕食会が地元のレストランで行われた。
 ここで約四年ぶりに再会したのが、東隆さん(八三、和歌山県出身)と法月(のりづき)早美さんの(七五)兄妹。聖市内に在住する東さんがサン・ジョアキンに住む早美さんを訪問した形だ。それぞれの夫婦や親戚が付き添い、賑やかな宴となった。
 食後にあいさつした葛山会長(四八)は五歳の時に渡伯したという準二世。SC州と青森県との姉妹提携事業により、八二年から約一年間、黒石市でリンゴ栽培に関する技術指導を受け、現在はEPAGERI(サンタ・カタリーナ州農牧研究普及公社)サン・ジョアキンの農業試験場で研究員として主にリンゴの病害について調べている。 県連が作成した資料によれば、サン・ジョアキンの日本人移住地は一九七四年に入植が開始され旧コチア産業組合の拓殖事業の一部として、入植地区を買収。一ロッテ二十ヘクタールに分割分譲し、第一から第四までの移住地に分かれているという。
 現在の日系家族総数は約六十家族で、標高約千三百五十㍍の高地の気候を利用してのリンゴ栽培は有名で、そのほか柿、杏(あんず)、スモモなどの果樹栽培を行っている。
 夕食会の最後には、県連が持参したハナミズキの苗三鉢が葛山会長に手渡された。
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山脈展望台からは霧で見えず
 翌五日は午前七時にホテルを出発し、大渓谷地帯で有名なセーラ・ド・リオ・ラストロ山脈展望台へと移動。展望台からは渓谷へ下りていく道路が続き、晴れた日には壮観な風景が広がるということで期待したが、現場に行ってみるとあいにくの霧模様で下界は何も見えない。
 さらに、標高の高さによる冷気で吐く息も白くなるほどだ。展望台に設置されている大型電灯の周りに蛾(ガ)の死骸がびっしりと張り付いていたのが、妙に印象的だった。
 霧が晴れるのを待ったが小雨が降りだすなど天候は悪化する一方。仕方がないので、一行は記念碑を背景に写真撮影したあと、観光客相手の露店で売り物の地ピンガや約八十センチの長さがある特大サラミなどを買いあさった。
 めったに見ることがない日本人が大挙して押し寄せたため、露店商の親子は目を丸くしながらも在庫の特大サラミを家まで取りに帰るなど、珍客を相手に「ここが稼ぎ時」とばかりに売りまくった。
 人々は「残念」と言いつつもサラミを食べながらピンガを飲むなど、けっこう楽しそうな雰囲気だ。次の訪問先のSANJO(サン・ジョアキン農業組合)を目指してバスは展望台をあとに。道を下ると皮肉にも快晴の空が広がっていた。(つづく、2002年4月サンパウロ新聞掲載)


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