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マツモトコージ苑
     2002年  (最終更新日 : 2006/10/26)
ピラルクー養殖にかける [全画像を表示]

ピラルクー養殖にかける (2006/10/26)  アマゾン流域にしか生存しないと言われた古代魚「ピラルクー」のサンパウロでの養殖に成功した鴻池(こうのいけ)龍朗さん(五〇、東京都出身)。一億年前から生きている淡水魚で日本では「幻の魚」とも評されるピラルクーだが、やり方次第では「普通の養殖魚よりも簡単に育てることができる」と言い切る。未知の世界に挑んで七年が経ち、やっと養殖にまでこぎつけた。水産のプロとしての思いが今、花開こうとしている。ピラルクー養殖にかける鴻池さんたちのこれまでの経緯を振り返る。

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一年間の養殖で一メートル近く育ったピラルクー
 鴻池さんは高校時代、藤田さんという日本山岳会に所属する人の果物屋でアルバイトとして働き、そこに来る山男たちの話を聞きながら海外に出ることに憧れていた。当時のメンバーには、世界的冒険家の故・植村直巳氏もいたという。
 「俺にはできないすごいことをやっている人がいる。自分もいつかやってやる」。そうした思いを常に持ち、大学時代に日本各地をはじめ、休学して海外を歩き周った。最も印象にあるのはエクアドル領のガラパゴス諸島。小学校時代に映画でガラパゴスのことをを見た鴻池さんは、すっかりその魅力にとりつかれていたという。
 七〇年代半ばに、東海大学海洋学部水産学科増殖課程を卒業。時折りしもオイルショックによる就職難の時代で、仕事のあてもなく、北海道のニジマス研究所でアルバイトをしながら、生活をしていた。そうした中、「お前にぴったりの仕事がある」と友人から大阪にある商社「通商」を紹介された。試験には落ちたが、「なぜ俺を落としたのか。やる気だけは誰にも負けないぞ」との会社への主張が好転し、その勢いを買われて何とか入社が決まった。
 入社したその日に「肝試し」のように台湾出張を命じられ、数ヵ月後に無事帰国したと思ったら今度は社長命令でブラジルに行くことに。社長が趣味で飼っていた「スッポン」の死亡状況の原因を追求する専門家として派遣されたのだった。
 当時は「世界を股にかけて仕事をしたい」との思いが強かったが、その後、商社を辞めてエビの養殖を始め、結局はブラジルに永住することになった。
 ピラルクーに接するきっかけになったのは、商社時代の後輩が七年前にマナウス在住の日系人の家の庭に一・五㍍大のピラルクーが数匹、泳いでいる話を聞いたことだ。当初は「そんなところで飼える訳がない」と後輩の話を疑ったが、「本当かもしれない。もし本当なら大したもんだ」との思いが日増しに募った。 鴻池さんは、未知の古代魚、ピラルクーに取り付かれることになる。

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 ピラルクーの知識を少しでも得るため、鴻池さんは関連文献を手当たりしだいに読みまくった。また当時、経済的に決して豊かではないにもかかわらず、ピラルクーが生息するアマゾン地域にも何度となく赴いた。
 九八年、南北水産淡水魚シンポジウムがサンパウロで開催され、アメリカの学者が「ブラジルの淡水魚、特にピラルクーの養殖が期待できる」と発表。鴻池さんは以前から持っていたサンパウロでの養殖の考えを固めだした。
 しかし、水産業界の仲間の反応は冷たかった。
 「アマゾン河の淡水魚をサンパウロに持ってきて冬が越せると思っているのか」。
 周りからはボロクソ言われ続けた。ピラルクーは一般には養殖できないということは鴻池さん自身、文献などで何度も目にした。しかし、絶対にできるという確信に似た思いがあった。
 二〇〇〇年、聖州水産試験場(インスティチュート・ペスカ)の協力を得ての養殖実験が実現。また、二年前からIBAMA(国立再生可能天然資源・環境院)に申請していた「閉鎖式高密度養殖」の許可が今年十一月七日に正式におりたことも大きな支えとなった。鴻池さんにとって、自分の実験を州政府機関が、認めてくれたことが何よりも嬉しかったという。 ピラルクーの飼育で一番の問題は、稚魚の段階でいかに餌付け作業を行うかだ。ピラルクーは活餌(いきえ)しか食べないと言われており、それでは費用もかさむ。ブラジルでエビの養殖をやっていた鴻池さんは、当時からエビの餌にしていた茶碗蒸しに似たものを稚魚にやり続けた。
 「この餌が最適かは未だに分かりませんが、とにかく根気よくやり続けて何とか食べるようになりました」
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月一回の検査を行う鴻池さん(右)
 現在、サンパウロから約百五十キロ離れたセルキーリョ市でピラルクーの養殖を実施。鴻池さんは週に一回、現場に行く生活が続いている。同地は、聖市内に在住する内藤さんという日本人が土地を所有しており、十㍍×十七㍍ほどのごく小さな場所を養殖のために借りている。暖房措置として周辺をビニールで覆いその中をピラルクーの大きさごとに六つの水槽に分けている。
 鴻池さんは言う。「ピラルクーは誰でも簡単に飼育できる」と。その秘密はこの古代魚の生命力の強さにあるようだ。ピラルクーには肺のような機能があり、空気中の酸素を得て生きている。そのため、水があっても空気中の酸素が不足すれば溺れ死んでしまうという特性を持つ。
 普通の魚なら水中のアンモニア濃度が五ppmになれば死に至るが、ピラルクーは十三ppmでも生きているという。また、水中の温度管理が徹底できず、「風呂の湯」に近い三十八度まで上げてしまったこともあるらしいが、それでもピラルクーは死ななかった。さらに高密度にも強いという特殊性が、鴻池さんの養殖を実現させたとも言えそうだ。
 「本来、熱帯魚が好きという訳でもなく、ピラルクーと出会わなかったら、養殖をするということまで考えなかった」という鴻池さん。今後、ピラルクーを「幻の魚」ではなく、一般的な魚としてアピールしていく考えだ。

(3)

 この日は月に一回のピラルクーの体重と体長をはかる検査のため、鴻池さんとともにセルキーリョ市にある養殖場へと向う。
 現場には聖州水産試験場のメンバーであるニルトン博士と生態系専門家などのブラジル人スタッフ三人も到着した。それぞれ水着の上にTシャツを着る。
 午前九時だというのに暑さは増していく。しかも空はカンカン照り。初めは穏やかだった鴻池さんの表情がしだいに真剣となり、引き締まる。
 鴻池さんの「バーモス(行こう)」の掛け声でいよいよビニールハウスの中に入る。中は蒸し風呂状態で、あっという間にメガネやカメラのレンズがくもる。内部の温度に機材が慣れるまでに数分間、時間がかかる。
 「暑い、とにかく暑い」
 中の温度は五十一度(水温は約三十度)。おまけに湿度が高いために、何もしなくても疲れる。身体の中の水分が、あっと言う間に汗となって吹きだす。取材用のメモを取っていても、ボールペンの字が水分でにじむ。十五分と入っていられず近くにある釣堀の売店に何度となく水を飲みに行く。脱水状態になりかけるのが自分でも分かる。
 鴻池さんとスタッフたちは入口手前側の水槽からピラルクーの体重と体長を量る作業を始めた。まず、そのために奥側から水槽の幅の長さがある大型の網でピラルクーを追い込み、それらを捕獲用の丸い網で一匹ずつ捕まえる。
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ピラルクーが飛び跳ねると手がつけられない
 はじめは体長が四、五十㌢くらいの大きさなのが、水槽ごとに七十㌢、一㍍と大きさが増す。ピラルクーの大きさが増えることによって計量作業も修羅場と化す。体長が一㍍のものとなると、網で追い込む作業も容易ではない。手前の狭い場所に追い込められ、一匹が網の外側に逃げようと跳ねると、ほかのピラルクーも危機を感じ取って一斉に跳ねだす。スタッフに向って体をあててくるものもいる。その度に苦悶の表情を浮かべる鴻池さんたち。水面上で暴れる光景には恐怖すら感じる。
 やっとの思いでピラルクーを引き揚げるが、体表からにじみ出た体液のためツルツルとすべる。網に入れて滑らないように固定してから体重と体長をはかる作業が続けられる。こちらはただ写真を撮っているだけなのにメロメロの状態になる。鴻池さんの「計量はゲーラ(戦争)だ」という言葉を実感する。
 取材も終って最後にはピラルクーを実際に別の水槽に移し替える仕事を少しだけ手伝う。ピラルクーの体表はザラザラしており、一㍍のものは胴周りが直径二十㌢ほどもある。ピラルクーを網に入れて運ぶだけだが、暴れて尾で顔をはたかれることも数回あった。
 しかし、この苛酷な計量作業を水産試験場のスタッフたちは休憩をはさみながらも、グチもこぼさずに黙々と続ける。
 ニルトンさんは「ピラルクーの生態を調べることはブラジルでもほかに誰もやっていない。自分達は先駆者だという気持でやっています」と汗まみれだが、充実した笑顔を見せる。
 「この作業は好きでないとできない。彼らも本当によくやってくれますよ」と鴻池さんは、良きパートナーたちに恵まれたことを喜ぶ。
 月に一回の計量もようやく残すところあと一回となった。十二㌢ほどだったピラルクーの稚魚はこの一年間の短期間で一㍍を超えるほど大きく成長したが、「まだまだピラルクーについて解明されていない部分も多い」と鴻池さんたちの新たな試みは続く。(おわり、2002年12月サンパウロ新聞掲載) 


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松本浩治 :  
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