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マツモトコージ苑
     2007年  (最終更新日 : 2018/11/15)
移民の肖像2(ベレン篇) [全画像を表示]

移民の肖像2(ベレン篇) (2007/07/16) (6)

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ベレンの街並み
 南マット・グロッソ州ドゥラードスから帰聖して一週間の準備期間を置いたあと、十一月二十二日から写真展第二の会場となるパラー州ベレンへと向った。
 飛行機は、午後八時五十五分にサンパウロ市内のコンゴニャス空港を出発するが、空港ストの影響による混乱とラッシュアワーによる混雑を避けるため、数時間早めに空港へ。
 途中、ブラジリアを経由し、サンパウロの出発時間が遅れたこともあり、約五時間でベレンの空港に到着。ベレンは夏時間がないために、当地の時間では午前一時だった。今回の行程で、前半にお世話になる諸富英昭さんと香代子さん夫妻が夜中にもかかわらず、出迎えに来てくれた。
 二年ぶりのベレンだが、空港は構内が増築され新しくなっていた。
 翌二十三日、諸富さんと同行して、汎アマゾニア日伯協会(小野重善会長)を訪問する。小野会長と堤剛太事務局長に会い、写真展や取材などの打ち合わせを行う。
 写真展開催予定日は、十一月二十六日から三十日までの五日間。今回はその準備や取材なども含めて、普段の取材では実現できにくい十二日間の滞在を決行した。
 事務局で歓談していた際、堤事務局長が食虫植物を栽培・販売しているという小坂田泰直さん(五五、岡山県出身)を紹介してくれた。その日の午後には、ベレン市内から十五キロほど離れたコッケイロ区の農場にいるというので、午後からの取材を約束して、その場は別れた。
 諸富さんに昼食を兼ねて、日伯協会からほど近い「パラシオ・レジデンシア」と呼ばれる旧・州知事公邸へと連れて行ってもらう。同地には博物館やレストランなどがある一方、熱帯の樹木が生い茂り、緑が溢れている。
 レストランで昼食をとったあと、園内に置かれてある一両編成の観光用の汽車(客車)の中に入った。そこでは、アサイ、クプアスーなどベレン特産の熱帯果樹のソルベッテ(アイスクリーム)が販売されており、一つの観光スポットとして、地元の人々の憩いの場所になっていた。 
 汽車内にいたところ突然のスコールに遭い、半時間ほど雨宿りをしたあと、小坂田さんを取材するべくコッケイロへと向う。
 小坂田さんの農場には、ランや食虫植物など合わせて三百種類以上の植物類が所狭しと置かれていた。花自身の大きさが数ミリのものや自身の名前が付いた「カタセタム・オサカジアーナ」と呼ばれるランなど、珍しいものばかり。ラン以外にもランブータン、マンゴスチンなどインドネシア原産の熱帯果樹のほか、薬用効果があると言われるノニなども栽培していた。
 「日本にいたら、そこの狭い世界だけで生きていたかもしれませんね」と小坂田さん。一つ一つの植物を丁寧に説明してくれるその目は優しく、アマゾンで本当に好きなことを仕事にしているという実感があった。

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ベレンの新観光スポットである自然公園の遊歩道
 翌十一月二十四日、宿泊させてもらった諸富家の主(あるじ)で耳鼻咽喉科の医師である英昭さんが、ベレン市内から川を隔てて向こう岸にあるバルカレーナ島に出張に行くというので、午前五時に起き、夫人の香代子さんとともに近くの船着場まで見送り。 
 その後、香代子さんが、通称「オンゼ・ジャネーラス」と呼ばれるカステロ要塞の砲台周辺を案内してくれた。ベレン市は近年、観光地化が進み、要塞の下には博物館ができていたが、早朝のため開館しておらず、香代子さんが毎朝散歩しているというバチスタ・カンポ公園へ。
 公園には、岩下さんというトメアスー移住地に住んでいた経験を持つ八十歳前後の老婦人がベンチに座っており、香代子さんが来るのを一人で待っていた。岩下さんにとって、日本人一世が少なくなりつつあるベレンで、同胞として気軽に日本語を話せる香代子さんと毎朝会うことが、一つの楽しみになっているという。
 公園では、早朝から数多くの市民がジョギングをしたり園内を散歩している姿があった。園内にはマンゴーの樹木が生い茂り、時々、熟れかけた実が落ちてくる。マンゴーの争奪戦は案外と競争が激しく、「ボトッ」「ベチッ」と地面に落ちた音がするや、数人の市民が我先にと取りに走る。我々も二つのマンゴーを拾うことに成功。帰宅後、朝食として食べると甘酸っぱい味が口の中に広がった。
 午前十時半頃、汎アマゾニア日伯協会に向うべく、諸富さんがナザレー通りを東方面へと車を走らせる。同通りには、十月に行われたナザレー祭の飾り付けがまだ外されておらず、キリストを象(かたど)った大型のアーチが同通り沿いにあるナザレー教会周辺に施されているのが見えた。
 協会に着くと、堤事務局長の提案で「屏風(びょうぶ)」と呼ばれている可動式の板に展示用の写真を貼ることになった。
 写真展は十一月二十六日からで、当初は前日まで他のイベントがあるために、そのイベントが終了してから展示準備をする予定だった。前もって「屏風」に写真を貼り付け、邪魔にならない場所に安置してもらい、当日は職員の人々に会場となるエントランス・ホールに「屏風」ごと移動してもらえれば準備が完了するという寸法だ。
 事務局長の指示でブラジル人スタッフ(職員)が写真の貼り付け作業を手伝ってくれ、同行した諸富さんも一緒に協力してくれる。そのお陰で約一時間ほどで準備は終了した。
 午後からは特に予定もないため、ベレン市内の観光地巡り。諸富さんの案内で最寄りの動植物園へ。オオオニバスなどアマゾン独特の植物類があり、園内の職員がプレギッサ(ナマケモノ)が木の奥にぶら下がっているところなどを教えてくれた。          動植物園見学後は、昨年造成されたというグァマ川沿いにある自然公園に連れて行ってもらった。公園では、アマゾンの蝶や鳥類が見学できるほか、グァマ川に面して木造の遊歩道があり、水が引いた川にはマングローブの木々が密生していた。同地は新しいベレンの観光スポットとして注目されているようで、家族連れのほかに若者やアベックの姿も多い。
 グァマ川の向こう岸の雲の合間に太陽が隠れつつあるのを見届けて、公園を後にした。

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 十一月二十六日。ベレンでの写真展の初日だ。午前十一時からと時間的に余裕のある開催を前に、諸富夫妻に同行し、写真展のことを知らせるべく主人の英昭さんの両親の家に立寄る。
 ベレン市内にある英昭さんの両親の家から道を曲がって三軒ほどのところには、「アマゾンの柔道王」と言われた故・前田光世氏(コンデ・コマ)が生前に住んでいた家屋があった。写真撮影の許可を得るため、門を叩くと前田氏の末裔と結婚しているという五十代前後のブラジル人男性が出てきた。彼の話では、近く、市の要請で家屋の前の道を改築し、「コンデ・コマ通り」と改めて名称を変更するという。
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ベレンで開かれた「移民の肖像」写真展の模様
 会場である日伯協会に着くと、すでに職員の人々が写真展の準備を進めてくれていた。
 午前十一時の開催時間に一番乗りしたのは、アマゾニア日伯援護協会の事務局長として二〇〇一年までの約二十年間にわたって勤務していた宍戸次男さん(六八、福島県出身)。一九六〇年三月、二十一歳の時に「ぶらじる丸」で渡伯し、最初の五年間をパラー州とアマゾナス州の境にあるサンタ・ジュリア地区のサン・ジョアキンで過したという。
 六五年からは当時の移住事業団(現:JICA)の現地職員として融資係を担当し、十四年間にわたって勤務した。その間、事業団の直轄移住地など全伯をひと通り回っていたことから、写真展ではリオ州フンシャール移住地に在住する黒沢繁さん(七四、岩手県出身)の顔写真に「見覚えがある」と話していた。
 援協事務局長引退後、宍戸さんは「今までやっていなかった」農業生産活動を少しずつ行い、「クプアスーなどの熱帯果樹生産を楽しみながらやっています」と笑顔を見せる。
 汎アマゾニア日伯協会の専任理事でもある下小薗(しもこぞの)昭仁さん(六九、鹿児島県出身)は、一九五七年、二十歳の時に渡伯し、アマパー州のマザゴン植民地入植の経験を持つ。
 当時、鹿児島から五家族、熊本から二家族の計七家族四十一人が入植。カカオやゴムづくりに従事したが、「芽が出るとサウーバ(蟻)にやられる」という生活が続き、三年後にはベレンの町に出てきたという。
 高校時代はアメリカでブドウ生産を行うことを夢見ていたという下小薗さん。「その頃に、ちょうどアメリカの『移民救済法』という法律が切れて行くことができなかった。地元で銀行員にも受かっていたが、好きでもなく行く気もなかった。ちょうど、ブラジル移民の話があり、本来は米作移民としてグァマ移住地に入るはずだったのが、直接マザゴンに行かされた」と当時を振り返る。
 「自分が移民として体験しただけに、(写真に写っている)皆さんの顔には苦労をじっと堪えた良い表情が出ているのが分かる。自分もこういう顔になることができるかな」と、下小薗さんはしみじみとした表情で話していた。
 
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 十一月二十七日。汎アマゾニア日伯協会事務所で、第一回アマゾン移民である大橋敏男さん(八九、静岡県出身)に再会する機会を得た。
 大橋さんには、〇四年九月のアマゾン移民七十五周年祭の取材の時に初めて会い、残り少ない第一回アマゾン移民の生存者の一人として、当時の話を聞いたことがある。
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第一回アマゾン移民の大橋さん
 大橋さんは家族とともに一九二九年七月に「もんてびでお丸」で神戸港を出航し、計百八十九人のアマゾン移民の一人として海を渡った。七人弟妹の長男である大橋さんは、当時まだ十二歳の少年だった。
 リオで南から帰航する「まにら丸」に乗り換え、約七十日かけてアカラー植民地(現:トメアスー植民地)の船着場に到着している。
 入植後三年して、当時の南米拓殖会社が奨励した永年作物のカカオに見込みがないと判断した大橋さんの父親は、ベレン近郊のサンタ・イザベルへの転住を決めた。同地でも営農生活は向上せず、大橋さんは二十歳になった時、新しい永年作物を求めてサンパウロ州内を二年間にわたって歩き回った。しかし、大きな収穫もなく、失意の思いでベレンに戻った頃には、戦時色が濃くなりだしていた頃だった。
 一九四二年、ブラジルは日本に対して国交を断絶したため、在留邦人は敵性国民としての扱いを受けることに。同年八月、ベレン沖でドイツ軍がブラジル人二百七十人を乗せた客船を撃沈・死亡させた事件が発端となり、暴徒化したブラジル人がドイツ人と同じ枢軸国民である日本人の家屋や事務所を焼討ちする事件が発生。日本人はアカラー植民地に軟禁された。
 大橋さん家族はサンタ・イザベルにいたため難を逃れたが、同胞たちの様子が気になり、父親と弟の三人でアカラー植民地へと向った。
 意を決して同地に着いてみると、ブラジル当局からは意外にも拘束されず、その後、トメアスーの奥地でピメンタ栽培に取り組むことになった。六年後に待望の永年作物であるピメンタをサンタ・イザベルに持ち帰った大橋さんは、当時の国際相場が高騰し、大きく当たったという。
 その後、六〇年代になってピメンタに病害が入り始め、デンデ椰子栽培に切り替えるなど、一生を農業生産に注いできた大橋さん。現在はベレン近郊のアナニンデウアに九人の子供の中の末娘の婿たちと一緒に暮している。
 〇一年の八十四歳の時に「自分の遺言のつもりで自分史を書くことを思いついた」という大橋さんは、汎アマゾニア日伯協会関係者たちの協力を得て、「南十字星は誠の光を」と題するアマゾン生活七十五年の思い出を綴った自分史のポルトガル語版を出版した(七百部)。
 また、〇五年十月には日本語版四百部を改めて出版し、アマゾン移民の当初のことを知る貴重な記録として好評を得ている。
 現在も二週間に一回は日伯協会に顔を出しているという大橋さんは、今年六月で卆寿を迎える。「今は新聞や本を読むのが一番の楽しみだね」と笑う顔には、アマゾン移民として生活してきた深い皺が刻まれていた。 

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 十一月二十八日。写真展三日目。展示場のサロンは、汎アマゾニア日伯協会職員が代わるがわる立ち会ってくれている。そのため、会場を任せて取材活動などを行うことができた。
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コンデ・コマの墓
 この日は、「アマゾンの柔道王」と言われたコンデ・コマ(前田光世七段)が一九四一年に亡くなった後、六十五年となる命日。ベレンを拠点に活動する空手家の町田嘉三さん(六〇、茨城県出身、日本空手協会七段)と日伯協会の堤事務局長に同伴して、同市内にあるサンタ・イザベル墓地を訪問した。
 資料によると、コンデ・コマは一九〇四年、柔道の指導員として嘉納治五郎講道館館長がアメリカに派遣。ニューヨークで柔道普及のかたわら、プロレスラーやボクサーと公開試合を行い連戦連勝し、その名を高めたという。その後、イギリスからヨーロッパを転戦、再び米国に戻った後、メキシコ、中米を経て、一九一五年にベレンに辿りついている。
 コンデ・コマは一九四一年十一月二十八日に腎臓病により、六十四年の生涯を閉じているが、アマゾン日本人移民の日本側調査団(福原八郎団長=当時)と関わりを持ち、アマゾン移民のために尽力したと伝えられている。

 午前十一半時に日伯協会に迎えに来た町田さんの車でサンタ・イザベル墓地に向かう。墓地前で献花用の花束を堤事務局長が購入、コンデ・コマが眠る墓石に供え、皆で手を合わせた。
 町田さんと堤事務局長の話によると、コンデ・コマの墓は雨などの被害で崩れ落ち、遺骨も埋もれたたままの状態で長い間、放置されていたという。コンデ・コマと生前に交流があったという故・越智栄氏(第一回高拓生団長、国士舘大学パラー州協会会長などを歴任)が、そのことを懸念していたが、約三十年前当時で八十歳前後の高齢であったため、一人では動きが取れなかった。
 コンデ・コマとは年代的に直接会ってはおらず、六八年に渡伯した当時は「その存在さえも知らなかった」という町田さんは、越智氏との関わりの中で、「私が責任を持ってやります」と遺骨の保存と墓の修復に協力することを決めた。
 しかし、墓地周辺はベレン市内でも決して治安が良くない場所で、墓守であるブラジル人の老婦人は、コンデ・コマの遺骨が金になることが分かると、簡単には渡してくれなかったという。町田さんは毎週のように粘り強く墓守のところに通い、交渉の末、大腿骨、上腕の骨など部分的にコンデ・コマの骨を集めることができた。
 越智氏の指示で、コンデ・コマの骨を丁寧に洗浄し、白い箱に入れて保管した。その後、一九八一年に国士館大学の協力を得て墓碑が修復されている。
 白亜の大理石でできた墓石には現在、キリストを象った十字架の両側にコンデ・コマと夫人の遺影が飾られてある。また、下面の墓標には、「MITSUYO MAEDA」「KONDE KOMA」の双方の名称と誕生・死亡年月日がそれぞれアルファベットで刻まれているのが見えた。
 町田さんは帰りの車の中で、越智氏から伝え聞いていたコンデ・コマのエピソードに触れた。それによると、コンデ・コマは酒とバクチが好きで、暇ができると「花札をやろう」と若者たちを誘ったという。
 「『日本に帰りたい』と漏らしたこともあったと、越智さんから聞いたことがある」と町田さん。自身も移民として海を渡った経験から、コンデ・コマの郷愁の思いに共感するとともに、同じ格闘家として偉大なる先輩への敬意を改めて示していた。(つづく・2007年1月サンパウロ新聞掲載)
 


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